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タイトル 「ハゲタカ舞う野戦病院上空」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
氏名 鶴 九郎さん(第56師団 戦地 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日 2008年10月30日

チャプター

[1] チャプター1 衛生隊の一員として戦場へ  04:11
[2] チャプター2 マラリア対策  03:25
[3] チャプター3 赤痢  00:47
[4] チャプター4 負傷者であふれた野戦病院  02:29
[5] チャプター5 途絶えた補給  01:50
[6] チャプター6 日本の敗戦を聞いて  06:07

再生テキスト

「いよいよ南方に行く」ということでですね、船は出ましたが。その当時のですね、私たちの服装はですね、あの真冬の中に、このわきの下もあいとるんですよ。わきの下もあいとる。それで冬の軍衣ですよ。

そのときはですね、まあみんな、冬。冬の一番、寒い中で夏服を持っとるから。夏服を着とるからですね、みんなやっぱ、寒かったけどですね。

それで行く先は南方だけど、「どこ」ということはわからない。

それは南方ということはわかっとるわけ。南方ということはですね。そやけもう、寒い。「温い所に行く」ちゅうことはわかっとったわけ。しかし行く先はもう、ほんとに「師団長でもわからん」というような状態だったです。

私たちは(1942年)4月の2日、ラングーンの駅をですね、貨車に乗って、それから、前線のほうに行ったわけです。それでトングーという所の手前で降りて、まだそのころ、途中で、イギリスの飛行機みたいなとか、やっぱり空中戦でやられたんでしょうね。落ちておるとか、いろいろ、こう、戦場らしい格好になってきたんです。牛なんかもですね、やっぱ、弾に当たって死んでですね。まだ生々しいような跡やら、火が燃えよるとか、あの家がですね。そういうような状態で。

それで、行くときはそれで、骨の出かかったような死体なんかがいっぱいあるんですよ、道に。もうそれなんかもう、自動車なんかは、もう、知らん顔して突っ走っていくんですね。臭い所に行ったらですね、やっぱりそこに何人も死んどるんですな。

(ビルマの人たちの反応は)全般的にはよかったですよ。なぜかちゅうとですね、まあこれは、物語というか伝説というかですね、あのイギリスから植民地になされとるでしょ。そうすると、「東のほうから白馬にまたがったその王子様が助けに来るぞ」こういうふうな伝説があったそうですよ。それが日本軍だったんですね。

白馬にまたがったその王子様になっとった。そういうふうな考えがやっぱ、あったんですよね。

と、いいますのはね、討伐に行きましてもね、あのう、ビルマの中で本当にやっぱもう、今でも忘れませんが、貧しい農家みたいだったですよ。そこの家の中には泊まらんやったけど、近くにちょっと、天幕張って、泊まりましたらね、そこの奥さんがですわ、もう何もないんですよ。わざわざですね、マンゴーの、マンゴーのですね、若葉を取ってそれをおつゆにして持ってきてくれた。そして出発するときはですね、このくらいの竹、あの芽竹ですね、竹にですね、もち米を入れたのを炊いて、1本ずつですね、持たしてやった。

私は治療室勤務というて、ですね。部隊の中にですね、軍医さんが、専門家がおりまして、治療室勤務にならされた。下士官が一人とですね、私が兵隊で。そしたらですね、その人がマラリアの研究がですね、非常に、熱心なかたで。師団でもその人にかなうものはおらんじゃろうちゅうぐらいな。だから、その人の弟子になってですね、ちょうど、昔の蚊帳ですね、蚊帳を野天に、蚊帳を引くんですよ。その中に、一人用の蚊帳を入れるんです。そこにむしろ一丁、敷いてですね、私が寝とくんですな。私がおとりで。そして片一だけを蚊帳を開いとくんです。そしたら1時間ごとにですね、その蚊が入ってくるわけですね。それで1時間ごとにそこを閉めて、そして、ろうそくでですね、こう見て、蚊がおったら、それをクロロフォルム。麻酔薬ですね、試験管に、試験管の中にですね、脱脂綿に湿したのを入れとるんで、それを持っていくと、すぐ、ころころ落ちるんで、傷つかんでおち、落ちるわけですね、蚊が。それを一つずつですね、シャーレといいますが、この皿があるですね。あれに何時に取ったとて、温度は何度で、風はどっちから吹きよったて、こういうのをずうっと、1時間後に(記録する)。そういうこともよくされ、させられよりました。

第一番はですね、雨に濡れてから、マラリアにですね、大体マラリアの原虫を持っとる人が多いんですよね。発病するんですね。そうすると、さむ、寒がるんですよ、最初はですね。それから寒がって、あとは熱が出る、ということでですね。

「熱帯熱」いうのが一番、ひどくてですね、もう、ずうっと、熱が出るんですよ。そうしますとね、肝臓がはれてきます。それで肝臓の、ここに胸骨があるですね。普通は肝臓は、ここに隠れとる。これがずうっと、こう、出てくるんですよ。

「熱帯熱」とか「三日熱」とかいうて、「三日熱」とかいうのは軽いんですけど、「熱帯熱」というのは毎日、もう、ずうっと熱が出て、引かないんですよ。そうすると体力が衰えるですね。栄養がとれんでですね。それで、日本におりませば、いろいろなブドウ糖とか、いろいろたくさん(治療)されましょうけど、今のようなですね、医学でないもんですから、やはり、マラリアで死んだという人は、かなりええ、おりましてね。

アメーバ赤痢も、ちょっとしたあの牛肉なんかがですね、やっぱり中には「雲南マグロ」なんて言うてですね、牛肉をですね、その「焼ちゅうで消毒するからいい」とか言って、食べたりなんかしてですね、アメーバ赤痢になった人なんかもおりますしね。

もう、とにかく、便所に何回も行くんですよ。もう、何というかですね、おかゆのような便所に出てですね。もう、これかかったら、もう、ほんとにうらめしいんですよ。

当時はもう、ほんとに、第一線でボンボン撃ち合いも大変やったが、あの後方の野戦病院でもですね、毎日毎日、爆弾の攻撃を受けてですね、やっぱり、ほんとにどこにおっても、安全な所はなかったんですね。安全という所は。それ病院をねらってくるんですから。

もう、野戦病院でも手がつかんごと、兵隊、あの負傷兵が来とる。それで亡くなる人もおるしですね、亡くなる人も、亡くなった人も、りっぱに、以前の勝ち戦のときでしたらね、(木材で)やぐらを組んで(火葬して)葬ってやりよったけど、もう、野戦病院辺りではもう、そういうあれはなかったんですね。野っ原で焼いてですね、そして、どのくらいか骨を、あの遺骨を取っとったんでしょう。そうするとそこに、ハゲタカ、ハゲタカとカラスがですね、これは、もう、ごちそうを食べに来よったんですよ、人間を。もう人間が死ぬような状態になっとると、もうハゲタカが、もう何羽も来てから、上のほうを舞いよってたね。そういうことで、たくさんの人が、けがした人が、毎日毎日、野戦病院に送られてきて、野戦病院でも何百人か、たまったらですね、今度、また次の病院にですね、隊列組んで、後送しよったんですね。それで受け入れるほうも大変、送るほうも大変。

もう、一人一人が、「ああ、また死んだか」というような報告があると、やっぱり、何となく悲しくなりますね。「きのうまで、一緒におったんじゃが」と思ってですね。やっぱり、戦争というものは、本当にやっぱり、残酷。

全くなかった。もう、補給はですね。

とにかく、あの一番、感じたのは、大砲の弾。1日3発とか、そのくらいしか、撃たれん。5発とか。そして、現地でですね、手榴弾なんかは、現地でつくっとったんですよ。あまり威力がないんです。ブリキのような。それと、もう一つは、あの便り、便りがですね、アメリカ、あのイギリスあたりの捕りょなんかから、こう調べてみるとですね、もう5日ぐらいで、着いとんですね。日本のとは、もう半年ぐらい後から来とった。それも来んとこが多いんです。

もう、補給をしたいけど、輸送手段がないわけですね。向こうは飛行機で持ってくる。パラシュートでどんどん。1回見たけども、ほんと、花の咲いたようにパラシュートで落とすんですよ。ところが日本は、その飛行機がない。持っていく、地上を行きよると、向こうの兵力がある。それで結局は、救出もできない。それでもう、何もかも、戦力がやっぱりもう、格段の差になってしまったんですね。

「負けたんだな」というのは、あのボーレイクという所でですね、アメリカの飛行機が飛んできましてね、宣伝ビラをまいたんです。

広島辺りが、原爆でやられた写真やらがですね、また紙が良かったんですよ。もうりっぱなですね、印画紙みたいなりっぱなとに、降伏、あの、宣伝ビラをまいたですね。それ見たら、「やっぱり負けた」と思うたですね。だから、そこで、今まで持っとったですね。兵器、機関銃やら、迫撃砲なんかはですね、みんな分解して川に捨てたんです。

そして、あの鉄砲には、菊の紋をですね、刻印してあったですね。それを「全部消せ」と、やすりで。それを全部、消さないかん。そうなると、「ほんとに負けたんじゃな」と、こういうふうに思うんですよ。あの、軍隊では「鉄砲を倒した」とかいうと、もうビンタがね。もう「菊の御紋の入った鉄砲を粗末に扱うた」というんで。ところがもう、それを「消してしまえ」いう。(8月)18日。

まずですね、やっぱり家族のことを思いますね。日本が負けた。それで家では年寄りの、両親がおりましてね、やっぱり「どういう目に遭いよるじゃろか」というようなことをすぐ思うたんですわね。それでもう日本全体が、もうとにかく、頭が混乱してしまうんですよね。どうなっとるやろかということでですね。第2番目は、それじゃ「いつ、自分たちは帰れるだろうか」と。流言ひ語がいろいろありましてね、「2年間は労役に使われる」とか、いろいろですね。もうアメリカ軍が来てから、「日本人の婦女暴行を盛んにやっとる」とか、もう思い思いのですね、流言ひ語をするやつがおったんですよ。結局はやっぱりほんとに国に「日本の国の、国では一体どうしとるだろうか」ということで、もうやっぱ、まず両親、もう、その他はもう、漠然としとるんですね。だからとにかく「自分たちがいつ帰れるか」というのが、第2の希望ですね。

やはり一番に、頭に浮かんだのは、戦友の顔ですね。「あれももう、帰ってこないか」というようなですね、やっぱ、戦友で、の顔が一番最初、やっぱ、浮かびますね。そして、特に私と同じような、班におった人がですね、やっぱり「亡くなった」というと、その人がいろいろ、自分の身の上話なんかしよったのがですね、やっぱり、思い浮かべてですな。やっぱ、悲しい思いしましたね。

やっぱり「親しかった戦友がもう帰ってこん」と思うと、ほんとにこう悲しい思いがしましたね。

戦争そのものは、やはり平常な気持ちで、美しい言葉で表すような状態ではないですね。そういうふうに私、思いますがね。戦争はまあ、人類のですね、狂気の沙汰だ、と。そういうふうに思いますね。

だから私にとっては、これは、もうほんとに、かえがたい大きな歴史を残したんじゃろうというような気がいたしますね。だれでも、再びこういうことを繰り返してはならないと思うけど、やっぱり、それをその中で生きてきた人間がまだ、生きておると。だから、できるなら、これを後世にやっぱり、残していくべきだというような気持ちがいたしますね。それと自分の歴史、ほんとに長い日本の歴史の中に、こういう時代に、生まれてきたというのは、もう二度とないでしょうけど、やはり、ある面では貴重な体験をしたと。そして悲しい思いをしたと。いろいろ感じは交差してくるわけですね。

出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、
拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール

1919年
佐賀県三養基郡三川村に生まれる。
1941年
現役兵として久留米陸軍病院に入隊。久留米第56師団衛生隊に編入
1942年
ビルマラグーンに上陸。中国雲南省に進出。
1944年
中国雲南省を撤退、ビルマ領内に入る。
1945年
ビルマ領ロイコー地区にて終戦。当時、25歳、伍長
1946年
復員(神奈川・浦賀)。

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中華民国(雲南省拉孟)

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