ホーム » 証言 » 中野 珪三さん

チャプター

[1] チャプター1 傷ついた兵士たち  04:08
[2] チャプター2 最前線の救護活動  05:40
[3] チャプター3 負傷兵のウジを落とす  03:37
[4] チャプター4 野戦病院  04:14
[5] チャプター5 自決する重傷の将兵  04:30
[6] チャプター6 マラリアとアメーバ赤痢  03:41
[7] チャプター7 撤退の二つの形  04:14

再生テキスト

本当は、ひとりひとりを診てあげてですね、そして治療をしていく、というのがわたしらの役目だったんですけども、まあ、前線追及というのがわたしらの任務だったもんですからね、主として。従いまして、そこで苦しんでいる人がいるにもかかわらずですね、何もお手当てもできずにね、それを見過ごして前線追及を続けた、ということは、あの人たちに気の毒であったな、というような気持をしますね。何もしませんでしたからね、追及するときには。

追及するというときはもう、連隊と離れないようにですね、それでついて行かなきゃいかんもんでがすから。従ってもう、衛生業務というのは応急手当て的なもの、例えば、ちょっと負傷したから、ちょっと応急手当てをするという、そういうんなら出来ますけどね。あとはもう、何も。特に、いわゆる自分の隊とは違った皆さんの後退してくる兵隊をですね、いちいち診るというわけにいきませんから。まあ、それはあの、見ていて診ることはしない。診るというのは診断のことですがね、そういうことはしませんですね。

まあ、あの、衛生兵というのはですね、まあ、隊付きとそれから病院にいてですね、病院に勤めるというのといろいろあるわけですが。まあ、わたしらの衛生隊というのはですね、第一線部隊に直属してやる、いわゆる衛生隊ですからね。従って、彼らと共に行動しますので、衛生兵だけで、衛生だけの仕事をしていくというわけにはいかんですね。

結局、線路を越えるともう、向こうが敵というような状態で、どんどんどんどん上へ上がっていきましたので。まあ、みずからの体をしっかり保ってですね、そうして、もちろん急に体が悪くなる、というような兵士に対する応急手当はしますけども。そういう事態が起きん場合はですね、まぁ、とにかく一生懸命連隊についていくというね、そういう気持でいっぱいでござんしたな。

要するに、そのミートキーナ辺りまで行きますとね、その鉄道線路の脇、到着するというよりも、そこより以上は行けないという所まで行くわけですもんね。それを阻止するのは敵でござんすんでね。まあ、そこで、あるいはもう夜に入る。まあ、あの、昼はあんまり行動しませんでしたがね。でも、朝、早く前線追及の場合はその敵に悟られないようにしてですね、草むらの中を、まぁ言うと、敵に見られないようにして前進したわけですから。そしてその、中途するとしましてもね、もちろん家屋のある所ならば、そこをちょっと利用することがあったかもしれませんけども。そういう所がないときにはもう、ジャングルの中でですね、たむろしていたというようなことです。

包帯所と申しますけどね、包帯所はもちろん設けました。それはビルマの、みんなビルマの人は退避してしまっていますから、その家を無断で借りましてね。そこで包帯所を設けて、そしていわゆる担架で運ばれてくるね、重症者。もう、担架のここに血をいっぱいためて来る兵士。そういう兵士のですね、応急手当てをするんですが、もう担架のこの辺に血がいっぱいたまっておられるような方はですね、そこでもうほとんどね、気力だけで生きておるというような状態でしたね。従いまして、カガン(患者)もそれを覚悟しておりましてね。

死ぬということをね、覚悟しとるわけですね。もう、これじゃ助からん。ただもうね、われわれにね、「手当ては要らん。うまい水を一杯、欲しい」とかね、そういうようなことを願って。そうして、それをこちらが急きょね、谷底の水をすくって、そして彼の所に持っていく。それを彼はうまそうにゴクゴクと飲んでね、そして絶命する。そんなことを例えば、「もうわしは5月31日の生まれだ」というようなことを叫んでね、逝く兵士もおりましたね。

もう、いろいろですがね。腹部をやられたらもうダメですしね。それから腕をやられているのね。まあ、あんだけ血を流しておったらね、もうどこかその、いわゆる担架のくぐみに血がいっぱい入ってる負傷兵に手当てをしても、それだけ血を流しておったらもう助かりませんわ。

まあ、腕がブラブラになってね、そして、担架で運ばれてきた人だけども、担架の窪みには血をこぼさずに、そして、キチッと止血してある兵隊もいましたからね。そういう者に対しては軍医は即座に。それが夜であれば、ロウソクの火で。そうして糸は絹糸っちゅう、いわゆる絹糸はないもんですからね、木綿の糸で縫うて、そうして腕を落とす。

「いいか、腕を落とすぞー」と、落とす。

そういう人はね、まれな人で。せっかくね、負傷者の手当てをしましても、今のここで言うとなんですが、軍医さんと申しましてもね、お医者さんはいろいろですからね。

衛生兵はですね、それはまあ、いろいろと体内にたまった負傷兵のウジを取るということでヨーチンを垂らすとか。あるいはあの、傷口にうんだものを、それを少し清拭(せいしき)、きれいにしてですね、そうしてまた新しい包帯で巻くとか、そういうことはいたしますけどね。

ウジが、こうよじれて出るなんちゅうのはもう、ねえんじゃねえの、足まで。で、ヨーチンをやるとよじれて、こうヒモになって落ちてくるんだ。切れんのですから、切れんの。


Q:何が?

 ウジが。ウジが切れないの。

ヒモになって落ちてくるんだ。ここの大腿部をやられたの、こんだけ、ここがウジがいっぱい。


Q:それの手当て、されるわけですか?

 手当てって、あのヨーチンを垂れて、ウジを下へ落としてまた包帯をする。それが手当てですよ。何もできません。それはします。それはしますよ、きれいに。

ほんで、患者のもう手当てをして明くる日見ると、ここが卵でいっぱいです。白い卵で。始末できませんて、もう。それに新しい包帯を使うというわけにいきません、ねぇ。


Q:薬だとか包帯だとかそういうのは十分ありましたか?

 十分はあるはずがないですよ。

その病院には、毎日いわゆる20名以下の人間が死んでいく。穴を掘れんので裏の穴にほうるわけですよ。それがもういうと、いざ後退するときには、いっぱいになって、そこに草木で覆いをかぶせて、下がったっちゅうんですから。

死体の後片付けは、いわゆるそこを撤退するとき。そのときは必ずならしましてね。ほんで、今の爆弾の穴へ入れたのも、野戦病院ですからそこは、野戦病院の皆さんが埋めてね。まあ、埋められんときは、今の草木を上へ被せて下がったっちゅうんですから。それはもう、どうにもなりまへんわな。何百という死体が入ってるんですからね。そういうなんで、いわゆる、遺骨も何も取れずに、そのまま逝ったという人は、もう無数におられるんでないかと思います。

野戦病院があるんですよ。そこへね、わたしはあの、あれから50キロ、もっとかな、何十キロ下がったかな、あれに書いてありますけど、もうとにかく1人で下がったことがあるんです。それはあの、盲腸になりましてね。そのときにタガギクンという鯖江(市・福井県)の衛生隊長がおられまししてね、その人がね、僕の腹痛の原因を調べて「これは盲腸だからね、手術すれば治るけど、ここでは出来ない」と。

で、従ってどうしたかって言うと、谷川の水で冷し続けてやりまして、それで小康を得たんですが。それからまぁね、「これはこのまんまじゃお前、また再発したらもう今度はダメだから、とにかく後方へ下がって手術を受け」と。で、わたしは単独で「ご命令どおりに下がらしていただきます」と。そして皆に別れを惜しんで下がるんです。それでその、マンダレーの首都まで行って野戦病院へ入るんですけれども、もう野戦病院というかね、まぁ病院というような感じはしなかったですね。何日かね、まあ、廊下というのか、全部、血便だらけですよ。いわゆるその、もちろん負傷者の血もありますけどね。多くはその、赤痢患者のね、垂れ流す血。それで廊下が真っ赤になっておった。まあ、しかし、その病院ってね、どんどんどんどんもう、病人が来て交代していく。負傷したのが治療してやる。掃除も何もできないんですかね、まあ、すごいもんですわ。ようこんな所に患者を寝かしておくなというようなことでございました。

まあ、わたしは幸いにして冷やしたもんですからね。それを保って、そして手術受けるんですけどね。ずうっと、その100キロも歩いていきますとね、結局自然に治癒していくんですね。そして今度ね、治癒したあとに「治癒後突起」という突起物がね、この何日かな、肉の盛り上がりで隠されてしまうんですかね。医者は腹を切ったんですけどね、「合点がいかん、合点がいかん」って。何が合点いかんて、その治癒後突起がない。いわゆる失せてしまったんですな。

それからね、盲腸にはならなかったんですのでね、帰ってから3年ですかね、盲腸になったのは。そりゃ、この腹痛が来たときね、「これはダメだ」ちって、自転車を駆ってね、病院まで行きました。「盲腸です」と。で、すぐ手術をした。それで助かったんですがね。それが前線やったらあの世ですよ。

戦争ちゅうのは、その立場、立場でね。


Q:どうにもならんときには、もう邪魔なものは? あるいは日本兵の負傷兵はどうするんですか?

 手りゅう弾を与えるだけですよ。「どうぞ死んでくれ」と。彼も覚悟しているんですから、これで、ね。

わたしはあの、もう終戦も間近なときに、あのときに、シッタン河というのを渡って、そうして次のイラワジ河の河畔まで行くときにね、こう行ったときに敵の襲撃を受けた。というのはその、なにかな、めくら撃ち、ちゅうやつだね。ダダダダダダダダッとね。もう、その弾に当たってね、腹部貫通で来られた少尉がおられた。これ京都の人でしたね。腹、貫通されておった。こんなの手術できません、自分は。手当てはしましたよ。血の出るところをきちっときれいにしてね。そして、「あした下げます」と。もう夜中ですからね、あしたお下げしますけれども、きょうはここで寝てもらう。で、われわれと一緒に、一緒に寝たんですよ。一緒って、まあ、わたしらはこちらの。あくる朝、ものすごい音がした。「バアーン」と。爆破のね。ほんでわたしは逃げたですよ。ところがね、「バババババーーン」と音がしただけで、あとは音がしない。「おかしいな」ちって、また戻ったね。そしたらその中尉が自爆した。腹をやられておるから、もう、この人は覚悟したんですね。わたしは、下げてから手術を受ければいいと思うね。「もうわしはダメだ」とあの人は覚悟したんでしょう、それで自爆したんですね。その人の腸がね、かのススキが原のほうへ、ダラーっと下がって。京都の人でした。もちろん、きちっとしましてね。きちっとしたってその、死体をきれいにしまして、遺骨らしきものを取って、それらしきものはしましたね。その死体はそこへ埋めた。ね。そういうなんですもんで、負傷者の状態もね。

あとはその人の体力、それと気力。それで、彼のできるだけの力で、あるいは同胞がいるでしょ、同じ兵がいる。それの助けを受けて後退を続けていく。そして途中で倒れて死ぬのもいるしね。だからね、そのときのイラワジ河を見ると、ようわかったんですがね。イラワジ河というのは、もうこの干満の差の激しい所ですな。2メートルかそこらあるんですが。死骸が、ずうっと、この下に流れるときにはね、向こう岸だけですけども、死骸がね、ずうっと、こう途切れなく流れるんだ。向こう、向こう側が白くなるほど。

蚊が多いということですね。今、ちょっと申し上げましたけど、部落はですね、蚊の音でミンミンしてたでしょ。「ウワーン」と蚊の音でね。あくびをするとここへ、バーッと蚊が入るというのが、今のこの日本では考えられんでしょ。それだけ蚊がいるんですから。もう、中支でもなかったですよ、こんだけ蚊が出るのは。それが皆、あのフエレックスというマラリア蚊ばっかしですからね。それに刺されるんですから。もう何日かね。薬いくらあったって、だから薬を各兵に渡して、予備薬として。もうマラリア蚊はどうにもならんと。

で、もう、赤痢辺りはね、これは今度、口のほうですからね。生水を飲んだり生のものをちょっとかじる。うちの衛生隊長もこの赤痢で亡くなったんですからね。アメーバー赤痢で亡くなった。ねえ。不衛生だったわけでないんです。そういうくらいね、向こうのアメーバー赤痢は菌の力が強かったんですね。ほんで一般の、戦場でないんならね、それを食塩水で足を洗うとかなんとかでいくらもできましたけどね、そんなことできない。できませんから、結局、ほっぱなしと。

(薬は)効きますよ。効くんです。効くけれども人間の体力というのはね、蚊の種類と蚊のその数、それに負けたということですね。いわゆる、部落中がもう音がすると。口を開けると蚊が入るほど、マラリア蚊が、この媒介する昆虫が多かったということでないでしょうか。ああもう、ひどいもんですわ。

いや、あの、われわれは何でもなかったんですから、それは大丈夫です。けれども、われわれはなんともなかったんですが、ちょっと体力の弱い人、あるいは、そこでちょっと赤痢をしたと。病菌がね、マラリアと赤痢と重なったと。そういうなのが余計いましたからね。それから栄養失調。こういうなのがたくさん出るんですよ、戦争には当然出る。そうしますと、いわゆる、ふだんなら耐えられるマラリア蚊の病菌を克服できないんですね。で、それで、いわゆる脳の中で赤血球が分離して、いわゆる脳、脳症というのになるんです。「ははははは」と言うてたと思うと、脳症であの世へ。明くる日、行く。

ただね、わたし言うんですけど、彼らの、彼らのたむろしていた、今のその落下傘部隊のいたそこを、いっぺん見たことがあるんですけどね、それはきれいなもんでしたね。ほう、もう言うと缶詰でもね、きれーいに、もう穴掘って埋めてある。チリ一つ落ちていないようにきれいにして、撤退してやがる。まあ、もちろん、そういう敵に変なもの見せちゃならんという意味もあったんだろうと思いますけども、それはきれいでございました。それから見たら、こちらの野戦病院なんかはもう、メチャクチャでございましたね。そやけ、こんなことはあんまり言わんどいてくださいね。あんなもん、かわいそうで言われへん。日本軍のいちばん悪いとこをね。

わたしは支那も行きましたよ。シベリアにも行きましたけども、負け戦でないですわ。みんな戦勝でしょうね。だからその時分は威張ってましたし、それ、キチッ、キチッと節度もあった行動をしましたね。でも、退却となったらね、そんなことしてる間がないんですよ。ほんで、今もね、落下傘部隊が下りたそのあと地へ行ったときのきれいさというのは、ゆとりがあるということですよ。向こうは、それだけ。きれいに始末してね。敵に変なもの見せず。彼らに占領されたわけですから。ほんで、われわれは後退するとき、それが出来たかっちゅうと、われわれが、去った先輩、前に下がった人の跡地を見ると、とてもとても。もう、何かもう、ブタ小屋みたいなね、始末が悪かったですな。

もう、野戦病院を見たとき、もうびっくりしたんですもん。そら、看護婦もいる。まだ看護婦はいますからね、マンダレーの首都ですとね。第一線とは全然、違いますから。そこがそれだけ汚い。その、その代わりね。そうそう、わたしがね、もう縫合をしてしまって、もうこれは、今度、再発したら、もうあかんなと。再発しないだろうぐらいの気持ちでいましたけど。それで下がるときにね、そう、そこのね、野戦病院のね、隊長が替わったんですね。そうだ。その帰りはきれいになってた。そうだ、行ったときと帰るときと。帰るって、僕は前線へ復帰するときと、全然違うてましたね。人、そういう戦況、そういう隊長の考え、まあ、そういうなのがね、影響したのかもしれませんね。だから、それはね、そういう戦況だったんかもしれませんですよ。ほやけ、あんまりそんなことはね、あんまりバラさないほうがいいかもしれません。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1917年
福井県三国町に生まれる
1943年
第53師団衛生隊入隊、第119連隊とともにビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、大学の事務職に就く

関連する地図

ビルマ(サーモ、マンダレー、クレ高地)

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