ホーム » 証言 » 木島 久雄さん

チャプター

[1] チャプター1 中学校で受けた軍事教練  02:49
[2] チャプター2 国境の最前線へ  03:43
[3] チャプター3 昭和20年8月9日、ソ連軍侵攻始まる。  03:31
[4] チャプター4 8月14日、新京への撤退命令が下る  04:23
[5] チャプター5 負傷  04:08
[6] チャプター6 一人満州の荒野をさまよう  08:08
[7] チャプター7 国民を守らなかった軍隊  03:17
[8] チャプター8 小さな「神様」に救われた  04:20
[9] チャプター9 死線を越えて帰国  03:37
[10] チャプター10 「話せることはほんの一部だけ」  02:58

再生テキスト

Q:軍事教練というのは具体的には、どういうことを毎日、やるんですか? たとえば?

 小銃持って、小銃の扱い方。それから撃ち方、銃の撃ち方、ええ。右肩、入れるね。それから膝撃ち、それから立射撃ち、いろいろだ。それから、ほふく前進。グラウンドの中、100メートルのはいずり回って、泥んこになってはいずり回るという訓練。

それから、銃の先に銃剣つけて。それから、ワラ人形があるんですよね、ワラ人形が校庭の中に。そのワラ人形を突き刺す、ひとつ。それの練習ですよ。

敵を殺すために。ということは、敵を殺さなえければ、自分が殺されるから。今、思えばね、敵というのは個人的になんにも、恨みも何もないわけですよ。恨みも何もない敵を殺すということは、殺さなければ自分が殺されるから、先に殺さなければならないということなんです、ええ。

昭和16年の12月に、今の太平洋戦争が始まって、その前から、小学校の5年から、日中戦争が始まっているわけです。それでね、周囲から、じいちゃん、それから、おじさんたちがみんな、召集されたり、現役で入って行って、戦争一色に。わたしら子どものころから、戦争、そういうものに、どっぷり漬かっているわけですよ。

16歳、17歳、(中学)4年生、5年生のころ、20歳になったら、20歳になったら、兵隊に行く。兵隊に行ったら、もう、敵とぶつかって死ぬかもしれない。あるいは、敵を殺さなければならない。そういうことだけです。別に、それ、不思議に思わないの。疑問にならないの。必ず20歳になったら、20歳になったら、兵隊に行って、戦場に行くと。これはもう決まっておった。だから教練の時間でも、なんでも、不思議には思わないです。

静岡、名古屋、大阪、それでずうっと、東海道から山陽線へ行くとね、鉄道沿線に飛行場、あるんですよね、軍の。その軍がみんな、空襲されて、飛行機が燃えてね、日本の、ええ。それから、大阪も空襲でめちゃめちゃに、やられているし、これはエラいこっちゃなと。わしら、満州へ行くんだから、日本の国にいるより、よっぽどいいなと思って、喜んで、行ったんですよ。日本の国におったら、これは大変な事になると。満州は戦争ないから。空襲もないから、これなんべやと思って。

あの当時、まだ、朝鮮は日本の領土ですから、鴨緑江を渡ったら満州や。もう異国だから、あとはもう、内地には帰れないと。日本の国へは帰れないから、満州で死ぬんだと、覚悟を決めて、鴨緑江を渡って行った。それ、はっきりしてる。それで、鴨緑江の向こうが安東。今は丹東といっているかな。安東へ行って、それから今度は、一路、奉天。奉天へ行って食事、弁当をあげる。ホームへ降りたら、その寒いこと。2月ですからね。マイナス、奉天、大体どのぐらいだろう。25度ぐらいあったか、30度ですか、そのくらいあった。震え上がった。思わず汽車の中へ入って、暖房ついているからね。
奉天から、今度、緩芬河(スイフンガ)。それから、白城子でいよいよモンゴル国境へ入って、興安嶺を北へ行って、興安南省、徳伯斯(トポス)というところで下車した。

それで一週間目に、初年兵をマツモト大隊長が集めて、言うたことは、面白いことを言うたんですよ。「お前たち初年兵は、よう来た。これからわしが言うことを、よう聞いちょけ」と。何を言うかと思ったらね、「軍人勅諭、それから戦陣訓、そんなものは覚える必要ない。そんなものを覚えたって、ものの役に立たん。1日も早く、火砲の操作を覚えろ」と。そういう訓示でした。これ、型破りなんですよね。

それから、あと3か月間、もう大変ですよ。初年兵の扱いというのは。でもまあ、輓馬の、われわれの15サンチの榴弾砲というのは、6頭引け。砲を2つに分解して6頭の馬で引っ張るの。それからまた6頭、それ、12頭引けなんです。ちょうど、西部劇に出はってくる、ああいうような馬車の、ああいうようだと思えばいいんです。それのね、わたしたちは砲手で、大砲、撃つ方なの。

8月の9日の朝の、8時ちょっと前。ものすごい爆音があるんで。兵舎で休んでおって、朝飯食って、休んでおって、爆音がして外へ出た。
そしたら、ちょうど中隊のフジイという准尉が、双眼鏡をこうやって見て、「どうもこれ、ソ連の飛行機だ。エラいこっちゃ、戦争始まった」思っているうちに、われわれの兵舎の上を、爆撃機が30機ぐらいの編隊で、飛んでいって、隣の索倫(ソロン)へ行った。索倫の町へ行って、爆弾を落とし始めた。今度、ボカンボカン。ほんな戦争だと、いうわけで大騒ぎになった。
だからね、今思えば、すでにもう、8時間前に戦闘が始まっても、どこからも連絡、来てなかった。これ、全く不思議な話でね、いかに、関東軍の新京の総司令部あるいは、軍司令部が、連絡不十分か、弛んで(たるんで)おったのか。上部がね。
そのときすでに、7月にわれわれの徳伯斯の兵舎から、五叉溝(ウサコー)というて、前線、徳伯斯から大体100キロぐらい離れとった前線にね、陣地構築に行っておったの。中隊長も大隊長も全然、留守なんですよ。将校もほとんどいなかった。1人か2人しかいなかった。わたしらは陣地構築へ、行ってませんからね、留守隊に残っておったから。留守隊が残っておって、それで今度、戦争始まったというので、火砲を引っ張り出して。ところがほれ、人数少ないんですよ。何をやればいいか、さっぱり分からねえわけだ。初年兵だからね。うん、うん。そして、いるうちにあれです。あれは9日の夕方、中隊長が汽車で帰ってきて。それで、今度指揮して、いろいろ。「これから五叉溝に大砲を持って行くんだ。準備をしろ」ということで、もう飯も食わない、寝もしないで、もう、その準備。

8月の12日のね、午前中の10時ごろ出発したんです。10時ごろ。

五叉溝に向かった。隣りの索倫を過ぎて、それから西口(シーコー)へ、もう少しで行くと、大体西口まで10キロぐらいの地点まで行ったら、ドーンドーンと砲声が聞こえるんですよ。おお、やってるなあと思うんですよね。

そしたら今度ね、大隊長が来てね、「すぐ帰る、すぐ帰る」と。

どうしたんだか、分からないの。さっぱり分からない。分からないけど、とにかく戻れと言うから、今度はすぐ、戻ってね、駆け足で戻ってきた。駆け足で戻ったのが、大体、12日の4時ごろなんですわ。

徳伯斯の兵舎から、2時に出発をして、大体お昼、12時ごろ橋を渡ってから、止まったんですよ。そして、そこでまた、砲列を敷いて、敵の戦車目がけてとにかく、撃ったんです。敵の戦車をめちゃめちゃに壊して。それで今度は、向こうが逃げて行ったから、また出発したんです。それで8月14日の午後の4時、大体4時。今思えば、帯海営子(タイカイエイシ)というところへ到着した。

4時に、30分ころですか、ダーッと撃ってきた、戦車砲。「なんだあ」と思ってびっくりして、山の上。ちょうど山が、そうね、われわれが野営準備しとった、ところの山というのは、大体50メートルぐらいの小山なんですが、そこの上に敵の歩兵、それから、戦車が上がって、拝み撃ちにわれわれを撃ってきた。
そうしているうちに、重機関銃から。その間、自動小銃、戦車砲、メチャメチャに、雨とあられと食らう。頭を上げられない。

ちょうどわしが伏せておったとこに、弾薬車があった。

その弾薬車の陰に、最初、伏せていた。10分もしないうちに、「あっ危ない。この弾薬車を狙われたら、俺の体は吹き飛ぶな」と思った。それで今度、この弾薬車の前、敵に向かって、ダーッと走って行ってね、そして、麦畑みたいのがあった、バーッと伏せた、うんうん。そして今度、そこであまりにも弾、来るから、腰の銃剣抜いてね、銃剣抜いて、銃剣で穴掘った、穴。そして、穴掘って、自分の伏せているところに、一生懸命、土盛った。そういう兵器、陛下からもらった銃剣で穴を掘るとなると、平時であれば、もう、大変なことなんです。

わたし、弾薬車の陰に伏せてたでしょう。それで30メートルぐらい前へ進んで、銃剣を抜いて穴を堀った。それで伏せた。後ろでバーン、という音がするんだ。ほうって、見たら、今までおった弾薬車、影も形もないんだ。戦車砲の直撃でぶっ飛んじゃって。弾薬が、ほれ、それさ、入っているもんだから誘爆した。
その弾薬車の、影も形もない弾薬車に行ったらね、一人の兵隊が、両手なし。それから足もない。胴体だけで、バッと血へどを吐いて、死んでいる。はあっ、と。わたしが前に進んだ後から、その弾薬車へ、入って行ったやつがいるんだよ。それがもう、直撃でぶっ飛んじゃった。

機関銃とか、小銃の弾であたったんじゃなくて、戦車砲であたると、ぶっ飛んじゃうの。体が、ね。だからもう、誰が何やら分からないの、実際のところ。顔もふっ飛んじゃうしね、それから手足がなくなるしね、胴体だけ生きておるしね、もう、めちゃめちゃになるの。
普通、あの、小銃の弾、一発であたったものはバタッといくから、ああこれは、木島が死んだということ、分かるけれども、戦車砲のあれでやると、火砲でやられると、めちゃめちゃになってね。誰が誰やら、もう、分からないです。そういう状態だった。

中隊長が、「木島。お前、大隊本部へ行って、大隊長に『4中隊は火砲3門、破壊された』と。『1門だけで、いま応戦してる』と。それ報告してこい」と言うので、今度は大隊本部、300メーターぐらい後ろにあったから、それ、行ったわけだ。大隊本部もどこへ行ったか、大隊長もいなければ、大隊本部はどこへ行ったかないわけですよ。それで探したけど、わかんない。弾は来るし。
それでまあ、走ってきて。それで中隊長、来た。来たと思ったら、バーンときたら、中隊長の首なくなっちゃって、バタッと。軍刀を右手にやって、首がないんですよ。破片で持って行かれちゃった。戦友はバタバタ倒れた。うんうん。

戦場はもう、泣き叫んだり、戦友が傷つく、負傷する。それから「お母さん、お母さん、お母さん」って死んでいく。ねえ、それは、もう、すごいんです。「お父さん」と言うの、一人もいないんだ、一人もいねえ。

そうしているうちに、第2弾が来て、わたしもやられた。それで後頭部、バーンと殴られたようなで。直撃ではなかったけど、破片ですね。戦車砲の破片。それでやられて、ハッと思って。「やられた!」目から火が出るんですね、バーッと。ああいう時は。

そしたら、おふくろの顔がバッと、出てきた、ここへ。おふくろの顔が。そして、意識失って、あと、沈んじゃった。あと全然、分からない。倒れたのが大体、8時半から9時ごろですよ。4時半から始まった戦闘で、わたしが倒れたのは。中隊長が首がなくなって、それからまもなく、わたしもやられて、そこへ倒れて。
それでね、蘇生したのが15日の3時ごろです。夜中の3時ごろ。どうして蘇生したかというとね、バケツでぶんまけたような大雨、降っとった。雨が降って寒いもんだから、それで目覚ました。頭は痛いしもう、どうなっているって。
今でも、わしの頭蓋骨ね、変形してますけども。頭の中へ、今でも、戦車砲の破片が今でも、入ってますけどね。

頭は痛いし、今度、目はあれだしね、頭も。そしたら、目を覚まして、雨の中を見たら、100メートルぐらいのところで、ロシアの兵隊が焚き火をして、ワンワンと、騒いでいるわけだ。恐らく、酒でも飲んでいるんだね、ね。ロシア語でべらべら、しゃべっている。辺りを見たら、戦友がもう、マグロみたいに死んでいるんだから。マグロみたいに。

どうしようかなと思って、とにかく、誰かいないのと思ったら誰もいない。それで今度はほふく前進で歩いてね。そして 100メートル、200メートル這って行ってさ。そしたら、ちょうど小川にぶつかった。川の中へ頭を突っ込んで、頭洗った。頭洗って、よっぽど。それでもまだ、発見されないで、川を渡って、そのまま、興安嶺の山の中に入った。それからあとは、もう一人でね、興安嶺を越えたの。

戦場からはい出して、それでもう、2日ぐらいは、どこを歩いたのか、夢遊病者であった。夢遊病者みたいにして歩いたけども、だんだん、頭のしっかりしてきて、負傷はしてるんだけれども。

チチハルの手前、コウコウケイまで行ったら、「チチハルはもう、ソ連の占領下だ」という情報が満人から、聞いたんです。満語はわかんないけどね、「チチハル」と言ったら「チチハル、だめだ」と言う。
それで、今度また、ずうっと南下して、白城子から新京へ行く鉄道線に乗って、ダイライというところあるんです、ダイライへ下がった。ダイライから今度ハルピンへ向かった、ねえ。ハルピンまで行ってね、ハルピンの町の、ずうっと遠方で、双眼鏡を持っていたから、双眼鏡で見た。そしたら、ソ連の兵隊いっぱい見える。あんら、ハルピンまでは行かれないとね。それで今度、ハルピンから新京を目指して、新京、奉天目指して歩いて行った。
そのころは、もう既に9月の末ころなんだ。

それでトウライショウという町へぶつかって、あそこに吉林から流れてくるところの第二松花江という、川幅が300メーターぐらいある、大きい川がある。その川へぶちあたってね、鉄橋を渡ろうと思ったら、鉄橋の両側に今度はソ連の歩哨がついていて、これを渡られない、ねっ。
その鉄橋から2キロぐらい、ずっと、上流まで行って「はて、この川、どうやって渡ろうか」と思って。昼は危ないから、夜になって、今度ね、着たまま、軍服着たまま、今度、川の中へ入って行って。その川が真っ黒い、どす黒いようなあれなの。流れも速い。それでなんとか、流木、木が流れてきた。それにつかまって、そして無理して動かないでいるうちに、やっと向こう岸に、着いた。
だけどね、あの松花江を渡るとき「ああ、俺もここで死ぬな」と思った。というのは、もうあれでしょう、1か月ぐらい、ろくな食事してないでしょう。畑のものを、トウキビ、生のトウキビそれから、生の瓜、西瓜。そういうものばかり食っておったから、もう、栄養失調もいいとこ。体はボロボロ。だからあと、「この松花江で死ぬんだな」と思ったけど、幸いにして、向こう岸に着いて。
それからまた今度、濡れた体を、今度はそのまま歩いてね。それで大体ね、夜だけ歩いたんです。というのは、昼は満州のこう、あのとおり広いもんだから、東西南北、分からないんですよ。頭の上に太陽が上ってくると、東西南北、全然分からなくなるの。

それから、昼は見つかるから、危ないからコウリャン畑にいると。あの当時、コウリャンが大体3メートルぐらいの高さだった。コウリャン畑にいて昼間の中、寝とった、いつも。大体、1日20キロから25キロぐらいは歩いたと思います。
それで、時たま部落の家へ近づくというと、部落の中から小銃を撃たれる。危なくて、部落には入られない。でも、夜だけは歩いた。

大体30日ぐらい歩いて、日にちも、はっきりしないけどね、あれなんですよ。ダーライからハルピンに行く途中、大体30日ぐらいになってからね、膝頭がガクガクして、歩けなくなったの。「あれ、これってどういうわけ。はあ?」となって、しばらく考え、は、はあ、わかった。毎日、畑のトウキビ、生のトウキビやら、それからサツマイモやら掘って、それから今の瓜なんか、西瓜なんか食べて、塩分を摂ってない。塩、塩分。「ああ、これは塩分摂らないから、これはもう、ガタガタになった。ああ、これなんとかして、塩をもたなきゃならん」というので。
部落に入れば殺される。それで、歩いて歩いて、行って、とにかく、公園の中を歩いて行って、一軒屋を見つけて、一軒家なら大丈夫だと。まだ拳銃と手榴弾を持っておったから、それで、なんとかして塩を求めようと思って、一軒家を探したら、ちょうど30日目ぐらいのところで、一軒家を見つけた。荒野の真ん中にポカッと。
ランプの明かりがポカッと、見える。大体、夜の9時ごろか。一軒家。そしたら満人のおっかあが出てきた。ちょっとあれだ、と中へ入ってね。手真似で塩をくれと、言うても分からねえ。塩をくれったって、向こうも何か言うてるか、分らない。満語が分からない。中国語が分からないからね。
それでね、腰の拳銃を抜いて脅してね。それで今度、子どもが1人おった。それから今度、おっかあと、おやじと、そこら辺にあった縄を持ってきて、後ろ手でしばった。子どもはそのままにして、動けないようにして。今度ランプ、たなげて、いろいろ食器棚があるから、食器棚をひとつずつ、見た。そしたら、瓶の中に岩塩があった、ねっ。ああ、これだ。その岩塩、岩塩というのは、今、日本の国では売ってないですけども、ちょっと黒っぽいんですよね。ざらざらしたあれで。その岩塩、ちょっとなめてみたら辛い。これ塩だ。それで、今度はガリガリかじって、そこにあった瓶から水くんで、水、ガブガブ飲んで、ガリガリかじってね。今度その瓶の、満人部落では、塩というのは貴重品なんですよね、貴重品なんですよ。だから隠してある。その岩塩をポケットさ、いっぱい入れて、いっぱい入れてね。うんうん。それで今度、その満人ら縄をほどいて、それで帰ってきた。
その塩を食べて、それから水をがぶがぶ、飲んで。あんなうまいものを、食べたことなかったな。それで、膝頭がちゃんと治った。ときどき、ポケットの塩をなめながら歩いた。だから塩分というのは絶対、必要なんですよね。

それね、興安嶺を抜けてね、部隊が全滅してから、8月の14日、15日から這いだして8月の25日ごろ。25日ごろ、あれはダーライ。ダーライに行く手前で、ちょうどあのときは昼間の中、わたしは道路を歩いておった。そしたらね、道路を歩いて行ったら1台の馬車、馬車というよりも、荷車に行き合ったの。見たらね、小さい、満州の馬は小さいんですよね、満馬と言って小さいの。その満馬に車をつけて、その車に、家財道具をいっぱい積んで。車の中には乳飲み子と、まだ2歳ぐらいの子どもが乗っておった、家財道具には。その馬車を引っ張っておるのが、30歳ぐらいの女性で、モンペを履いて、それからなんか、リュックサックみたいのを背負って、貧しい服装をして、そして馬を引っ張っている。
それから、後ろから13歳か、14歳ぐらいの少年が、いま、村田銃、九州の村田銃を担いで。その子が、子どもが、そして馬車の後ろから、トボトボトボ、歩いて行く。その親子3人、それと会ったんですよ。
それで「あんた方、どこから来た。開拓団か?」と言うたらね、この3人というか、お母ちゃんも子どもも、ひと言も口きかないで、ムチュッとしてね、もう、前ばかり見て歩いてる。
ね、ひと言も言わない。話しかけても絶対、わしのところを無視して、歩いて行くの。開拓団から逃げて来たと思うんですよ。

それで、あのとき思ったのはね、いや、われわれは兵隊だと。兵隊が、とにかく、あの戦に負けて、そして、ぼろほろになって死ぬのも、これ当たり前なんだけれども、一般居留民が、あんなようなことというのは、軍隊の責任だと思ったんですよ。「軍隊が守らなければ、ああいう、居留民というのは大変なことだなあ」と思って、しみじみ思った。あのとき、今でなくてあのときに「ああ、申し訳ないなあ」と思ったですよ。

それでもう後、満人の中に入っても、誰も。乞食みたいな格好してますから、髪はぼさぼさに、なっているからね。髭はもう、いっぱいになって、誰も俺とこを襲うやつ、誰もいねえと思って、昼間の中、歩いたの、堂々と。そしたら、だいぶ、大きい町へ入ったのね。

下九台の駅。駅へ行ったら、ホームにいっぱい満人が、50人ぐらいは汽車来るのを待っておった。わし、その満人の中へ入って行った。黙ってた。汽車、来るのを待っていた。
そしたらね、満人が騒ぎ始めてね。わたしのところを囲んでね、「お前、リーペだ」リーペというのは、今で言う日本人だ。「お前、日本人。お前、日本人。向こうへ行け」と言う。日本人は汚い服装してるから、誰も俺とこ、襲うやつはいねえ。「向こうへ行け」と追い出されちゃった、ホームから。
それで、はあ、これで汽車に乗れない。それじゃ、もう、下九台というと、大体40キロから、50キロだと、新京までは。50キロ、2日ぐらいで、行かれるなと。鉄道線路沿いに。それで今度、鉄道線路沿いに歩きはじめた。それで30分ぐらい、鉄道線路を歩いて行ったらね、南に下がって行ったら、12~13歳の満人の小孩(ショウハイ)が目の前にパッと、現れて来てね、「ニテ、ニンペネ。お前、日本人や。この町に日本人、多々いる」たくさんいると、言う。「日本人、多々いる。わたしに着いて来い」、その少年が。体はもう、ふらふらだし、腹は減っているし、頭はおかしいしね。それからもう、もう騙されてもいいと、思って、その子どもの後ろへ、ついて行った。30分ぐらい歩いたらね、昔の日本の軍隊の塀が、あったんですね。煉瓦造りの。それで煉瓦造りのあれに、有刺鉄線が張られておった。有刺鉄線のところに行ったら、その小孩が「あそこに日本人いる」と、こうしゃべった。
見たらね、有刺鉄線から大体 100メートルぐらい離れた煉瓦塀の外で、和服を着た日本の婦人が、女性が4~5人立っているんですよ。和服を着てるというのは、日本人だ。ああっと思って、今度は有刺鉄線を開けて、中へ飛び込んで行って、それはもう、走って行った。「助けてくれ」と、「日本人だ」と言うたら、向こうもびっくりして「どうしたんだ?」というようなことで。それでもう、あと、バタッとだ。たまたま、そこには、土佐の開拓団が避難して、塀に入っておったんですよ。それで、土佐の開拓団に救われたんですよ。
あの、わたしを連れて行った、その12~13の少年。それは、今、思うと神様やな。突然、わしの前に現れてね、わしをそこへ連れて行った。わしが頼んだんじゃないんのにね。

大体それが、10月の13日。だから、徳伯斯の兵舎を出たのが8月の14日。それで、下九台の土佐の開拓に行ったのが10月の13日ですから。そこで初めて、戦争が負けたんだと、いうことを聞いた。全然、知らなかった。

わたしね、けがをしてね、脳神経がやられたのか、吃音になったの、吃音。言葉が自由に、発声できなくなった。内地へ帰ってきてからも、そういう状態であったので、医者へ行って、それで、大きい病院へ行ってね、本荘の大病院へ行って脳波を測られたな。頭に、なんかいっぱい、電線みたいなのをつけて、脳波を測られた。そしたら、やっぱりね、「あんたの脳波は異常がある」って。「右のほうのあれが」と医者に言われた。
それで、その診断書を持って、秋田の県庁へ行ったのよ。県庁の福祉課かなんかへ行って、実は、こういうわけで、けがをしたんだと。「傷痍軍人の申請をしたい」と。「吃音だ」ということで、医者の診断書を持って行った。
そしたら、県庁の役人が「分かった。それじゃ、そういう手続きを、するんだけれども、あんたの中隊長の証明書。「どこで負傷したのか、中隊長の証明書をもらってこい」と。「いや、中隊長、俺の目の前で首、ぶっ飛んで、戦死しちゃった」と、「いない」「じゃあ大隊長」「大隊長も戦死した」とね。俺の戦友、みんな死んじゃって、誰も証明する人、いないわけですよ。

それで、あと結局、わたしが負傷した証明をする者は、一人もいない。だからもう、傷痍軍人の証明も全然、なってない、なってない。だから、国家から何も、補償は何も、もらってません。恩給も、もちろんもらってないしね。1銭5厘のハガキでもって、引っ張られて行ってさ。

いや、そのときはね、いや、しようがないと。大勢の人が、大勢の戦友が、親しい戦友がみんな、死んだんだと。俺だけ、助かったんだと。助かっただけ得やと。ありがたかったことだと思って、諦めたんですよ。諦めたの。
それはね、われわれが、兵隊に行くときは、日本の軍隊というのは、国民の軍隊でなくて、天皇の軍隊なんですよ。天皇。だから、日本の軍隊というのはね、「皇軍」と言ったんだよ。日本の軍隊は皇軍、天皇の軍隊なんですよ。天皇のために、死ぬための軍隊であって、国民のための軍隊では、ないわけですよ。ねえ、うん。だから、天皇のために、とにかく、戦争するのは当たり前だと、いうような、生まれたときから、そういう、とにかく教育を受けているから何も不服がなかったわけです。

今の帯海営子で、戦闘をやっとった兵隊で、今、残っておるというのは、わたしは一人も、いないと思うんですよ。
ほとんど、わたし一人ぐらいしか、いないと思うんです。

それはもう、今でも常に、「お母さん」というあの、頭から取れない。戦死していく戦友が、戦死していくのに「お母さん、お母さん」ってね。最後の断末魔でも、お母さんのことを叫んで、死んでいく。それは60年過ぎてね、長い年月、経ってもそれはもう、頭から取れないです。

まあ、地獄ですね。地獄、地獄。はあ、もう、人間がね、生身の人間が 200人も、300人も一度にね、それはもう、絶え間なく断末魔でもって、死んでいく。それは地獄ですよ、ええ。それこそ虐殺されたと同じだ。

戦場の、帯海営子の地獄みたいな、戦場のあれというのは、誰にもほとんど話したことない、家族にも。そういう悲惨なね、うん。
それとね、「おじいちゃんは、戦争へ行って人殺し、したのか」というようなことを、孫にも話せてない。話せないですよ。「おじいちゃん、兵隊へ行って、人を殺したんだ」と。とんでもない、話なんだよな。そういう話は、今の世の中では、家族の者にも、話せないです。あるいは、60日間の彷徨の中で、いろんなことがあった。あったけれどね、それは、ほんの10分の1しか、わたしは話してません。

60日間の、今の満州の荒野を彷徨した、60日間。これね、今、話した以外に、話せないことが、まだ、いっぱいあります。これは、書いたものも、ない。わしが死んで、墓場へ持って行きます。これは自分の子どもにも、娘にも、家内にも、孫にも教えられないことが、いっぱいあるんだ。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1925年
秋田県由利郡下郷村に生まれる
1943年
秋田営林局に就職
1945年
満州に渡り、第107師団野砲兵第107連隊に入隊、興安南省帯海営子においてソ連軍戦車隊との激戦において負傷、土佐開拓団に救われる
1946年
コロ島から復員、復員後は秋田営林局復職をへて、木島商店を開業

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

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