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タイトル 「“処分”された重傷者」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 移川 仁郎さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年4月2日

チャプター

[1] チャプター1 軍医としてマニラへ  03:45
[2] チャプター2 米軍侵攻始まる  08:51
[3] チャプター3 病院に逃げ込む兵士たち  02:03
[4] チャプター4 抗日ゲリラ  04:33
[5] チャプター5 「斬り込み」しかなかった  08:42
[6] チャプター6 重傷者に打たれた「注射」  04:52
[7] チャプター7 とにかく命令だった  00:54

再生テキスト

103海軍病院。そしてわたしは、その「イチブツゲという外科に、入れられたんですね。ですから余計、もう一戦争ある度に、すごいですよ。最初のマニラの大空襲、あったのが、19年の9月27日、そこに書いてある9月27日。もう、そのときにね、わたし、さっきお話したニコラス飛行場が、すごくやられたっていうんで、患者収容してこいという、これ、警視隊長にされて、10人くらいで病院バス、赤十字のちゃんと、印のある病院車で、行ったんだけど、それも狙われるんですよね。

行く途中で、もうやられるんで、車から下りて隠れたりして、なんとかニコラス飛行場に着いて。それで、収容して、わたしはその飛行場の、前の、兵舎の前の、大きなマングローブの木あったんですね。そこで、収容して帰ってきて、もう、1分以内ですね、また爆撃あって、そのマングローブの木は木っ端微塵で危なかったですね。わたし、警視隊長3回やってますけど、いちばん最初の警視隊長ですね。


Q :マニラの103病院はどこに、あったんですか?

 パサイ。マニラの、どっちになるのかな、南側になるんですか、パサイ。


Q:そのとき、先生がその着任されたときの、マニラの様子っていうのは? 日本軍はどんな様子?


わたし、よくわかりません。というのはね、なんせ着いたころは、いくらか平穏でしたかねえ。それであの「アズマ」っていう、料亭なんかに、連れて行かれたりした。それも2回くらいですね。あとはもう、本当に忙しくてね、そういう外出も、出来ない状態。


Q:忙しいというのは、なぜ?

 患者さんも、例えば空襲なくても、今度、海の戦争ね。ひとつの船が沈むごとに、患者さん、ダーッと来るでしょ。そのたんびに、もう不眠不休です。ガウン着たまま、こうやって寝るような日が、何日も続きましたね。


Q:レイテ海戦のあと、「(戦艦)武蔵」とか「(巡洋艦)木曽」とか、いろんな戦艦の方が運ばれて来たんじゃないですか?

 あの、例えばあの「(戦艦)陸奥」がやられたでしょ。あれは、極秘になってるんですけどね、そこで助かった、なんとか助かって、病院に来た患者さんもいるんです。それも、またすぐ、出ていって、もうダメでしたね。わたし、同期の者が、陸奥に乗ってて、入ってきたのでビックリしたんですけどね、それが、また出て行って、亡くなったねえ。

Q:先生はそのころ、もうすぐマニラで、激しい市街戦が始まるって、感じられてました?

 それはもう。だって、すごいんですもの。飛行機が来る、あるいは砲撃ね。女子職員を帰したのが1月5日ですか。それで、7日に上陸してるんですね。それで1か月くらいして、もう、どんどん侵攻して、それで2月。それに書いてあるんです。2月5日にね、あの、病院長以下、大半がね、北部へ転進ということになった。そのときの院長のね、言葉が本当忘れられない。


Q:なんとおっしゃったんですか?

 あのね、「わたしたちは命(めい)により北部に転進する」と。「タグチ少佐、カマタ少佐、移川中尉」あ、いやいや、もうひとり。もうひとり大尉と、中尉、わたし、薬剤中尉ひとり、それから、もうひとり少尉の方6人、ですか。以下、50名くらい、40~50名、残ることになる、と。それで、「決してね、捕りょになどなるような、なって、軍人として、不名誉なことをしてはいけない」そういう、訓示だったんですよ。だから、最後は自決とか、何とかしろという事でしょうね。これは、もう忘れられないですね。さっさと院長たちはもう、北へ行っちゃったんですね。


Q:そのとき、残った先生たちは何人くらい?

 だから今、士官が6人、あと兵隊さんが40~50人いなかったと思うんですよ。それでもう、あとすぐ、夜だけしか動けないんで、患者さんをどんどん、ババタミの方へ運んでね、医療品やら何やら。いよいよもう、すぐ近くまで、来てるんですよ。バシグ川なんか、その近くまで来て、もう、すごいんです夜は。真っ赤になってね、燃え盛る、あれで。すぐ近くまで、来たんで、もうこれは、ダメだって言うかね、最後だと。こういうこと、言った士官もいるんですよ。「この病院をおくと、残しておくと、敵に利用されるから、爆破しようじゃないか」と。ホールに爆弾仕掛けて、破壊してしまおうという、話も出たと思う。これは結局、やらなかったんですね。


Q:動けない患者さんもそのままいる?

 もう大体、運んじゃってね。それで、その話は実行されないで、あと、今度いよいよ、脱出ですよね。脱出は、もうわたしら士官、3人残ったんです。両少佐とね、カマダ、タグチ、それから、わたし、中尉、車庫長って、車の運転の長です。車庫長・カナモリさんっていう方の運転でね、夜10時ごろかな。そこにありますけど、脱出したんだけど、もう、バリケードやら、地雷やらで、行けないんですよ。行ったり、戻ったり、もうほんとに、やっとの思いで、ワーダマについて、ほっとしたんです。


Q:先生たち、その2月5日ですか? 5日に上の方たちだけが、移動されて先生たちに残れと、そういう訓辞を言われたとき、先生のお気持ち、忘れられないとおっしゃってましたが、どういうお気持ち?

 訓辞でしょ。とにかく、夢中ですね。ただ聞いてると。「ええっ?」っていうような感じですよね。いや、そのときの気持ちと言われると、本当にただ聞いてたですね。


Q:米軍が確か、マニラに入ってきたのが2月3日ですよね。その3日、入ってきたころっていうのは病院内はどう?

 患者さん、来てますから、手術着のまま、不眠不休っていうんですか。特に、わたし外科だったんですけどね。同期の者もいたけど、これ内科なんで、いつの間にかどっか行っちゃった。ははは。


Q:米軍が入ってきてすぐに決まったんですか? 上の方たちの?

 いや、急に言われたんです。全く、何も予告なしに。誰々残るなんてこと、知らせられない。そのとき、初めてわかったんです。


Q:先生が病院から外に見えた景色はどのように?

 夜、昼はあまりね、音でしょ? 夜なら赤いあれ、そっちにもこっちにも。夜空にね、日中はちょっと、音が主ですよね。

米軍。音がとにかく、すごかったですよ。バリバリバリとかバシンバシン。

あと、病院の近くのフィリピンの方々のゲリラ化したという、情報まで入って、それで逃げ出したんですね。

4~500メーター、5~600メーターくらい先まで来たときですか。わたしら逃げ出したのは。


Q:市街戦で、けがをなさった兵隊さんたちは来ましたか?

 ええ。もちろん、いっぱい来ました。

そっちこっち、頭抜かれた、普通、普通って言うよりありふれた、けがいっぱいありますけど、特別ね、弾が入ったまんまの患者さん、多かったです。弾片。どこにでも入って、そのままになってるんですね。これがね、わたしは随分やらせられたんです。弾片摘出。弾片をレントゲンでみながら、抜き出すんです。これね、わたしらは素手で、やったんです。


Q :市街戦のけがの方はだいたい何人くらい先生のほうへ、病院に運ばれて来ましたか? 2月の頭で。もう1日にどれくらい?

 最初のベッド数は300だったかな。それ、だんだん1000。1000以上になったんじゃないですか。

うんうんうん。もう、とにかく廊下に、もうあらゆる人が、入りましたよ。あとは、隣の民家ね。近接の民家を借りて収容しました。1000人以上だったです。そこに、ちょっと書いてあったと思うんですけどね。手術して、何かちょっと、手が空けば、そういうところに行ってみるでしょ。衛生兵、任せに、するわけにいかないんで。

あと、もげたとか、手がないとかね。足やられたとか、もちろん、こういうとこに、弾が入ってますしね。いろいろでちょっと、特にどうっていう、記憶にないですね。とにかく滅茶苦茶。いろいろな患者さんが、こられたんで。


Q:そのとき、その薬とか、器具とか、そういうものは十分にあったんですか?

 十分、そのあたりまではあったんですね。脱出するまではあったんですね。脱出するとき、できる限り、運びましたから。


Q:患者さんをですか?

 患者さんと医療器具、それから食糧。

お腹が痛いと言って、来るんですよ。盲腸ね、盲腸だったら一応、切るでしょ。切れば一応4~5日は病院にいるわけでしょ。そうすると、その間、戦争へ行かなくて済む。そういう患者さんね、随分あったですよ。兵隊さんだけじゃなくてね、士官、中尉、大尉、そういう方もね、痛いと言って来られて、わたしらが診察して「大丈夫だよ」って言って帰してもね、また、ものすごい痛んで来る。それで切ったら、やっぱり何もなかった。結局、戦争回避、そういう方がわりと多かったですね。これはもう、わたしが体験したんですが。そこでね、わたし、もう、一日に何件も、盲腸手術をやらされました。

(戦地が)激しかったんですね。(戦地に)出されるとダメということで。だから手術してもらえば、少なくとも3~4日は行かなくて済むと。


Q:そのとき、先生は何でもなくても、切ってあげたりってこともあったんですか?

 中には、そういう方もありましたね。切るのはわたしが主にやったし、あと上の方もね、カマタ少佐と、この方もやりましたけど。二人でおかしいなと言いながら、切ったりした例もありますね。

Q:先生がマニラに着かれたばかりのころ、フィリピン人の対日感情はどうでしたか?

 わたし着いたころは良かったですよ。もう、非常にマニラって、良い所だなあという印象でしたね。


Q:それが悪くなってきたのは、ゲリラかもしれないと思うようになってきたのは何月くらいですか? 米軍が来る前ですか? 来た後ですか?

 来てからじゃないですかね。だから、わたしずっと、手術室に居たからわかりませんけどね、わかりません。とにかく情報では、近くの方々もゲリラになったと。ゲリラ化したと。だから、ここには居られないという結論になったんですね。


Q:それまで病院にも攻撃が出てきたんですか? 周りにも?

 空爆、まあ、おそらく狙ってやったわけじゃないと思うんですよ。米軍の。屋根にちゃんと赤十字の、屋根にも上にも、赤十字が、あれついてますからね。現に、最上階の病室は患者さんでいっぱいで。それで、看護婦さんも泰然と勤務してました。これはもう、忘れられませんね。いくら、そういうあれがあっても、看護たちは、動揺することなく勤務したっていう。これは忘れられません。だから狙って、当たったんでなくおそらく、流れ弾とか、そういうのはあったと思うんですけどね。病院が狙われたっていう、記憶はないです。まったく。


Q:先生、あと、そして米軍が2月3日くらいに、来始めてから先生が脱出されるまでの間、そこはマニラにいらっしゃったじゃないですか? 病院に?

 ま、病院だけですけど。


Q:その間の先生がご体験されたこと、見られたこと、聞かれたことで、印象に残っていることはありますか?

 いやあ、特にないです。もう、手術室、処置、もう、手いっぱいでね。あと、ほんと余裕あれば、患者さんの見回りですか、そういうのやったようですけど、もうむしろ、ほとんど手術室ですから。中の外の様子、特にわかりません。病院の中の様子も、とにかく患者さん、いっぱいですから。廊下も部屋も。で、看護婦がいなくなっても、衛生兵がテキパキとわたしらの手足になって、よく働いてくれてましたから。


Q:いつごろ、どういう状況で、脱出しようと思ったんですか?

 だから、もうあの、大半がいなくなったでしょ。もう、そのころから、脱出のこととか、考えてたと思うんですよ、上の方は。わたしは何にも、わかりませんけど。それで、考えた上で、病院を爆破しようという案も、出てきたんだけど、それはやらないで。

2月6日でしたか。夜の10時ごろですよ、確か。それで、車庫長の運転で両少佐とわたし3人だけ乗って。そして、とにかく、わたしはわかりません。ただ、運転手、車庫長がね、一生懸命、行ったり来たり戻ったり、行きつ、戻りつして、やっと抜け出したような。ほんとに、わたしはこのとき「よくまあ、抜け出せたな」と思ったんですね。確か、その文章にも“神仏の加護か”というふうに書いておきましたけどね。抜け出せたのはね。

Q:決死隊長を3回やったと? 1回はニコラス島。あと2回はどこですか?

 あと、1回はね、食料奪取、敵情偵察。ワガダムから今度、1000メーター高地というところに、ご存知です?  1000メーター高地に病院の本部があって、その近くまでなんとか脱出したんですね。そしたらね、そのときね、あの動けない兵隊は安楽死させよという、命令が出たんですよ。安楽死させろ。それでね、軍医が3人くらいいましたか。わたしはどうしてもね、出来なかったんですよ。ただ、死亡確認だけ。亡くなりましたという、確認だけはして。

そしたらね、やっぱり命令違反でしょ。いちばん、最前線の激戦地の軍医長に、その隊はコセ隊、その本に詳しく書いてあるんだけど、コセ隊というんですけどね。コセ隊の軍医長になれということで、そこで、兵隊さんと3人で行くことになったのね。そのときね、おそらく隊長、指令はわたしもう、帰って来ないんだろうと思って、タバコ1本、キャメルっていうタバコ、1本じゃない、1箱もらったんです。わたしね、そのとき、なんということなしにね、吸ったことのないキャメル1本、吸ったんです。

そしたら、具合悪くなってね、これは、警視隊長命ぜられたけど行けなくなった。わたしの代わりに、行った人はもう帰って来ない。それで、なんとか、ほんとにもう、言葉で言い表せられないくらい、苦労して、コセ隊のいちばん最前線に着いたのね。その途中で、もうすでに衛生兵ひとり、わたしの非常に信頼した、福島県の方が栄養失調で亡くなってます。あと着くや否や、もうひとりの兵隊さんが、斬り込み隊やらされて、もう帰って来ない。で、診療はわたし、ひとりでやったんですね。


Q :先生はじゃあコセ隊に入られたんですか?

 入ったんです。コセ隊の軍医長になったんです。


Q:斬り込みに? お医者さん、軍医さんとか、衛生兵の方なども斬り込みに?

 ええ、だからね。ええ、ええ、したんです。あのね、それがね、わたしにはね、軍刀しかないんですよ。斬り込みっつっても。ピストルはあるけどね、重いピストルね。弾が出ない、かっこだけつける、ピストル持たすの。これでやれって言うんですよ。それで軍隊についてね、そして、そのコセ隊に着いて、さかんにもう、その当時は戦病死よりも、戦死を選らばさせられて、患者さんも、斬り込みにどんどん、出されてたのね。衛生兵も、銃、持たされたのかな、とにかく出されて、帰って来ないしね。ついに後から、あれしたのね、調べてみたら、終戦ちょっと前、4~5日前に食料奪取と敵情偵察の決死隊長、これで3回目ね。


Q:傷病兵から先に斬り込みに行かされた?

 だっておそらく、ほうっておけば、放っておくって言うか、捕虜になるかもしれないでしょ。捕りょになるよりは、戦死を選ばしめられたということで。


Q:そのときってみんなもう「わかりました」という?

 まあ、そうでしょうね。嫌だっていうその、あれ、聞いたこともないし、見たこともないですね。みんな命令されれば出て行ったですね。


Q:先生がそれは目にした、その例えば、看てた患者さんで、そういうふうに言われた方で、言った方はいらっしゃいましたか?

 うん、もちろん、うん。

命令が出ればね、傷病兵、病舎にいる兵隊さんの斬り込みに、出て行きましたね。これは、捕虜になるよりも、戦死を選ばさせられたということだと、思いますね。人数もちょっと、覚えてませんけどね。大勢で一気に行ったようには記憶していませんけどね。なんせ、いちばん最初、着いてすぐ、わたしの最も信頼している衛生兵が、斬り込みに出されちゃった。あと、わたしひとりで診療、治療やったもんですから。


Q:なんでその方は斬り込みに出されちゃったんで?

なんでしょうね。いや、武器を持ってないのは、あの、ただ飯食らい。本の言葉で、えっと、穀潰し。穀潰し的に思われたんですね。銃を持ってない人は。衛生兵、持ってないですね。あるいは、持たされたのかどうか知りませんけど。だから、わたしも軍刀しか持ってないし、あと格好だけの弾なんてないピストル。それで「行ってこい」というんで。


Q:行ってこいと言われても何も持ってないわけですよね?

 持ってないです。ただ、兵隊さんは持ってたんですよね、2人の兵隊さんは、銃を。


Q:患者の中で、斬り込みで帰ってきた人は、わりといましたか?

 いや、いないと思いますよ。そういう話、聞いたことないですね。斬り込み行って、戻ってきたっていうのは、わたしの隊くらいじゃなかったですか。わたしの3人くらいじゃなかったですか。

もうもう、行ったら帰って来ない。それも、わたしのときはちょうどね、後から考えると向こうはもう、大体、戦争が終わるということ、わかってたようなんですね。ですから、もう煌々と電気をつけて、ほんとにね、マイクまで使ってたかな、歌が聞こえるんですね。そういうような、本当にこれが、戦争をやっている隊かと、思われるような状態のとき、わたし隊ですからね。

向こうも全然、わたしら行くようなあれ、持ってなかったんじゃないですかね。だから、わたしら、ただ、そういうあれを、状況をよく見て、そして、野生のイモなど掘ってきたんですね。これが戦争を盛んに、やってるときだったら、もう、向こうもそんな、油断って言うかな、和やかな、あれじゃなかったと思うんですよ。幸いにして、戦争終わり、直前だったんでね、みんな向こうも、油断って言うかなあ、もう、戦争、終わるような気分で、いたんじゃないでしょうかね。

あのね、クレゾールっていう消毒。できないんですよ、これは。わたしは。


Q:それ、どうするんですか?

 どうするって命令だから。


Q:クレゾールをどうするんですか?

 いや、血管注射。それもね、「もう少しで楽になるからね」とか何とかね、わたしらの言葉でメントラって言うんですよね。悪い言葉で言えば、だましてね、そして注射して、そしてうんうん。できなかった。わたしとしては。

あっ、空気を注射した場合もありますね。わたしらの場合はクレゾールでした。消毒液。

命令ですから、もう隊長ですね。その当時、「命令は、天皇陛下の命令と思え」と言われてたでしょ。わたしは命令違反だから当然、いちばんの激戦地へ出されたと思うんです。


Q:違反したために、やらなかったために? じゃあ、他のお医者さまがそれは?

 うんうん、やったと思うね。


Q:実際に命令が下されたということですよね?

 うんうんうん。わたし、わたし自身に命令が下されたんで。


Q:先生はそれを拒否したんですか?

 拒否って、拒否になっちゃうんですね。いや、できなかったです。どうしても。できなかったですね。


Q:それはできないって言った?

 いや、言うも、言わない。言うも何も、ただ死亡確認だけしとったんです。他の先生がああやって、それをうん。もう、うん。亡くなりましたという、死亡確認だけしてますね。


Q:その注射をしろと言われたとき、その方は生きてた?

 もちろん、もちろん。元気なんですよ。動けない、足が傷ついたとかなんとかっていうね。あるいは栄養失調の方もあったかもしれませんよ。ちょっと覚えてないけど、とにかく、着いて歩けない者は安楽死させよという命令ですね。


Q:先生、その間はどこか外で待ってたんですか?

 いやいや、見てる。見て。


Q:そのときはどういうふうに、お医者さんは接するわけですか?

 いや、だから死亡確認だから。注射するでしょ、そうするとほら間もなく呼吸が止まる。脈、心臓が止まる。傍についてて。患者さんも1人よりは、2人、こう、傍にひっついておられたほうが、いいんじゃないでしょうかね。


Q:患者さんはわからないんですか? 自分で?

 おそらくね、察知してるんじゃないかと思う。うん。だって動けないから、そこで捕虜になるかなんかでしょ。そこで戦争、終われば、終わればって言うより、敵が来ればね。捕りょになるよりは戦死、というのが、日本軍のあれですからね。

みんな、こう、なすがままというか。抵抗されたという記憶、まったくないですね。


Q:でも、もう、それは死んでしまう注射だって、わかってらっしゃるなと思ったのを感じたときはありますか?

 それはおそらく感じてた、感じたんじゃないですか、おそらく。感じたと思いますね。だってずうっと並べてこう、次々やられますからね。


Q:先生はその場で、それを見てたときはどういう気持ちでした?

 いやもう、どういう気持ちって言われても、これが戦争かなというような。だって、命令だから、やらなきゃない。わたしは、それは、どうしてもできない。亡くなる方の確認、そして心の中で、冥福を祈ってたわけですね。

何で、ああいう戦争したんでしょうね。だって、米軍が来るまでは、非常に仲良くやってたんですからね。米軍が来てからもう、大変なことになったんですけど。

何で戦争を、フィリピンで戦争をするようになったのか。なんなんでしょうね。

ただ、命令で行って、仕事をしただけで。

何でこんな事するんだろうという思いは、若干あったんですけどね、とにかく命令ですからね。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1917年
宮城県本吉区に生まれる
1943年
東北大学医学部卒業
1944年
フィリピンにある海軍103病院に軍医として配属
1946年
マニラのアメリカ野戦病院にて終戦を迎える。当時、28歳、海軍中尉。復員後は気仙沼にて医師として暮らす。

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