ホーム » 証言 » 浅井 朝光さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「敵弾のなか空中補給任務」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
名前名前: 浅井 朝光さん(第56師団 戦地戦地: 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日収録年月日: 2008年11月6日

チャプター

[1]1 チャプター1 陸軍飛行兵  01:14
[2]2 チャプター2 空中補給任務  06:48
[3]3 チャプター3 空中補給完了  01:50
[4]4 チャプター4 玉砕を聞いて  05:30

チャプター

1
2
3
4
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
収録年月日収録年月日: 2008年11月6日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

私の軍隊生活ちゅうのは、本当に、世間で言う、じいさん、ばあさんが泣いて送ってくれるような軍隊とは思わなかったですな。本当にね、監獄。泥棒や犯罪で入った、軍隊っていうのは監獄よりすごいとこだと。「しっかり軍隊で勤めて来い」って送り込んでくれたことですが。それほど、辛いとこだと思わなかったですな。私の軍隊生活の印象と言いますか、受けた感じです。

私たちは空中補給ちゅうこと。第一線が包囲されて、物資の輸送がきかないと。で、「飛行機で飛んでいって、降ろしてこい」と言われましてですな。地上部隊の輸送がきかないんですよ。

「よし、今日も行って落としてくるか」と、落としてやらなきゃ、待ってるからね。そんなことで「よろこぶぞ」っちゅうて、気持ちで持っていきましたわな。

手りゅう弾と、手りゅう弾が主になって、それから鉄砲弾ですな。あと、それに若干の菓子もあったでしょうけど。

まあ、あと若干の菓子でしょうね、キャラメルとか、あの時分の。

戦闘機が先に落とします。「邪魔物を早く捨てろ」っちゅうことですから。戦闘機が8機おりますから、8機落とすのを、こちらはしばらくまわって見ております。戦闘機の弾薬投下が終わってから、私たちが侵入して落とすわけです。それで戦闘機は100キロ1個、こちらは100キロを4発。それを同時に落としますから、1回に落としてしまいます。以上が私たちの落とす、持ってった量の、戦闘機は100キロ、私たちは400キロでございまして。私たちは400キロを1回に落としますから。400キロを落として。それが250メートル付近で落とすわけです。

「(補給物資が)どこ落ちたかな」と思って、グーッと操縦桿引くから、どこ落ちたかなって見てると下が見えますからね。「ああ、あそこ落ちたな」と思って。
そんなとこで、みんな「(補給物資が)埋まる、埋まる」ってね、書いてますけど、本には。あんな埋まったってね、(補給物資が)そんな1メーターも埋まるわけないでしょ。

天候が悪くて、12~13回出たでしょうな。

驚きましたのは、想像以上に撃ってくるんですね、向こうが。最初の時は。それで、なんて言いますか。爆音がしないうちは、到着しない前はですね、静かです。それで「どこかな」って陣地のところへ行きまして、それでちょっとまわって、高度低く旋回している間に、もう、射撃が来たんです。その射撃要領っていったか、もう射撃する要領はわかりませんけれど、それがブワーツと、ものすごいじゅうたんですわな。まあ、早く言うと火のじゅうたん。前翼の飛行機の後から、プワーッと。もちろん上にも来るし。そのような射撃を受けてですね。

それを、弾が飛んでくるとこをね、避けて入ろうだなんて、そんなことはできないですよ。ブワーッと寄ってくるから。

陣地の飛んで、侵入してから探して、弾薬を投下して、離脱して帰ってくるまでの、ものの3分でしょうな、3分以下、以内でしょうね。

要するに弾薬の「空中補給」ちゅうのは、主たる任務ですから、それを以外にはまあ、あまり。空中戦とか、それから、射撃とかはあまりしない。「余裕があってもするな」と。「余裕があったらすぐ帰れ」ということです。「我々は空中戦、空中戦に行ったのではない」と。間違いな、「偵察に行く。それから、物量投下なら物量投下に行く」と。「それが目的であるから、それを終えたら戦場に出すよ」ちゅうこと。まあ、そんなことです。だから、「任務以外はやるな」ちゅうこと。
うろうろ。「地上攻撃おもしろいな」っていうのでやってると、いなことにやってるから、撃たれたと。先帰ればそんなことなかったのにと。空中戦をやっとるから、奴さんが来てやられた。早く帰っとれば、そんなことなかったろう、ということですから。それで、調子にのってですね、「敵陣、敵陣地を攻撃するな」ということです。余裕は、「敵陣地を攻撃する余裕があっても、帰れ。無難なうちに帰れ」ちゅうこと。そういうふうに教えられているです。

もう向こう、奴さんが日本軍の飛行機見れば必ず撃ちますしね。
もう目に見えなくても、飛んでくるでしょ、弾がね。私たちもそう、相手になっちゃおれませんから、その「相手になるな」ちゅうことですから、相手にせずに帰ってくるわけです。

「私たちは、戦闘任務ではない」と。「偵察の見てくることをすれば、すみやかに帰れ」と。まあ、そういうことです。

Q:浅井さんは拉孟に飛んで行くときに、拉孟は救出できるのか、それとももう救う道はないのか。どういうふうに思われてましたですか?

 救う道はないとでしょうな。数でこいですから。普通、せいぜい2万ならいいけど、その倍の4万から来とればねえ。救う道はないでしょうな。だから、第一線の、だんだん消耗してくんですわ。その補充はできないですわね。

まあ、「喜んでるな」とは思いますわね。飛び上がってね、手振ってるんですわ。それも射撃されて、運が悪ければ戦死ですな。

手を振ってくれまして。私は別に手を振るわけはできませんから翼、振ってですね、そこへ突っ込んで行くわけ。それでも、声も聞こえませんけど「わーっ」って言ってるでしょうな、口開いて、手振ってるから。それで落として、離陸して、「どこへ落ちたか」「どのへん落ちたかな」と思って、眺めてくるわけですな。近くへ落ちて「ああ、よかったな」と思ってね。そのままさよなら。翼、振ってさよならしてくるわけです。
ほんのわずかな、何秒ですな。この上におるのは、5-6秒もおるか。

後で聞くと「泣きながら手を振ってた」ってね。「まだ日本軍は我々を見捨ててはいない」と。多少の来てくれるというだけが、望みがある、と。「我々は玉砕はしない」というふうに思っていたんでしょうな。

ところが、(救援に)行けないでしょう、日本軍がね。行けたら、とっくに行ってるはずですわ。行けないから、弾薬を少し補給してるだもの、ねえ。まあ、その点、情けないと思うしねえ。

まあ、早く言うと、補給方法も遅れてたわけですわ。向こうはデャーッと、大きなトラックでやってくるのに、日本はトラックを使えない、それから自動車もないと。
ですから、十分なふうにできなかったんじゃないかなあ。飛行機でやれば、また同じところに落ちなくて、これ落としても風で流れたとか、そういうこともありましてね。「ああ、流れた、しまった」と思うで。

で、まあ、日本の飛行機は、そりゃ外国の飛行機と比べると、日本の飛行機は遅かったですな。まあ、(時速)250キロ、通常。どの飛行機も。それで外国は(時速)300キロですから。

多勢に無勢でしょうな。もう人員の配置が違いますから。これじゃあ、「よくもつな」と思ったんですから、私も。まあ、よくもったなあ。もう最初から、もう勝負するだけの力も、早く言うと、半分以下ですから。「とてもじゃないな」と思ってね。よく、がんばったと思いますわ、はい。

アメリカだって今、その当時から世間の交通機関の発達してますし、戦備のことは分からなくても、そりゃあらゆる方面からですね、アメリカとやって勝てるというようなことは、そりゃあ、よほどのことじゃないと、こりゃ勝てるなと、勝てるということ思わなかったかな。アメリカとやればとても勝てないということは。
兵力も多いから。5分5分になれば、日本が・・・。「5分5分で戦えれば上等でしょうな」と思ったもの、ねえ。私の心のなかでは。大和魂ちゅうのがあって、それがあるから、せいぜい5分5分じゃないかと。戦えば上等。運悪ければ負けると。最初から勝てるとは思わなかったですわ。

日本がね、昔から、「日本勝った、日本勝った。支那負けた」って、子どものころの歌がありましたように。本当に戦争を軽く見てるんですね。戦争ってことを知らずに。私たちも、「日本勝った、日本勝った。支那負けた」っていって、子どもの頃なんか、歌ったもんですよ。小学校行く、行かない前に。どこのとこで負けたか、(そんなことは)知りませんよね。支那とやって負けた、勝った、勝ったって。「はー、そうか」ちゅうんで。
どういうことで勝ったか、どういうことで負けたかと、そういうことでなしに、ただ日本は勝った、勝った、勝ったっていうの、親の教育からなんかも、詳しいことは聞いてませんし。そんなことで、親もどこで、勝ったかもなしに、ただ日本の子どもが歌うのを、世間にきいてくるようなもんですね。
まあ、そういうなもんで、軍国主義の日本だって言われても、私は別に親から軍国主義のことも教わったこともありませんし。うちは百姓や、百姓。農業一本ですから。弾のことも知りませんし。もう平静、農業の国ですから、平静そのもので。平和そのもの教育のなかで育ったもんです。

だから、「あー、戦争終わったか。あー、そうかい」ちゅうなもんで。それは難儀してないから、感じも終わった喜びもあまりひどく感じなかったわけですわな。それが、えらいめしとると「はあー、終わったか。はー、ばんざい」。飛び上がって喜ぶちゅうことが、ありますけども。もともと楽な部隊だったもんですから。それだから、終戦ちゅうことも、あまりこれはちゅうほど、身にしみておりません。歩兵部隊の第一線のことを思えば、楽なね。だいたい歩いたことのない兵隊さんなんちゅうものは、珍しいですわ。

よくも日本軍がね、てくてく、よく歩いて山をいったものね。歩兵なんか苦労したんじゃないですか。まあ、歩いた。てくてく歩いて。戦争しながら。私たちは、歩兵のこと思や、ありがたき幸せって、と思ってます。

出来事の背景出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1916年
愛知県海部郡に生まれる
1937年
現役兵として浜松高射砲第一連隊に入隊
1940年
熊谷陸軍飛行学校卒業、岐阜飛行第2戦隊第2中隊配属
1941年
満州駐留
1942年
仏印戦線に従軍、飛行第83戦隊配属
1944年
ビルマ作戦に従軍、拉孟守備隊に弾薬の空中補給を敢行
1945年
ビルマにて終戦
1946年
復員

関連する地図関連する地図

中華民国(雲南省拉孟)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード

NHKサイトを離れます