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タイトルタイトル: 「川面を流れる兵士の遺体」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~
名前名前: 勝浦 守さん(徳島・歩兵第143連隊 戦地戦地: ビルマ(シンゼイワ盆地、ラングーン、モールメン、シッタン河)  収録年月日収録年月日: 2008年9月30日

チャプター

[1]1 チャプター1 ビルマ進攻作戦  03:08
[2]2 チャプター2 作戦開始  03:11
[3]3 チャプター3 反旗を翻すビルマの人々  01:26
[4]4 チャプター4 脱出~濁流突破  04:00
[5]5 チャプター5 敗戦をきいて  04:30

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~
収録年月日収録年月日: 2008年9月30日

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やっぱり、まだ勝ちいくさの時期じゃから、喜んで協力してくれた。何をするにしても、ビルマ人は。それは、広い地域やけども、インド人とやっぱりちょっと、ここは民族的に「インド人は我々のかたきじゃ」とかね、そんな、やっぱり気風が地方でも見えたね。

各町村の末端におる、その末端にまで、そういう、何ていうか、ビルマ人の交遊は届いとったな、各町村の果てまで。
そこへ行きゃあ、ちゃんとお茶出して、よくしてくれて、スパイ行動や何や疑うような余地は、全然なかった。純粋やな。

ビルマ人はやっぱり、日本をきょうだいのように言いよったね。田舎の人でも。「我々のきょうだい分じゃ」ちゅうて。

ビルマは平和な国やな、ちゅうぐらいの印象で、夜間、一人歩きもできたしね、外出しても兵隊と住民との間は、ニコニコ挨拶を交わすぐらい、なれとった。もうそのころになって、31号作戦始めるころには、かなり有名な商社が進出しとったんやないですか、占領地に。私が最初、訓練隊を設置するあたりは、お茶の名所じゃったからね、お茶の業者が早もう進出してきよった。それから、町には飲食店も出てきとったしね、日本人の。それはもう、内地はそのときは大分、物資が不足しとったけんね。代用食ばっかりやった。ここへ行ったら白米ばっかり、白米で殿さん気分や。ヤケイいうて、鶏はたくさんおるし、豚はようけいおるしね。

完全包囲して、「ああ、これはもう、爆撃1発で全滅やな」いうて、皆、兵隊も喜んどったんじゃ。

(連合軍を)囲んどっても1発も撃てんのじゃ。(連合軍に)撃ったらお返しで(日本軍が)全滅する。

何回でも死力を尽くして、突入したって話なんじゃが、私が聞いたんでも5回ぐらいは、「棚橋部隊が今晩突撃するわ」という、陣地におりながら、命令受領者から、聞いたんじゃけんどね、結局、行かなんだ。行けなんだんじゃ。弾はなし、食うもんはなしやな、突撃じゃいうても動けん。

速射砲は、もう全然撃ったって、もうカーンと当たったら、パーンと逸れてしまって、日本の戦車が来たら、向こうの速射砲にパーンとやられたら、こっちまで抜けてしまいよんねんや。それぐらい違う。
アキャブの飛行場で最初いたときは、見てみたら、英軍の飛行機がいうのは、そこの鉄板がもうびっくりするぐらい厚いのや。もう日本の戦闘機は薄い薄いだろう。こないこないするけんど。
そらもう、小銃弾でもすぐ抜けるような。向こうは戦車の鉄砲みたいな。「ああ、これでは勝てんな」と思ったな。

戦争の経験のない、竹の兵器を持っとるようなんでは、戦争にならんわ。しかも、我々のような現役の甲種で合格して入ったもんと違うて、第一乙やら第二乙やらいうて、普通であったら、戦争へ徴兵で軍隊に入らん兵隊の集団が、補充に来よったからね。「ああ、これでは戦争、勝てんな」と思ったな。
白髪の人もようけ、来よったよ。しまいごろは、白髪の。我々こそ現役で入って、ずっと戦闘終わるまで、現役で来たものやったら、若者同士の間やけんど、補充来る人は、どこのなりかいな、と思うくらい。軍人らしからぬ人が、ようけ来たで。補充に。もう31号作戦の終わりごろから、補充はもう全部そんなや。あんな白髪の爺さんみたいなのが来て、突撃や言って、そんな兵隊べりの先頭に、立っていけるはずがないのやな。

最初の勘定作戦のときは、追撃途中で、部落民が、沿道、道の、そこに並んで出迎えてくれた。

ハ号作戦、ビルマのインパール作戦が失敗するまでは、やっぱり、「日本軍は強いな、強いな」ビルマ人は認識を変えなんだ。だけども、インパールで敗退して、さがってきて、白骨街道ができて、全軍がビルマから撤退するような気風が見えるときに、反乱軍が起こった。

今まで、あんだけ協力してくれよったのに、思いもかけないないうて、変心がひどかったな、やっぱり。それまでの情報部の宣撫というか、いろいろなナニ、ビルマ人の説得には不充分であったんだろうな。

わしの隊はその時は、60人ぐらいおったかね。シッタン河の堤防へ来るまでは。70人定員のうち、60人ぐらいおった。それで今度、渡って大隊本部へ追及したときにはもう、5、6人かおらん。
砲を乗せて、砲を乗せて沈んだ舟は、兵隊も乗っとったんだ。それから次に、また舟を探してきて、それに砲を積む。2門持っとったから、1門は沈んでしもうて、1門を舟に乗せた。その時は泳げん分隊長と、それと兵隊3名ほどと乗せて、それで、本部におった結構、舟を漕ぐ兵隊1名。それが船頭で砲を乗せて、泳げん者を3、4名乗せて、わしと当番とふたりで舟を先へやって、舟について、泳いだわけ。

もう、湾曲しておるとこやったら、土左衛門になって、みな、不思議に顔は上を向けとる人、ひとりもいない。うつむけになって、浮いて来よるの。まだわしらが渡ってる時やったら、「助けてくれ」いう、いかだに乗った姿が見えよった。ぼつぼつとね。ほだけど、それも夜明けとともに、もう見えんようになった。

もう、水面が見えんぐらい、兵隊の、死体で。河が曲がっとる、とこへ遺体が流れついて。それでまあ、あんな人はみんな、遺骨の一部もとりきらんわなと思うてな。

(ビルマ人に)やられたな、一部は。主力はやっぱり、流れたものは敵の襲撃に、団体の襲撃に遭うて、おそらく河へ落ち込んで死んだと思う。
いかだやいうたって、そんな立派ないかだじゃないのや。自分が背負うてきた竹を組み合わせていかだにして、それにつかまっとるだけ。流れに沿うて、敵の方へ流れていくかもわからんし、それはもう流れ任せじゃ。

川を渡った挙句に、反乱軍にバンバン撃たれよったときには、「ああ、情けないな」と思った。丸腰だし。何もない。握りこぶしだけ。手榴弾だって1発は持ってるとるもんだら、自決用に持っとらんだら、どないなるかわからんしね。それに夜、バンバン、バンバン方々の部落から弾撃ってくるし、だから、情けなかった。兵隊は小銃持ってるものはおれへん。丸腰で飯ごうだけ下げとる。

コウウンカンをわしらで出てから、もうそのときには、半月も近くになっておったけんな、一睡もしとらせん。

28軍は、ほじゃけん、あわれな最期であったわ。まあ、あのう、統計上から言うたら、ほとんど全滅に近かったん違いますか。

兵器弾薬はもうすでに、処分してしまってたから、みな丸腰であったけんどね。そらもう、無残な姿じゃわい。

「どこの乞食が歩きよるんかいな」っちゅうような調子やな。
それで道々には、あっちもこっちも、白骨死体が並んどった。我々が下がる、目的地に近いところまで、ずっと白骨街道になっておったわな。そりゃもう、言葉なんぞで表せんぐらい悲惨やった。
まだそのときには「終戦」は聞いておったけんども、「内地に帰れる」いうことは、まだわかっとらんのやな。

「降伏せい」やら、ビラが、もう「日本負けた」じゃの、「毛抜きにしたるわい」いうような情報は、前から入りよったけんね。「ああ、また何々言いよるわい」ぐらいであった。そやけどやっぱり、してみたら、「勝てば官軍、負ければ奴隷」じゃわな。それはもう、属国へ行った時に、一番それは感じた。「ああ、ここのところの国民は、哀れやな」ちゅうことは。ただ、我々がそんなん体験するとは思わなんだよな、最初だったら。「やった!」と思ったのにやられたんや。

1年間は持久戦で対峙しとったけん、やっぱり精神面で疲れるわな、戦場では。そんな関係で、やっぱり戦力、精神力も、物量も次第に悪くなっていったんが、やっぱり敗因と思うな。

それはやっぱり、装備の差と、疲労の度合いと、それと食料、兵器、弾薬の補給状態の差やな。それはもう全てが、もう、どん底。底もいいとこや。食料にしたって、5日分くらいの食料で、20日間もおれっていうんやね。

だからもう、開戦自体が無理。わしらだって今、考えたら、もっとその占領地域の後の、管理とかいうことを研究してしとるのやったら、いいけれども、もうそういう点が、欠けとったというように思うな。

今から考えたら、やっぱり、もうあんなA級戦犯の指導者が、将棋の駒いごかす(動かす)ように、我々は人の命やいうことでなしに、駒動かすようなつもりで、使われたなっていう感じやな。

「しょうがなかった戦争やな」とは思うけどね。これはしょうがなかった、命令でいったけんども、結果は、「ああ、ようまあ、今日中まで生きれたな」と思うのが、もう、関の山で。

だけんども、そういう、細かい戦闘あたりの情報については、もう戦後はあんまり、みんな言わなんだからね、苦しかったから。今になってみたら、夢のように消え去ってしもうて、戦争に行っとったようにも、思わんぐらいになったんや。

出来事の背景出来事の背景

【ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争の開戦から間もない昭和17年1月、日本軍は英領ビルマに侵攻し、わずか半年余りでビルマ全土を制圧した。

しかし、昭和18年になると、連合軍が反撃に転じる。対する日本軍は連合軍の拠点インド東部のインパールへ進攻し、連合軍の反撃を防ごうというインパール作戦を計画する。
作戦を成功に導くため、第143連隊は、ビルマ西南部で攻撃をしかけ、連合軍の主力を引き付ける陽動作戦が命じられた。

航空機を使った空からの補給によって、連合軍は最新兵器で途絶えることなく攻撃を仕掛けてくる。一方、十分な補給がない日本軍は追い込まれていく。

昭和20年4月、連合軍は日本軍のビルマ方面軍司令部が置かれていた首都ラングーンに迫る。危機を感じた司令部はラングーンを放棄し、前線で戦う部隊に対して何の命令も与えぬまま、タイ国境近いモールメンまで退却。前線の部隊は敵中に置き去りにされてしまった。

歩兵第143連隊が属する第28師団の師団長司令官は、決死の退却戦を決意。バラバラに戦っていた部隊を集結させ、シッタン河を渡って別の味方部隊と合流するという計画だった。

深い密林に阻まれ、飢えと病に苦しみながらも、7月20日、ペグー山系で部隊の集結は完了。敵の目をかいくぐりながら、シッタン河をめざした。しかし、シッタン河突破作戦を事前に察知していた連合軍は、いたるところで待ち構え、攻撃してきた。

敵の包囲網をくぐり抜け、ようやくシッタン河にたどり着いた兵士たちは、雨季で増水した濁流に飛び込み懸命に渡るが、連合軍やゲリラに狙撃され、また、シッタン河の濁流に飲み込まれ、作戦に参加した3万4千人の兵士のうち、味方に合流できたのは1万5千人であった。そして8月、生き残った兵士たちは、シッタン河のほとりで終戦を知った。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
徳島県勝浦郡に生まれる。
1939年
現役兵として徳島歩兵第43連隊に入隊。
1940年
徳島歩兵第143連隊へ入隊。
1941年
タイ上陸。
1942年
ビルマ侵攻作戦に従軍
1945年
シッタン河渡河作戦後、タイへ転進中に終戦を迎える。連合軍の指揮下、ビルマで労役に従事。
1947年
復員

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ビルマ(シンゼイワ盆地、ラングーン、モールメン、シッタン河)

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