ホーム » 証言 » 新山 誠一さん

チャプター

[1] チャプター1 入隊直後、満蒙へ  03:00
[2] チャプター2 ソ連軍 侵攻開始  03:04
[3] チャプター3 西口(シーコー)の戦い  03:59
[4] チャプター4 敗走  03:56
[5] チャプター5 シベリア抑留  10:50

再生テキスト

昭和18年だな、高田。高田の236、「山砲」(独立山砲兵、第一連隊)に入隊したんだ。そして、そこに1か月ぐらいいて、アルシャンに行ったわけさ。

とにかく寒いことは大事だな。いっても2階とか3階づくりの兵舎でねえんだ。土が半分掘られて、屋根が三角にかかって、半分兵舎が土に囲まれているわけだ。

地形、国境だから山ばかり多くての。

それはその、朝起きればすぐ、冬でも野営へ行ったろう。食事はあったけど、死ぬほど、1日の間、訓練。大砲の運び、組み方いろいろ、射撃準備までやって。毎日毎日だ。

厳しい、厳しいな。

機敏に動かねばだめだべさ。もたもたしてれば、まずそれが早く、戦の中なんだからのう。大砲を分解して馬に積んで山の上にあがって、またそれを組み立てて撃てるようにやるんだから。それは厳しいな。

馬は山砲の特徴なわけさ。ほかの大砲は大きいものは、山にあがれねえだろう。山砲は分解して馬に積んで、山の頂上まであがることできるんだ。それが山砲の特徴だよ。

飛行機の音がして、爆弾を落とされて、初めて「非常呼集」というのがかかったわけ。それから軍備の準備して、大砲は五叉溝(ウサコー)まで列車で汽車で送ったわけだ。あとの始末は、歩いて行軍で行くからさ。五叉溝まで行ったから。

ちょうど8時過ぎだかな。朝飯食って、食事・朝食終わってから来たもの。そのころ来た。だから、こうやって非常呼集かかって初めて軍馬の武装のみんな持ち物、詰める物全部準備して。夜、晩5時かな。5時か6時ごろ、今度、徳伯斯(トポス)まで行軍始まった。

これはもう、大変になるぞと思って。

(ソ連からの攻撃は)あった、2~3回あったんだ。もうさ、夕方出て朝の9時ごろかな、朝にはなったかと思うよ。第一に9時に受けたんだ。それで2~3回受けてる。

そのときはさ、道路から山へ入って避難する。それはうるさくダッダッダッダッと、行って来て行って来てと返しが少ねえから。そちらも行って、また来てまた来てまた来て行く、となると、1~2回はこう来るけれども。反撃しねえもんだからな、結局。大砲は全部、五叉溝に運んでしまうっちゅうんだから。

Q:反撃する武器がない。

そうそう。山砲だから小銃はいくらもねえんだ。撃ったってあたるわけでねえしな。

夜間だから目撃はわからない。ただ、突貫の声は聞いてる。「やあぁ」という声がな。これ、山でしょう。おれは山の上にいるわけ、谷間から向こうのロシアとやっているんだ。声は聞けた。それらは聞いた。

どんな声って。結局ほら、演習して突貫で、歩兵の演習して突貫で「いやぁ」という声と声質がね(違う)。「死の声」だ、みんな。ほんとに、あの突貫していくときの声は。

とにかく雷がさ、頭の上で2つも3つも一緒になっているような音だ。もう、向こうのカチューシャ砲だか、1回に5~6発来るんだ。それがいっぺんにはねるんだから、ほんとにそれこそ、肝抜かれたもんだ。

こっちはほら、一発一発ずつ撃つでしょう。あっちは1回に5~6発くる。それだからもう、あっちの数はものすごいんだ。

おら、山の下にいたし。戦車は向こう、峠、西口(シーコー)の峠の戦車だけど。ちょうど越えて来るのが見えてはいた。また手前にちょっと小高い山あって、それさこう、戦車が顔出し、まず砲身があがってくるの。それ狙って撃ってるわけさ。

8中隊が別の山の向かいの山から、ロシアの戦車部隊を撃つ。こっちは正面から撃っているし、8中隊は横から。

2番砲手(砲弾を撃つ係)の後ろにいるんだ。わたしは3番なもんで、弾を詰める役なわけさ

撤退していった途中、前が火柱立っていて、ワーッとあがって。2~3回火柱立ってたな。

先にドーンといって真っ赤な火柱あがって。「この先、すごい戦やっているんだな」とは思ったわけ。

まぁ、10メートルぐらいは高くあがっちまうんだな。その辺、真っ赤に見えた。

とにかくものが爆発した音、バーンていう。結局ほら、弾薬でも積んでいるし、ガソリンは積んでいるしな。そのガソリンがはねているわけだ。バーンという、真っ赤にバーン。

そのときはさ、結局火柱あがっているのは、「またあそこで戦争始まっているんだな」と思った。

そこへ到達していて、初めて「トラックに積んでいる燃料がはねた」ということをわかっているんだ。

湿にはまって、トラックが動けねくなってるわけ。弾薬積んだり食料積んだり油積んだり。それでほら、敵にとられればまずいわけで、焼いた。火つけたわけさ。
それが燃えて、ちょうどそこを通った、部隊か、輜重隊だかな。爆発でそこにいて死んでしまったのがおったのだ。

埋まってしまって足だけ出たのがあったけれど。足だけ。

その西口の戦闘を撤退するときか。
特攻隊が、おらの山砲が撤退するとき、まだその前にいるんだ。「おらたちを見捨てて行くのか」と叫んだのがあった。そういったかわいそうであったけども、それを捨てて見捨てて行くというのは、これ、軍の命令だから。上官の命令だからな。師団司令部の命令だから。それ、「かわいそうだからね、残る」って、そうだことできねえんだ。結局、あんたそう、こう突っ込んできても、おら困る。

イントールに着いて。着いたときは夕方で、次の朝になってから日本の飛行機が来たわけ。それが二枚羽の練習機。日の丸の旗ついて、日本の飛行機が来た。そしたら横を旋回したわけ。それでビラをまいた。それで、「戦争停止になった」という宣伝ビラが入ってて。それで「ああ、これ」ってまた騒いだりしたけども、それが野原へ着陸して、日本の将校とロシアの将校と降りてきて、初めて今度はわかって。師団長がまた、今度は車で、ロシアのほうへ連れて行かれた。それでわかった。

まず「捕りょ」という感じは考えなかったわけだな。武器、みんな返上して、今度は歩かされたわけだけども。

貨車に、貨物に、貨車だよ貨車。客車でねえんだはでの。2段に段をつくって上下に、まず入ったのが。豚が家畜が、詰められるだけ詰められて、そして出発したわけ。新京から。今、ハバロスクかどこかで帰すとかという、「ダモイだ」というそういう言葉にだまされて。騒ぐ人にすりゃ「帰ろう」と思っていたんだから。

1日か2日あったな。汽車は西のほうへ進んでいるわけで、シベリアへ入っている。「ああ、おかしい」とまた騒いで。騒いだってしようがねえんだから。シベリアへ入っていって。

ノモンハン事変の時も、ロシアの捕りょになったけど、帰んない人おったっけ。帰んない人おった。「帰りは殺される」と。

収容所に入ったとき。もう寒くて寒くて。着の身着のままでの、ペチカたいてもまだ寒いんだ。なんだか丸太切って伐採して、兵舎、幕舎建てた。

まぁ、着いたときは寒くてな。食料もねえし。収容所で着いたときは大きい、こっちで言えばなんだ。あんたたちに教えてもわかんねえだろう。馬草煮るっていう大きい釜があったもんだ、昔はね。そんな大きい釜に米入れて炊いたのを、おかゆよりまだおかゆだったものを、2日ぐらい食ったんだ。食料なくて。
ロシアが出したのもあるんだけど、日本人はもちろん持っているはずねえ。それまで仕事さねえで、収容所にいた。それからなんぼか、パンとか、お粥でももう少し程度のいいものを食って。それから仕事に入った。
山へ入って伐採作業。伐採作業はノルマで。そう達成できるようなノルマでねえんだ。でもまぁ、ノルマは達成はされねくても、めしは食ったけども。そこに山に入ったのは11月のはじめだ。そして次の年の8月、8月だかな6月だかな。そこの伐採作業が終わって、今度チタの町の収容所さ来た。チタの町って、見た感じだば、弘前ぐらいの大きな町であった。
↑改行

寒いのと、腹いっぱいものを食わんねえのがいちばん堪えるのさ。腹いっぱいものを食わ
れねえもんだで、寒いのは感じるのを受けてたからな。

日本の軍人、「捕りょになるなら、舌かんで死ね」って、教えられたんだね。そんな理屈立てられれば、ほんとに困るんだ。もっと停戦、早く停戦してれば、何も死なんでいいし、シベリアさ捕りょになって行かねしもよかったのかもしれない。原爆落とされてから、仕方なく停戦(終戦)したんだ。でなければ、もっと早く、原爆落とす前に停戦(終戦)してれば。

その点がほら、結局、負け戦さなもんだから。それは死んだ人に対しては、ほんとに気の毒だけども。「わからねえんで戦して死んだのか」という、そういうことを聞かれちゃうと
困るんだよな。

それで初めからどうもわかっていれば、死ななくてもよかったんだもの。そうなれば結
局、日本の軍隊の、この前言ったとおり責任問題なるんでないか。結局、国が責任を持た
ないんだから、そのほうを「こうだこうだ」と理屈に責められてくれば、おれだらしゃべられねえぐなる。

結局、死ななくてもいい戦争で死んでるということになるわけだな。

うーん、結局、今こうやった話しあうはんでそうだけんども、そういうことを人に話したことはねえ。聞かれるはんで、しゃべるけども。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1921年
青森県南津軽郡大鰐村に生まれる
1943年
独立山砲兵第1連隊に入隊、満州に渡り、第107師団野砲兵第107連隊に入隊
1945年
兵長、イントールにて武装解除、シベリアに抑留
1949年
シベリアから復員、復員後は、青森県南津軽郡平賀町で、時計店を営む

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

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