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タイトル 「決死の斬り込み攻撃」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 酒井 富吉さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年3月31日

チャプター

[1] チャプター1 陸戦隊へ  05:42
[2] チャプター2 ゲリラの反攻  01:15
[3] チャプター3 市街戦が始まる  02:17
[4] チャプター4 「町を焼き払え」  04:10
[5] チャプター5 斬り込み攻撃  05:24
[6] チャプター6 酒井さんも銃を持ち突撃する  02:32
[7] チャプター7 市街戦の激化  06:08
[8] チャプター8 敗走の途  03:44
[9] チャプター9 敗走~理性を失っていく~  05:08
[10] チャプター10 いま思うこと  05:16

再生テキスト

Q:そのときフィリピンにいる日本軍の様子はどうでしたか?

 わたしたちが行ったころはですね、陸軍部隊は全部、山岳地帯の陣地に入るということで、移動、始めてましたよ。だから、いちばんカスがこんなこと言ってると、生き残ってる先輩たちに怒られるでしょうけど、いわゆる航空隊の飛行機に、燃料を補給するためのドラム缶を転がしたり、爆弾をつったり、機銃の頭を詰めてやったり。やられてる飛行機があったら、翼なんかを補修したりと。そんなことしか、やってないからですね、それなのに陸上戦闘をやれというわけでしたよね。


Q:マニラに行く命令を受けたときは、どう感じましたか?

 もうキャビテ(軍港)ではね、それまでのクルーあれで、喫水(船脚)が浅いし防空壕(ごうう)掘っても爆弾が落ちたら、もう防空壕は突き抜けて、バーンってところでしたからね。もうキャビテよりも、マニラの陸上戦闘がましだろうと思ってですね。別にどうって感じませんね。

食糧も無くなるし。マニラにはそのころまだ、食糧も弾薬もいっぱいありましたけどね。キャビテはずうっと、やし林とか、山を行って、トラックで一時間くらいかかってましたからね。だから土地はもう、全部フィリピンゲリラがいるところでしたから。同じ戦うんだったら全部、海軍が一緒になったマ防って言ってましたけどね。マニラ防衛特別陸戦隊って言ってましたけど。そこで一緒に、みなさんと一緒に戦うぞって。


Q:陸戦経験はそれまでないわけですよね?

 全然ないですよ。


Q:まわりにいた方もそういう方が多かったんですか?

 全部そうですよ。マニラ防衛海軍特別陸戦隊と、名前は勇ましいようですけどね。結局、いくつもあの周辺に飛行場がありましたけど、その飛行場でパイロットも全部ほらあの、レイテの方に特攻隊で行ってますから。残ってるのは航空隊に残ってるのはですね、整備兵といわれる人たち、いわゆる飛行機の整備をしたり、燃料を積み込んだり、そういうようなことをする人たちとですね、警戒のための普通の水兵さんと。だからですね、陸戦の経験が全部ないんですよ、航空隊におった人たちは。だけど、少しはおりましたね、あそこは、31特根地(特別根拠地隊)といって、もともと海軍の兵隊でありながら、陸上戦闘する31特別根拠地隊というのが、あったんですよ。これはですね、ソロモン海域で沈没した(戦艦)「霧島」の艦長だった岩淵(三次)少将がマニラ方面の防衛司令官をしておられてですね、その人の指揮の下に、マニラ市街戦を戦ったわけですよね。

キャビテからマニラに来てですね、マニラの海岸通りに今もありますけど、広い道路があるんですよね。その広い道路にですね、砲台が高射砲、据えとったんですよね。その高射砲全部、取っ払ってしまって、これ滑走路がわりに使ってですね、レイテに特別攻撃隊が、特攻隊の滑走路にしとったわけですよね。だから、そのすぐ裏の通りに3日か4日おりましたよね。そしたらもう、米軍はバシグ川っていう川があるんですけど、川の近くまで来ている状況でしてね。そしたら、955(海軍航空隊)は4大隊の6中隊を編成して、そっちに行けいうて。
結局、元の航空隊、当時の上司が自分の部下は、みすみす早く討ち死にさせたくなくて、少しでも長生きさせようってことで、比較的、危険の少ないところ。
確か、マッキンレーっていう所は米軍の要塞(さい)でしたから、どのくらい、わたしたち一回くらい入りましたけどね。エレベーターでスーッと入って、それから横に司令部とか、医務室だとか、いろんな部隊が入ってましたから。そこには、入ってみたくらいでして。上の野原みたいな所にずっと、兵舎が米軍のやつがあったから。それを使ってそこに寝泊りしながら、反攻しとったわけですよね。

Q:その時のマニラの様子は?

 ずっと前からおった人たちに聞いたら、夜間は照明がこうこうとついて、これが戦地かと言われるくらいに物も豊富だったし、夜間も静かだったということでした。わたしがそのマニラの海岸通の、ひとつ裏の通りに行ったときにはですね、夜間はピストルの音がしょっちゅう、聞こえてましたけどね、フィリピンゲリラの。だから全然、夜は外に出れない状況でしたね。

ゲリラはですねもう、いわゆるゲリラ、ゲリラっていっても、アメリカの正規軍とまったく一緒ですね。あの一部は私服の人もおったようでしたけど、あとはもう全部、アメリカの軍服を着て、30何発つまる自動小銃、各自持ってね。

Q:その後、いつマッキンレーに? 2月に入ってからですね?

 そうですね。陸軍の、そうですね、マニラにあの、マニラからマッキンレー、その海岸通の裏の通りからマッキンレーに移ったのは、2月の4日か5日くらいじゃなかったですかね。


Q:そのときのマッキンレーの様子は?

 お偉いさんとか、前から入ってる連中は、兵舎にきちんと入ってますしね、まだ爆撃はあったか、あってましたし、砲撃もあってましたけどね。まあここにおれば、しばらくは大丈夫かなと思ってましたですね。食料もまだあったしですね。ただし、大きい大砲があまりないんですね。1門か2門しかなかったんですね。米軍はもう、長距離の大きい弾の、あれ。
そんなやつとか。迫撃砲とか、それから爆撃とかですね、飛行機がしょっちゅう来て、爆弾落としてましたから。

その来てた、正面におった連中は、抵抗してるわけですよね。抵抗するっていっても、さっきから話してますように、明治維新で使ったあれは何銃、村田銃か、弾を一発込めてから、こうするやつね、そんなやつ。米軍はそのフィリピンゲリラにしてでも、それぞれ自動小銃、持ってますしね。自動小銃と拳銃は持ってましたからね。


Q:酒井さんたちの武器がほとんどない状態ですか?

 ない!

ある地区とでも、申しておきましょうかねえ。11日に米軍の反攻があって、その後ですね、憲兵隊からの知らせがあって、「この町は全部、フィリピンゲリラだ」と、「だから、この町は焼き討ちしなさい」というふうな命令が出てですね、人口6000くらいの町ですかね、マッキンレーの外側になるんですけど。そこで、時計を合わせておいね、ガソリンをぶっかけてから町を焼いた、というようなことはありますです。うちの部隊でなくて。わたしたちも一緒に行ったけど、わたしらの部隊は後回しだったですけどね。


Q:酒井さんたちの部隊はどういう命令が出て、どんなことをされましたか?

 だから、それは4大隊長の命令通りですよね。6中隊で守備してる所を、あくまでも守備しておくと。だから、攻撃命令が出たときは、だああっと行くけど、それで夕方、元の位置に帰ると。そういうようなことですね。焼き討ちをした部隊のことはですね、いわゆる、その後焼き討ちをした町の中に、生存者がいないかということで、わたしたちの6中隊はずっと、見回りって言うんですか、その焼き討ちされた所を一周して、点検して、また自分らの所へ帰ってきたと。

捕虜とか、捕虜の子供とか、やしの木にくくりつけてね、銃剣でこう、やってんのは見たことありますね。だから何で、そんなことするのかって。こいつはゲリラでスパイだとかって。で、子供にはね、手りゅう弾、投げつけるから、あんたら無茶するなって。子供やろうが、何にも知らん子供やろが、子供に手榴弾投げつけて、どうするのかって、わたしは憤りを感じて、言った事がありましたけどね。

全部、これが町としたらね、時計を合わせておいて、周囲から一斉にガソリンまいてから、火を点けてるわけですよ。で、道路とか、溝とかから、出てくるヤツを機関銃で撃ち殺すと。それは見てないんですね。それの後、脱出して、見回ったことがありますけどね。実際に、焼き討ちしているとこは見てない。まだ、くすぶってましたよ。くすぶってるって言うか、町の中はまだカンカンほてって、焼けてましたね。夕べ、焼き討ちした翌日でしたからね。


Q:見回りに行ったときに、生存者を見つけたときはどうしてましたか?

 見回りに行ったときは、わたしたちは兵科が違うから、いわゆる銃とか、竹やりを持った連中が、どうかすることであったですね。しかし、なかったですよね、死体はね。

やってる人はどう思って、やってるんですかね。かなり厳しいこと言って「なんちゅうことするんだ、あんたたちは」って言ってから、突っかかって行ったことがあるんですけど。


Q:そしたら、なんて言ってましたか?

 だから、いわゆる上からの命令だって言うわけですね。

あの4大隊長がですね、日本刀、引き抜いてですね、いちばん弾の少ないときにですね、米軍からの砲撃やら、爆撃やら、少ないときにですね、あれは2月の11日だったと思いますね。紀元節の日に。日本からの、一大反攻があるから飛行機も来て、全部マニラを占めてる米軍を、やっつけるんだっていうような噂かしら、お偉い人もそんな事を言ってましたけどね。それ、逆でしたよね。米軍がかえって、攻撃を強めましてね。だから、そのときはある程度、マッキンレーにいた兵隊がどのくらいでしょうかね、1キロか2キロか、あとに戻ったわけですよね。弾の飛んでくる比率の少ないところへ。そしたら、4大隊長のオガワという上海陸戦隊で指揮をとった人ですけど、4大隊長。これが日本刀、引っこ抜いてからに、「突撃しろ、突撃しろ」って言う。「突撃しないやつは、たたき斬るぞ」って言って日本刀振り回したんですね。

オガワ、第4大隊長はいわゆるマッキンレーでこうしてるのを、米軍を元の位置まで追い詰めろと言って。だから「わああ」って声上げて、竹やりを木の先に、平べったい金つけてるだけですけどね、言われるままにしたんです。


Q:その方たちは、どうなりましたか?

 何名かはやっぱり、亡くなりますね、弾が飛んで来てるから。


Q:ご覧になった時、どうお感じになりましたか?

 そうですね、わたしは学徒動員の将校でしたけどね。もう僕は駄目だから、看護長っていって、看護長って呼ばれてましたけど、「どうせ、わたしはこれで駄目だろうと思うから、この日本刀と拳銃はわたしの実家に届けてくれんか」と、おっしゃったことがありますね。そしたら、そんなひとりの人を治療してると、周りからいっぱいやってくるんですよね、けがをした人が。「わたしも助けてください、わたしも助けてください。」もう、こんなところも全部、あれでしてですね、血液がついて負傷者の。だから、2月11日の日は患者の手当てで、病気じゃなくて、けがしてる人ばっかりだからですね。出血量も多いから、すぐに血のりでぐちゃぐちゃになるんですよ。誰かから引っこ抜いて、頭を撃たれて、戦死した人なんかは案外、服はきれいだから、そんなのに着替えてね。そして治療に、あたったっていうことは覚えていますね。

マッキンレーではですね、いわゆる米軍が使っていた、その地下の要塞(さい)の病室ではなくてですね、どこに連れて行ったのかですけど、わたしは6中隊陣地におりまして、負傷したやつ、それぞれほとんど止血だけして、担架にのせてやるとね、伝令が飛んでくるんですよ「6中隊正面の看護兵は止血が悪い」って、「途中で全部死んでしまう」って、「だから止血を完全にしておけ」って、言われた事がありましたね。だから、伝令に「そんな文句があるんだったら、自分も前線に来て、治療にあたれ」って言ってやったことがありますよ。


Q:酒井さんがマッキンレーで、強く印象に残ったことは?

 マッキンレー、いわゆる負傷者の治療に当たるときにですね、両手無くて、片足も無くて、それでこの人を治療していたらね、コケながら来るわけですよね。赤十字のマークをつけてるもんですから。そしたら軍医さんって、それは陸軍の兵隊でしたけど、「軍医さん、わたしも助けてください」って。両足から血を流しながら片手も、左の手だけしかないのに、やはり軍医さんなり、看護兵なり、看護婦さんなり、おったら、助かろうと思って一生懸命、治療求めてクルクルまわりながらとか、這(は)いずり回ったりして来てね。何とかして、この人たちを助けてあげたいな、ということは何回も感じましたですね。

Q:酒井さんたちも突撃せよ、と言われたましたか?

 そうそう、そうそう。だからどれくらいでしょうでしょうかね、4キロくらいやっぱり敵の方へ走って、突撃というか、わたしは竹やりは持たんし、医務課だから拳銃だけですね、拳銃だけ持って。

みんな一緒にやって、もう米軍のほうにワァーって言ってから、突入したわけですね。米軍もちゃんとある程度、引くもんですからね。

2月11日は米軍が、バァーって攻めてきたから、大隊長が怒鳴り散らかして「突撃、突撃」って言うもんだから、大隊長の指揮と怒鳴り声にびっくりしながら、米軍の方に、ワァーって、突っ込んだわけですよね、3キロから4キロくらい。


Q:ワァーって突っ込むと言うのはどういうふうに?

 ただもう、持ってるものをワァーっていって、日本刀持ってるものは日本刀、小銃持ってるものは小銃を構えてですね。わたしたちは、もう衛生兵だから何も持たないし。何もなくても、その竹やり持ってたやつは、竹やり持ってね。


Q:もう米軍が見えるわけですか?

 見えないですよ。結局、抵抗がなくなったら米軍は4キロか5キロか、引いてるものと思ってですね、それ以上は攻撃せんわけですよね。というのはマニラのバシグ川って川が、どどって、流れてるんですけどね、川向こうは全部米軍ですから。その淵まで突入して行ったら、それ以上はもう攻め込んでと、いうか米軍の攻撃はしてませんでしたよね。


Q:途中まで行って米軍がいなかったら、帰ってきてしまうわけですか?

 そうそう、そこまで行ってですね、最前線まで行って、昼間ここらの陣地にいて、ここまでこう、行ったとしたらですね、夕方ここまで来て、兵舎があるからですね、だからあの砲撃は、爆撃はこの兵舎のあるところをするわけですよね。

市街戦はですね、わたし直接はね、撃ち合いっこはしてないんですよね。だから撃ち合いっこして、すぐ5分か10分か、あと通って、いいときに勝負して良かったなあって。もう5分早く通ってたら、俺もやられてるんだったろうなあってですね。だから、直接撃ち合いでなくて、直接撃ち合いっこしたり戦ったり、直後なり直前なりはね。


Q:直後というのはどのような様子でしたか?

 あの付近なんか全部、日本人でしょ。日本の兵隊でしょうね。かわいそうだなって思ってね、武器も持たずに戦えって、言われて戦って、こんな姿になって、かわいそうだなっということとですね、どうして、こんなに負ける作戦を立てるんだろうか。なぜ、戦争せねばならんだろうか。こういうふうなことを思ったんですね。

だからビルはですね、ずっと片っ端から、焼き尽くしてくるんですね。米軍がね。始めは大きい砲弾、撃ちこんで、迫撃砲撃ちこんで、それから、これにちょっとは書いてあったと思いましたけどね。

これは間違いなく、そのときの写真ですけどね。こんなして、これはわたしがあそこ、マッキンレーを撤退するのが、昭和20年の2月17日だったかですね。その頃こう、山のところまで行ったときに見てたとき、ちょうどこの状況でしたね。この辺全部こう、家が壊れてるのが見えますけど。これもですね。


Q:ビルが燃え尽くされていくのをご覧になりましたか?

 ええ。こんなの見たからずっとあの、こちらの方に、だからどこまで。
マニラであの、残ったものは、ほとんど1大隊、2大隊、3大隊もマッキンレーに全部、集まったわけですよ。全部っていうか、生き残ったやつはですよね。それで、陸軍の方と連絡とって、もうこれ以上、無駄な戦争はするなと、これでいい加減、手を引いて逃げろと。こういうふうな陸軍側からの指導もあって。それから、ところが、わたしたちの4大隊はマッキンレーにおって、4大隊は2月の17日と18日に川を越えてバシグという町に出て、それから昼間は民家に隠れて、夜、ずうっと移動して。


Q:市街から、マッキンレーに逃げてくる兵士もいましたか?

 わたしが見たのはですね、何名かくらいですね。


Q:その方々はどんな様子で、どういう事をおっしゃってましたか?

 それこそ服は汚れ、血液があちこちついてね、「もうパコ駅とか本部、誰も生きたものはおらんとよ、全部やられてしまったから」と言って、そのときにやられるときに、なんと申しますかね、道路の側溝にね、かがんでおったから助かったということで、三々五々くらいでしたかね、マッキンレーに逃げてきましたけど。


Q:マッキンレーから、マニラの市内は見えましたか?

 その頃は、場所によってですけど、見えてましたよ。


Q:どういう光景でしたか?

 こう、なだらかな丘の上にありますもんね、マッキンレーね。ちょうど、今のマニラ空港の横っちょを、ずっと登った所ですからね。だから、その当時見た、マニラの市街はこれにこんなして、黒い煙が上がって燃えてましたですね。

爆撃と砲撃ですね。それから戦車。あるビルで、どのビルか聞いてませんけど、海岸通りにですね、滑走路代わりに使う前に、高射砲をずっと据えとったですよね。それをあるビルに持って行って、ビルの窓から水平に照準つけておいて、戦車が来たのをね、何両か、アメリカ軍のM4っていう戦車を、何台かひっくり返しているわけですね。ところが、それ以降はビルは片っ端から、アメリカの砲撃の照準になってね。だから、焼け野原になってしまったんです。

ビルは、もう全部。だからあそこ、農総務省ビルなんかでもですね、中におった連中が司令官が、もうお前たちは今日脱出しろ、今日脱出しろって、言われても、ビルから出たらもう、やられるわけですよね。

山の中に、入ってしまったわけですよ。それからは、もう生き地獄ですね。その米軍のためにというよりも、食料がないもんだから。4月くらいから、何にもないんですね。米も何から。最初はいもの葉っぱだとか、あったんですけど、だんだん、だんだん無くなってしまって、誰もとるもんだから。芋のつるも無いし。だから野草ですけどね。野草はやっぱり南には毒のあるのがあるから、その軍医さんがこれとこれと、これは食べちゃいかんぞってなことでガリ版すってですね。それから、終戦までずうっと、どっかこの辺までいったと。

6月くらいか。わたしはそのときも、今度はマニラ東方防衛隊っていうのが組織されたわけですね。マッキンレーで病気しとって休んでおられた、南区の岩淵少将より先輩でありながら、下の階級の人がいらっしゃったけど。その人が、長になって東海岸へ行ってからは部隊を編成して。米軍が上がってきたもんだから、それでずうっと、もう小競り合いしながら、無理な戦争せずに、ずっとこう上流の方、上流の方へとずっと基地を移してですね、兵隊の陣地も川上の方に移して、その間、何にも無いわけですよね。草を食べて、それも6月くらいまで、塩があったから、草を採ってきて塩で茹でて食べてましたけど。もう6月以降はね、それこそ、そこいらにある草を採ってから、飯ごうで水炊きですよね。

体も、すぐ、どれくらいたってからでしょうね、関節が、わたしは8月にはもう、関節がきかなくて、歩けなくなってましたからね。全部その道端に、この狭い道端にころころ移動するときに、亡くなってるわけですよね。正直に言って餓死ですよ。だけど、餓死寸前の人がですね、道路端にうめきながらね、「ご飯が食べたい」とか「水をくれ」って言ってましてもね。初めのうちは、それに相手をして、水をくんでやったり、自分が持ってる食べ物でも、分けてやったり、というような事があったですけど。やっぱり情けないと思ったのは、同じ日本人でありながら、召集令状ひとつでこんなところまで連れてこられて、食べ物も無くて、こんな惨めな思いをせにゃならんのかっていうのはもう、毎日ああ、おれもこんな姿になるのか、明日、と、そんなことを毎日、考えてましたね。

竹で柱を作って、それによしの葉っぱであの、一夜か二夜かしらんけど、泊まるためのあれが、あるわけですね、小屋が。そこの中の入り口、よしの葉っぱでこうして、どんなしてるんかなって、こうしたら、やっぱりそんなことやってましたね。


Q:そんなことというのは?

 あの、軍隊の陸軍で言う、牛蒡剣っていうのがあるんですよね。あれでね、亡くなった人の太もも、切っとったですね。そしたら、そんな人の目つきは怖いんですよ。もうそれで、飛び出して逃げたんですけどね。

なんて言ったらいいんですかね、ぎょっとして、びっくりしたっていうんですかね。はああって思ってね、こんなことまで食べ物がなくなったら、こんなことまでするんだろうか、って思って一瞬、立ち去りましたけどね。

これはまだ、いらっしゃるでしょうからね。部隊の名は言えませんけどね。結局、6月だったですかね、部隊を解散するんですよ。陸軍にしても、海軍にしても、組織を解散してですね、自分たちでね、いわゆる組織を小さくして、自分たちで、お国のために尽くせということですけど、軍隊は解散するぞ、自分たちで自由に生きて行けと。そしたら結局、食べ物を探すだけしかないわけですね。だから、味方であろうと、敵であろうと、このあのバッグをさげてますね、あれなんかふくれとったら、あれもっとらんだろうから、どんとやられるって。

それで、一回はですね、あれも6月くらいかな、そんなして軍隊を解散した部隊の人が、その司令部。海軍の陸戦隊の司令部指揮班、司令部指揮班って言ってましたからね、本部はですね、こっちに行ってからは。あの、銃声がするんですよね。そしたら伝令が来て、「敵襲です」って言って、どうも陸軍ゲリラらしいですけど、これ撃ち殺しておこうかって言ってから、お偉い人に参謀に聞きよったですよ。「ああ、許可する」って言うてから。だからですね、30人くらい、こんなところ上って、司令部の小さい小屋にまだそのときは、司令部にはあったんですよね、米が。それをとりに来よるわけですよ、30人くらい。ここに、飛行機の旋回機銃っていう、百発くらい弾倉のあるやつでね。引き付けるだけ引き付けてから、射撃しとったですけど。山形の人で、そのころ28くらいの人でしたけどね。じゃから、しばらくしてから、機関銃の音がしなくなったなあって思ったら、陸軍、敵さんでしたって、いうて。いわゆる陸軍の敗残兵ですね。部隊解散した敗残兵たちが、海軍の司令部に行けば、なんかあるだろうと思って、それをかっぱらうために攻めてきよったわけですね。


Q:報告を聞いたとき?

 もう、びっくりしましたね。びっくりするというよりも、なんていうんでしょうか。やっぱり考えとして出てくるのは、こんなことまでするんだったら、戦争はどんなことがあっても、してはいかんな、というのがよみがえってくるわけですよね。だいたい、あの戦争始めて、そしてフィリピンでも、どこでもですけど、ビルマでもですけど。攻略していってですよ。それに食糧とか、弾薬とか、補給もつけきらんのにそんな無茶な、戦争しちゃいかんわけですよね。向こうに船で送って、後はもう、お偉い人の命令だけでね、動かそうという、昔の軍隊の組織といいますか、あり方といいますか、いけないなあと、思いますね。


Q:錯乱したりした人はほとんどが、海軍やマニラ陸戦隊の生き残り?

 いやあの、そうでなくてですね、マニラにあった部隊ですね、工作隊とか、なんか、あの非戦闘員の部隊がやはり、8000人くらい、いらっしゃったんですね。それは、わたしたちと行動をともにしなくて、その人たちも山の中で食糧難にあって、最後に終戦になってからは、マニラの収容所に逃げとったからですね。だから、わたしたちのマ海防以外にも、そういうふうな部隊があったわけですね。

あれはですね、まったく、あの、なんかその国と、国との交渉かなんかで、ですよ。マニラには、いわゆる戦火、マニラで戦火を交えるということせずに、マニラは、そのままにしておきたいと、いう考えを持ったという人がおったということですけど。やはり、そうすべきだったなと、思いますね。
だから、マ海防の司令官にしても、いわゆる左遷ですよね。ソロモン海でやられた戦艦霧島の艦長だったわけですね。だから、そうでなければ、陸上の勤務には就けないんですけど、いわゆる、戦艦の艦長だった人を、マニラの31特別根拠地隊の隊長で赴任させたということは格下げですけどね。だから、あの方はもう、あえて自分の主張は通さずに、陸軍の作戦参謀なり、海軍の上の作戦参謀なり、から言われるままに「マニラで米軍を迎え撃って、撃滅せよ」と言われたら「はい」ということで、やったんじゃないですかね。だから、あの人は、最初から赴任するときから、死ぬのは覚悟で行かれたでしょうけどね。

マニラの戦争はですね、これはまったくあの、しなくて済む戦いであれば、しなかった方がいいなってこう思いますね。


Q:戦後もマニラでの戦争とか、マッキンレーにいた時代のことを思い出しますか?

 マッキンレーよりも、いわゆる東海岸に移ってから。20年の3月以降終戦までのことはやっぱり、しょっちゅう思い出しますね。だからそれは、食べるものがなくてですね、だんだん若い24、5、6の若い人間が1日1日とやせ細らえていって、病気も5つ6つと重なって、栄養失調で亡くなっていきましたけど。あんなことだけは、二度とやっぱりしちゃいけんなと、思ってますね。ということは、戦争自体が悪いんだと。戦争になったら、人間が人間でなくなるって、いいますからね。わたしはそう思ってます。


Q:これまでマニラでの戦争の話を、家族や他の方に話されましたか?

 いや、話してないですね。わたしはね、3人子供がおって、3人とも娘だけですよね。そしたら、中学生くらいのときからグチグチ話をしても、お父さんの戦争の話は聞かん、というわけですよ。3人の子供が。もう、お父さんたちが行った、戦争の話は聞かんよお父さん。今はもう、時代が違うんだからって、話つけられるわけですよ。だから、女の子に言っても、一緒だなっと思って。それ以後は話してません。


Q:話したいと思いますか?

 あるんですよ。だからね、どういうふうな戦争に参加して、どんなふうな船に乗って、どういうふうにして、どこでやられて、どういうふうにして助けられて、なんですか日記式で、文章書く事がへたですから。とにかく手探りでもいいから。これくらいになるようなやつでもね、酒井富吉の生涯とかいうようなことに、なるかしらんですけど。フィリピンだけじゃなくて、他の船に乗っていてやられたことも、何回かあるもんですからね。書き残しておこうかなと思うんですけど、さあ、書き残そうと思ったら心臓が悪い、肝臓が悪い、糖尿が悪い、骨折はするはということで、病院通いが関の山でですね。


Q:なぜ残したいと思うんですか?

 だから、孫たちに娘たちが、本当にわたしが書き残したものを見てですね、孫たちにも本当、話して聞かせようか、読んで聞かせようかと、いうことにでもなればですね、最後には戦争はしては駄目だと。どんな事があっても、戦争をしては駄目だと、いうようなことまで書いて、残しておこうかと思うんですよね。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1922年
長崎県南高来郡に生まれる
1944年
看護兵として空母「千歳」に乗艦。「千歳」沈没後、フィリピンの第955海軍航空隊に配属
1945年
マニラ海軍防衛隊に配属。終戦当時、25歳、海軍二等衛生兵曹
1946年
カルンバンの捕虜収容所に収容される。復員後は長崎県長崎市にて船舶会社を営む

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