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タイトル 「“消耗品”だった日本兵」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
氏名 太田 毅さん(第56師団 戦地 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日 2008年11月7日

チャプター

[1] チャプター1 「ビルマルート」遮断  02:05
[2] チャプター2 押し寄せてきた中国軍  04:38
[3] チャプター3 尽きていく弾薬、食糧  01:44
[4] チャプター4 襲いかかる熱病  02:03
[5] チャプター5 一銭五厘の命  05:00
[6] チャプター6 終戦を聞いて  02:28
[7] チャプター7 兵士は「消耗品」だった  02:46

再生テキスト

初めからもう、雲南省まで行く予定だったんでしょうね。援蒋ルートといって、蒋介石を助けるルートが、ラングーンから、あのう、雲南省を経て昆明、重慶まで行っとったんですね。それを、遮断する目的だったんですからね。

農業経験者がやっぱり、半分ぐらいおりましたね。それから炭鉱労働者とかね、まあ機械労働者もおりましたけどね。

戦地に行ってからも、毎日、穴掘る仕事があったんですよ。壕を掘る。

穴掘りがうまい。だから、塹壕はよく掘ったんですよね。

中国戦線の、満期兵とかね。
それからノモンハン事件、それから関東軍あたりの、召集解除とか、満期兵を集めて、召集兵が3分の2だったんですよ。それで、現役が3分の1ですね。まあそういうことで、戦争慣れ、戦場慣れ、しておるということでしょうね。第一。まあ、要するにそういうことで、戦争うまかったということでしょう。

だから最初、戦場に行ったとき、やっぱり砲声やら機関銃の音がドンドンやってもですね、(古参兵たちは)走らないんですよね。びっくりしたですよ。「怖いなあ」と思ってね。ところがやっぱり、弾の音で、弾道がどこに行っとるかわかるもんだからね、もうゆっくり歩いてね。それでびっくりしました。

雲南遠征軍(中国軍)ちゅうのは、20個師団ぐらいおったんでしょうね。

それへ入れかわり、立ちかわり来るもんですからね。それで大砲も、こちら10センチ榴弾砲が、8門か、拉孟にありましたけどね、向こうはもう、銃砲はいっぱいあるんですよね。それでもう、連日撃ちかけてきてですね、

とにかく、大砲をたくさん並べて、ドンドン撃つときはですね、砲声はドンドンという、音じゃないですね。なんか、遠雷みたいにゴロゴロ、ゴロゴロいうんですよね。そして、砲弾がザーッと飛んできて、後で砲声がゴロゴロ、ゴロゴロゴロと、雷が鳴ってるように聞こえるんですね。

とにかくもう、比べもんにならないですね。こっちのほうは1発撃つとポン、ポンですからね。もう何百発しか、1門あたりありませんからね。400発とかね。ですから全く、瞬く間にもう、なくなってしまったんですね。

火力が違うんですね。小銃にしても、向こうは自動小銃をもう、ほとんどみんな持ってましたからね。突撃するときにはバラバラバラバ、射撃しながら前進してくるんですからね。弾も、もう無尽蔵にあるんですね。日本軍は三八式歩兵銃ね、明治38年制定のあれを、いちいち槓桿(こうかん)を、引きながら、1発ずつ撃つんですからね、それはもうほんとに、比べもんになりません。まあ、そのほか迫撃砲とかね、近接戦闘で、迫撃砲でですね、薄い筒に、上からぽんと入れて飛ぶやつですね。これは怖いんですよね。上から来ますからね。塹壕に入っておっても頭の上から来ますから、これが一番怖いんですね。

もう、ヒューッと上から来るんですね。ヒュルヒュルヒュルっと、こう来るんですよ。そして落ちますから、塹壕に身を隠しておっても、塹壕、上が開いとったらね、そこに落ちますからね。やられるんですね。大砲はね、普通は、ほとんど、真っすぐ飛んできますからね、塹壕に入っときゃ大丈夫ですけどね。

ロケット砲ね。あれも、バズーカ砲ね、初速が速いんですよね。パーッと噴射式ですから。それもよく、命中しますねえ。肩に担いでですね。日本軍にはなかったんですよね、それは。重厚長大の日本のね、大きな大砲をつくろうということで、特殊臼砲なんか、つくったんですけどね、向こうは、軽くて初速の速いやつは、貫徹力ありますからね。
普通の野砲とか、山砲で撃っても、貫テイしませんけど、あれなら、噴射式ですからね。貫テイして、戦車でもやっつけられたんです。

もう、日本軍はもう、瞬く間に砲弾はなくなってですね、大砲はあるけど、ないのに等しいわけですからね。あとはもう、小銃と機関銃で戦争してるんですからねえ。と、向こうは毎日毎日、何千発という砲弾を浴びせたんですからね。

とにかく物量では、もうほんとに、大人と子供の戦争だったですね。どこの戦闘でも、そうだったですからね。

ドーン、ドーンとやっぱりね、間歇的に聞こえるですね。向こうは一斉射撃ですからね、バラバラバラっと撃つわけですよ。ぱっぱっぱっぱっと、こう煙が上がってね。それから、もうザーッと来て、もう弾着、ゴロ、ゴロゴロ、ゴロゴロって、こう砲声が聞こえるんですね。

拉孟では、もう100日間続いたんですね。もうとにかく、山の形が変わってね、はげ山になったっちゅう、ですからね。

何の補給もないですから。食べ物もないしですね、弾はね、1門1日5発ずつという、配給制でやったんですよ。次の作戦を考えてね。連隊ではまあ、備蓄があったんでしょうけどね、それで「そのくらいでやれ」と。ところがね、5発なんて試射で終わるんですよ。試射で10発ぐらい撃たんと当たらない中隊長もおりますからね。
それでもう、最後ごろは連隊長命令で、「敵が500メートル以内に来るまで、撃つな」ということですね、機関銃並みだったんですよ。

日本から補給物資を、弾なんかを送るにしてもね、途中輸送船がもう、どんどんやられるもんだからね、兵力もそこで、大分壊亡しましたしね。だから、もうラングーンに、陸揚げされる物資はほとんどなくなったんですね。なけなしの、そしてラングーンに陸揚げしたあれも、第一線まで運べなかったんですね。

それで、私たちも現地補給だったんですよね。軍票をやっても、軍票はもう通用しないところですからね。だから後でやっぱり、軍の命令から、もう連隊長の命令も出ましてね、水牛なんか放牧みたいに、いっぱいおりますからね、それを撃ち殺して、食べたんですけどね。

体も風呂に入ること、ありませんからね、シラミだらけなんですよ。それで服の縫い目に、シャツの縫い目にいっぱい入ってね、卵を産みつけますからね。みんなやっぱり、だからもう、夜、大休止のときなんか、その上で皆シラミつぶしをずっと、やってましたですね。「イカ退治」と言ってました。イカみたいに、動き見えるもんだからね。内地のノミのやっぱり、倍ぐらいありましたでしょうね。

内地の、シラミからすると、やっぱり2倍も3倍も、あったでしょうねえ。それをもうプチプチ、プチプチつぶしてましたですよ。もう何ぼつぶしても、同じですね。明くる日またいっぱい出てますからねえ。

私はね、頑丈だったですから、なかなか、かからなかったんですけどね、ただ終戦の24日前、足を撃ち抜かれて、それから、弱ってですね、マラリアになりましたね。

(蚊の)卵が分裂するときに、発熱するんですね。それだからもう、雨に濡れたりなんかしたら、やっぱりそれ早いですからね。よくやっぱり、震えが出てですね、何ぼ、やっぱり厚着しても、あれは震えとまりませんからね。それとアメーバ赤痢ですね。生水飲んだら、アメーバ赤痢になりましたからね。だから、もうピーピー、ピーピー、やるわけですよ。もう間断なく、下痢しますね。これが、一番怖かったですね。衰弱してしまって、やっぱ途中で亡くなる人がおりますからね。まあ戦死者よりも、傷病死のほうが多いかもしれませんね。

もう安く、調達できるもんですからねえ。やっぱ、手紙1本、はがき1本で、ですね。昔あの、召集令状、赤紙っていったんですね。あれでもう、どんどん調達できるもんだからね。

「おまえたちは一銭五厘じゃ」と。「馬は何百円かするぞ」と。軍馬のほうがね。「だから、おまえたちは死んでも、一銭五厘じゃ」ということで、一銭五厘ちゅうのは、召集の、郵便切手の代でしたね。そのころのね。そのくらいに。まあ、「身を鴻毛の軽きに比す」という言葉がよくそのころ、言われたんですよ。「鳥の毛みたいに軽いんだ」と、兵士の、命というのはね。「大義のために死ね」と。「陛下のために死せ」と、いうようなことを、もう少年時代から、教え込まれましたからね。そういう、日本だったんです。戦前は。だから、人権とかね、国民の権利とか、そういうことはなかったですね。

もう「死んでも陣地、離れるな」ということですからね。「逃げて帰るな」っていうことですからね。

もうやっぱりね、最後はたまらなくなってね、もう石ころ、大きな石ころを投げたりね、なんかして。
やっぱり雨が、雨季ですからね、雨が降って、壕に水がたまるんですね。穴倉ですから。それ使って、戦争するわけですからね。「もうふやけてね、膝から下がふやけてしまっておる」と。「それでね、頑張ったんぞ」と。「内地やね、いま特攻隊っていうのがあってね、敵艦に突っ込んでるらしいけども、それは立派だけど、それ以上だぞ」って言ってね、「君たちの先輩は」と。「もう下半身、もうふやけてね、100日間頑張ったんだぞ」ということで、「君たち、これから新進気鋭だから、その先輩にも劣らんように、頑張ってくれ」ということを言われましたですね。

もうやっぱり、少年時代からの教育と、それから軍隊の教育でしょうねえ。「尽忠報国」とかね、それから、まあ死んでも任務を全うせよという、軍隊のやっぱ教育でしょうね。それ、徹底しとったんですね。
「君たちはね、兵よりも真っ先に、死地に飛び込んで危険な仕事をせい」と。「そして、真っ先に死ね」という教育だったですよ。それで、私はドウラクで重傷負ったときも、下士官だったですけどね、砲手が出たがらんもんだからね、もう、自分は一瞬考えたんですよね。「ああ、砲手じゃない」と。もう「出たらやられる」とわかってましたからね、囲まれてしまって。しかし、もう瞬間、体が飛び出してましたね。これは教育の力ですよね。で、もう生き残ってね、恥さらすよりもね、これで行って、やられてもやっぱり出るべきだと、とっさの判断で出たんですよね。案の定やられましたけどね。やっぱり教育の力ですね。

「死守せよ」ということは、やっぱり至上命令だったんですね。だからやっぱ、中には「もう、帰ってきちゃ困る」という上官もおったわけですよね。ところがね、あんなもう、兵力は足らないのにね、1人でも帰ってきたら喜ばないかんのにですね。そういうとこがちょっとやっぱ、いまでは理解できないですけどね、ええ。

あのころの教育ちゅうのは、ちょっと間違ってた点もあるですね。生きていたことをやっぱり、喜んでやるべきだったと思うですね。それは死ぬことも苦労ですけど、生きてそこまで敵中を、やっぱり生き延びてね、生きて帰るっていうのも大変ですよね。

(連合軍は)第一線では決して、兵力を無駄死にさせないということでね、もうどんどん、どんどん空爆して、それから砲撃して、そして戦車を立てて、それから、歩兵が出てきてましたからね。第一、やっぱり戦略思想というか、兵術、戦術思想とか、そういうのが根本的に違うんですね。日本はね、大砲、砲兵はね、砲兵の軍旗だと。だから、兵隊よりも大砲を大事にしろと、いう教育だったんですよ。

投降勧告はよくやりましたですよ。ビラをよく、落としましたですよ。それで、それをもう活字に飢えとったですからねえ、もう拾って読みましたですよ。すると正月あたり来たらね、「門松や冥土の旅の一里塚」とかね、一休さんのあのう、漫画や何か書いて。日本人の捕虜がインドなんかにおって、それやっぱり、つくっておったらしいですね。向こうの指導でですね。それから、向こうに、ビラの上のほうに、スピード三角くじみたいにね、投降、勧告書でって、それ持ってきたら安全証だということで。「このビラを持って、アイサレンダーと言ったら、安全に、捕虜にしてね、優遇します」というようなことを書いてあるんですよ。で、それを見て、みんなゲラゲラ笑ってましたね。

もうだから「捕虜になろう」っていう気は、全然なかったですよ、私たちもね。それはもう、もう末代まで捕虜の家族もね、そりゃもう末代までの恥ですからねえ。だから、潔く死のうと思ったんですね。

あんまり、悲壮感がなかったですねえ。

もう日常茶飯事、薄氷を踏むような戦争だったんですけどね、やっぱ戦意は旺盛だったですね。最後まで。
だから、終戦になってもね、私、野戦病院で、あのもう、動くのも不自由な状態だったですけどね、20日ごろだったでしょうね、飛行機が飛んでこんから、「近ごろ飛行機が飛んでこんね」って、みんな言いよったんですよ。そしたら、どっからか、「あっ、戦争は終わったらしいぞ」っちゅうことになったんですね。そしたらね、みんな「ああ、敵もくたびれたか」って言ってね、日本が降伏したということは、意識がなかったんですからね。それからね、「日本は無条件降伏したらしいぞ」って言ったらね、私たちよか1年新しい少年兵がおったんですね。2つ星やったですけどね。陸軍一等兵だったですけどね。それが、やっぱ悔し泣きに泣いたですからね。

だからね、私はドウラクで、やられたときも、大砲を1門持っていっとったんですがね、山砲分解して、もうやっとで少ない兵力で、次々運んだんですよね。負傷兵はもう、そのままですよ。それで、「おまえは這っていってくれ」と、軍医さん言うもんですからね、もう片足、もう千切れそうでね、這うどころじゃなかったんですよね。だから「手りゅう弾ください」と。「手りゅう弾もない」っちゅうんですよ。それだから、もうやっぱここで、捕虜になるよりも、やっぱりね、舌噛み切って、死なないかんかと、思ったんですよね。そんとき、やっぱ拉孟のこと考えましたね。我々は玉砕とか、簡単に言うけどね、みんなやっぱり、こういう思いしたんだなと、思ってですね。そしたら、連隊本部に配属された兵隊さんが2人、「私たちが運びます」と言ってね、付近のあの潅木林に行って、小さい、木の枝を、木の幹を切ってですね、そして、馬の鞍下毛布で、即製の担架をつくって、2人で私を担いでくれましたからね。もう生還できたわけですよねえ。危うく、やっぱり火砲の犠牲になるところでしたね。
しかしそれはね、やっぱり、これは宿命だと思ったんですよ。連合軍にすりゃもう、火砲でも、戦車でも、消耗品ですけどね、日本ではやっぱ人間が、日本軍では人間が、消耗品だったんですよねっ。もう、兵器はかけがえがないもんだと。補給がつかないですからね。そういうことで、やっぱりね、人間を粗末にしては、戦争に勝てないですよね。兵隊育てるのに、やっぱり20何年かかりますからねえ。

まあ重傷を負ってね、死ぬ思いもしましたけどね、やっぱそこでね、私の戦友が、下士官学校も同期生の、もう無二の親友でしたけど、もう自分が出れば、もうまたやられるということはわかっとるのに、やっぱり私のところまで這って走ってきて、そして止血してくれたから、私は助かったんですね。まあそういった、やっぱ友情も得ましたしね、それで、やっぱり死線の中をいろいろ、さまよったりしましたらね、まあ、その後の人生観ちゅうの変わりますね。

出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール

1922年
熊本県熊本市に生まれる。
1943年
現役兵として久留米西部51部隊に入隊。ビルマ・ラングーンからマレーの南方郡下士官候補者隊入隊
1945年
断作戦、克作戦に従軍。ドウラク戦で負傷。終戦。当時、23歳、軍曹。
1946年
復員(神奈川・浦賀)。

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