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チャプター

[1] チャプター1 インパール作戦へ投入される  04:40
[2] チャプター2 夜の渡河  04:14
[3] チャプター3 コヒマでの防御戦  09:11
[4] チャプター4 忘れられない戦場の記憶  04:39
[5] チャプター5 落ちないインパール  02:36
[6] チャプター6 生き地獄の退却路  06:55
[7] チャプター7 うなされる夜もあった  03:28

再生テキスト

インパール作戦を本当に知ったのは、シンガポールへ上陸して、マレーへ入って、演習をし始めたころですね。それまでは、わたしらみたいな下士官は知りませんでした。
昭和17年の1月か、18年の1月か、上海に来たときに、ああ、内地へ帰れるんだなあと、言ってたときに、上海でもらった洋服が夏服だった。ああこれは、夏服をもらったから、南方へ行くんだな、と。それで、船の中でいろいろ話を聞くと、第2師団はガ島で全滅したから、おまえたちは、ガダルカナルへ行くんだと、いうふうな話も聞いておったんです。ところが、上陸したところ、今のシンガポール。それで、シンガポールへ上陸して、あと、わたしらどこへ行くんだか、わかりません。それからマレーに入って、マレーで4か月くらいありましたかね。演習、演習でもって、やられたから。そのときになって初めて、誰の話ともなく、ビルマへ行くんだということを知りました。

作戦前はマレーの国で、4か月か5か月、とにかく演習ですわ。演習、演習で、そのときには、中隊長さんも小隊長さんも、おまえらはビルマへ行くんだ、ということを、はっきりおっしゃいませんでしたね。


Q:ビルマへ行ってからは、どういうふうにして、毎日、過ごしていらっしゃいましたか?

 ビルマは、ずうっと泰緬国境を通って、シャン高原という高原を通って、イラワジ河ですか。あるいは、チンドウィン河を越えて、それまでは、戦闘らしい戦闘はないんですわ。ただ、第一線に出て、136連隊と58連隊が交替をして、それからですね。だから、58連隊のビルマの戦闘というのは、インパールへ行く街道を防ぐために、コヒマの占領。コヒマの占領を命ぜられたときが、初めての英印軍との戦闘でしたね。

チンドウィン河を渡るときには、夜中に川の岸に全部、待機して、工兵隊の鉄舟でもって、渡った記憶がありますね。そのときに、運が良かったんですね。敵の攻撃は一切、受けなかった。ただ、中には船が転覆して、死んだ方もあるかもしれませんけど、わたしらは何なく、対岸へ着きました。そして、対岸には普通ですと、対岸には敵陣地があって、射撃されるんですが、全然、それがなくて無事、渡りました。

普通の装備といいますかね、前に120発、小銃弾。それから、たぶん手りゅう弾は2発。それから、背のうの中には3日分の米、乾パン、そういうもの。靴下、シャツの着替え。そういうものを入れてたと思います。


Q:重いものなんですか?

 はい、重いですわ。全部で何キロ、ありますでしょう。真貝さん(58連隊)のこれに、詳しく書いてある。普通の装備ですと、休みますと、こう、背嚢(のう)を背にして眠りますわね。出発というと、起きるのがなかなか、大変ですわ。戦友から、起こしてもらった人もあると思います。

山道はね、山道より道がないところを行くんですから、川伝いにずっと、行ったことがございます。そうしますとね、後ろから、連絡がくるんですよ。「何々分隊の何々兵が、川の中へ落ったぞ」と言ってくるんです。そうしますと、中隊長はだいぶ黙っておられるが、かわいそうだけれども、そのまま前進、ということもありました。
それで、わたしたちは背のうと自分の小銃ですが、いちばん気の毒だったのは、馬、あるいは牛を引っ張ってこられた方です。なんたって、人間は歩きますけど、馬や牛は歩きません。そうしますとね、マッチをちょっと、火を擦りまして、牛の尻にチャッと付ける。そうすると牛が熱いから、ダッダッダーッと10メートルぐらい歩いて、また、座っちゃう。

まず、だんだんと、食べ物がなくなる。それから、彼ら(連合軍)はとにかく、どんどん、どんどんと、重火器を補強してくるでしょう。こちらは、弾がなくなる。例えば、彼らは大砲を引っ張ってくるのに、けん引車で引っ張って、来ますでしょう。日本の山砲は山の大砲だから分解して、そして、弾は、弾薬は、兵隊が一人1発ずつ、背負って行く。そんですから、わたしらんとこの山砲が1発撃てば、そこんところへ、彼らの大砲の弾が何十発も飛んできますから、惨めなもんです。それから、当てにしておりました、飛行機が全然、来ませんでしょう。たまに、来たことはありますが、2機か3機で、羽に赤い日の丸を書いて。それでも、その飛行機は、偵察に来たのか何だか知りませんけど、すぐ遠くへ去ってしまいます。なんとしても、戦争というのは弾がなければ、どうにもなりませんわ。食べ物より、弾が欲しかったね。


Q:そんなに弾が足りなかったんですか?

 はい。だんだん、だんだんと撃ち尽くしちゃって。


Q:弾がなくなってからは、塚田さんはどうされていたんですか?

 どうしても、とにかく、まだある弾を、戦友同士でもって、大事に使うよりしようがないですね。


Q:大事に使うっていうことは、1日どれぐらい撃つものなんですか?

 当時、とにかく、わたしの記憶では120発だから、とにかく、どんどん、どんどん撃っていけばなくなるから、あともう、30発なければ、もう大事に使う。完全に命中するまで、待とうじゃないかということになります。

全然、後方から弾がこないんだから。わたしらの司令官の牟田口廉也さんは、「弾がなけりゃあ、肉弾という弾があるじゃないか」と、こう言われた。それからね、ちょうどビルマのコヒマの川縁に、日本でいうセリがありました。セリ、食べられる。ところが、おお、セリがある、これを食べようと思ったけど、塩がなかった。なんとか、兵隊さんが塩を調達してくれて、それを飯ごうの中で、塩漬けにして食べた。うまかったね、塩。塩とセリ。それでやっぱし、生き延びた人も、あるんじゃないかね。それでね、ビルマは米の国でしょう。なんとかして、まあまあ、ひもじい思いはしたけども、食べる米はあったね。だけども、満腹というわけには、いかなかった。ここ、これに、これか。これは大学を終わった計理の方からの、あれだな。58のことに関して、書いてある。それで、なんとか食べ物だけは、なんとか、ありましたね。ただし、満足とは言われない。握り飯1個で、2日くらい我慢しようとか、なんとかっていうことはありましたね。

我々はね、とにかく、弾や何かは、あとから来るものだと、思ってるから、とにかく、倹約して撃たなくちゃならんということは考えてましたが、全然、来ないということは考えなかったね。そんなに、今、考えてみれば、絶望的な考えはなかったな。

結局、壕(ごう)の中へ入ってるということは、防御ですよね。守ること。だから、10人おれば、一人は監視になって、あとの者はウトウト、ウトウトと休んで、それで「敵襲だ」と言われれば、自分の壕の中から構えます。だけど、ビルマで英印軍は、戦車でもなかったら来ませんわ、側まで。とにかく彼らは、火器は優秀なものを持ってますから。わたしら、初めて自動小銃というのを見たのは、ビルマで。今、中国ではみんな、小銃で撃ってますけど、自動小銃、ご存知? このぐらいのね。弾倉を10発くらい、パッと入れると、パンパンパーン。あれ、最初は何だと、思いました。機関銃でもなし。機関銃だからタッタッタッと来るが、パラパラパラッときますでしょう。だから、とにかく戦闘のないときには、監視兵を立てて、あとはみんなで壕の中へ入ってる。
ところが、彼らには飛行機がありますからね。飛行機が来れば、見つからないように、動かないでじっとして、飛行機が去るのを待ってるような。飛行機の上から、動くと見えるけど、動かんというと、見えないらしいんですね。

Q:いちばん忘れられない光景って、どういう光景ですか?

 そうですね、いちばん戦闘中に、忘れられない記憶というのは、戦闘でわたし、場所は今、忘れましたけど、柏崎のニッタ軍曹というのが、わたしと同じ、下士官候補者で行った。これは、聞いたところによりますと、お母さんがなくて、お姉さんに育てられた。それが、戦闘中に砲弾で、腹をえぐられたの。わたしに向かって「塚田、先へ行くぞ。お世話になったな」わたしらの中隊長はタケダ。「タケダ中尉殿、お世話になりました。お先に行きます」夜ですから、顔は見えない。その声がわたし、今でも耳に残っていますね。ニッタ軍曹。柏崎出身です。ああ、戦闘というものはこういうものだなと、思いましたね。

それで、話は違いますがね、戦死した人が自分の分隊でも、自分で、わたしが指を切るのは嫌だ。だから、部下の兵隊に「おまえの戦友じゃないか。おまえが取れ」と。「切れ」と。その兵隊に切らせて。


Q:ニッタさんの小指も、切られたりしたんですか?

 ニッタさんは、夜だからね。戦場整理で行った人が持ってきたか、それとも、まだコヒマの戦闘の初めだったから、後方で燃やしたか、それはわたし、わからん。もう、無茶苦茶だがね。


Q:無茶苦茶というのは?

 無茶苦茶というのは、とにかく、戦場整理を知られれば、ニッタさんの小指を持ってきたかもしれないけど、あと、戦場整理をしないで撤退だなんて、後方へ下がれなんて言えば、捨ててこんかな。戦争というものは、そういうものなんです。とにかく、何より大事なのは、自分を大事にする。わたしはそう思います。いかに、戦友同士だと言いながらも、自分の身が、危なくなった場合には、戦友を捨ててきたかもしれない。わたしは今、こうやって話しているのはつらいですわ。真実を話しするということは、つらいですわ。

とにかく、3月になってくると、4月29日天長節だから、このときに日本軍の飛行機が来て、一斉攻撃に出るんだというほうの話は出てましたから、負けるなんてことは考えてません。

こない。それでもね、負けるなんてことは、上の方は考えておったかも、我々は考えてなかった。


Q:いつまでやるんだろうと思ったりしなかったですか? 弾もない、食べ物も少ない?

 ただその日、過ぎればいいと、思ってたんじゃないかね。その日、戦死しなければ、ああ、今日1日も生き延びた。そんな、考えじゃなかったかな。生と死、なんてことを考えない。本当に、いよいよ、これから戦争するんだ、おれも死なんか、居れんのかな。嫌だったね。だけど、戦争がいつ、終わればいいんだとか、そういうことは考えなかった。考えなかったね。そういうふうに教育、されたんだもん。だから、生きててよかったと、いうふうに感じたのは、モールメンで終戦後、集結して、内地へ帰るときに初めて、「ああ、おれは日本へ帰られるんだな」と。それぐらいだったね。

ただ、なんですね、撤退、いわゆる佐藤幸徳中将が「下がれ」と言って、下がってきたときには、人のことを考えませんでしたね。何とか自分で助かりたい。

結局、担架は4人で担ぎますわね。そうすると、兵隊が苦しまぎれに、あるいは、眠っている場合もあります。そうすると、誰となく言うことは「この兵隊を担いで行けば、我々は死んじゃう。この辺でひとつ、かわいそうだけど、置いていったらどうか」ということもありました。そして、手りゅう弾を一発、置いて、「これを置いていくよ」と。「おまえが万が一の場合には、これで自殺をしろ」。そういうこともありました。それから、歩かれなくなる兵隊は、「殺してくれ、殺してくれ」。ありました。やっぱし、人間というものは、人から殺されるのは。自分では死なれないらしいですね。

まだ、マラリアはまだ、よかった。キニーネという薬があったから。それは戦友同士で、「おまえマラリアか。おれんところにキニーネがあるぞ」と。それをもらって、飲みましたけど、赤痢は、軍医さんは、薬なんかないですから。そんなんで、まあ、生き地獄。わたしは地獄は知りませんけど、病気したら、置き去られてくるようなもんでしたね。

手りゅう弾で死んだ人は、この辺でさく裂したら、洋服がちぎれてます。そのまま、手りゅう弾を発火させようと思ってやったけど、その気力がない人は、手で持ったまま死んでます。白骨になってた人もあるし、ウジがたかって、ハエだらけの人。そんなにずうっと、並んでたわけでないですけどね。それでも、草むらへ、自分の死にざまを見られるのが嫌で、草むらの中へ姿を隠したり、そういうのがありました。それでも、わたしは幸せだったのは、自分の戦友がひとりとして、そういう目になってたのを、あったことはなかった。

においも、すごいです。もう、白骨道なんていうのは、においなんかないわ。で、ずうっと、並んでるわけでないからね。この草むらに一人、この木陰にこうやって、寄りかかって一人、とありますからね。嫌な光景だな、嫌な光景だ。

「おまえ、なんで、おれを置いて行ったんだ」って言うでしょうね。もし、わたしが死んで、冥土というところで会われたら、まず、開口一番「おまえ年取ったな」。その次に、「おれをなぜ、ビルマのあんなところに置いてきた」って言うでしょうね。そう思います。

そうなったら、平身、低頭「悪かったな。堪忍してくれや」。しようがないでしょう、長々と言い訳なんかしたって。申し訳なかった。そんな話をしてるとね、光景が浮かびますわ。担架なんたって、天幕で作った、天幕って、こうありますわね。それをこうやって折って、そして、こういうふうに折って棒を通して、病人を担ぐ。いやあ、すまなかったな。それより、言っとくよりないじゃない。

わたし、兵隊から帰ってきて4、5年間は、夜になると、うなされてたそうです。女房がそう言います。
結婚してから「あんた、夜になってくるとうなされて、どうしたんだね」って言うから。戦争のことを思うんだよね。


Q:戦争のときのどういうことを?

 あのときに仮に、ニッタが死んだ戦闘に、おれがしはん(師範?)だったら、おれも死んでたかもしれない。そういうのありますね。敵襲を食らって、サワダ上等兵が軽機関銃を扱っていた。「サワダ、軽機ここだぞ」と言って、去った。その扱っていたサワダが死んで、そばにおったわたしが死ななかった。そうすると、おれだけどうして死なんかったんかな。そう思う。そうすると体が、寒気がします。どうしてか。
ほんと、本当に戦闘してきた者は、戦争の話はしません。


Q:今も戦争のことを思い出すときはありますか?

 ありますね。寒気がします。体が震えます。わたしはどうして、あのとき、助かったんだろうと。だから、戦争の話をするのは嫌ですね。ほとんど、戦友は死にましたけど、わたしはうち、来て、戦争を面白半分に、話しするんですよね。だから、うちの女房なんかは「そんなことあったかね」と言いますから、「いやあ、とにかく、あれは漫談であって、本当の戦争というのは、とにかく、今考えても、おれは寒気がするよ」と、こう言ってます。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1919年
新潟県東頸城郡春日村にて生まれる
1937年
新潟県立高田農学校卒業
1940年
現役兵として高田東部67部隊に入隊
1941年
歩兵第58連隊に転じる。
1944年
コヒマ作戦当時、24歳、軍曹。
1946年
復員。復員後は農業を営む

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インド(コヒマ)

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