ホーム » 証言 » 高田 栄さん

チャプター

[1] チャプター1 「白骨街道」  02:53
[2] チャプター2 死臭ただよう中の行軍だった。  02:27
[3] チャプター3 空襲で装備を失って、北部戦線へ。  03:12
[4] チャプター4 サーモの戦い。  04:00
[5] チャプター5 砲弾を跳ね返す戦車。  02:43
[6] チャプター6 退却路の悲劇。  05:41

再生テキスト

わたしが入ったときには、あの、ちょうど船ででも、魚雷っちゅうんか、あんなものに襲われたりなんしたり。

南から、今度、東行ったり西行ったりね、こういうようなことがありました。

そして、昭南(昭南島:当時のシンガポールの日本名)へ上がって、昭南で2日3日いて。

それからタイへ入って。そして今度は泰緬鉄道っちゅうのね、あったんですね。


Q:その後、それでこう、マンダレーまで上がってきますよね?

 マンダレーね、ちょうど中間にマンダレーっちゅう所がありますわね。あの、古い都でね。

あそこまでは、もうほとんど、たまに敵の飛行機が来て、こう来るとか。

この、今の汽車を狙うとか、そういうことがありましたけど。

そんなもん、ほんのまぁ、全然何もありません。


ミイトキーナっちゅうのはいちばん奥ですわ、汽車のね。いちばん奥はミイトキーナっちゅう。

そのサーモとか、あれの2つ3つ手前にピンウエとかってありますね。

そこらまで行くのに、まだまだ先の話でね、ですけど、白骨街道ってね、それを道沿いに歩いて行った。

そうしたら、あの、インパールやあこら辺の負傷した者やら病気した者は、今度、それを下がってきたんやね。

わたしらはこれを追及してったし。インパールらの戦争をして体、弱った人らもこれも下がってきた。

そいで、ところどころに、野戦病院がありますわね。

野戦病院へ入って、ここで死んだり。中途で水を飲んで、アメーバ赤痢になって死んだり。

そういう人が今の鉄道沿い、余計いたんです。

これね、あの、この道、臭う、うえにも臭い、もう死んで。

それで、兵隊が1人死ぬと、畳1畳分のススキでも枯れてまう。

牛やったら、畳、2畳か3畳ね、枯れてしまう。

馬1頭、これで竹、いやススキみたいな所で死ぬと、6畳間かそこらのススキは枯れてまいよる。

こんなような状態でね、ビルマっちゅうのは。

そうすると、なんで枯れるんかっちゅうと、こう、ハエがたかって、そしてウジがわいて、それをウジがまた葉に、ススキやらの葉にたかって、ほいでウンコをこくでしょ。ほれで枯れちまうよ。

踏んだのやら何やらもう、臭いほどの、臭う。そんなん、白骨になったものはありませんけど。

ほいでわたしらも、何日もこれで炊さんせにゃあかんですわね。

そうすっと、炊さんするためにこう、溜やとか川やとか、そういう所の水をもらわなあかんのやね。

それを、川は流れるでいいんですけど、このクリークてな、溜んてな所は、みんな兵隊が、下がってくる兵隊ですよ。

兵隊が水を飲むのに、もう手やら足やらいうことをきかんと、パターッとここへ倒れて死んでいる所やら。

これをわたしら、晩暮れっちゅうと、水をくんで帰って炊さんして、ご飯をたいて食べたりそんなこともありました。


Q:そういう所を夜歩くのって怖くないもんですかね?

 そんなもん、大方連隊で歩くんやで、おとろしい(恐ろしく)ない。ついて歩くんで。

ほいで「小休止」言うたらあんた、ファーッと倒れてね。

ほいで、20分かそこら眠って、また「出発」ったら、また起きて行けばいいにゃけど。

臭いのは臭いけど、恐ろしゅうはないです。

ほいで、この間言うたとおりね、戦闘機が2回ブーッと来たんですよね、戦闘機が。

「あららー」って、そこの住宅には7人泊まっていたんです。「危なーい!」ちって。

ほいで、現地に作った壕(ごう)ですね、「壕に入れーつ」ちって。そいで、7人がガッと入ったんです。

ところが、3人か、そこらんか入れんような所へ7人入るのやから、われ重なって入って。

そしてしばらくしたら、今度は、旋回してきた戦闘機2機が、油ですかね、焼夷弾(しょういだん)ですかね。

何かそんなもんを、うちらの泊まってる所へ、パーッと落としたんじゃね。

そしたら、入り口がパーッと明るくなりました。

「あららー、うちは燃えてもうたー」っと言ったけど、この家はすぐ、5分か10分でもう燃えてまうんです。

これは竹の柱に、屋根は今の葉でしてあるんですね。ヤシの葉ってなももんで、してあるんで燃える。

ほいで出てみれば、今の話じゃ。背嚢(はいのう)から水筒から何から、銃から鉄カブト、みんな燃えてまいました。
ほやけど、背嚢やそんなものは、内地から持ってきた親の写真な、親の写真とか兄弟の写真とか、まぁ、コレの写真も入ってましたけど、そんなものもみんな燃えて。

軍隊手帳らもなんも、全部背嚢やで燃えてまいました。

7人のものはみんな燃えてまいました。


そしていちばん先の、ビルマのいちばん先端へ行って。

そこにまぁ、大きな砂糖工場がありまして。

で、サトコウ(砂糖工場)の横へ速射砲の中隊の陣地でね、あのね、入ってるところを、中隊が入っているところをジャングルの中へ作って。

3日か4日そこにいましたか、中隊長と共に。

そうしたら、マラリアやら今のデング熱ね、アメーバ赤痢。

もう、弱い者はもう半分ほど、ここでもう、後方へ下がらなあかんような状態になってまいました。

ここで、60人かそこらいましたかね。

サーモではね、あの今の砂糖工場の横のジャングルからね、砲を持って、それでサーモからちょっと表やね、行って。
そして陣地を取って、そして砲の陣地とって。で、砲を擬装して。

そいで、2日3日たったら小銃隊と、敵の小銃隊とパラパラーっと機関銃やなにや、撃ちにかかったんですわ。

わたしたちの砲の前で。


ところが中隊長がね、今度は戦争になってきたんたらで、「撃て!」ちってね。それで3発か4発撃ったんです。

それで速射砲ちゅうのはね、この照準しれば当たるんですね。砲が長いんやで。

そやけど、こんなジャングルの所でこんなして・・・連隊砲はこうやって距離をとってこうやれば当たるんですけど、速射砲っちゅうのは、戦車でも自動車でもこうチャーッとこう、もう眼鏡でわかるやに。こうやってね。

そして、この砲身が長いんや、ずーっと。そしてまぁ戦車撃たれた。

そけど、速射砲はそんなジャングルの中で、そうやってしばらく撃ったんやねん、3発か4発。

そしたらものすごい。耳。いちばん最初よりものすごい、耳がつんぼになるほどね。

わたしは「あーあ」と思っていたんです。

そしたら敵も、三連装ちゅうのある、三連砲ちゅんかね。

これが4、5台あったんじゃね、その奥ね。

それが、もうわたしらの屋根、屋根でねえ、頭こうやってサーッとみんな後ろだ。

サーモのほうの後ろで破裂しました。

そしたら中隊、中隊か2中隊かね、中隊か10中隊か、あんまり敵が多いんで「もう下がれ!」って命令があったで下がるんやと。「ほいなら速射砲も下がらなあかん」ちって。

で、そこらのものを引っ張って、7人ほどで引っ張って下がったの。

そしたら、(陣地に)まだ20人やそこらいなあかん兵隊が、もう5、6人ぐらいで。

みんな下がっておいて、病気して。


するとマラリアになってまう。そんなして、熱が出て下がってまう。


戦いってね、あれは、わたし思うんですけど、敵が来る、戦いって、敵をつぶすんでなしに、こう守って、野病(野戦病院)とかね。

ほれで、連隊本部とかそんなもんに下がるための、「楯(たて)」っちゅうんかね、昔の。

「楯」っちゅうんでしょうね、あれ。楯になってただけです、わたしらは。

菊兵団(18師団)っちは九州の、ほれ、ものすごい強い、「強い」っつっちゃ、おかしいけど、有名な兵隊やったんやけど、ほんな人はみんなこうやって、「安(連隊が所属する53師団の通称)さん、頼むよ」って言うて。

そんなでけぇ声でない、小さい声で言うて下がったような、ほんなような状態やで。

ほいで今度は、ここら戦車が来るような時期やと、来るような道やと。

ほんで、ここへ少し小高い山へ陣地取って、そして戦車を撃つんじゃと。

で、「近づいたら撃つぞ」っちゅうてちゃんと話し終わって、そして待ってたんです、戦車来るの。

そしたら、3台ほど戦車がカラカラカラカラと、100メートル先ぐろうをカラカラカラカラと来たんです。

それで、いちばん先頭にジープがあって、その後ろに兵隊が5、6人、戦車の後ろについて。

またその2番目の後ろに、また5、6人。そして3番目の戦車と、こうやってズルルーと来たんです。

ほいで近くへ来たもんやで、中隊長は「撃てー!」ちってね。

「3番砲手、4番砲手撃てー!」ちって、撃ったんです。なら、うまく当たる、バーッと。

そんなもの近くへ来るんじゃけ、戦車に当たる。

それで、みんなこちらで分かるじゃ、跳ね返るのが。あ、弾が跳ね返ってる。

そしたら、戦車はピシャーと止まっといて、そいで、ジープはスーッとその向こう側へ入る。

兵隊も向こう側へ入る、ね。で、兵隊が向こう側へ入る。

それから、しなーっとこちらを向いて、砲身はこちらを向くんよね、撃ったほうへ。

こりゃまぁ危ねぇ。こりゃ山降りなあかんちって。小高い山やけどバーッと下りたでよかった。

もう山、坊さんやねん。戦車砲3台来てバンバーン撃つ。機関銃撃つ。ね。

その弾を速射砲の当たらん。当たるけど間に合わん。

砲を撃っただけでも、これだけの弾が飛んでくるんやで。


戦車ったら、戦車の厚みが4センチか5センチあるっち、戦車の厚み。

ほんなもん、わたしら昔の日清戦争や日露戦争のときに撃った速射砲では、全然あかんのやって。

跳ね返ってきて。

撃ったんです、うん。だけど跳ね返ってまうんです。


Q:効かないんですか?

 効かないっていう、もう、鉄板が厚いじゃで跳ね返ってまう。みんな。

鉄板が昔みたいに薄いんならね、ちゃーと突き通ってあれですど、厚いんにゃで。

それはだいぶ、あの、マンダレーから下がる、いちばん奥から下がるときでした。連隊でね。

そのときに、1人眼鏡を落とした人は、幹部候補生で「今度は内地へ帰らんならんのや」というような人やった。

だいぶんできる人やったね。

ほいで、わたしらの中隊やで、そばで一緒に下がってきて、で、「小休止」ってなるでしょ。

そうすると、こうやって、パターッとこうやって倒れるんよね。あの、背嚢を担いで倒れるの。

倒れると、あの、その人は昔のこの眼鏡でなしに、こういうの輪をかけた、ヒモの輪かけたあの眼鏡やね。

ほんで、パーッと倒れたときに、眼鏡が飛んでもうたんやね。眼鏡が飛んだの。

ほいで、「あーっ」と探してるもんで、「何や?」って言うたら「眼鏡がないんじゃ」ちったで、2、3人、そこへわたしたちは行ってね。

そしてもう「小休止」ってあれが、もう今、「出発」ってなったときですやろ。

「小休止」となったときじゃない。「出発」となったときに、こうやって探しにかかったもんで。

わたしらも「眼鏡がないんじゃ」って、こうやって手で草むら探して、3人で探したけどわからんのよ。

晩で真っ暗やし。そいで、もう仕方ないで。だんだん遠うなるでしょう、出発していくじゃで。

それでもう仕方ないで。それで2人の横の服のすそを持って。

そして「行こう」ちって、少し駆け足でもないけど、少し早めにタタタタッと行って追いついたんですけど。

その人は、「なんで落ちたんや?」ったら、「ちょっと耳のこのヒモが、ちょっと腐れかけたんや。弱なってたんや。それで切れて落ちたんでねぇかなと思うんにゃ」ってこう言うんじゃね。

それで「あれやなあ、大変やなあ。もうどうか、うちそろって、こうやって軍服に触って歩かなあかんじゃ」と言うてなだめていたら、しばらく行ったら、「ちょっとトイレ。小便してくるわ」って言って、ジャングルでバーン。

弾きました、手りゅう弾がね。


これはもう、自分はもう、明くる日からこんな目の見えん、眼鏡はねぇのにねっ、目が見えんのに、もう、とてもついても歩かれんし、そして心細うなるわいな。

もう、昼間でもよう見えんような人やったんで、晩やら全然、行軍で歩かれませんわな。

ほいで自分が心細うなって爆弾でああやった。自決やね。そんなんやらね。


もうひとつはね、班長でも兵長でもいいですわ、命令受領という、ここへ行くんです。連隊本部へね。


ところが、ちょうど命令を受けたんで、中隊、歩いていながらでも中隊に報告せなあかんのでね。

歩いていながらでも、命令を達して来たんですよ。ところが、来た時分に「小休止」って、こうなってね。

それで、皆がまたバターンと、25分か20分か30分か、バターンと倒れてまうわね。

そして、その人かって、やっぱり一緒やで倒れるからね、バターン。


ところがあの、中隊へ帰っても、一緒な所、わたしたちと一緒な所で寝てりゃよかった。

あの班長さんやでね、一緒な所で寝てりゃよかったんじゃけど、ちょっと離れた所で、こうパターンと寝たんじゃね。
で、また「出発」ってなるわね。そして「速射砲25人いるか」って番号かけてね、1、2、3と。

「はい、異常ありません」ち。「そんなら出発しよう」って。


それで片方は、ちょっと離れた所で「ワー」と朝まで寝たんか、いつまで寝たんか。誰も起こさずに、寝てると。

だけど、それは死んだんではないですけど、もうそのあとにね、スコールがザーッと来て。

それで、何もスコールが来んなら道跡でもこう分かるんですよ、いくらかね。

ほら、スコールが来たら、もうドロンドロンの所へダーッと流れて。

道は牛車へあっちもこっちも。一晩中にはありますわね。

それを夜明けになってから向こうへ行こうたって、あっちもこっちも、どっちへ行っていいやん分からんで。

まぁ、現地人に捕まったり、自殺したかなんか知りませんけど、一緒に帰っては来ませなんだ。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1923年
福井県鯖江市に生まれる
1941年
舞鶴海軍工廠にて働く、歩兵第119連隊入隊後、ビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、左官業を営む

関連する地図

ビルマ(サーモ、マンダレー、クレ高地)

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