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チャプター

[1] チャプター1 119連隊 クレ高地へ  02:04
[2] チャプター2 連隊長に手渡した 2発の手りゅう弾  03:03
[3] チャプター3 生と死のはざま  02:08
[4] チャプター4 軍旗のもとに  02:55
[5] チャプター5 「命令」は絶対  02:14

再生テキスト

はあ、はっきり言うとね、わたしはまぁ、戦争専門の兵隊でないさかいに。

技術の兵隊やから詳しいことわからんし。

クレ高地行ってまっせ。だから、頂上まで上がってないんや。ふもとまでは行ってるけどね。

わたしは台地へ出てないや、仕事が違うだからね。

あの、小さい山や。小さい山や。クレ高地って小さい山やけど岩だらけでね。

普通やったらねえ、グッと突撃したら、自分で穴を掘って、あの中に潜って隠れるんやけど、岩だらけで、穴が掘れへんのやな。

岩があるやろ。岩があるけど、飛行機が来て上からおっちょんじゃから、丸見えや。

来ると隠れるよ。上から撃たれるじゃろ。そやからダメ。

それと迫撃砲な。上から。

迫撃っちゅうのはね、こう飛ばんのや。こう行きよる、弾がね。

塚の上で撃ちよるやん。弾がこう飛んできて、そしてこう落ちるんじゃ。

そやから岩の陰に隠れてても、ここへ落ちるんや。敵はもう、その迫撃砲を使える。日本は迫撃砲なかったから。


わたしはね、弾薬、部下5人連れて手りゅう弾(手りゅう弾)、投げて殺す手りゅう弾っちゅうのがあるのや。

それを背負わせて、わたしも持って、で、走ったんや、ね。そしたら敵の機関銃に狙われたやん。

バーン、機関銃がバババーンと撃ちよると、足元に弾がつくんじゃ。ほんで、隠れたんよ。

そこに連隊長と塙、その時分は中尉やったけど、塙中尉と話をしてられて、その終わった瞬間だと思うんやけど、わたしが向こうの中尉、塙中尉が外へ、あっちへ行かれた。

連絡へ。報告、報告や。報告に行かれて、で、塙中尉の顔はわたし見てないんや、姿は見てるけど。

そのとき、塙中尉、軍刀を持ってるやん。

軍隊っちゅうのはね、将校になると鞘が赤いで。

大佐以上になっていると赤いや。見てるとわかんのや。中尉じゃ持てへんじゃ。

その軍刀を持ってはるさかい、なんでやろうなと。


Q:連隊長はどうでした?

 連隊長は落ちついておられた、落ちついておられた。やっぱり連隊長やと思うた。

それで、「手りゅう弾持ってきました」と言うたら、「俺にも手りゅう弾2発くれ」と。2発。

「俺にも2発くれ」と言われたんやな。そのときは、自決するさかいとは言わへんで。

「俺にも2発くれ」と言われて、わたしの持っとる手りゅう弾から2発取られる。それだけや。


それでずっときて、前にケガして背中に赤くなってた。

で、「連隊長、血が出てますよ」と。

そしたら、「あ、分かっとる」とこう言う。かすりキズやな。で、この辺(べい)よ。

服の下から血が出てるから「かすりキズや」と言われた。


それから、わたしは当時若かったからね、部下が4人、わたしと5人じゃ、「5人でここで戦います」と。

そしたら、「お前は任務が違うから後方へ下がって、次の弾薬の補給に従事しろ」と。

弾薬補給がわたしの仕事やから。それで、「命令」と。

軍隊から「命令」っち言われたら、これ死ぬとわかっても行かざるをえん。「命令」ちって。

どこへ、「下がって次の弾薬を補給しろ」とこういう命令だったら、自分はいたいと思うけども逆らうなかれや。

それで敬礼して別れたんよ。それが連隊長と別れた最後の場やね。

最後の言葉が、「次の弾薬補給のため下がれよ」と。これがわたしの与えられた命令や。

それで、部下の4人を連れて、今度はこっちの川の、水のない川みたいのにね、のって。

いろいろ苦労して、それで元の補給の本部に下がったんや。

それがわたしと連隊長の最後の別れや。

で、わたしは補給本部に帰って、で、今度は次の弾薬に移すので。

そこには、通信やとか衛生兵やとか、それから、要するに工事・・はんぶん兵隊とかな、あんまり戦争にまにあわん兵隊がおるんよ、な。そこへ戻ってきたんや。

そしたらそこに、このときは爆撃受けてる。バラーっと爆弾落としよってん。

わたしの壕(ごう)の隣に、通信やから無線打つのや、深い壕を掘ってあんのや。な。

そうすると隊長はね、わたしと准尉でね、「山崎准尉さん、うちの壕は深いさかい安心やから、こっち来たらどうや」って、こういうふうに言うてくれたんや。

そのとき何の気持もなしにね、昔、「狭いながらも楽しいわが家」っちゅう歌があったんや。

それを歌うて、2人で、2人して口ずさんで、狭いけれども俺の家はええと。家っていっても穴掘っただけね。

地面に穴掘って、それもこの辺までしかない。掘って潜ってるだけよ。

狭いけど俺の家はええと。それで上等兵が入ったんや。

そしたところが落とされて。・・・そのすぐ近くに落ちて、深いほうが安全だと掘ったさかいに、だから余計に付近の土が壊れて、ザーッと頭から土かぶって7人か8人生き埋めになって、それで死んでいった。

その隣がわたしの壕や。3メートルか5メートルしか離れてへん。

で、わたしの壕もつぶれて、こないまで埋まったけど、朝になりゃ土が少ないから・・・助かった。

けどなんや、ええ壕へ入っても死ぬときは死んじゃうし。

浅い壕に入っとっても助かるときは助かるんだ。しゃーないな。

要するに、全部玉砕しようという意見と、下がるのは下がろうと言う意見と分かれて、らしいけども。

結局、なんちゅうかね。まぁ、バラバラになってまとまりがつかずに、とりあえず、われわれ軍旗を守る責任あると。
軍隊ちゅうのは軍旗をまもらなきゃダメだからね。まず、軍旗をまもらないと。

で、軍旗の所まで下がろうというて、軍旗の所へ。

で、まぁ無意識的に、はっきり知らんで、無意識的に集まった。


軍隊っちゅうのは軍旗を大事にするからね。

軍旗はある程度の所まで下げたんです。前もってね。

連隊旗手とか下げないで。で、軍旗がいちばん先に下がって。それから考えよういうことで、退出して。

・・・先任軍医だから、わたしにね、「お前は最後の一兵まで残るまで見てれ。

それから、見てから下がれ」と言うて下がってしもたんや。

そしたら、わたしも一応、命令やから下がったんでしょ。

あとは死骸(しがい)ばっかしや。

死骸ばかりだ。暗闇でっせ。眼が見えんで。触ってや、こう動かしても動かへん。

わたしは死骸やと嫌やけども、死骸やというて探して、とうとう一人で下がってきたんや。


そのときに、第二大隊がよその部隊に配属になって、その部隊が戦っていて、それが本隊が危ないというので、命令で「本隊に帰れ」っちゅう命令をもろうて後退してくる。

そこで、軍旗もそこへ下がって、それであの真っ暗闇の中ですよ。

たき火して迂回(うかい)して、たき火の火で。軍旗というと包衣がかぶって見せへんのや。

それを外して出して。で、その前に、火の前に軍旗を見えるようにして。で、敬礼と。

兵隊は捧げ筒や。将校は打っ刀で、投げ刀ちゅうて、こうして普通投げ刀。これが敬礼や。

こうして軍旗に挨拶して。

それで、それからあとは、わたしらの木っ端は、偉い人は・・それで次の陣地まで後退したわけ。

Q そうですね。最後にちょっとお伺いしたいんですけども、もしクレ高地で、クレでですね、連隊長と大隊長が、連隊長が死ななかったら、山崎さんご自身はどうなっていたと思われますか。


全滅しとるやろな。全滅してるやろな。

連隊長がね、「あくまでも戦う」っていうてやったら全滅しとるよ。極端にいえば1人も残ってないやろ。


結局、浅野連隊長が生きてたら第一線を下がるわけいかんのや、ね。命令なくして後退できない。


命令っちゅうものはね、きついんや。命令あったら、仮にね、死ぬとわかってても飛び込んでいくんじゃ。

命令なかったら、誰も、あんた、死に行くか?

何もなかったら下がるよ。わしも下がるよ。

そのときのね、昔の軍人教育っちゅうのは・・それで、あれだな、今から考えたらアホか・・・。


命令というか、命令、即家族やね。

あの人は軍人や。命令、戦争でな、逃げて下がって、それが人の噂で聞いたら、親や兄弟にどんな顔がある?

「あそこの息子さん、突撃してるのに、俺嫌やって逃げて下がった」と言われたら、どんだけ恥かく? 親や兄弟ね。
それを考えてるんと違うか。

わたしなんかもそうやろな。本当は生きたいよ。

生きたい、帰りたいけども、あんまり、そんな、「山崎さんの男はん、トコトコ逃げて行きはった」ゆうたら、わたしはかまへんけど家族のほうは迷惑するやろ、と思うんだよね。

聞いたことないけどね。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1914年
京都府京都市に生まれる
1934年
歩兵第9連隊入隊、満州へ
1937年
歩兵第9連隊へ招集後、騎兵第20連隊に転属
1943年
歩兵第119連隊に転じ、ビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、電機会社に勤める

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ビルマ(サーモ、マンダレー、クレ高地)

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