ホーム » 証言 » 宮部 一三さん

チャプター

[1] チャプター1 退却支援  02:43
[2] チャプター2 夜襲  05:13
[3] チャプター3 連隊長 自らの突撃  02:15
[4] チャプター4 自傷する兵士たち  03:40
[5] チャプター5 敗戦そして捕虜収容所へ  07:36

再生テキスト

ビルマですか。まぁ、はるばる来ましたいうことなので、とにかく勝つんだと。

相手がですね、イギリス軍のね。それにインド兵。これが主だったですからね。そんなに強い兵隊とは思わなかった。


Q:勝てると思った?

 勝てると思った。負けると思ったこと一度もないです。

だんだんこう、敗戦になってきたですわね。

当然もうね、第三者から見たら負けるんだということは分かったですが。

われわれは、もう絶対勝つんだと。最後まで。


それはやっぱり積極的に攻めるんです。

攻めればね、下がるか、しばらくそこで止まれば時間稼ぎの、やっぱり攻めなんです。ということでね。


ただね、兵力の損耗が大きいんですわ。

病気である上、怪我をした。ほうしたら作戦に使う兵隊が少ない。

それは大きかったです。


そうやねぇ。これも退去命令ということで、だんだんだんだん、下がるんですからね。

それで、そのためには攻撃する。これよりないわけですね。

しかし、イギリス軍はですね、非常に慎重なんです。

あの戦争はね、一つの日本の陣地を取るのに10日は準備します。

そしてこれ、10日が終わると、一斉に攻撃します。

そうしたら日本が負けですわなぁ。そういう形式です。


守りということ自体はなかったですね。

とにかく攻撃、攻撃。ただ人が足らんから、火力が少ないから駄目だったんで。

あの中ではクレ高地って、ちょうどビルマの中部ですけどね、クレ高地の攻撃は、3回連続して夜襲したんです。

大隊長、大隊長は戦死するけどね、50人か60人しかおらん。


1個大隊は大体1千人おるの。1千人。それが大隊長が攻撃するのがね、やっぱり50名。

50~60名しか・・・夜出て、山を必ず取るんですから。

3回やりましたが、3回目に負傷したんやけれども。とにかく3回やったんやけどね、全部成功しない。

夜が明けて敵の飛行機がこう来だすと駄目。

上からやりますし、攻撃する日本は少ないし、結局またさがる。この繰り返しを3回やったです。

3回目にわたしは負傷したんです。


ここ(腕)がちょっと痕があるんですけどね。幸いね、骨も血管も。ただ出血がある・・


Q:何にやられたんですか?

 迫撃砲。迫撃砲の集中射撃にやられた。

下がってね、それでまた下がっての、これはもう消耗戦。結局負けです。


Q:どんなふうに負傷されました?

 あの朝、夜、こう小さい低い山ですわ。

ちょうどあそこのアカサカ山くらいの山でね、低い山ですわ。

それで夜10時に、すぐこっちを出発して、そこを上がるんだよね。

それはね、大胆なことには敵は山のふもとに歩哨を置いてね。これはおかしいと思ってね。

それで山へ上がって占領するでしょう。

朝8時になったら戦闘機4機が飛んでくる。小さな山やでねぇ、それで旋回攻撃。

そのとき、わたし1人負傷した、大隊で。

それからタムラ大隊長が、代えてくれ、代えてくれって申し込んだけれども、連隊長、代えないでね。

そして、わたしたちは下がったんですね。それで野戦病院へ入った。

それからあれで、タムラ大隊長がね、わたしが負傷した2日目か3日目に交代された。それがクレ高地の最後のあれ。


Q:なんで夜襲だったんですか?

 そうですなぁ。まぁだんだん、やっぱ兵隊のね、やる気がなくなる。

それで命令でね、命令出して、山の上を確保しろという命令出して。

命令って言ったって、誰もおらへん。山ね、一時制圧と命令したらね、誰もおらせんのや、兵隊が。

それでかえって敵から射撃を受けた。


中隊長がね、中隊長自体がやる気がなくなった。

それからは、それから攻撃するときは必ずわたしはついて行って、下士官1名連れて、わたしとその部隊と一緒に行動するの。

それは戦争の実績を確認して、それで本部へ。

あのね、連隊長が亡くなったということは、病院におるときに、風の便りに聞いた。

それで、帰ってきて確認したんですけれども、もうあれは自殺でしたね。

責任。昔のこれやね。

配属のね、士官から、マツイからはやかましく言う兵隊はおらへん。

責任感、責任自殺です。もうこれは、とてもあかんと判断したんです。でまぁ、死なんでよかったと思うわね。


Q:上からの圧迫はきつかった?

 圧迫はきつかった。もう「取れ取れ取れ取れ」でね。それでもう自分は、半分は自損するんでね。そやかと思うね。


そう何度も来たです。ずーっと来とったんです。ずーっと来とったですね、命令が。

内容は同じですわ。早く陣地を取れちゅうこと。早くね、敵の陣地を取れちゅうの。それだけです。


というのは、もうずっと前からもうあれ、自決を覚悟しとったもの。 ただ時期を見とっただけや思うもん。

それでもわたし、部下としてはね、否定してもあれだからね。

とにかく、勇気をつないで残った部隊を指揮して最後までやってくれたらよかったね。

毎日毎日が退却なんですよ。

それでわたしは、ビルマで初めて自傷という、(銃などで)自ら体に傷つける、自傷という負傷を見ました。

わたしは何回ね・・・支那事変やろう、それから除州会戦、武漢攻略に参加した。

それで、自分から体に傷つけて負傷するちゅうのは見たことなかったんや。

今度初めて、ビルマで兵隊が自分で傷つけて後ろへ下がる。

そういう場合は、われわれはそういう兵隊を下げないんです。前線に残すんです。

そういう処置をとったけれども、行軍中に休憩ある。

そのときに、まけがおどって、それで手りゅう弾、手榴弾2発はここにちゃんと下げとる。

それで自決。自決ちゅうことばは今度が初めて。支那事変までそんなことはない。


Q:なんで自分を傷つけちゃうんですか?

 それは分かりませんけれども、もう疲れはてて、まぁこんなえらいことなら死んだほうがええ、というふうに思ったんじゃないでしょうか。


まぁ自傷というのは、まだ生きたいっていうのがあるわけね。

だからけがをして、戦争の隊列から離れる。これが目的。


自傷するときは、やっぱりここを、ここを切る、手りゅう弾がない場合は。

そのほかは大体、手りゅう弾。

 
いや、あとの戒め。同じようなことをやったら、これ真似をしてね、そういう恐れがある。

だから、わざと後ろに下げない。戦線では出さないけれども。


Q:やっぱりそのころ、みんな相当つらいというか、生きたいというのはあったんですかね?

 いやいや一般にね。つらいっていうよりも嫌気や。

嫌気がさしとるでね。もう、戦争いやいや、やってたもん。気持が。

もうなんとも言えん。どうしたら良いか分からなかったです。

あれはあのー、師団司令部へ行ってたから、もうすぐ分かるですね、あれは。

いちばん最初、来た電報が、「書類を焼却すべし」。これが第一報、書類でね。

それから「軍旗奉焼すべし」。これは第二報。これだったですね。

それで、書類はこれは焼却したらあと分かるでねぇ。

戦闘詳報も功績名簿もあとは見えなくなったけれども、とにかく書類焼却すべし、それから軍旗奉焼すべし。 


軍旗奉焼のときは、部隊によっては全部部隊整列して、連隊長以下全部いて、それでそこで軍旗を焼いた。

下士官や兵隊には全部隠して、参謀長だとか連隊長とか連隊ケイシとか幹部だけで焼いて。

軍旗を焼いたことを隠したとこもある。それ2通りある。

ただ、一りゅうだがね、今軍旗が残っとるのは。靖国神社に今はずーっとある。


そうですねぇ、軍旗を焼くときやね、いちばん来たのは。

軍旗を奉焼するときに、たまたまわたしがそういう準備を命ぜられたもんでね、

余計胸に来たです、敗戦っていうことが。


あのすぐにね、帰ると思ってね、ああ、2年も3年もね、抑留所にね、おるっていうのは考えなかった。

それでまた、軍隊はね、なくなるとは思わなかった。

まだこのままね、現役だけ残って、それで、予備や小銃を返すと思っとったんです。

それ、軍隊がなくなるっていうことはね、全然。


まだ最後まで、戦って負けてもね、そんな丸裸になると思わなかった。ある程度の軍隊は残されると思った。


Q:収容所で一番嫌な作業は何だったですか?

 あの、し尿の処理。便所の所内のし尿のね、後始末。


林師団長がね、わたしとある日、お供して歩いとったらね、「宮部、お前、日本へ帰ったら、何をやる?」聞かれたですね。それは師団長が。

それで、「宮部は、日本帰ったら百姓やります」って言って。

「おお、それはええな。頑張らな、あかんぞ」と言われた覚えはあるんです。


Q:帰って誰に会いたいとかありましたか?

 やっぱり妻やね。子どもは生まれてすぐ死んだもんで、妻だけで。


Q:どんな手紙書いたんですか?

 ただ、早く会いたいというふうに書いとった。率直な書き方だったと思う。

Q:復員が決まったときはどんなお気持でした?

 嬉しかったです。


大喜びで、わたしは下でテレビを見とったんでね、ちょっと分からなかったけど、連隊のほうはもう、無条件やね。

喜んで。

早速もう帰還の準備でね、ほとんど、移っとるで。


うちのことばっかり考え・・そしたら家族がね、大垣駅まで迎えにね。大垣駅までね、迎えに出とったんや。

それが、いっぺんに職業がなくなっちまって。これは困った。


Q:大垣駅に迎えてくれたご家族は、どんなふうに迎えてくれたんですか?

 家内は病気で寝とったんでね、家内以外のみんな、とにかく涙の思い、涙涙で、お迎えや。  


Q:初めて宮部さんと会ったとき、奥さんはどんな様子でした?

 喜んだ。嬉しかったです。嬉しさでいっぱいでしたよ。
 

ただそれとね、あの、亡くなった人の忘れ、忘れられんね。

新婚でね、亡くなったわたしの友達が3人か4人おる。まだ赤ちゃんが生まれとらんうちに逝った、一人おるん。


自分だけがね、生きて帰ってくるということも複雑な思いですね。

もう、ほとんど亡くなりましたよ。(証言を)こうやって残してもらえると、本当に嬉しいです。

やっぱり戦争というものについてね、後世に残したかった。

うん。戦争というのは絶対やったらいかんという。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1913年
岐阜県池田町に生まれる
1934年
歩兵第19連隊入隊、南京、徐州、武漢の戦闘に参加
1943年
歩兵第119連隊に配属、ビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、製造業を営む

関連する地図

ビルマ(サーモ、マンダレー、クレ高地)

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