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タイトルタイトル: 「手榴弾飛交う棚原の激戦」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~
名前名前: 前田 宇太郎さん(山形・歩兵第32連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2008年3月

チャプター

[1]1 チャプター1 満州から沖縄へ  04:43
[2]2 チャプター2 十十空襲  06:08
[3]3 チャプター3 米軍上陸  05:29
[4]4 チャプター4 最前線の衛生兵  07:56
[5]5 チャプター5 守備軍の総攻撃  05:07
[6]6 チャプター6 壕への「馬乗り」攻撃  09:21
[7]7 チャプター7 終戦そして捕虜に  05:44

チャプター

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あのころはね、やっぱ、学校の教育から、何からみなね、軍国主義のあれをしとったからね、勉強をね。だからやっぱり、大東亜戦争に、兵隊に行けるかな、おれは背も小さいし、体重もようけなかったんだよね。だけど、第一乙種になって、現役兵として、入隊したんだよね。うれしかったよ。天皇陛下のために働くんだと思って。

19年に、沖縄行ったんですね。

あれは、門司で船に、乗ってからだね。それまでもみんなをね、秘密で、あれするからね。だから、支給される被服を見て、ああ、おれは南方だとか、シベリアだっていろいろね、あったもんだから。

九州で、5日、6日おったんだよね、門司の辺で。で、みんなをね、竹筒にいり米を入れてね、それを携行に持って行けと言って、竹筒、一節をね。穴あけて、いり米を入れて、いろんなものがあったよな。

まあ、どこに連れて行かれても、仕方がないなと思っているからね。

沖縄まで、5日間かかって行ったんだね。門司から。


Q:そのときは、最前線に送られるという感じは?

 ないないない。沖縄はまた、きれいな島だったからね。

だけど民家は行くんでないよっちゅう、あれがあったんだわ。達しが。


Q:それはなんでですか?

 やっぱり、防ちょうの関係もあるだろうね。


Q.防ちょう?

 スパイになる、なられたら困るから、ということでね。だから、沖縄のすぐそこに民家いっぱい、あるけれどもね、行っては駄目だと、言われたんだね。

で、行ったわけでしょ。8月の4日か、5日に沖縄に着いたからね、それから中頭郡というところで、警備しとったんだけど、同じ沖縄におった、9師団ね、金沢の9師団。あれが台湾、行ったんだよね。そこが穴になるもんだから、うちらの24師団がそこへ、32連隊そこへ行けと言って。そのあとへ、入ったんだよね、島尻の方で。

それは、壕掘りも少し、したけどね。あとは、衛生兵部隊は衛生兵で、ある人間をね、衛生兵を集めて、修業教育もしたり、あとは、一般兵の健康管理だね。そんなこと、しとったよね。そのうち、十月十日の空襲か、あれ、ここにも書いてあったでしょ。そばへ来て、今日、日本の飛行機は速いなあ、ということになりね、で、なにを、アメリカのグラマンだったのね。そして、あわてて空襲警報か、あれを出して。そしたらもう、何十機って。何班にも分かれてくるもんだからね。日本の飛行機は、いつも1台も立ち上がらんしさ。徹底的に那覇、那覇市ね、あそこを港から、街から、相当な爆弾でやられたんだよね。

いやあ、もう、低く飛んでね。

うん。人の顔が見えるくらいだ。長い竹ざおがあったら、引っかけるかなと思ったけどね、絶対。機関銃も、飛行機撃つことも、できるんだけども、企図秘匿っていうかね、絶対、撃ってはならんぞというね。晩まで休みなしに、空襲、来よったね。1班が帰れば、今度は2班、3班って、こう、何回も、何回も、来るんだよね。晩まで来とった。


Q:ひっきりなしに爆弾が落ちるような?

 そうだよね。爆弾とあの、機銃掃射か。機関銃でダーッと撃つんだよね。そのころは、もう、だいぶん地方のあれも慣れとったから。壕も掘ってあったからね。そこに入って、隠れておれって、言われたんだよね。

那覇やら、首里やら、大きな町があったでしょ。市がね。10月の10日の空襲で、港にまだ、食糧なんかも、積み上げてあったんだよね。でも、それも焼いた、弾なんかでやられたから。

何回戦分の、糧秣を用意し取ったんだけど、用を足さないうちに、やられたからね。だから、米もなんぼ減らす、あれを減らすってね。


Q:上官からは、どんなふうに作戦とか聞いてたんですか?

 みんな、企図秘匿というんか、自分の陣地を分からないようにしとれ、と言ってね。

上の方からは「早く壕を掘れ、壕を掘れ」ってね。うちらが入った壕だって、長さは2キロも、3キロも、あるんでないかな。それから、枝分かれしてこっちの陣地、こっちの陣地、どっちでも行けるようにね、陣地を作ったんだよね。

やっぱ、こっちのほうは、日本の飛行機は一機も、飛ばんもんな。なかったもん、がっとしたもんがね。だから、アメリカはその、爆弾で重機も、なんも、なくなってしまうぞって。だから、いま、汗かいて掘っておけ、これが、血を流さないようにする、最善の努力だからって。

海の上をな、あれは一列だよな、軍艦。なんぼも並んで、南の方から、北の方へ行こうと思ったらしいんだな。それ見て、いやあ、すごいなと思ったんだな。

大きな軍艦でしょうな。それが六隻も七隻も、こう、並んでダーッと行くんだよな。だから、あの、ちっちゃい島だから、どこからでも、艦砲射撃できるんだよね。

上陸したところでないから、分からないけど、上陸したところだったら、もう一斉に、ダーッと上がっていったんだよね。日本では、波状攻撃ってあるでしょう。


Q.波状攻撃?

 波みたいに、1回の波、2回の波、3回の波っていうようにね。だから、こっちは撃つ砲弾も、ようけないもんだから、1波、2波を上陸させて、3波が上がってきたときに、初めて迎え撃つってなったんだよね。だから、そんな話をしたったよ。だけど、北谷の方で上陸したのは、1波も10波もあったもんじゃねえ。どんどん上がってきて、こっちは、撃たんもんだからね、「日本の兵隊どこへ行ったんだろう?」って言って心配したっていう、アメリカ人が。

そのうちに、4月20日に、32連隊も前線行けって、言われて、命令出たんだよね。

で、どんどん、進んでいったら、ダン、ダーンとやられてね。弾が落ちてきたんだわ。そしたら、おれらの先に行っとったうちの中隊の、准尉とそれから曹長が、二人が犠牲になったんだよね。で、病院があったもんだから、病院に連れて行ったけども、二人とも死んだのね。准尉は、イナバ准尉というのが、「天皇陛下万歳!」と言って死んだのね。


Q.そうやって戦いに向かう途中で、既に戦死者が出ていたんですね?

 そうです。隊長もがっかりしたんでねえか。

で、あの、初めは首里の市街に、おったんだけども、そのうちに、今度は、あちこちに行かされて。戦場行ったら、ビックリしたよ、弾、飛んでくるのに。ほとんどが迫撃砲弾だね。スポッと入れたら、ドーンと飛んでいくんじゃないか。それを、しらみつぶしに、ダッダッ、ダッダッとこういうふうに、しらみつぶしに撃つんだね。そこにおったら、ひとたまりもねえさ。

Q.前田さんはどういうふうにしていたんですか? 戦闘の間、どんなことをしましたか?

 それは、あれですわね、患者、収容しかないから。出て行って、患者おらんか、探して。たくさんおったら、どうもならんもんだからね。

あるとき、2中隊が、「いま苦戦して、戦死したりなんかして、大変だから、救護班頼む」って来たんだよな、電話。電話か、連絡かね。

うん、命令来たから、すぐ行かないと。と、行くかと思ったら、軍医が「いま、お前、出たら大変だ。すぐやられるぞ」とね。「もうちょっと、様子を。出発するのを、遅らすからな」と言って、遅くにしたのよね。1時間くらいだったかな。「今日はもう、帰れないからな」って言って、恩賜の煙草、飲んでな。おれは、普通は、煙草、飲めなかったのな。でも前に、みんな一箱ずつ、もらったから、持っとったからね。で、軍医が、軍医も煙草、飲まんのだけど、恩賜の煙草、飲んで行こうかと言って。で、それを3人で飲んで、そして、その2中隊の患者の所へ行ったんだけどね。

それはね、病院まで、行かないんだわ。患者のたまり場って、とこあるんだね。ここに、トラックが来るんだね。そこまで、わたしらが担架に乗せていったり、歩ける者は手を引っ張って、行くかなんかしてね。で、そこで、「ここで待っとれよ」ちゅうて。そしたら、車が来るもんだからね。それで、連れて行かれたんだね。大勢おったら、何回か、運ばんな(ければならない)よね、ここから、ここまで。どこから弾、飛んでくるか分からんからね。

で、病院に行ったらすぐ死ぬもんも、おるでしょ。で、みんな、外へ投げたらしいんだな。


Q:外へ投げたんですか?

 うん。いちいち焼いたり、できないからね。だからもう、そうなったら人間でないんだわ、世話するもんはね。だけど、それでも、わたしも、いつ死ぬか分からんちゅうて、やってるんだからね。だから、もう、体は人間の体しとるけんども、心はもう、戦争ひとつになっとるから、何も考えられないんでねえか。

人間って死んだらね、ふくれるんだ、ガスが。軍服、着てるでしょ、軍服がこんなになってね。ボタン、取れそうに見えるの。そして、今度は、そのあと、腐ってくるんだね。ガスが破裂して。で、あの、ウジな。ハエの子よ、それがジュルジュル、ジュルジュルと肉を食うんだ。死んだ人の肉を。ザワザワザワと音して、あれしとったね。1匹や2匹の、10匹や20匹のあれじゃないんだもん。こんなでっかい、ウジな。

ケガしてさ、肉取られて、ガーゼ当てて包帯巻くでしょう。包帯巻いて、やっぱり血がこう、染み出てくるんだよね。そしたらハエが来て、卵生んだら、すぐかえるんだよね。すぐプチュプチュと。ウジの子っこが、生まれる場合もあるしね。何日も、2日も3日も経ってからね、包帯取ってみるでしょう。そしたら、そこに、ウジがザワザワザワと、おるんだよね。

そうなって、今度は、あの白骨だけが、残るんだ。軍人だから、編上靴って履いているでしょう、革の。革靴な。それが、あと、革靴があって、あと、こう骨、骨が出てるでしょう。そうやって、腐っていくんだわ。だから、ひどい臭いするもんだ。生臭いはずやっていうんだな。

Q:4月の20日くらいから、戦いに行って、いちばん戦いが、激しかったのはどこの戦いでしたか?

 最後の方は、やっぱあれだよね、棚原(沖縄県西原町)か、あそこでねえか。

明日、総攻撃だからって、沖縄全部がね。総攻撃に出かけるちゅうて。で、32連隊はどこへ行くとか、みんな決まるでしょう。そのとき、どこどこ行きますって行ったのは、うちの連隊の第1連隊、うちの大隊だな。その1個大隊が晩に、初めの日は、行こうと思ったら、弾が来たもんだから、大隊長が「元の線まで下がれ」ちゅうて下がって、今晩、十二時からまた、棚原行くからなって、命令があって。

だから、その総攻撃でも、うちの大隊こそ、そこまで、棚原まで行ったけどね。他の2大隊の5中隊、6中隊は、もう、そこまで、途中まで行くまでに、みんなやられたんだよね。

撤退することを、転進、転進って言うんだよな。そらまあ、負けて、下がるんだけどさ。転進という名目で、「何時何分に、転進する」ちゅうて、「集まれ」っちゅうの。「これから、敵の中を行くんだから、荷物を最小限にせいよ」って。独歩患者やらは、捨てられる人はいいけども、手を引っ張ったりして、行くんじゃ駄目だってね。

あとあれを、手りゅう弾を持っているからね。棚原から帰ってきて、前の晩に、前の前の晩か。負傷したアリモト班長とか、なんとかおったんだよね。タナブへ帰ってきたら、下がったら、まだおったんだわ、そこに。一人は歩けたんかな、で、一人は歩けないからね。だからアリモト班長に、「班長殿、後でまた迎えに来ますから」ちゅうて。「前田、本当に来てくれよ」ちゅうから、「はい」そう言って別れたけども、「行ってこい」ちゅうことは、一言も言われんかったからな、上の方からはね。

見てない。だけど、あの、それはどこの兵隊か、知らんけどね、晩だったけど、あれ、「天皇陛下万歳」っていったんかな。「寄るなよ、今、自決するから」と言って、そして、死んだ人もおったわね。

うちらの部隊はね、「転進せえ」って、どんどん、あれしたでしょう。南へ向かって行く人をね。それを、何て言ったかな、前衛、後衛ちゅうて、後ろの島尻へ下がる部隊を導いてやれ、ちゅうて行ったんだね。

で、島尻(本島南部)に行ったころはもう、前線では分かっとるからね。だから、病院は解散するし、はって歩く人もおった。


Q.病院が解体して、そこから出てきた人たち?

 そうだろうなと思うよね。

手や、足が、あれなんだよね。なにせ、泥水の所をな、泥になっとるのを、こうやってはってるの。

「衛生兵殿」ちゅうて。衛生兵って言うのは、鞄、見れば分かるもんだから。よく分かったもんだなと思うけどね。

わたしは、そんな人を連れて行くわけには、いかんからね。

無視して行くより、ほかないもんね。

で、あの、我々は国吉へ行ったんだよね。着いた次の日か、国吉へ行ったのは。4中隊の方かな、あそこへ入ったんだよね。

4中隊はたくさんおったよ。うん、大隊長もおったしね。大隊長や、大隊副官やら、まだおったよな。


Q:米軍がそこに攻めてきた?

 はしごを、縄ばしごみたいなのを架けて、上に上がって、したんだよな。それから、あの爆雷な。それ、ゴロゴロッと落ちてきて、破裂したんだな。

壕に爆雷、投げられて、爆発して、何十人か死んで、おれが沖縄の初年兵と二人で、兵隊を横へ積んだんだよな。


Q.横へ積んだんですか?

 壕の中へな。外へ出れば米軍がおるから、出れないですよね。

たくさん死んだよ。で、あれ、坑道だからね。

だから、その辺におった兵隊は皆、坑木やら土砂やらで、埋まっちゃったんだね。で、大隊副官が、前田とあれで、沖縄の初年兵と二人で、これを片づけなさいって言われたんだね。

だから、行ってみたら、毛布やらかぶって、泥もかぶって。生きとるもんもおるんだよね。でも、引っ張り出すこともできんもんでね。ある程度の、取れる人は取って、坑道の縁へ、ここへ積んだんだわ、こうやって。

坑道、長いから、だいぶ置けるさ、ね。で、ほうり上げるものは、ほうり上げたけんど、ほうり上げんもんはしかたないから、その上に毛布かけてね。歩くとこだけは、確保したんだよね。

で、その上に歩きよっただよ。人の上を。あんなの親が見たら、気が狂うだろうな。そして、「片づけました」ちゅうて、報告してね。あれは、かわいそうだったわね。

初めはブヨブヨ、だろうけどね、腐ったら、また、硬くなるんでねえか。ひでえことしたもんだなと、思うよな。そのときは、やむを得んなと思って、これ、やったんだけどね。自分も、何分先に死ぬかもわからんのだしね。いつ死ぬかもわからんから、これはかわいそうだなと、感傷に浸っとる暇はねえんだよな。それが、当たり前になってしまうんだもんね。


Q:壊滅的な状態に、なっていって、このまま、戦争を続けられるっていうふうな、考えだったんですか? まだ、そのときは?

 そのうち、神風が吹くと思ったんだな。必ず本州からな、応援部隊が来てくれると思ったんだな。

おれらはそう思っとったよな。

もう、大本営でも、沖縄の部隊はどうしようもないなと。一日でも、長く持ってくれればいいなと、思ったんじゃないか。

大隊長と、それから、うちらのサトウ軍医というのが、これは見習士官だったから、まだ認可はしてなかったけども、2人で捕虜収容所へ行ったんだよね。それで、確かめてきたんだ。「本当に済んだ、あれしたのか」って。それで、大隊長も、「おれはその、天皇陛下がどんな声をしておるか、聴いたことないからな。だから、東京まで飛行機に乗せてくれ」って言ったんだって。で、「それはできんから、勘弁してくれ」って言われたってな。で、あのヤハラ参謀か、あの人にも会ってきたちゅうてね。

そこで、帰ってきて、連隊長に報告して。そしたら、どうする、こうするっていうような話になって、連隊長が命令したんだね。「天皇陛下の命に沿って、降伏します」ってね。で、軍旗を焼いて、次の日、降伏したんだよね。

なかには反対した人もおったよ。


Q:反対している人もいたんですか?


 うん。おめおめ、英霊がおるのに、それをほっかって、降伏できねえってね。「最後まで、闘わんな」ちゅうてね。幹部連中でもみんな学校を出とるし、それまでに、真剣に部隊のことも考えてやって来てるから、もう、捕虜になれちゅうこと、やっぱり言えんのよね、なりますちゅうことを。

おれは、戦争が終わってよかったと思った。正直、申し上げたらな。そうでないか。

誰も、「あの人は、残ったよ」ちゅう人はいなかったよね。みんな、降伏したよね。トラック20台くらい、おったんじゃないかな。で、あの、帽子もあるもんも、ないもんおるんだから、はちまきして行ったと思ったな。屋嘉収容所まで。8月の29日だったから、道路なんか、直してあるしね、立派な道路がついとった。一生懸命、道路を直しとる人もおるし。

だけど、終戦になったから、捕虜になったけども、やっぱ、なる気しねえよな。まだ、軍人精神があったんでねえか。

あんまり、深く考えんことにしとるわ。言ってみても、仕方ないしな。ああ、良かったと言って、兵隊に行ったんだからさ。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)3月、米軍は沖縄に迫り、4月1日沖縄本島中部に上陸を開始した。米軍の総兵力は54万。迎え撃つ日本軍は防衛召集した県民や鉄血勤皇隊などを含む10万人だった。

戦闘開始から1カ月半、圧倒的な兵力の差で戦い続ける事を強いられた日本軍は6万人あまりが戦死。米軍は沖縄本島の中部から北部を制圧し、5月下旬には那覇市北方、首里の日本軍司令部に迫った。司令部は、玉砕覚悟で首里にとどまるか、それとも南部にさがって持久戦をつづけるかの決断を迫られた。

5月22日、沖縄守備軍司令官、牛島中将は戦闘の継続を決断。歩兵第32連隊も南部、喜屋武半島への移動を開始した。しかし、この冷静を欠いた命令により、沖縄の住民をさらに戦闘に巻き込み、大きな被害をもたらす結果となった。後退する日本軍と避難する住民であふれる南部への道に向けて、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返した。道沿いには夥しい死体の山が築かれた。

沖縄本島南部で、日本軍は洞くつを利用した地下ごうにこもって戦いを続けようとした。また、住民も攻撃を逃れて洞くつに避難していた。6月中旬、米軍の掃討作戦は激しさを増し、「馬乗り攻撃」と呼ばれる洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。投降の呼びかけに応じない場合、住民と軍が一緒にいた地下ごうにも容赦ない攻撃が加えられた。

6月23日、米軍は喜屋武半島を制圧。軍の幹部たちは次々に自決し、沖縄守備軍は壊滅、組織的な戦闘は終った。

本土防衛の最後の拠点となった沖縄。太平洋戦争中、類を見ない地上戦で、日本軍将兵9万4千人が命を落とし、ほぼ同じ数の一般住民が戦闘に巻き込まれて死亡した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
北海道雨竜郡北竜町にて生まれる
1944年
旭川北部第3部隊に入隊。満州にて歩兵第32連隊へ配属
1945年
沖縄戦当時、21歳、上等兵。復員後は北海道にて農業に従事

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