ホーム » 証言 » 梅田 昌二さん

チャプター

[1] チャプター1 訓練の帰途 ソ連機が飛来  02:30
[2] チャプター2 国境から新京へ後退  07:21
[3] チャプター3 シベリア抑留  04:17
[4] チャプター4 復員  02:07
[5] チャプター5 「なぜ一緒に連れて帰ってこなかったのか」  02:41
[6] チャプター6 戦争を振り返りたくない  03:11

再生テキスト

何だか、みんなでトレーニングみたいな、がけ登りしていた、みたいだったね。今夜はアルシャンの山を出て、いわゆる、いま言うウォーキングとか、体を鍛えるために。それで、帰ってきたら、途中だったんだ、帰ってきたら、飛行機が3~4台、すごい勢いで、山手のほうからバーッと、飛んでくるので。爆弾は落としませんでしたね。

すぐ、分からなかったんですね。あとで、ソ連だから、対処せにゃと、いうことで。で、日本の飛行機は全然、飛ばないからね。ふだんも飛んでいないから、結局、どこかの飛行機にちがいないと。あれは、きっと、上層部のほうからソ連の飛行機だと、いうあれがあったと思うんですね。そうしたら、もう少年兵だから、ただ緊張してやっているだけで、周囲のことは全然、分からない。特に私は、志願してきた若い者だから全然、分かりませんでした。

だから、敵のソ連の飛行機だというので、みんなでびっくりしたんですね。それでもう、逃げるというわけでもないけれども、移動せねばならないというわけで、「みんな、その準備さ、かかれ」というわけで、一同、移動準備さ、かかったわけですね。

とにかく、死にたくないと、いうことだね。どうして、命を守ったらいいかな、何も考えられないぐらい、緊張したがね。恐怖まではあまり、感じないけれども、やっぱり緊張するね。どういう現場になるか、一寸先のことがやっぱり、恐怖と、言うんだかね。全然、日本の飛行機が飛ばないし、兵隊そのものも、満足に物を食っていないから、勢いそのものがないんですものね。戦って、勝つとか、いうのではない。、ただ、その場かぎりで、来たら何とか、戦うという程度で、そんなに真剣に、戦争なんて考えてない。ただ、てんでに、自分の身を守るというみたいでね。


Q:そこで、西口の戦いというのは、あまり西口で、どう戦ったかとかは分からないですか?

 途中はとにかく、わかりません。ただ、戦ったというより、むしろ逃げるいっぽう、だったからね。
特に、山手から山の陰まで、走るには、もう本当に、背中にそれが、当たったらば、倒れるみたいな気持ちだね。ブンブンと来るから。ソ連の何機関銃だったかね、これは、すごい働きがあるというか、あとで聞いたけれどもね。それがペッ、ペッペッと飛んでくるんだよ。でも、そんな大量になかなか、当たらないものですね、弾は。


Q:興安嶺の山の中を退却しますよね。そのときというのは、どんな状況でしたか? 退却するとき?

 とにかく逃げる。退却するときは、ただもう、馬を引っ張って、腹が空けば物を食いながら、トコトコ歩いて。興安嶺って、どの辺だかの戦いだかね。


Q:食べ物とかはどうだったんでしょうか?

 もう乾パンだけ、硬いパンと、水だけですね。ご飯とか何も、食べていられないんだものね。パンとか、そういうだけでね。それでも腹を空いたとか、なんて考える、精神的にそういう、余裕はないですものね。いつ、敵が撃ってくるか分からないから、こうやって構えながら、めしが、腹が空いたとかなんて、いうことは全然、考えない。ただもう、緊張しているだけで、どういう戦争に、戦いになるかというのでね。

やっぱり、正直に言えば、とにかく、これは勝ち戦でないような、感じがするから。とにかく、逃げているみたいな感じで、とにかく、死なないように気をつけて。先はどうなるか、というのは、一向、分からないから、全然、分からないから。とにかく(馬を)連れてきたことも、分からないから、とにかく、上手に逃げるということだけね。

(戦争が)終わっているのが、全然、分からないからね。分からなくて、一生懸命、戦争しているから。向こうのビラが日本が、無条件降伏するとかなんて、飛行機が持ってきて、初めて、負けたんだなというので。だから、中国にいて終戦と聞いても、おかしいなというみたいに。大体(8月)29日あたりまで、戦っているんじゃない。歩いているんじゃねえべかね。半月ぐらい、歩いているかもしれないね、戦いながらね。

どうして、こうなったのかな、という状態でね。だから結局、われわれは何も知らない。山の中を、ただただ、戦争しながら、逃げていたんだなとね、大体半月ね。


Q:15日終戦というのを知らされた瞬間は、どうでしたか?

 分隊長が集まって、日本は負けたんだというので、みんな、「いやいや、負けるはずがない。日本は必ず勝つ。向こうの宣伝だ」というので。「負けた」と言えば、戦力が低下するから、気分が。だから、これは宣伝だと言っても、最後は分隊長だかは、完全に負けたというので、これで軍隊の組織を解くからと。分隊長もみんな同じだから、逃げたい人は逃げれば、いいさね。ただ、もう明日、あさってには、ソビエトの戦車が来て、みんなをずらっと、一列に横に並べて、端から、しらみつぶしに戦車がみんなを、つぶしていくという情報だというので。だから「いや、そんなのは大変なものだな」と。向こうの軍隊が来て、「黙れ、黙れ」と言って、時計を取ったり、たいかくを取ったり、一生懸命、体を、ポケットを見たりして。ようやく、たぶん宣言が出て、負けたというので、みんなも、これからどのような生き方をして日本さ、帰ったらいいか、ということだけね。逃げた人もあると思うな。満州の地域も分からないから、とにかく、しかたない。

ソ連に入って、(軍衣を)煮沸して、日本に帰るというわけで、シベリアの貨車さ、乗ってね。で、走ったら、何日たっても、停まらないんだもの。「これはおかしいな、方向が違う。これは日本さ、帰るんじゃないな」と、言ったら、3日も、4日も乗ったかね。とにかく日本なら、すぐ次の駅だけど、1日か2日ねば、次の駅さ着かないからね、シベリアは。そうしたら、ブダラかボダラか、ブダラだね、そこの山の中さ、に連れていかれて。ここでちゃんと、着替えしてね。煮沸、風呂へ入って。それで「帰す」というわけで、本気にして、生活していたわけでね。でも、糧まつがほとんどないし、食べ物は少ないし。冬なんかは、凍っているから、火を燃やして穴を掘って、そこさ、こたの柵。

自分たちの収容されているところを、逃げられないようにね、柵を作るわけね。

山から木を切って、氷を割って、鉄条網を張って。そうやって今度は、日本へ帰れるかもしれないという、うわさだけで、全然、重労働は絶えないし、糧まつは少ないし。これはやっぱり、面倒だなみたいに。「帰れないな」と思って、ある程度、あきらめるより、しかたがないというのでね。ただ、腹いっぱい、物さえ食えればしかたない、というみたいになるね。戦争に負けたんだから。


Q:労働というのはどんな?

 山の伐採。2人で、腹が出っ張ったのこ(鋸)で。あれ、引っ張るんじゃない、押すんだおんね。こうして、代わる代わる。相当な大きな材木でも、切れるということでね。それを、本当は集積所に配るわけでね。シベリアは森林地帯が多いからね。非常に山が豊富だから。

いや、大変だ、何も物を食っていないから、力が出ないですね。だから、もうキノコであれ、松木の皮であれ、それを焼いて。せんべえみたいな感じ。

そんなものが落ちていれば、拾って食うね。豆がそのへんさ、泥さ、まみれて、それを食って、「いや、なんて豆よりうまいな」ってね。とにかく食うのだけは、本当に苦労したね。

豆なら豆を1週間も、食わせるんだもんね。みんな下痢してしまって、ますます働けなくなる。みんな泥棒しても、何しても、「腹いっぱい食ったら、死んでもいい」みたいな気持ちになるから。だから、まったく、その心境が、腹いっぱい食ったら、死んでもいいという気持ちだけね。悪いことをしても、何しても、食っていけねばないという。

とにかく、ナホトカから舞鶴さ、着いたときによ、ようやく一緒に。一番の、まず、気持は「よかったな」というのが、当然、残っているから。あとは家に帰って、やっぱり、「ようやく帰ったな」というので。そのときは、夢みたいなもんですよね。


Q:この辺の駅に着いたときに、どんなことを感じましたか? この辺の駅に着いて?

 やっぱり、思ったより、日本の国内の状況とか、ふるさとのあれが、そんなに思ったように、負けた国みたいじゃないような、環境だったんですね。

だから、(早めに復員した)仲間の1人はかばんをさげて、ネクタイを締めて、ドッと通ったから、「こんなに。負けた国でも、こんなに。全部、そうだったんだべな」みたいにね。「これは、これからとても、取り返すのは容易でないな」と思って。「どうやったら、いいだべな」という状態でね。ただ、自分の手遅れだという。

いやあ、とても人生、これは出遅れたな、というみたいにね。悔しいだべね。 自分の人生を、抑留されて、こうして闇夜に出てきて、どうそれを、盛り立てていくかというのはね。ただ、それだけ、一生懸命考えて。

訪ねて、来たわけ。どこから聞いたか、そのおばあさんが。「この辺に同じ(部隊の)人がいる。それで、生きてきている」というのを、どこかから。やっぱり、自分の子どもが帰ってこないから、聞くんでしょ。それで、「いつに旅館で待っているから、来て、話を教えてください」というので。それで、全然、来るのも、何もなくて、ただ急に来て私を呼んで、「なして連れて、こなかった」というのでね。

一生懸命、泣きながら、「何で同じあれでもって、おめえばり(だけが)生きて来て。どういうことをしても、ヘイタロウを連れてきてもらいたかった」というのでね。それで、泣きつかれて。

「何でおまえばり、生きて来て、うちのヘイタロウを連れてこなかったの」と。同じ環境でありながらね。


Q:お母さんに責められたときは、どんなお気持ちになったと?

 ただ、申し訳ないというだけでね。自分はただ、自分を守るだけで、精いっぱいだから、人の世話とかは、できない状況が。全部の兵隊さんが、そういう状況だったから、やむをえないとは、言えないけれども、そういう軍隊の、組織のあり方だったと、言ったら、だんだん、おばさんはとにかく、生きて帰ってくるものだと思っているから、そして、生きて帰ってくる人もあるんだから、ヘイタロウが何で、帰ってこないかというのは、その一心だけで。

でも、やっぱり、生きている人がこうして、目の前にいると、あきらめきれないんでしょ、親としては。当然ね。「どうして、どうして」という気持ちが、湧いてくるの。やっぱり、親だものね。それは、どの親もそうだけれども、本当にいかに、悔しかったか、悲しかったか、ね。自分たちが親になって、初めてね。

やっぱり「精神だけは負けない」と、いうような。結局、そういう気持ちが、そういう、いかにも、体に植えつけられて、育っているからね。教育から、親戚の環境から、何から。だから、いわば「突入しても、死んでもいい」というみたいな、ある程度、その死の恐怖は、考えていなかったね。やっぱり、国のためと、いうんだからね。それも、できるか、できねえかも、分かんないけれども、やはり、日本のためというね。自分の置かれてる、社会的な身分、というのは、そういう気持ちが、体の中に植えつけられているんだね。その時代には。

その時代が、結局、そういう教育から、何から、全部そっちのほうに。もう、無知のように、全然、無気力みたいな、そういう気持ちになって、私たちでも志願していくのには、死んでもいい、というような、当時は、気持ちがあったものね。

だんだんに、こうして年を取って考えると、自分を守るのが精いっぱいで、あまりこう、考えられなくなってくるね。
考えられなくなる。考えること自体が、何て言うかなあ、自分を悲しませるというんだか、何だかね。

ただ自分が、今まで、生きてきてよかったな、というだけで、あまり、過去を振り返りたくないね。だから、過去を振り返っても、どうにもならないから、結局、これから先、どう生きていくかということだけ、一本槍になるね。

もう、結果論になってしまうから、何をしゃべっても。それが、また、再び振り返ってくるものじゃない。ただ、戦争だけは嫌だなと。同じ人類が、殺しあうということ自体が、何があるかというのでね。

これからの先は、本当にもう。だから、ただ生きているうちに、戦争が起きなければいいなと、いうことだけ。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1926年
青森県三戸郡倉石村に生まれる
1943年
青森県立三本木農業学校卒業
1944年
青森県三八地方事務所に就職
1945年
満州に渡り、第107師団野砲兵第107連隊に入隊、一等兵、シベリアに抑留
1947年
シベリアから復員、復員後は農林省作物報告事務所勤務を経て、パチンコ店、衣類販売、クリーニング店を営む

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

地図から検索

関連する証言

ページトップ