ホーム » 証言 » 岡田 信一さん

チャプター

[1] チャプター1 行き先はビルマ  04:26
[2] チャプター2 18師団の盾になる  04:26
[3] チャプター3 18師団の惨状を目撃して前線へ  02:26
[4] チャプター4 奪還作戦  04:40
[5] チャプター5 追い詰められた119連隊  02:46
[6] チャプター6 連合軍の追撃  02:14
[7] チャプター7 戦地から持ち帰った飯ごう  03:19
[8] チャプター8 戦争を振り返って、今思うこと。  02:40

再生テキスト

連隊本部と3大隊が先発で行って、1月に行って、わたしらはここで。

わたしら残ったのは連隊本部やけど、馬関係と車両関係ですか、機動砲のね。

そんなのは全部残ったんです。

連隊は、僕は通信でも、連隊砲、速射砲の何は、全部あのう、馬監視で残っていたんですって。


Q:ああ、マカイで。どこでビルマに行くっていうのは知ったんですか?

 どこやったかね。もう、服をもらったときには夏以降やったで、南方へ行くことは分かったんですけど。

そして、どこやったかね、あそこへ行くまでに、シンガポール行くまでに、ともかく南へ行くんですけど、バン(羅針盤)の方針見ていると、北のほうへ行ったり、ジグザグですね。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。

行くときには、あれで、十何日ですかね。余計に日がかかったんですって。

それから船内では、もう、こう仕切ってあって、頭とこのぐらいの中で、1、2、3段で、詰め込みで乗っていたんですって。

ベットでも、もう、座っているのがやっと。やっと、全部。

そして、ご飯食べるとこ、ちょっと別に、ちょっと動かなあかんぐらい。


それで、いまいうあれ、マレーの人といったよね・・・。

途中でマラッカの連隊と一緒になったんですよ、連隊とね。


もう、すでにシンガポール行ってからでは、すぐ分かったんです。

行くとすぐに敵の落下傘が北ビルマへ落下傘で下りて、それで九州の菊兵団(18師団)の後ろを下りたものですで。
それを鎮圧するために、っていうんで、今度は、連隊の重火器だけは、シンガポールから飛行機で、ラングーンヘ行ったんです。


それで・・・あの、泰緬ルートの日本軍は、敵の捕虜を使うて鉄道敷設やってね、泰緬の国境の作った。

そこを、汽車に乗って行ったんですって。

それでその汽車は、もう、チーク材の材料の(鉄橋は)高いんでしたんで、本当に千尋の谷って言いますか。

ちょうど、ねえ、こうしているんで、汽車も、もう、自動で。下りの場合は、自動で下りるばかりで。

そして、汽車がギーギーギーギーって言うから、こういう音する、そんな鉄道でしてね。

北上して、それでマンダレーから、どのくらい行ったんですかね。それで、手前で初めて銃撃を受けたんです。


Q:マンダレーの手前で?

 ええ、銃撃を受けて。初めての銃撃やった。列車、動いてっときに。

それで、みんな列車から降りて、テーツと、四方へ散ったんですね。

そのときには、あれ、ビルマ軍も乗っていたらしくて、ビルマ軍の兵隊が2人か、後ろに乗ってて、2人は死んだらしいことを聞いた。

あれは本当にびっくりしたですね。急にあんた、機関砲って言うんですね。弾の大きい。


Q:戦闘機で?

 ああ、戦闘機ですね、あれ。ほとんどが戦闘機で、爆撃やら、攻撃受けました。

それで、戦闘機のほうは、弾2つほど、2発ほど持っていたんでね。

一番初めのときに、爆弾落として、終いにまた、爆弾1発、小さいんですけど落として、それで引き上げる。

それで、わたしらはイラワジ河を渡って、インドーというところで馬だけ残して、そして3人か4人に1人、馬監視に残って、それで「全部第一線に来い」って言うんで、そこからダイシへ歩いて行ったわけです。


Q:歩いている最中はどうだったですか?

 そうですね、初めのうちはまだ南のほうで、そんなになかったですけど。

後のほう、もうしょっちゅう、戦闘機が飛んでくるようになったんですね。

それで、戦闘機が谷あいを来るんで、もう、そこへ来るまで音が聞こえんのですって。

来て初めて、シューシューって飛んでいきますんでね。


Q:日本の戦闘機はなかったんですか?

 日本の戦闘機は途中に1回か2回、今日は来るんじゃっちゅうのがあったんですけど、いっぺんも来んです。

それで、わたしら、サーモっていうところまで行ったんですって。


第一線へ来いっていうんで行ったんです。

それで、連隊の馬の残っているね、全部重火器の。

それで、連隊本部の馬と、それから、輸送する馬もいてね、死傷兵のね。

それから今度は・・・通信隊、連隊砲、速射砲。

それから、また今度は大隊のと、機関銃中隊のと、大隊砲小隊ね。

そんならん馬全部が、置いていったんですって。もう第一線では使いものにならないから。


第一はもう、制空権握られているし。

それから、なお食糧もないし。馬の馬糧(ばりょう)も草だけではあきませんので。

もう線路沿いが、線路が通路っていうか、線路を使っていたんです。

それで、あんまり昼、行動せんし、晩、行動すると、もう、線路脇でおびえている声がいくつもするし、そしてまぁ、駅の近いところへ行くと、「もう少し頑張れよ、もう少しすっと駅やぞ」って言うたり、声掛けては進んでいくけど、どうもしてあげられんわね。

それからみんな、ああ、晩でも臭いがします、死んでいる人のね。

「ああ、ここでも死んでる、ここでも死んでる」ってね。本当にあれは惨めなものですね。


それで、第一線もちょうど雨期の最中でしたんで、もう壕(ごう)を掘っても、壕が寝つかんですってね。

そこへ入ってて、第一線ですんで。

わたしは幸い連隊本部やったんで、少しこう、寝たですね。

それで行って、2日か3日目に連隊本部は次の部落まで下がったんで。


Q:岡田さんは、第一線ではどんなお仕事をされていたんですか?

 わたしはまぁ、言うと、伝騎って言いますんで。もう、連絡兵の任務ですで。

と、言いましても、もう、わたしらがいた班長以下11人行ったけど、第一線でしたのは、いま敦賀にいますナヤ君と2人だけが、2人だけでした。もう、第一線で仕事していたのは。

それでナヤ君もちょっと病気がちですで、それで、わたしがほとんど使われて。

それから師団司令部の連絡にも行きましたし。


それで隊へ下がるときでも、「連隊本部はこっちへ行く。次のついてくる隊はこっち行け」とかっていう、そういう命令を伝えたりしました。

ここ、第一はクレ高地での戦争ですね。それで、一番先は3隊が行っていたんですって。

それで、この下に通信隊が行って、初めは、通信との何やらは有線であれして。

それか無線になると、無線でもいいけど、発電機を、あれで、手で回して発電するんで、もう敵が近うなっと、もうこれはできんのですって。

ゴーゴーゴーゴーって音が、大きい音がするんですって。それから、日本軍は晩しか行動できんでしょう。


Q:クレ高地では最前線、ご覧になりました?

 クレ高地というのは、こういう岩山で。ごろごろした岩がごろごろってしたんですって。

そこを上がっていくんですけれども。


第一線、ほいで持って上がってやって、晩のうちにそれで、第一線が引いて(後退して)いるかも知らんちゅうところへ上がっていくんですんでね。

引いている場合があるんで、場所変わりますんでね、やられると。一晩たっていますんで、一昼夜ね。

それで敵の夜明け待ちで、砲が来ると、岩に当たってはじけて、ピカーツと光ってやられるから、灰が散りますわね、石がそれで散りますんで。

よう当たらんだったなと思います、わたしも。


それで、持っていっても、持っていってなにしたとこは、夕飯が食べてないんですって。

後に行ったときに。「何で食べてねえんだ」って言ったら、「水が足らん」。水がね。

「喉か渇いて食べられん」って言って、貴重な夕飯を食っていなかったですって。


それから一人一人、1人入っている壕(ごう)と2人入っている壕って、この石をずっと・・何もいれずに出て、大体が1人ずつ岩の中に入って、岩の囲いの中に入って「暑い、暑い」って。

昼は暑いんですが、晩は寒いですけど。


いや、本当に、余計たくさん死にましたって。本当にかわいそうなぐらい。


爆撃受けて、重爆撃って初めてですね。ただ、上、ずーっと飛んでいる。

そうしたら爆弾が落ってくるんですね。

今までの戦闘はこうやるで、撃つところはわかるんですけど、重爆撃の弾は撃ってこんですけど、どこへ落ちるかもわからんですってね。

見当がつかんのですって。

何べんも・・こう撃てばどういう方向へ落ちるということはわかるんですけれども、上は弾を撃ってくるのが、ずっと分かるんですってね。

そんなら、シューって撃ってくるんじゃない。

やっぱり、だいぶ速いんでしょうけど、高いところから、落ちる重爆撃の、そりゃもう、あたったら仕方ないわって、もう、逃げようはないわと思っていましたんですけど。

それで、その重爆撃で、野砲の大隊本部の観測手がきて、命中してね。

それで観測している者が生き埋めになって、爆撃で死んでしもたし。

それから、連隊本部があったところの近くのとこには、通信隊の者がいたんです。

通信隊の者も壕は生き埋めになっているんで。

それで、昼間でしょう。これを助けられんのや。昼間、掘られんので。

観測やったけど、それで壕にいた人は1人か2人だけ、陸地にいた人、1人か2人、助かっただけだっんですかね。

それでもう、3大隊、ほとんどもう死んでしもうたね。

それで(2月)8日の朝、わたしとヤマギシさんとタカダさんと3人と、連隊長と塙さんは残ったんです。

それから1大隊の大隊長と、それから2大隊の2、3人いたっけね。

それでクレ高地の奥へ、クレ部落のほうへ回って、クレ部落の南のほうから。

それで、夜明け前に着いて、そして突撃するっていうんで、それでいたら、わたしらにはもう「この壕へ3人残って」って連隊長が言われたんで、わたしら3人は残っていたんですって。


それから、しばらく前進して、そこで待機してて。

それから夜明けになってから「突撃」って言って、それからバンバン。

突撃で「わーっ」という声は聞こえたんです。そんな遠くではありませんでね。


ちょうど、夜が明けようっていうときに、連隊長と大隊長は突撃したんですって。兵隊やらね。夜明けに。

そして、バンバン撃ち合いになりましたわね。

そして、そこで分からんことがあるんですけど、ともかく、わたしらは夜が明けてくるし、敵の弾がくるばっかりで、撃ってはいるんやけど、帰ってこんのですってね、連隊長らが。

下がってこんのですって。どうしたんか分からんし、そのうち夜が明けてしまうし。

それで「これはあかん」っていうんで。

行たかて、ただ死ぬだけやし、それで「下がろう」って言って下がったんです。


それで、わたしはこう言うては悪いけど、自爆されたんでは命令は来んし。

「下がれ」っていう命令こんでしょう。それでもう、どうもならんしね。

それで「自爆したんではないかなあ」とわたしの推測ですんで。

それ(軍刀とか)を外して行かれたということは、そのために行かれたんではないかと思うんです。

ま、ともかくここでも、爆破でもって下がられるものは爆破して、そして道路へ夜明け前に道路へやっと出て、それから、みんな一生懸命下がったんですって。

それで、それ済んでからは、ともかくもう、マンダレーのみんな、下がるのを一緒にあそこまで行ったんですからね。


夜中じゅう、いっぱい下がったんですって。

Q:ああ、そうですか。

 あれは、ひどい下がった。それで夜が明けて、なにして。

そうしたら、戦車のゴーっと音したで、それでカネモリさんと沢の中にしゃがんでかかって。

そうしたら、下がったマンダレーから来た人は、飯ごう炊さん始めていたんやね。

朝早く、まだ日が出るちょっと前やけどな、夜明け。

そんなもので、「敵が来たぞー!」って、わたしとカナモリさんと2人で、叫びながら、デーツと道路へ下がったんですって。


それで、まあ誰も、あれは下がってきたものでは、あまり統制取れてないんじゃないかと思うわね。

だから重いね、車なんかで下がる者はだいぶ下がってもたし、いろいろあったんでねえかね。


Q:敵に向かって行く者はいなかったですか?

 あんなもんないよ。ただ銃で向かって行ったって、死んじゃう、向かって行ったって。

砲で撃っても敵の戦車はかく挫できんのやで。


Q:でも、もう、この辺まで行くと動けない人たちもいっぱいいますよね?
  そういう人たちはどうするんですか?

 それでもいると、「自爆せい」って言って、手りゅう弾渡したりしたって言うんですがね。

Q:もう最初から最後までずっとこの飯ごう(はんごう)を使われていたわけですか?

 そうですね。

だから(北部ビルマの)モウガンでも、モウガンで牛を1頭殺して、そして、みんなに分配したんですがね。

そして、あれしたのはよかったんですけど、そしたら「骨をどうした」って。

それでもう、副官が怒ってもうて、もうそれで、この栄養のないときに、1頭ぐらい殺したかて量も少ないですしね。
それで、怒られんですって。


Q:水なんかはあったんですか?

 水はありますわね、きれいかどうか。

それでいつも向こうで、並んで飯ごうで炊くところに死体が浮いている水でも、やっぱり、これで炊いたんですって。
いや、もう濁り水は飲んでも応えもしない。いつもそれで、洗わんならんのですって。


Q:飯ごうちょっと見せていただけますか?

 はい。

Q:よく使いこんでありますね。

 そうですね。これはもう痛んでもって、針金拾って付け替えたものですね。

これからはよ、また食べることばっかりやけど、飯ごう炊さんするのは、ともかく朝、夜明ける前。

それから、夜明け前というのは明かりも見えるし、明けても明かりが見えるし、それから煙が上がるんだ。

それから晩もそのとおりで、日の暮れどき。

敵が、飛行機が行ってもうた後に、飯ごう炊さん。この2回。

ところが2回を逃すと食事は当たりませんがね。


Q:何で夜とか日中は食事ができないんですか?

 夜やると、もう明かりが見えます。日中だったら、煙が見えます。

それでできないんです。この時間を逃すと食事は当たりませんね。

Q:岡田さん、どんなふうに思っていましたか?

 ああ、勝てるなんてはとても思いません。

どんなに、ともかく制空権さえのう、敵を爆撃せんでもならねえ。

昼間行動ができるようになったらと、思ったね。

ともかく、制空権、制空権がもう第一。


勝てるなんては思いもせんし、またあんまり、そう負けるっていうまでも、また。

あかんなと、あかんと思うだけで、負けるとかは思わんと。

「あかん、こんな戦争はあかんな」とは思ってても、負けるなとは思わなんだね。


Q:終戦は最後、終戦はどこでお知りになったんですか?

 ともかく、連隊本部で聞きました。

けど、それは知ったのは、終戦の知ったのは何日か、8月15日ではなかったように思います。


終戦の知らせが来たときには、カサシマ屋のテコの、本の編集に当たったあの人が、暗号班の班長やったんですけど、あの人が、「そんなもんわからん。難しい変なことが入ってきたんや」って言って。

暗号で入ってくるもんですて。そういうことを言うておった。
 

まぁ、ともかく戦争というのは、全然してはいけないことだと思います。


Q:やっぱりそれはご自身が経験されたからそうなのですか?

 はい。

それで第一線でというか、戦闘する人ももちろんですけど、残っている家族みんなが。

どう言いますかね・・・寂しい思いやら苦しい思いをするので、戦争は絶対にしてはいけないことだと思います。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1922年
福井県足羽郡に生まれる
1943年
歩兵第119連隊入隊、ビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、福井で農業を営む

関連する地図

ビルマ(サーモ、マンダレー、クレ高地)

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