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チャプター

[1] チャプター1 「写真、うちへ送ってやれよ」  03:32
[2] チャプター2 いよいよ“インド”作戦へ  05:18
[3] チャプター3 写真の撮れない写真班  03:26
[4] チャプター4 コヒマ占領  06:08
[5] チャプター5 炊事兵とともに突撃  06:38
[6] チャプター6 負傷して野戦病院へ入る  05:45
[7] チャプター7 「後方へ下がれ」という命令を受ける  04:13
[8] チャプター8 末期の水  03:00
[9] チャプター9 兵士にとってのインパール作戦  02:42

再生テキスト

Q:マレーシアで、どういう時期だったんですか?

 ここに書いてあるけどさ、結局、インド作戦が始まる前に、ここで休養させたんだね。そこで演習して、いろいろな訓練して、そして今度は、ビルマのほうに泰緬国境を歩いて、ビルマへ入ったんですけれど。まあ、その前の息抜きだったてね。いわば、マレーの極楽、ビルマの地獄。

兵隊さんひとりずつで、撮ってやったり、4、5人で撮ってやったり、一つの班で撮ってやったり、いろいろしましたけどね。個人個人で撮ったのが、多かったけどね。で、出来上がったのは、連隊長が言ったように、早く手紙を書いて内地へ送れと。そういうふうにして、やってくれって、わたしに言われたもんだから、どんどん「写真、うちへ送ってやれよ」と言って、配って歩いたわけ。

みんな撮られた人も、そう思ってたんじゃないですか。これが最後の写真だと。おそらく、そうだと思うんですよ。


Q:なんで、連隊長はそういうことを田辺さんに命令されたんですか?

 インド作戦があることを、連隊長あたりは、知ってるからね。だから我々も、うすらうすら、感じてたんだよね。何かそういう作戦が、あるんだろうと。だから、ビルマへ行っても、インドのほうへ行くか、何かするんじゃないか、ということも、予感してたんだけどね。だから、そうすると、おそらく全滅する、連隊長あたり、覚悟してたんじゃないかね。だから、兵隊を写して写真をどんどん、内地へ送ってやれということは、マレーしかできないと、いうことだったんじゃないですか。だから、このマレーにいる、何カ月間かの期間がいちばん、よかったときです。マレーの極楽、ビルマの地獄。

ビルマへ行ったのは、何が目的だかというと、結局、蒋介石軍のルートを遮断するために、行ったの。ビルマから中国へ入る境界線のとこを、遮断しようというのが、目的だったらしいんですよ。あとは、イギリス軍の部隊だってね。いずれ攻勢に、出てくるだろうというのは、上層部ではわかっていたことだろうし、我々もビルマへ入って、だんだん奥地のほうへ行くと、何かこれ、インドのほうへ行くんじゃないかという、予感がするんだわね。だいたい、わかるからね。すると、中国の向こうのほうの輸送路を遮断した部隊も、何部隊だかいるはずですよ。我々は結局、イギリス軍が攻勢してこないうちに、こっちが先手を取るという、考えだったんじゃないかと思うんだけどね。それは、我々兵隊にはわからん話だけど、相当先にね。山を越えちゃあ、坂を下りあれして、弾薬を持って。大変な苦労。それもね、昼、行動してられないからね。もう、制空権を握られていたから。昼あれしたら、全部銃撃でやられちゃう。だから昼、見つけられたら、もう大木のところをこう回って歩いて、飛行機があっちに行くと、こっちに逃げる。そんなようなもんで、昼間は全然動かない。インドへ渡るときの渡河作戦も、みんな夜だったしね。夜渡って行動して、昼は全然動けない、飛行機が飛んでるから。制空権を握られたら、だめですよね。だけど、なんとかやればやれるという、日本の軍隊の昔からのあれでね。なんとかやらんきゃならんという、そういう精神だったんじゃないかな。


Q:夜行動するときは、皆さん息を潜めてひっそり行くものなんですか?

 先頭が歩いていく後ろを、付いていくよりしかたがない。先頭はどうやってあれしたんだか、方向かなんか見て、磁石で、あれして歩いて行ったもんだか、昼のうちに見当を付けていたんじゃないかと思うんだけどね。

上ったり下ったり。夜だからね、どんな風景になってるか、わからなかったんだよね。まあ、だいたい、こう、沢づたいに行ったんだと思うんだけどね。夜だから、どんなところを通って行ったのか、はっきり記憶はないんだけどね。

苦しいですよ。苦しいよ、みんなほれ、あとに付いていかんと、わからんなっちゃうんだね。夜だから。その代わりまた、先頭へ立っている者も、後続を注意して、「みんな来てるか」とか言って、あれしてましたけどね。だけど、途中で今度、歩けなくなったようなのがいるからね。あごを出しちゃって、とても難儀でだめだなんていうのが。まあ、そりゃ、行くときは、そういう人間もみんなで、助け合って行ったけどね。背のうを担いでやったり、あれしてやったりして。

写真は撮ってなかったです。だし、もう、フィルムもないし。現像したりする液もないしよ。フィルム1本ぐらい、カメラに入っていたかな。だけど、カメラだけは持っていたけど、フィルムの補充は付かないんですよ。

ビルマからインド作戦へ出て、コヒマでカメラを返納したったかな。あれは、もう、兵器扱いにすんだよね。だから、カメラは兵器だっていうことで、兵器部のほうへ返納ということにしたり。どうなったかね、どこかへ捨てたかなと思うんだけどね。撮影ができないから、重たいもの持っていったって、しようがないやね。そんなようなことで、あの戦場のとこ、写真を撮って持ってきて、現像して写真にしたら、面白かったと思うんだろうね。いい記録になったと思うんだけど。


Q:写真が撮れなくなったあとは、どういうお仕事をされていらっしゃったんですか?

 連隊本部にいたから、結局、いろいろな面で、あっちのほうで仕事の手伝いしたり、こっちの仕事の手伝いしたり。炊事班のほうの関係の、応援もだいぶしましたね。わたしが突撃したりするときには、結局、炊事班の兵隊さんを連れて、班長として、突撃したりしたんです。そうでないと、余っている兵隊がいないからね。炊事班の連中だって、結局、飯を炊かなきゃならんから、忙しいんですよ、それで夜は火をたけないでしょう。炊くといったって、敵に見えないようにやらないと。だから昼間、よく見えないところで燃やすとか、あんまり煙を出さないように燃やすとか、いろいろな方法で飯を炊かなきゃならんから大変なんですよ。それをみんな、連隊本部の連中に配られるわけだよね。そうでないのは飯ごうで、個々で飯を炊くとかね。

途中で、彼らは山の上の陣地で、サンジャックとかいうところを、737高地と言ったかな、そういう、その、山の上で陣地を構えていて、日本軍の来るのを待ち伏せて、射撃したもんだから、そういうところで、だいぶ犠牲者が出たですよ。

それから今度、やっとコヒマの近くへ行ったときに、インパールとコヒマの間の道路を、彼らは山の岩を開拓して、アスファルトでどんどん、あれしたんだね、直したんだね。だから、ところどころに、アスファルトのドラム缶があるんだよ。それでまあ、アスファルトもできたばっかり。あんたにも話したけど、ジープが10何台ぐらいあったかな、あったのを、我々の部隊が、占領したもんだからさ。ジープを占領したけど、運転でしらんねんだ。運転手がいないんだよ。

ジープを占領したとき、2人しかいなかったんだ。運転できるのが。それ、一人は旅団長の車を運転するようになった人なんだけど、その男も、そのときはいなかったな。それでまあ、あとで、みんな運転の仕方をそこで、習ったりなんかして。ジープを結局、占領したことはしたんだけど、有意義に利用することはできなかった。ガソリンもないしね。ガソリンが絶えちゃえば、それで終わり。そんなようなわけで、ジープを10台、占領しても、結局は何も役に立てられなかった。


Q:コヒマではどうでしたか?

 砲撃を受けて、一山、丸坊主になったからね。

とにかく、あれですよ。一山、坊主になったんですよ。3日ぐらいドンスコドンスコと、向こうの山砲みたいなのは。イタリー軍を降伏させたグンサー少佐とか何とか率いる、連砲隊(?)とか言ったかな。なんか、この辺に書いてあるんだけど、名前はよくわからんけど。そんな砲が同時に、3発ぐらい出るんだから、それがずっと、30も並んでどんどん撃てば、たまったもんじゃない。一山みんな、坊主になったもん。3日ぐらいやったかな。その日、覚えてないけど、もう山の木が全部、倒れちゃったから。坊主になった。

そのときは、もうみんな壕(ごう)を掘っちゃ、あっちへ行っちゃあ隠れ、こっちへ行っちゃあ隠れ。弾丸のこないところを見つけちゃあ、前進して行っちゃ隠れ、前進しちゃ隠れして。弾の来るところにはいられないから、敵に近づきゃ、敵に近づいたんだろうと、思うんだけどね。

(連合軍が)パラシュートでみんな、水と食糧を落とすんですよね。それも、飛行機が来るんだけど、みんな顔が見えるほど近寄ってさ、それでパラシュートでどんどん食糧、弾薬を落としていく。間違って、こっちへ落ちることがあるから。それを拾って「うまいのを拾ったぞ」なんてことがあって、我々はありつけなかったけど、そのおこぼれをもらったことが、あったかな。パラシュートで。ヘリコプターだから、こう回ってくると、操縦士の顔が見えるんだよね。こっちは撃ってやりたかったけど、撃つなということで。撃つと自分たちの居場所がすぐ、わかるから。居場所がわかると、すぐダダーッと銃撃が来るからね。だから、それ撃っちゃならんと。

中隊のようにわたしの場合は、連隊本部っていうのは、組織が徹底してないからね。

小隊長もいなければ、中隊長もいないし、上の、中隊長クラスの者がいて、連隊本部が危ないから、お前らちょっと突撃せいとか、それから情勢を探れとか。そういうことしかなかったな。それと、今度は、偉い下士官連中がみんな戦死してんだよね。そんでほれ、班を作っても、突撃するだけの人数がいないんだよ。
だから、わたしがやったのは、結局は炊事班の連中だけだ。わたしが班長になって、炊事班の連中ばっかあ。今日は、何人出られる、あれは何人出られる。毎日、突撃してらんないからね。炊事班の人間もいないし、当番がいるから。上のほうから「今晩、突撃しられっか?」「いやあ、今日は兵隊がいない」「じゃあ、あしたやるか」そういうことになったりね。普通の中隊と違って、連隊本部の場合は、残っている兵隊をいかにして、突撃に引き出すか。あと、みんな下士官になったのは、みんないろいろ担当を持っていますからね。そういう連中もほとんど、死んじゃったんだよね。どこで死んだか、よくわたしはわからんかったけど、来る途中で何回も激戦地があったから、そこでだいたい、下士官がだいぶ戦死した。それから、偉い将校クラスの人も、だいぶ亡くなったからね。

弾があと、20発ぐらいしかなかったかな。小銃の弾。手りゅう弾が、あれ、各2発ぐらいずつ持ってたのかな。突撃するたびに、手りゅう弾をみんな、1発か2発使うから。壕の中に投げ込むんだよね。そうすると、壕の中で爆発するでしょう。爆発したところへ我々が、入っていくわけ。


Q:突撃というのは、どういうふうにやるものなんですか?

 昔は突撃っていうと、こう持って、ダーッと走って行ったり、したもんだけどね。そういう、その、みんな、そういう感覚を持っていたと思う。もう、コヒマの辺りは夜の活動だから、こんなもん持って、銃剣持って行って、こうやったって、向こうの兵隊を見つけて、銃剣で刺すなんていうことは、できないですよ。そんなこと、できるはずがない。昔の戦争は、そうだったんだろうけど。今度はみんな、手りゅう弾とかそういうものを投げて、敵の陣地を占領していくよりしかたがなかったと思う。昼間だったら、突撃なんかしられませんよ。みんな銃口、もう、こっちを向いているんだから。昼間だったら、見えたらワーッとやられちゃうからね。夜しか動けない、ということで。


Q:相手の陣地は、たとえば山の上にあるのか? 下にあるのか? こっちとどういう関係にあるのか?

 それは、だいたい昼間、見ておいてさ。そして、どんなふうになっていんのか。だいたい昼間、どこかへ隠れて、見て。だけど、はっきりなんか見えないですよ、敵の陣地なんていったってね。だから、そこへ夜でも何か出て、そこから銃でも撃つから、あそこへ壕があるんだなとか、陣地があるんだなってことが、わかると思うんだけどね。そうでなかったら、向こうもカムフラージュしてるから、ちょっとやそっとじゃ、よくわからない。


Q:戦場で味方がやられたのを、ご覧になられたりしましたか?

 コヒマでは夜が多いから、「やられた」という声は聞くけど、その、やられたときの姿、そのものを見たのは、あまりなかったな。

夜が明けると、みんな血だらけになって、倒れているのを見ますね。それと、今度は狙撃をくって、頭をやられたのが、乾パンを食べて、乾パンを半分食べて、半分残っているときに狙撃されて、乾パンをくわえて死んでいた。そういう姿を見たけどさ。かわいそうで、もう、どうしようもないけど、そういうのもいましたよ。

Q:けがしたときのことを教えてもらってもいいですか?

 ここ、大たい部、ここからここ。これ、あの、大動脈に近いところで、ものすごい血が吹き出したんだよ。


Q:どこを、けがされたかっていうのもそうなんですが、どういう状況でけがされたかっていうこと?

 わたしは負傷したから、最終のときなんですけれども、突撃するにあたって、班長は、その、「山の上にいる機関銃を掌握して、その機関銃を連れて、突撃せい」と、こういう命令だった。

それで夕方、薄暗くなってきたときに、ちったあ明かりがないと、わからないからね、それでそのぎ装して、そして、こっち側の岩を登り始めたんだよね。そしたら、下に敵が隠れてたんだかね。そんで、わたしが2、3メートルぐらい上へ上がったときかな、下からババッと撃たれた。ここを撃たれた。それで、わたしは転げ落ちちゃったの。ドーンと。それでしかたなしに、そこから隠れ、隠れ、自分の陣地へ戻ってきた。

もう、血がどんどん出てるんだよね。こういう、マキハンっていうのを巻いてるんだね。この中、血が一杯になっている。今度は、こういう棒を当てて、包帯を巻いて、こっちこう、棒があってこう、ねじってこう動脈を押さえて締めつけるわけ。

夜だから、わからんけど、車に乗せて行かれたのか、車に乗って運ばれたような気がするんだけど。その点が、よくわからないんだけど、それでその、イギリス兵の赤十字のマークの付いた病院。こっちが占領して、そこへ、みんな負傷者を入れてた。わたしが入院してから3日ぐらいたったら、今度、そこ、爆撃が始まったんだよ。銃撃と爆撃が。
それでみんな、夜また患者を、今度はジャングルの中へ天幕を張った、それこそ、仮設の病院、こしらえたそこへみんな移された。仮設の病院といったって、ジャングルの中に天幕を張ったようなところだから。それで、そこへ入れられて担架に乗せたまま、そこへ入れられて、今度はそこから、彼らは、昼は危ないから、医師やみんな、逃げなきゃならない。それで、みんな患者を方々へ追っ放して、木をかぶせて、医師は散っていくわけ。散らばって、伏せているわけだ。で、どうしたかっていうと、わたしなんか、担架にいたまま、道路の横へ下水が掘ってあったので、その中へ入れて、それで木の枝を持ってきて、2、3本かけて、それで、衛生兵は逃げてしまう。本隊へ戻って。
それで、朝方このぐらいのおにぎりを一つ持って、朝、夜明けごろ、薄暗いころ来て、握り飯一つと、ここのリバノールを入れ替えて。ガーゼは入れ替えんだけど。そのガーゼは、もう、敵のイギリス兵の蚊帳だった。蚊帳にリバノールを浸していた。それを、ここへさして、それが渇くとゴワゴワして、取ると痛いんだよ。それでまた、ウジが、こう、ずっとわいてんだよ。ウジが今度は傷ついたところに、突っつくんだよね。それがチクチク痛いんだよ。

そんなことをしているうちに、だんだん、肉が上がってきてさ、今度はまた、後ろの病院に連れて行ってくれて、また治療してくれたりして。そのころ、歩く練習といって、立って歩く練習をした。つえを作ってくれて、「これでどう、歩けるか」「どうだな、やってみるか」なんてやってみたら、こっちの足、引きずり、どうやら歩けるようになったかな。それから4、5日してから、「今度は、どれぐらい歩ける」っていうんで、「じゃあお前、歩いて帰れ」「歩いて帰れったって、どうやって行くんだ」「どうやって行くんじゃない。あともう、後方へ下がって、そこらに道があったら、それを伝って行け」。その代わり、糧秣(まつ)このぐらいくれてね。靴下の中へ入れてさ。これだけ、糧秣くれるから、後方へ行って糧秣を補給せいって言うんだよ。

とにかく、(傷)ついていて、どうにか出られるようになったから、ちゅうんで、病院のほうも、負傷者がどんどん来るから構っていられないんだよね。で、医療のあれは、薬はないしさ。それをもらって、つえをついて下がっていったら、途中で連隊本部からまた二人、具合が悪くなったのが下がってきて、「お前たちより、ひどいのがいるから、それについて帰れ」と。それがわたしだったの。それで、その曹長と軍曹がわたしを連れて、みんなわたしより軽い、破片が入ったような連中でね。それが、みんな、わたしを連れて、下がってくれたんですよ。

だけど、歩くといっても、昼間、歩くわけにいかんからね。昼間、歩くと飛行機に銃撃されるから、夜。負傷兵も夜は歩かれない。そこらの道がわからなくなって、手でなでたりして、ここが道だったかなって、探したりね。そんで3人でもって、帰り、帰りして。そして、今度は後方へ下がって行っても、糧秣を補給してくれるところは、ほとんどなかったね。あとは、ビルマの民家へ駆け込んで、飯をもらって、食べたりしましたよ。ビルマの人は、日本兵をかわいがってくれるんだわね。「うちに婿に来い」という、何というのかな、日本人は頭がいいから、日本人はうちの娘と一緒になってくれって、いうわけ。そういう、話はいっぱいあるんだ。

水の出るところで、ほとんど死んでいた。要するに、末期の水とよく言うけど、死ぬときはやっぱり、水が飲みたいんだろうね。だから、水の出ているところで、水を飲んで、そうするとそこで、安心というんだか、安堵(あんど)というんだか、そこで、動けなくなっている。それでもう、体力がなくなってるだよ。だからそういうのは、30代の人で補充になって来た人が多かったの。

手りゅう弾で、自爆したいらしい。自分が持っていた手りゅう弾を、取られたのかどうかわからんけど、自爆したいから、米をやるから、手りゅう弾と換えてくれと、こういうこと。自爆するということは言わんけど、自爆したい。そういう意味らしかった。だから、水の出ているところで、清水のところで、何人かは倒れているんですよ。それは30代の人が多かったようだな。見ると。明るくなって見ると、清水の出るところに4、5人伸びていましたよ。我々が負傷して、下がって来るときだから、その前に、もう、病気か何かで、下げられたのかね。「お前ら後方行け」と、言いつけられたんじゃないかと、思うけど。だからそういう人じゃないかな、と思うし、またあるとこじゃあ、「米をやるから、手りゅう弾と換えてくれ。」それは、手りゅう弾を持ってない、兵隊だったと思う。
「だから、米をやるから、手りゅう弾と換えてくれ」って。こっちは手りゅう弾なんて、やらんないし、米はやらんないし。「お前たち、その米を大事にして食べろ」と言って、こっちは下がったけどね。そういうところが、多かったのよ。そういう、水の出ているところへ行くと、みんな水を飲んで、楽になって、横になって死んでる人が多かった。

わたしたちとすれば、意味はなかったと、思いますね。何のために、戦争したのかと。結局、勝ち目のない戦争をしたので、無駄な戦争だったんじゃないかと、思うんですがね。あんた方、どう思う? 我々はもう、勝つとは思わんかったし、もう玉砕だと思っていましたよ。これはもう、帰ってこれんなと。全滅するより、しかたがないんだなと。ただ、我々が生きてこられたのは、陸が続いていたから。孤島でもあったら、もうだめだけどね。陸続きだったから、我々は帰ってこれたと思うんだけどね。そうでなかったら、みんな全滅してたと思うんですよ。

それと、ビルマの人は、日本人をかわいがってくれたと、いうかな。ビルマの我々と同じだ、という感覚を持っていたんだね。顔の色も同じだ、飯も食べる。結局、彼らはイギリスの兵隊しか見てないから。「日本の兵隊は我々と同じだ」と。「ご飯も食べるし。イギリスの人は、我々と一緒には、ご飯食べてくれない」って言うの。「日本人は、我々と一緒に飯を喜んで、食べる」と。だから、日本の兵隊さんは我々と、同じだと。そういうふうな、感情だったね。だから、ビルマの人は、みんな、よくしてくれましたよ。まったく、我々は感謝しきれないぐらいだ。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1918年
新潟県柏崎市字芋川にて生まれる
1934年
金沢市立材木町青年学校卒業。
1939年
現役兵として歩兵第30連隊に入隊
1940年
歩兵第58連隊に転じる。写真班として戦闘に参加
1944年
コヒマ作戦当時、26歳、軍曹。右脚大腿部鉄創を受ける
1946年
復員。復員後は写真スタジオを設立

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インド(コヒマ)

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