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チャプター

[1] チャプター1 戦場に電話線をはる  02:30
[2] チャプター2 ソ連軍侵攻  02:06
[3] チャプター3 山の上から砲撃した西口の戦い  03:48
[4] チャプター4 号什台の戦い  02:17
[5] チャプター5 ようやく知った日本の降伏  02:22
[6] チャプター6 貨車で大陸を北上  02:50
[7] チャプター7 腕時計をパンと交換する  02:53
[8] チャプター8 3年間の抑留を経て、昭和23年に帰国  01:53

再生テキスト

戦争なんかになると、まず山砲だから、大砲を据えつけるわけ。その場所を決めるのが、第一線ですね。第一線に、中隊長、大隊長、皆、先に立って行くわけ。状況のいいときであれば、そこに大隊長、中隊長も後ろにいて、観測っちゅう、砲台鏡という、こんな大きなのなんだけど、それ見ると、しっかり見えるんです、敵の小隊から、何から。そうなんですけど、そういう、いつも状況のいいときばかりでないので、状況の悪いところになると、まず先に砲をどこに据えるかを決めて、それから後方に、中隊長、大隊長なんかもいるわけですね。

条件の悪いところになると、やっぱりそこ、何百メートルも(電話)線を引いたりするわけですね。


Q:なんでなんですか?

 それは観測で、向こうの戦車なら、戦車が何をする、どこにいるかわかるわけですよ。だから、連絡しなければならない。

敵はどこにいるから、高度はなんぼとか、距離なんぼつて、しっかりわかるわけです、観測で。それを後方にいるのに電話で、その砲のところに、連絡するわけですね。

だから、通信3人いたんですよ。通信3人と観測2人。

砲のほうと、後方のほうと、電話、1台ずつある、そこに1人ずつ、つくわけですね。そしてから更に、撤収する人が1人いなければならない。そういうので3人だったと思いますけど。

8月9日でしたからね。朝の6時半ごろかな、ソ連の飛行機が来て。私たち、五叉溝(ウサコウ)というところに、中隊から離れて、陣地構築に出てたったんですよ。川のそばにテントを張って生活をしたったんですけど。それから、わたしたちのところから五叉溝の駅まで何キロぐらいあるのかな、ちょっと、4~5キロぐらいあったのかな、そこの駅さ、落としたわけですよ。五叉溝の駅まで来て。それで戦争だということで、幕舎を撤収して、川のそばにいたのを山際に移して。

いや、「日本の飛行機かな」と思ったんですよ。「飛行機ないない、と言っていたのに、飛行機、来たんでねえか」と言ったら、その、頭上を越えて行って、五叉溝の駅に行ったら、バンバンと音したので「あっ、これは戦争だな」と、そのときわかったですね。

そして、その日の午後ですね、本部のほうから連絡あって、「トラックが部隊に帰るから、準備して待っていろ」という命令が来たんですね。それでミヤニシ中隊長と、それからミウラ・カズミ軍曹とわたしと3人、中隊のほうに帰ることで待っていたんですね。そしたら、もう夕方になってから、敵の戦車が入って来て、行けないから中止ということになったんですね。

ちょうど、私たちが山の上にいたとき、後ろから、ソ連の戦車が来たんですよ。山へ上がったとき、後ろから戦車が来て、それで観測で見たら、もう列をなして、来たわけですね。そしたら、ちょうど、登る道の下のところがカーブになったったんですよ。その陰に隠れて、ズーッと並んで戦車が、ソ連の戦車が並んだんですね。


Q:それは攻撃したんですか?

 ええ、やりました。そして大隊長が「様子を見るように」と、ミヤニシ中隊長に言われまして、それで私もお供して馬で行ったんですけど。途中まで行ったら、戦車ばっかりだと思ったら、もう、歩兵も一緒に来て、散開していたったんですね。それでもう、あとはやられて、途中で戻ったんですけどね。

そうですね、そのときは、日没まではやったはずですから。そのときなんかは、線も引くこともなかったしね。私たちのほうが上に、頂上にいたもんですから。ソ連は下のほうから、後ろから、来たのでね、通信も、線も、何も、引く必要もない。観測だけで、距離だの全部わかるからね。


Q:その後、西口で戦い終わったあとは、今度、撤退?

 撤退していくときはね、やっぱり、どこの戦争もそうだったけど、初年兵なんかが、後から入った人たちが、やっぱり、行方不明になったり、負傷したりね。やっぱり、被害が多かったのは初年兵の人が多かったと思いますね、後から入ったね。

歩兵の人はみんな、そこらにも寝ていましたね。なんぼ起こしても、はあ、起きないんですよ。あんな人たちは恐らくあれだな、落伍してしまったんじゃないかなと思いますけどね。

やっぱり、わたしたちみたいに馬部隊(逓信隊には馬が配備されていた)だと、初年兵なんか歩けなくなると、馬に、どこかにつかまらせて歩いたりね。それから、こんな腰まで、川、越えねえどこもある。すると初年兵は川を越えねえでいるから、わたしたち、馬、持っているのは、何回もこうやって渡してくれたりね、なんだりもしましたけどね。歩兵の人は、もう、なんぼ起こしても、起きないんですね。あの人たちはどうなったのかなと思いますけどね。


Q:やっぱり、そういう人たちを助ける余裕なんて、全くないんですか?

 ないんでしょうね。自分たちのことも、ほんとにろくな食事もしないで、歩いているわけですから。

Q:ずうっと、行軍してきて、号什台(ゴウジュウダイ)の戦いのときというのは? 号什台の戦い、どんな戦いだったんですか?

 わたしにすれば、最後のあれだったと思いますね。ずいぶん激しい戦争だった。

そのときは、やっぱり300メートルぐらい電話線、引いて。そいつを、たまたまわたしは、撤収のほうにいて。1人ずついたもんですから、撤収のとき、あれしたわけですけど、そのときまず、ここをかすり傷ですね。今まで家内にもしゃべったことないですけど、ここからね。

電話線を撤収するのに、ここで巻くわけですよ。線をこう、あれして、こうやっていたら破片がビューッと、かすったわけです。で、ここから、ここらまで、傷ある。かすり傷でね、大したことねえ、血、出たぐれえなもんで。


Q:そのときって、じゃあ、たくさん?

 ええ、もうすごかったんです、破片もう。今、考えてみると、よくあたらなかったなあ、と思います。もう、バラバラ、バラバラですからね。


Q:そんな砲弾が飛んで来る中でも、電話線、巻取りするわけですね? 怖いとかという気持ちもないのですか?

 死ぬんでねえかな、なんていうことは全然、考えなかったですね。本当に、今、考えても、不思議なくらいですね。あのくらい、破片があんなに、飛んできたのが、まず、こんなかすり傷だけで、終わったということは、本当に。

28日、音徳爾(イントール)に入ったんですね、興安嶺の。そしたら、29日ですね。日本の飛行機が、来たわけですね。

広っぱで休憩してたら、たまたま飛行機が来て、ビラをまいて。まず「関東軍司令官 山田乙三」と。「無条件降伏したから、武器を返納せえ」と。そいつを、みんな兵隊が拾って見たんだけど「まあ、これはデマだ、デマだ」って言っているうちに、飛行機が着陸して。そして、後ろに将校衆が乗ってたということで、将校がいまして、そこで無条件降伏したということがわかったんです。

やっぱり、負けたのかなあ、という感じでしたね。

私たち、ほれ、通信に小さいものだからね。電話線だの、線となれば小さいもんだから、もう穴、掘って埋めました。

もう、そのとき、すぐ、ソ連の兵隊が来ましてね。そして、ほとんどの人が時計を、みんな時計、万年筆はみんな取られましたけどね。わたし、そのときビュッと、考えたのが、時計を外して。もうポケットに入れたって絶対、もう、身体検査されるから、時計だの、万年筆はみんな、取られるんですよ。それでわたしは、これわかんねえなと思って、編上靴の中に隠したんですよ。編上靴の紐を解いて、ここに入れたんですよ、腕時計を外して。靴の中に。それで、シベリアまで持って行ったんです。

そうですね、もう「ダモイ、ダモイ」だなんて、「帰るんだ、帰るんだ」なんて騙されて、まず、行ったですね。

ソ連兵いわくは「ダモイ、ダモイ、帰すのだ」ということなんだけど、汽車に乗れば、帰るどこでねえ、別なほうに行ってるわけ。

まあ「ダモイ、ダモイ」と言うんでも、行くほうが反対なもんだから、「これは騙されているな」と、みんなそう思ったんですね。


Q:シベリアへ行きました。行った先は、どんなふうな感じだったんですか?

 山の中だったんですけどね。ボダラといって。前に何か、小屋があったのを、結局、丸太積み合わせて造ったのが、バラしたのがあったんですよ、1軒分。それを、2キロだか、なんぼだか、離れたところから、みんなして担いで行って組み立てたんですよね。そして、その隙間に、苔みたいなものを、そこらから持ってきて詰めたりね。あと、下に松葉、あまりガバガバと、ならないように敷いたりして、そうやって寝たんですね。

自分たちの入るところなんで。電気も、何もないから、たいまつをたいて。1人、350グラムあての、こんな大きいパンを、みんなで分けるわけですね。そうすると電気もないから、たいまつをつけて、そして棒バカリをつくってですね。追加が多いんですよ、みんな同じにいかないから。みんな、もう顔が真っ黒にしながら、パンの配給になると目を光らせているわけですよ。それが、前の晩にあがったやつに、次の朝食なんですよ。腹、減っているもんだから、朝まで誰も、枕元にパンを置いている人、いないんですよ、夜、食べてしまうんですよ。そうすると、次の朝はスープ。はんごうの蓋に、キャベツの葉っぱ、2つ、3つ入れたスープだけ飲んで行くんですよ、働きに行くんです。

だから、もう朝、起きるとみんな顔、真っ黒ですよ、ススだらけで。

わたしも、たまたま隠していた時計を、次の年、明けて、何月かな、5月あたりかな。半年ぐれえ経ったったからね。この時計も止まって、ネジもかけねえし、いつも、肌身離さず、持っているんだね。行くときは、いつも、編上靴の中に入れだから、時計、止まっているわけですよ。たまたまこうやってたたいてみるとね、5~6秒動くんですよ。カチカチカチと。

たまたま、ロシア人の夫婦と接触することができましてね。「時計、あるから、パン持ってこないか」って。明るいときだと、兵隊に見つかって、時計も取られちまうから、暗くなってから来るようにって、約束してね。そして行って、こんな大きなパンを持って来たんですよ。暗いから、こうやって、耳にあてがったら、「うん、大丈夫だ、大丈夫だ」と言ってパンと交換してね。それで、タカスギ君と2人で、こんな大きなやつを半分ずつ、食べたんですよ。そしたら喉、乾いて水、飲みたくなって水、飲んだら、今度、腹、苦しくなって、その晩に動けなくなったりして。まず、時計がパンに化けてしまったけども。


Q:そうですか。なんとか、食べ物を調達しながら?

 だからやっぱり、作業に行っている間に、体の具合が悪くて、休んだりなんだりしているでしょう。そうすると帰って来ると、はあ、毛布なんか、無いことあるわけですよ。パンと交換したりして、(休んで)いる人が。


Q:労働というか、仕事自体はどうだったんでしょうか?

 仕事はきついかったですね。煉瓦工房に三交代で行ったんだけどね。これがまた、作業がきつくて、休憩もろくろくにないところで、8時間もびっちり、稼がせる。

こうやって、一緒に寝ていても、次の朝間になると死んでたという、という人があったんですから、山、ボダラって。朝、起きてると、亡くなって。赤痢と栄養失調ね、主に多かったしね。

いつ、自分がそういうふうになるかね、わからねえわけですから、本当に。

やっぱり亡くなった方も、あのボダラだの、なに、同じところにいて、亡くなれば、埋葬するところはみんな同じところだったわけだけど。その、戦争の行軍中とか、なんとか見れば、何も埋葬も何もできない。そんな人もたくさんいたんで、それが悔しいですね。収容所に行って、あれして、同じに寝てて、亡くなれば、まず埋葬するところは同じとこさ、あれしてたからわかるんだけど。戦争中なんかは、途中で亡くなっても、埋葬するわけでもねえ。それだけはほんとに悔しいですね。

戦争中はほんとに、埋葬も何もできないで。そのまま、置き去りにしたわけですから、ほんとに、申し訳ないと思いますよ。

やむをえないというより、申し訳ないというほうが、あれですね、もう少し、なんとかできなかったかなと、悔やんでも悔やみ切れない、ですけれどね。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1923年
樺太泊居郡名寄村に生まれる
1944年
満州に渡り、第107師団野砲兵第107連隊に入隊
1945年
兵長、シベリアに抑留
1948年
シベリアから復員、復員後は運送業や建設業に従事

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

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