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タイトル 「寄せ集めの防衛隊」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 安東 敬三さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年3月30日

チャプター

[1] チャプター1 寄せ集めの海軍将兵  03:32
[2] チャプター2 武器のないまま、米軍との地上戦が始まる  04:12
[3] チャプター3 ルソン島に米軍上陸  07:18
[4] チャプター4 ゲリラとの戦い  03:17
[5] チャプター5 体ごと飛び込んでいく  06:30
[6] チャプター6 動けない兵士は「処置」された  01:45
[7] チャプター7 よみがえる戦慄  03:42

再生テキスト

10月のはじめ、ちょうど、日本の陸軍の一式戦闘隊がね、100機くらいいたんじゃないですかね。あれがマニラのマッキンレーの上空で、米軍の機動部隊と。

みんな、落ちるのが、日本の戦闘機ばっかりなんですよね。その時に、すぐそばに背の高い、大尉がいましたですよ。「すぐ、陸軍のニルソン飛行場(マニラ東飛行場)へ、着陸しないように、教えてやれ」と。やっても、すぐ来て、やられちゃうから。

その時、セキ大尉がその、あとで、セキだって知ったんですけど、すぐ、連絡させてましたね。飛行場へね。

それで、挨拶をしたら、今度は「今、砲台を作っているから、そこの君、あれになれ」、と。だけどわたし、12センチって、撃ったことないんですよね、全然。ともかく、雨が降って、びちゃびちゃ、びちゃびちゃしてる時に、作ってましたよ。そこへ行って、テントの中へ入って、入ったら、もうすぐ2~3日したら、耐久戦闘始まったけど、わたしは専門じゃないから、わかんないんだよ。

結局、わたしやったことないんでね、「まあ、25ミリと同じくらいだろう」っていうんでやってたんですよ。ところが、結局、12月になって、いろいろ、戦争しないで、山へ、アンチポロのほうへ行くんだと、いうのも一時あったんですね。そうかと思うと、今度は12月の中ごろになったら、結局、陣地を陸戦配備にしろ、とかいうようなことになってね。


Q:なかなか方針が決まらない感じでしたか?

 ええ。一時、決まらなかったんじゃないですかね。あくまでも、無防備都市という考えだったらしいですね。

それで結局、押し通して、海軍は港の説明、いろいろあるから、陸のほうは飛行場というようなことで、あそこを戦場にするということに、決まったんです。それで急遽、もう年暮れてから、1月になってから、陣地構築が始まったわけですよ。

わたしのほうは、3大隊と、4大隊は、館山からやってきたイシハラ大隊っていうのがありますね。あの人が、陸戦の専門だった。あれが「陣地、ここ置け」とか、なんとかやって、始まったわけですね。だけど、わたしは2月の1日ころに、サント・トーマス大学へ行ったときは、まだほとんど、町の中でも、この辺に荷物置いて、そこへ、たこつぼに毛がはえたような陣地、作っている程度だったですね。

わたしのほうは「何でも、使えるものがあったら、取ってこい」と、「もらってこい」って言うんで。陣地構築にですね。トラック持っていったんですけど、そのころは、もう、戦闘部隊でも、全部、なんか陣地らしい陣地っていう程ではないし、ちょっと掘ると、水がでるんですよね、火山灰地帯ですからね。だから、我々もこれで戦争してもね、まだわたしらの方が、あれだったんだけど、と思いましたね。

だからもう、兵隊はみんな1大隊、2大隊は、もうボカチン組(ボカチン=艦が魚雷攻撃を受けて沈没すること)が主ですから、戦争した、そういう小銃も持ったことないようなのが、多いんじゃないですかね、実際のとこ。それで、持たされたのは、あのフルカワさんって、さっき言った、あの方が作った、竹やり、竹やりじゃなくてパイプやりです。パイプで作ったやりとか、それからあとは、手りゅう弾ですね、作った。あとは、オガワさんの4大隊のほうは、整備兵が多かったから、飛行機の機銃外したり、なんかして、若干ありましたけどね。戦争をするような、あれじゃなかったですね。まあ、みんな悲壮感だけでね。

わたしらも、もうでも、なんだか貧乏くじひいちゃって、玉砕かって、実際のとこ、(海軍兵科)予備学生になんかなるんじゃなかったと。ほんとのことね。

一時は、その同じ屋根でも、貧乏くじをと、思ってましたけどね。たまたま、そしたらあの、3日前くらいだったですね。2月3日の、3日前くらいだから、1月の終わりくらいだったですかね。「各自、帰って、早急に、陣地をあれして、訓練しろ」って。訓練しろったって、うちらの砲台、4門あったのですね。12センチが。そのうちの1門をトーチカにしたんだけど、それが、戦争のときになったら、向かないんですよね。それで、南のほうへ、向いてるもんですからね。

兵器も持ったことがないようなのが、あれじゃないですか。それで持ったって、昔、ちょっと、というような連中で、上の40くらいのおっさんの。

こんなんで、戦争できんのかなあって、思ったんですよね。専門家が、一人もいなかったんだからね。我々、マニラ陸戦隊だって。陸戦隊って名前がついてるだけで。


Q:ニコラスには、何人くらいいらっしゃったんですか?

 ニコラスですか。


Q 飛行場、あの、安東さんの隊は?

 うちですか。うちは50人ほどですね。

それで、50人ほどで、まあ、あれですね、結局、小銃が3丁あるだけですからね。あとはそのさっきの、フルカワさんとこで、作ったやりですね。


Q:50人で3丁ですか?

 3丁ですね。それでボカチン(艦が魚雷攻撃を受けて沈没すること)で、沈んだ組ですからね。沈んで寄せ集めた、(戦艦)「武蔵」とかいろいろ、兵隊が集めて、作った組ですから。だから、3丁しかないんですよね、小銃は。

(米軍が)入ってきたのはね、2月の4日くらいですよ。入って毎日、ですから、もう4日くらいから、迫撃砲は毎日のように飛んできたわけですよ。


Q:4日から迫撃?

 ええ。迫撃砲はもう、飛んできてね。結局、最初にね、観測機で、迫撃砲が飛んでくると、最初のころは、白煙弾を上げるんですよ。最初なんで。そうするとね、それを、いわゆる小隊、我々自ら出てって、ドンゴロス(生豆の空き袋)っていう、こういう、ぬか袋みたいのがあるんですね。米だとか、いろいろ袋が。それを水に浸したやつで、抑えろっていうわけですね。出てって。最初のうちは抑えて、抑えないわけに(いかない)、みんな見てますからね、やってたんですよ。すると、いつ飛んでくるか、わかんないですからね、次の弾が。もう、スリル満点どころかね。

5日くらいから、戦死してましたね、どんどん。

ともかく、マニラのね、空は赤トンボ。秋の空を、赤とんぼがとんでいるように、観測機でいっぱいですよ。各砲1個小隊ぐらいは、みんな1機ずつくらい、ついてるんじゃないですかね。

何日、持つかなあと、思ってましたね、最初にね。これで1週間持てば、いいなあと。でもまあ、いろんなこと、覚えてるのは、わたしは2月9日生まれなんですよね。だから、その前後のことは、非常によく覚えてるんですよ。だから9日は、もう命日だなあって、思ってましたね、当時は。


Q:同じニコラスにいて、同じ隊でも前のほうにいた方々は、迫撃に?

 ええ、随分、もう、ほとんど全滅。13日ごろにはもう、ほとんど。だいたい、大隊長がいるとこまで、戦車が来てるんですから、もう、ほとんどやられちゃって。

弾、撃ち出すとね、全然、あれですね。無我夢中で、何にもわからないですね。そういう死ぬとか、あれとか、っていうことは、戦争しているときは、もう感じないですね。そのあと、終わったりなんかしてるときは、いろいろ考えたりしますけどね。


Q:後半はアメリカもそれこそ、火炎放射とか砲撃で?

 砲撃で、ほとんどあれですね。ともかくね、太陽が見えなかった、ですから。15日くらいまでは。13日くらいまで、ですね。あとは燃えちゃったから、あれですけど。いわゆる、最初の戦闘やってる1週間くらいは、もう全然、太陽、見えなかったですよ。薄く見えても、ぼんやり見えるくらいでね。

兵力はね、わたしらはずっと、あそこで見ていましたけどね、まず、大人と子供ですよね。くらい(違う)。それで、けっこう、うちなんかの、めくら大砲、1000発くらい撃ちましたからね。もう、一番撃って、弾は2回補給しに、もう、いらないっていうふうに、持って来ましてね。それで、ちょっとした間隙に、撃っただけでも、なかなか爆撃やなんかでも、うちのほうなんかでは、つぶれないんですよ。と、いうことは、全部、裸だから。裸でいくらかこうなって、高くなって、ここにあるもんですからね。こっちから、見えないんですね。砲身だけ、見えるんですよ。そんでも結局、13日になっても、ずうっと、ほとんど、制圧しましたね、飛行場の中を。もう向こうは。

結局、何と言うんですかね、一番、激しくなったのはやっぱり、13日に飛行場のなかをほとんど、制圧して。ここにあった、飛行場はここで、ここの中に、ミネオの陣地があったんですよ。これを、戦車で、朝10時ごろだったですかね。6両で、包囲したわけですよね。それが、わたしんとこから撃てるのは、この裸大砲が1門あるだけ。それで、すぐ、これは撃たなくちゃいかん。撃つったって、照準機が見えないんですから。この管型では。向こうは(角度が)マイナスでね、撃ってるから、見えないんですよ。この戦車が。だから、わたしが、りんご箱を持ってきて、その上に乗って、ビセンってこうね、後ろ開いて。こう覗いて。「おお、いいぞ、いいぞ」とか言ってね。撃ったんですよ。

ところが、1発、撃つとね、ガタガタの大砲だから、普通だとね、高射砲でも撃つと、バーンと撃つと、推進器ってんでね、油圧でバッと、止まるんですよ。チュウタイキって言って、その油圧が、ずうっと下がってきます。その大砲の砲身が。ところがもう、ガタガタですから、1発撃ったらね、なんと、この先生の入ってる壕に、命中してたんですよね。戦車は、この辺にいますからね。そうしたら、なんか、えらいビックリしたそうですよ。だけど、2発目、撃つまでには、1発、撃つとドーンと撃つとね、大砲は普通だと、こう戻るんですよ。マイナス撃ってると、ドカーンと上がっちゃうんですよね。なかなか、下りてこないんですよね、これがね。それで、下りてくるまでの間、まず向こうは、速射砲ですからね、6門だから、何十発ですよね、大砲の弾が。75ミリが。よく当たらないで、この辺(すり抜けて行った)。

だから、1分間に、何発でる砲ですから。まず、すごかったですね。耳のこの辺に、飛んできたのが。

ああ。よく当たらないしね。

そしたら全部、一斉に、バックしちゃったから、戦車が。そん時に、もう歩兵がね、後ろに2個小隊が、ずうっと、ついてましたね。あの戦車の後ろに。全部、2発目で、びっくりして、全部。で、その間にまあ、彼らは逃げて来たわけですよ、全部。マッキンレーに、逃げたわけですね。うちの下を通ってね、行ったんですけど。

それからね、13日から、まだうちの大砲、健全だというので、いわゆる、米軍の24センチ砲っていうでっかいやつがね、あれが6門あるんですよ。

6門、撃ってるわけですよ。長距離砲ですけどね、あれを、観測機で撃ってくるんですよね。もう13日のね、それから以降、夜中もそうですけど、撃ちっぱなしだったですね。

13日は夜も、もう全部、撃って、あの辺はまだ、強力な陣地があるって、思ったんじゃないですかね。撃ってきましたね。

Q:どんなことをゲリラは?

 街で、日本のいわゆる「将校一人、切ったら、10万ドル」とかね、懸賞がかかってたわけですよ。

日本の将校、一人殺したら10万ドルくれるとか。


Q:アメリカがくれる?

 そうそう、そうです。ですから、わたしらもマニラの町、歩いていて、拳銃で、撃たれたけど、外れましたからね。二人でちょっと、歩いていたときですね。ですから、「10万」って、言われていましたね。いたころね。


Q:その2月の3日(米軍がマニラに進軍した日)前の市の中で、ゲリラが電線、市民の人が、切ったりとか? そういうことも、多かったですか?

 多かったんじゃないですか。来た連中の話によると、とにかく、戦争、始まったときには何かか、前よりも、後ろから、来る弾のほうが、多かったと、言ってましたからね。


Q:どういうことですか?

 ゲリラは、後ろから、撃ってくるわけですね。前で米軍と、戦ってると。後ろのほうから。

毎日、惨殺部隊がでるんだって。夕べ、何人殺したとか、何とか言ってね。みんな、酒飲んでるんですよ。だからわたしらも、ビックリしちゃってね。ともかくね、人間、狂いますからね。ゲリラでね、お互いにこうなってくるとね。

もう、何て言うのか、こう、ほんとのもう、自分が生きなくちゃなんないからって、普通の神経じゃなくなってくるんですよね。

戦争は、めちゃくちゃですよ。今、ここらの常識では、考えられないですからね。


Q:どういうことを、どういう風に?

 鉄砲を使うと、もったいないから、みんな「殴り殺すぞ」とか、言ってました。もう、とにかくみんな、飲んじゃって、酒を朝からですよ。目は血走ってるしね。「どうしたんだ?」っていってもね、「飲まずにいられるか」なんて。

戦争、今でも、米軍のあのゲリラ、何人殺したとか、何とか言って、住民殺したとか、何とか、言ってるけど、何て言うのかな、人間じゃ、なくなりますからね。犬っころか、何かくらいにしか、見えなくなりますから。


Q:安東さん自身も、そういうふうに見えなくなってる状態になってましたか? 当時?

 そうですね、結局、フィリピン自体とかを戦死しても、友軍が戦死しても、何も感じないし、もうなんかそういう感覚がなくなってきます。

斬り込み(きりこみ)っていってもね、特別に訓練して、斬り込みしたわけじゃないし、ただ兵隊、連れて行ってね、手りゅう弾、投げたり、飛び込んでったと。

と、いうことはね、もうね、ここが陣地だと、いわゆる円形陣っていう、その戦車がバーッと周りにいるわけですわ。こんなとこは、入れるわけないんですよ。だから、うちにも、擲弾筒みたいのがあって、こう撃ちこめば、あれなんだけど、全然、素手じゃ、もうだめですね。あとはね、陣地があると、バク舎作って、全部、壕を掘っているんですけどね。結局、最初の周りに、ずうっとね、電線が張ってあるんですよ。それに、缶カラがぶら下がってる。当たったら、音がするんですね。そうすると、そっちのほうへ、すぐ機関銃が来るようになってる。

それを、うまく乗り越えてね、いくと、今度、いわゆる入って来そうな所に、トタン板が、焼き板がいっぱい置いてあるですよ。それ踏むと、すぐ、またそこへ来ると。それをうまく越えてくとね、いわゆる電線が、これくらいの幅で、ずうっと、張り巡らされている。それ、うっかり足、ひっかけると、パーンと地雷が。それを、乗り越えなくちゃいけないんですよね。乗り越えて行くと、行くまでには、ほとんどね、やられちゃったりして、威勢のいいこと、斬り込みで言ってますけどね、実際に、そんなあれは、ほとんどたいしたあれは、戦果は。

行った時にね、一応、指令、向こうから、本部から、あるんですよ。「元気なのが行け」と。元気って言うか、現役ですよね。召集兵とか、現役で、結局、行きたい者は。結構あのころはまだ、戦争の恐ろしさを知らないから、行ったんですよ、みんなね。それで、うちでは2人、やっぱり、帰ってこなかったですね。

わたしもそのまま、またマニラの転進行ってからも、やっぱり行きましたけどね。


Q:それは、行けという、命令を受けたのですか?

 ええ。そりゃそうです。上から。


Q:そのときは、前に行った人が帰ってこなかったのが、わかっているわけですよね? 行けと、言われたときは、どういうお気持ちでしたか?

 そらね、1回目は、わかんないですからね、怖さが。そのまま、火の海ですよね、行ったら機関銃、最後は。どうやって、帰ってきたのかね。あれ照明弾、投げるわけですよ、向こうはすぐ。、何万燭光ってやつは。それで落下傘で、フ~ラフラ、フ~ラフラ、落ちてくるわけ。するともう、真昼のようになっちゃうわけですね。

(2月)16日の明け方に、マッキンレー、2人でたどりついたわけですわ。そしたら、早速ね、「斬り込みに行け」と、いわゆるその夜。20人くらい、航空隊の連中やなんかが、こんなもん連れてったってね、足でまといで、どうしようもないって言うんで、3~4人ね、選んで、やったんですけどね。

「お前は、もう、戦死したことになってる」っていうんですよね。死守しろってことなんだから。


Q:死んだことにですか?

 戦死。あそこでね。死守して、戦死したことになってるんだと。今ごろ、来たんでね、「だからお前、潔くやってこい」というんですよ。


Q:そのとき、武器は何を持って行ったんですか?

 そのときはね、わたしの拳銃1丁と、手榴弾ですよね、全部。それで結局、うまく乗り込えて、それは昔の海軍の爆弾庫の跡なんですよね。そこが。

飛行場の近くですね。爆弾庫の跡で。そこへ、米軍がいたわけですよね。そこをうまく、乗り越えてね、わたしら、匍匐(ほふく)前進で、こう、行ったわけですよ。そしたらね、いそうなのにアメちゃん(米兵)いないんですよね。それで、拳銃はもう、撃てるようにしてね。手りゅう弾、安全弁、抜いてね。それで、いつでもと思ってね、それで、こうはうってったらね、ちょうど、おたくのこの辺ですよ。自動小銃4人、寝てらっしゃるんですよ。こうやって。わたしはまあ、あれだから、手りゅう弾と思ったら、後ろから、足、引っ張るんですよね。ここでやったら、我々も死んじゃうって。結局、何やったのか、まだ、わかんないですよね。手榴弾ほうりこんだりなんかして。ともかく、火の海ですよ、後は向こうが出て、起きてきて。


Q:その、目の前にいたわけですよね? (米兵が)寝てて、安東さんいらっしゃったわけでしょ? それで、どうしたんですか、安東さんたちは?

 それで結局、下がって、手榴弾、ぶん投げたわけですよね。もう、そのころになるとね、なにがなんだか、全然。どうやって、あの地雷を乗り越えて、帰って来たのか、わかんないですよね。


Q:寝てた米軍、4人は何人か?

 どうなったか、わかりませんけどね。わかっているのは、そのあとね。山へ入ってから、結局、やっぱり行って、ポケットから、奥さんの手紙が、見かけるのね。それにはその、キスマークがついててね、手紙に。あなたの、この間の日曜日には、あなたの両親とこ、行ってきましたって、子どもを連れてってね。ああ、またこっちも、未亡人をつくちゃったと思ってね。

あとは、ともかくね、もうこの辺、すっと下がったところで、もう、すぐあれですわ。手りゅう弾、みんなで投げて。全員、4人ですけど、4人とも、帰ってるんですよね、生きて、うまく。いや、そのときは。

こっから、空気入れて、注射するんですよ。そうすると、1分間くらいで亡くなる。あとはクレゾールですね。こっから、打つんですよ。ですから、わたしなんかもね、軍医に「最後まで、頼むから、クレゾールだけはとっといてくれ」って。怪我してもね、何もない。ヨーチンしか、ないんですから。のこぎりで足、切ってた。足とかあれを。あの、後ですよ。マニラを脱出してから。ですから、一番怖いのは、負傷したらあれだから。とにかく、青酸カリとあれだけは頼むと。それはね、哀れなもんですよ。壕の中、みんな注射して、殺したんですからね。

もう、動けなくてね、どうしようもないですよ。すぐあれ、腐りますからね。南方だと。壊疽(えそ)ですか、あれになるし。もう、設備がないですから、マッキンレーには。11日ごろまではね、運び出して、陸軍のあっちのほうに野戦病院か、なんかがあって、あそこに、持って行ったらしいですね。だから随分、そっちに早めに、10日ぐらいまでに、負傷した連中は、よかったんですよ。もう、あとは結局ね。そんな暇、どころじゃないですから、もう。

ともかくね、20年くらい経ってまでも、あれですね、その、夢で。米軍がそこにいるんですけどね。撃つんだけど、拳銃の弾が、出ないんですよ。出なかったり。


わたしも、これ(自決)やりかけた。結局、「俺を残して、死なないでくれ」ってね。


Q:それはいつですか?

 2月15日の夕方ですね。うちの陣地がやられたときの夕方ですわね。


Q:それはなぜ?

 うん、やっぱり捕虜になるということは、もう絶対に、これは軍人として。

まあ、もう、生きるっていうあれは、日本に生きて帰るっていうことは、もう、誰一人、思ってなかったんじゃないですかね。


Q:最後はどうなさったんですか?
 
 最後はね、いわゆる、マニラ海軍東方防衛部隊として、要するに、正式に向こうから、軍師が来たし、日本のいわゆる、士官が、指揮士官が、向こうのヘリコプターで来て、「すでにもう、日本は負けているんだから、全部あれしろ」と、いうことで。結局、その前にもう、白旗掲げて行って。向こうが飛行機で、落としましたからね。これ持って、こいって。


Q:それを見たときのお気持ちって、どういう? 

 正直言って、これで毎日、毎日、爆撃と砲撃で、まあ、やらないことだけで、ほっとしました。誰もがそうじゃないですか。そしたら結局ね、本部としては、一案として、全軍、自殺と、全軍、自殺と。二案としては、対岸へ脱出するとか、いろいろやっぱり、迷ってやってたんですね。参謀連中がね。イマガワさんとかフルセさん、ミネオなんかで。結局、自殺ということで、一時、決まったんですよ。それで、わたしは軍医長と二人で刺しあって死ぬと。みんな、メンバーが決まってたんだけど。急きょ、今度はあれだと。いわゆる、投降するということに、なったんでね。それこそやっぱり、ほっとしました。

今だに、もう。それで、すべて終わったんじゃないですか、人生。あとは付録で、ぶらぶら生きたっていうだけで。

いやあ、あの戦争をやった者じゃないと、わからないですね、それは。ええ。やった者じゃないと。まあ、青春時代のすべてを、かけたわけですからね。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1921年
東京都新宿区に生まれる
1943年
海軍兵科予備学生として、館山海軍砲術学校に入校
1944年
第117防空隊に配属
1945年
マニラ海軍防衛隊第四大隊に配属。マニラ東部にて終戦を迎える。当時24歳、海軍中尉
1946年
復員。復員後は日本相互銀行に勤務

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