ホーム » 証言 » 廼島 哲郎さん

チャプター

[1] チャプター1 衛生兵として「インパール」へ  02:50
[2] チャプター2 弾薬、食糧、補給なし  07:17
[3] チャプター3 戦死傷者名簿を作つくる  08:42
[4] チャプター4 医薬品も足りない  05:44
[5] チャプター5 撤退の道  09:00
[6] チャプター6 衛生兵としての苦悩  01:17

再生テキスト

いわゆる、当時はまあ、あの最初から物量では、こっちはとても抵抗できない、対等にはやっていけないというのは、我々、下部の兵隊たちもみんな、薄々は感じていたと思うんですね。でも、軍は日本は大丈夫なんだと。それでまあ、やや無謀な、作戦だったと我々も心の中では思っていても、そんなことは当時はとても。日本は負けないんだ、という信念で、まあ、ちょっと言い方は悪いかもしれないけど、洗脳されてたわけですよね。だから、まあ国の、祖国のために命を捧げるんだ、というような、今、考えると、なんでみんな、そうなっちゃったのかと、思うぐらいですけども。それはもう、国のためだという一心で、みんな行ったわけですよね。

もうひたすら、上官の命令で、きょうはこっち、コヒマ行く途中、ウクルルとかサンジャックとか、いろいろ敵の拠点と言いますか、要衝はそれを撃破して、占領していくのが、もう、それだけですよね。で、いつ死んじゃうのか、いつ戦死するのか、そういうことも考えなしに、ただひたすら目的地に。我々の目的地は一応、コヒマだったんですよね。そしてあの、ニューデリーというのがあったんですね。ニューデリー、インパール、そこの補給路を封鎖するというのが、目的だったと思いますよ。

弾薬も食糧も、何もこないんですよね。みんな現地徴収、食糧は現地のビルマの方々に、それからいわゆる、まあ我々の、少なくとも我々の部隊は、あの、いわゆる軍票というのを払って。だから略奪じゃなくて、あの、まあ合法的にそういうのは食糧を、もみをね、ええ、徴発したということはありますよね。

もちろん、医薬品も全然、ありませんよ、手持ちのものだけですよね。あの、いわゆる小行李(輸送隊)のラバに、あの、あれ、医療、医療のって言ったかな、ちょうど、その机ぐらいの大きさの、馬に両脇。それが医務室の、その、薬品とか包帯材料、そういう物、一切。ガーゼだとか包帯だとか、それから強心剤だとか、マラリアの薬だとか、まあ、風邪薬、それから胃の薬、一般の物もそこに、蓄えているのがもう、最後かな。それとあとは我々衛生兵、それから衛生下士官、それから軍医が持っている、医療の包帯ほうって。軍隊では背嚢(のう)と雑嚢と、それから弾薬を入れる前嚢、後嚢もあるんです。そういうのもあります。衛生兵はそういう包帯だとか、ガーゼだとか、そういうのを。それからそういう、救急薬を入れてある革製の、それだけですよ。だから補給はないですし、まあ、どうやって、だからあの、普通ならば包帯交換して、どんどん、あの、新しいものに換えていく。それを、1回使ったやつも洗って、干してもう1回使うとか、もういろいろ、そういう苦労は大変でした。

少なくとも、その補給はないとは言いながらも、拠点兵站(たん)というのがありましてね。拠点拠点では補給されると思いまして、そんな満足にはもらえるという、気持ちはなかったんですけど、だから、極力倹約していくと。足りるとは思いませんでしたね。だけども、あの、「これじゃ足りませんよ」と言っても、補給されなければ、どうしようもないと。それで、戦傷者はもちろんですよね、あと、いわゆるマラリアとか、デング熱だとか、それから疫痢、赤痢、チフス、もうあらゆる、まあ向こうはそういう、状態はよくなかったんですよね。だから、そういう中でいかに、これいかにのりきるのかなと、思いながらも、ただ、ああ、これじゃ大丈夫かなと思ってるだけで、具体的にどうしようという方策も、何もなしです。だから無謀と言えば、無謀。なんで、そんな所へ行ったんだと言われても、これどうしようもなかったですね、当時は。


Q:最初から補給はないなということは、聞かされていたんですか? 最初から補給は少ないよというのは?

いわゆる、特に衛生材料、衛生器具に対しての、そういうあれはなかったですけども、まあ少なくとも弾薬とか食糧、これは最初から、補給は相当困難だよと。だから現地でもって、徴発する、あるいは弾薬、それから兵器も敵のをぶんどると。考えてみれば、まことに一方的な、むちゃくちゃな考え方だと、わたしも今は思ってますよ。

だから、あの各中隊も、駄牛部隊というのを作って。駄牛って、あの駄目の駄に、牛のね。牛を連れて行く、一個中隊が編成替えされて、そういう中隊を作って。それも途中で、だんだん、それを食糧にしながら、行きなさいよ、という意味の駄牛中隊だと、僕らは聞いておりましたね。


Q:食糧とか弾薬とかは?

食糧は当時、何日分だったかな。個人では、例えば2週間分だとか。個人でみんな持てよと。あとのはいわゆる行李(こうり)班に持ってもらうと。それで、足りなくなった物は現地で、徴収しなさいと。弾薬も兵器もそのとおり、敵のをぶんどって、それを、今度は我が軍で使えと、いうぐらいのことのようでしたよ。


Q:上官がそういうふうにおっしゃっていたんですか?

そういうことですね。だからみんな、ああ、そうやらざるを得ないのかなと、いうことで。まあ、おそらくみんな、こんなんで、どうなるんだという気持ちは持っても、いいや、そんなんじゃいけませんとか、そんなむちゃくちゃな戦争はできませんとか、いうようなことは、当時としては、あの、まあ言えば、言えなかったんですね。

戦死者。戦死者がこういうあれで、亡くなったというのをね、軍医が確認しますよね。ところが、何々砲弾、破片創による右側、まあ、右胸部損傷のための戦死だとか、そういう病名を付けて、それで、戦死なら戦死と。それから、傷で生存している人は、何々破片創、そういう記録を確実に残して、それを大隊、中隊からあがってくるやつを今度は、大隊でまとめて、それを今度、連隊本部に送って。だからあの、まあ、落ちはあったかもしれませんけども、そういうことで、そうすると、それを今度は内地へ、公報としていくわけですよね。だから、骨も帰ってこない、それから、どこで死んだかも、わからない。そういう方もよく、聞きますけどね。そういうことのないように、記録を確実に、残すという仕事。だから、そういう戦死傷者名簿、そういうのをわたしはいつも、持っていまして、常にその記録を残して。それから、それを連隊本部に。連隊本部って言っても、戦争中ですから、なかなか通達が出ない。だからある時期に、連隊本部へ行って、それを連隊本部の、その担当者に報告をして、記録を残すと。そういうようなことを、やっておりましたよね。


Q:治療の手当とかも、やっぱり少しはされたりしたんですか?

 ああ、やりました。もちろんその傍ら、そういう、そのこともやる。それから戦闘中は、これはなんて言いますかね、普通の戦闘員と違った、責任感と言おうか、職業意識と言おうか。

砲弾がくる中、患者を収容したり。そういうことを今、考えると、ああ、もう本当によく勇気があったなあと。別に、特別にそういうことを意識して、やるんじゃなくて、もう、自然にそういうふうに、もうなってましたね。


Q:例えばコヒマの戦いなんかでは、怪我をされた方々の状況とかを、いちばん間近で見られるわけですけども、いかがでしたか?

いやもう、それはちょっと。もうなかなか、口があれで、言えないぐらいもう、本当に悲惨ですよね。例えば砲弾、あの、どういうわけで腸が腸なり、あれがもう半分、露出しちゃって。それでも、死なないでいる。本当にそれを、そこを押し込んで。で、各兵隊はみんな三角巾っていうのを、持ってるのをご存じですか。あの、圧縮してちょうど、石けん箱ぐらいの大きさに、あの、布のいわゆる三角の。相当、広げると面積は、これ以上あったと思いますよね。それの中にガーゼ、リバノールガーゼっていうのが、入ってますね。化のう止めの。それでまず、第一応急処置をするわけですよ。だんだんもうね、もうここら辺がもう、裂けちゃってその、こりゃもうだめだと。もう、はっきり言ってどうしようもないよ、というぐらいの方も、たくさんいました。でも、まさか「もう、お前はもう、助かりっこないんだから」ってほうっておくわけにも、いきませんよね。で、やっぱりそういう応急処置は、もうすべて、みんなやるようにしていましたよ。


Q:廼島さんは、その戦闘中なんかはどういう場所でその治療をされていたんですか?

 それはあの、壕(ごう)がもう、自分たちで堀った壕なんていうのは、たかが知れて。それこそ「たこつぼ」っていって、自分の身体だけが入るような、穴を掘ったり。それから敵が、我が軍の攻撃に対して、掩体壕(えんたいごう)のすごい、もう立派な、まあこうやって、座って入れるぐらいの大きさ。それが何名か、入れるような大きさの壕が数カ所あるわけですよね。それを結局、敵さんの作った壕を利用して、そういう所へ引っ張り込んで、治療したり。外でやる場合もありますし。その、一様に言えません。どこで治療するのとか。その、はっきりした治療室でやるのではもう(しない)。いわゆる野戦で、そういう所で、ええ、やらざるを得なかったし、それしか手がなかったわけですよね。だから、満足な手当はできていたとは、今でも思っていません。

できるだけ、元に復するように、処置できる範囲のことをやるということですね。


Q:元に復するというのは?

 要するに腸を収めて、それで上から、これはほうっておけば露出して、それこそ命がないですから。できる範囲内のことです。これを戻したから必ず、命が救われるとか、そこまで考えていませんよね。とにかく何とか元に戻して。まあ、言えばその三角巾でそこをちゃんと、覆ってやって。それも、できる範囲内のことですよね。

励ますだけ、ですよね。頑張れとか、大丈夫だとか。まあ、それこそ「傷は浅いぞ、しっかりしろ」というような励ましの言葉を。もうそれ以外、それ以上のこと、もう何も。やっぱり今となって、聞かれれば、もうそうお答えする以外にはないと、思いますね。もう本当につらいことです。助けてあげられるのか、あるいは死んじゃうか。これはもうね、やっぱり、わたしらは判断できません。でも、もう悪いほうに、ああ、死んじゃう方がいいやとか、これは助かるわとか、なかなか、そこで判断することは、きついと思いますし、できなかったし、まあ、判断すべきことでは、なかったかと思ってますね。今でも。

チンドウィン河を渡河して、インド領に入って。それからはもう、補給ということはもう、考えるなよ、というぐらいの。補給と薬物に関してだけじゃなくて、弾薬、それから食糧、医薬品、そういう物も全部、その、自給自足しろというような、あの、方向でいきなさいよ、ということをたしか、隊は言われていたはず。そのころから、「あっ、これからはそうすると、薬物はそう簡単には、手に入らなくなっちゃうな」という感じは受け取りましたけど、まだ、そのあたりはまだ、入ったばっかりのころは、ありませんでしたけど、あともう、いわゆるアラカン山脈など、向こうのジャングル地帯に入ってからは、補給はだんだん、これはもう乏しくなるなということは、感じておりました。ところが、まだ直接、敵と対峙していないんですよね。ゲリラ的なあれは、あったようですけど。だから、その辺ではあまり、あの、まだ深刻に考えていませんでしたね。

で、ある程度行ってコヒマの周辺のサンジャックとか、ウクルルとか、フミネとか、そういうような所へ行って。あと、弾がこない、あれがこないっていうんで、「ああ、これはちょっと心配だな」という程度でした。
で、あれはウクルル、サンジャックという所、コヒマのちょっと、手前なんですけどね。その辺からまったく、後方との、そのそういう補給関係はもう、ダメになってきたなという、それから、制空権を向こうに取られてしまっているから、もう自由に行動できない。昼間はそれこそ、ジャングルの中に潜んでいて、夜になると、動き出すというぐらいの、まあ相当、苦戦をしていたわけですね。そのころからもう、ああ、これはもう、補給ということは相当、難しくなってくるなということは、感じるようになりましたですよね。それで、何といってももう、まあご存じのように、佐藤幸徳閣下(第31師団長)が、「もう、補給の見込みはなくなった。これ以上やったら、みんな玉砕なんだ。そんなことがあっては申し訳ない」ということで、独断で撤退命令をね。もう、そのころからまったく、補給はなくなってしまった、ということです。だとすると、止められなかったのか。あるいは、補給を続けさせられなかったのかと言われても、わたしらとしてはもう、何もできませんでしたね。

いわゆる、傷の手当てとしては、あのいわゆる、よく皆さん俗に言う、ヨーチン、ヨーチンって言ってる、ヨーチンなんていうのは、あれはね、いわゆる消毒剤であってね。傷には全然、よくないんですよね。かえって刺激が強すぎて。マーキュロクロムというのが、あったですよね。赤チンっていうのが。それもあまり、僕は好きじゃなかった。あのね、リバノール試液っていうのがあったんですよ、黄色い色の。そのリバノール試液には、内服薬とそれから、外用薬と2種類あって。錠剤のですね。内服薬は錠剤で飲む。それから外用のやつは、液体に溶かして、いわゆる、液体状にして、ヨーチン、それからマーキュロクロム、そういうように液体にする。錠剤はみんな少しずつ、やっぱり大事に持ってた。そういうのを使って、化のうを少しでも止めるとか。それから軟膏(こう)類を。軟膏っていうのは、ホウ酸軟膏っていうのがあって。ホウ酸軟膏にいろいろ、硫黄を入れたりして、用途がいろいろまた、変わってくるんですけど。軟膏っていうのは、傷をあんまり乾かしちゃうと、かえって具合悪い。ある程度、軟膏で塗って治すとか、いろいろ、まあ工夫して、何とかしのいできた、ということだと思いますね。

撤退。その時はやっぱり、おそらく、本音はほっとしたでしょうね。もうこれだけ苦しい思いをして、いわゆる陣地を死守して、もうこれが、もう限界じゃないかな、なんて思ってる時に、そういうお話を聞いたときは、本音はやっぱりほっとしてたんじゃないかと、思いますね。で、各人どうなったか。ただね、撤退といってもね、撤退も決して、楽なものじゃないんですよね。撤退するからっていうんで、ああ、撤退し始めたから、もう緩めようという、向こうは砲撃を少なくしてくれる、わけでもない。ますます、猛烈に射撃してくるとか。だからやっぱり、おそらくその佐藤閣下のお考えは、これはやっぱり、みんなこれ聞いて、「撤退? とんでもない。もっと頑張るんだ」という気持ちになった人がどれだけいたか、わたしらはわかりませんけども、ほとんどの方は、ほっとしたんじゃないかと思いますね。

だって、もうこちらが、こちらの山砲が一発撃てば500発、600発、猛烈な反撃くってる。こんなことをいくら続けてたって、これはもう、だめなんじゃないかな、という気持ちもあったんじゃないかと、思います。わたしらは一線の戦闘員でもないし、戦闘を指揮する者でもないですから、一概に断定はできませんけどね。ああ、これはもう、だめだな。

あの、これだけやっててね、これだけ頑張っても無理じゃないかなと、いうことは心の中には思ったけど、やはり当時のあの軍隊として、そんなことは考えるのはちょっと、適当じゃないと、いうふうには思いましたけど、内心はこりゃあもうちょっと、無理だなあという気持ちを持っていたから、その撤退ということに対しては、「ああ、よかったな」という。本音はそうだったと、今でこそ言える。当時もきっと、そう思っていたと思いますよ。

で、撤退作戦になって、アラカンの山の中で部隊から、もう脱落して単独行動になると、やっぱりどうしても、ダメなんですね。それで、自決する人が続発する。みすみす、あの、途中で水くれだとか、それからお米くれとか、そういう人もいます。それから、その自爆用に手榴弾くださいっていう人もいるし、もうそれは何とも言えない、行った人でないとわかってもらえないと、思いますけどね。それでも、それに応えられないんですよね。自分、自分自体も、もうヨタヨタ撤退して。それを助けてあげるということが、できなかったのが本当に残念だし、申し訳ないとは思うけども。まあ、それをやろうとすると、自分自身も一緒に、そこで死んでいくような格好になっちゃう。そして、いわゆる隊、何隊、個人ではもう駄目ですね、そういうことはやっぱし、小隊範囲、それから連隊単位、小隊単位の集団で行動しないと、生きていくことは非常に難しかったということも、今でも痛感、痛烈に感じていますね。

いや、もうジャングルの中で、あの、道のような道でないような所を歩いて行く、我々は歩いていく。そうすると、そういう所にもうへたっちゃって動けなくなってる人たちが、もう、帝国陸軍軍人というプライドも、もう何もなくなっていたんじゃないかと、思いますけども。まあ言えば、こじきになっちゃってるんですね。なぜそれで、助けられないのかと言われると、自分自体も同じ運命にすぐ、なるんじゃないかということがありますし。冷たいんじゃないかと言われても、何と言われても、どうしようもなかったということです。

まったく悲しい。もう情けない。そういうふうに思いました。僕もこっちも一緒でした。一緒に、もうやっと、ヨタヨタ、これで靖国にもこんな、みんな死んでいっちゃう。だけども、やっぱし一度は、祖国へ戻りたいという、気持ちもありました。亡くなった、動けなくなった人ですね。なんていうんでしょう、あれはもう。いわゆる地獄ですよ。その場に立ってみれば、あの、すぐわかると思いますけどね。なぜ、なぜこんなに、その人たちはもう帝国軍人とか、そんなプライドも何も、なくなってしまっていてね。もう本当に、まあ哀れでしたですね。

だから、もうおれはだめなんだけど、でも、死にきれないでいるんでしょうね。それでとにかく、自決するための手りゅう弾を、置いていってくれっていうことを、盛んに言ってる人もいました。だけど、それならば他に、方法はないのかな。じゃあ助けて、何とか助けてあげられないかな、という気持ちも、もう、その時点ではなかったんですよね、僕らも。この人を何とか、そんな元気出して、一緒に帰ろうという、まあ気力も、こっちもなくなってたのかも、わかりませんね。情けない、本当。

治療するというか、いわゆる生命の大切さ、これを本当大事にして、あの、あたら、その生きられるものをあえて、死んでもらっちゃ困るという、気持ちですよね。もう、何も死を望むと、いおうか方は、当時、当時の若さだったら、いるわけないと、僕は思うんですよね。今の世の中、わかりませんけどね。あの、みんなやっぱり、命を大事にしていて、せっかくいただいた命を大事に、生きて帰れればいいなという、気持ちを持っていたはずなんだけど、ううん、それでその方たちをどうしても、差し上げられなかったことは、もうざんきの至りですよ。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1919年
東京市神田区にて生まれる
1939年
法政大学高等商業部卒業。同盟通信社映画部入社。現役兵として歩兵第30連隊に入隊
1940年
歩兵第58連隊に入隊
1944年
コヒマ作戦当時、24歳、軍曹。
1946年
復員。復員後は建設会社に勤める

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インド(コヒマ)

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