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タイトル 「困難を極めた物資輸送」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
氏名 蒲池 政人さん(第56師団 戦地 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日 2008年11月11日

チャプター

[1] チャプター1 困難を極めた補給活動  05:23
[2] チャプター2 病気で倒れてゆく兵士  03:24
[3] チャプター3 米を炊く火で戦友を弔った  02:33
[4] チャプター4 畳の上で死にたい  01:06
[5] チャプター5 玉砕  01:11
[6] チャプター6 1300キロを歩いた  04:23

再生テキスト

米とかいろんな食糧を運ぶのです。
弾薬というのは、まあ、大砲とかいろんな大砲の弾とか、それから小銃の弾とかが弾薬ですね。

運送ですね。結局弾薬・糧まつを運ぶのが任務でございます。
それを、師団輜重ですから、師団全体に分配して、運ぶわけです。各部隊ですね。山砲、歩兵、その他いろんな部隊があるわけですね。その部隊によって、部隊に運搬していくわけです。

自動車で、自動車というのは一番後方のほうからですね、弾薬、それから糧まつですね、これを運んでこられたのが、自動車が行けない山道に変わるわけですね。
そうすると、そのときに荷物を自動車から降ろして、積みかえたそこに、野戦倉庫ちゅうのがあります。その野戦倉庫まで自動車が持ってくると。そうすると今度、輓馬隊が野戦倉庫まで行って、そのものを馬に載せといて、そしてまた一緒に歩いて、最前線に行ったわけです。

まああの、拉孟のほうはそうまでなかったけど、騰越方面に行く道路は、自動車道路はもう、全然、自動車通れんということで、ぬかるみだったんですね。で、一番極端な所は、馬の腹までぬかると。脚がぬかると。それで、夕方出発しまして、ぬかって、その馬を人間で、兵隊で両方から支えといて、こう横さ運んだと。運んで、やっと運んだ。
そして、それが夜が明けて見てみたら、2キロぐらいしか進んでなかったと、一晩で。
そういう状況もあったわけです。
それで、あとはその道路の真ん中を通らんで、その道路の横のジャングルの中を、ずっと歩いていくというようなことが、まあ、よかったわけです。それで、あとはもう、そういうふうなやり方で行ったわけです。

ちょうど、ビルマには象がおりまして、その象を、日本軍の運搬用として使われたわけです。
この象が非常に、動物園の象よりもまだ、大きいわけです、現地の象は、実際の象は。それで、その象に荷物を約1トン、米で言えば10俵ですね。10俵の米を片側に、5俵ずつからせといて、約1トンです、1トンのものを1トンの象が運ぶというようなこと。
そして、その象が足が大きいわけです、やっぱり。それで、その足が大きい関係で、ぬかるみをこう歩いて、象が行ったら、そのぬかるみの所の足が、足が着いた所はもう、そのぬかるみがパッと何か、どろしろがですね、もう外れて、それでええ、われわれはその象の跡形をこう跳んだような、距離が約1メーターありますから、それを跳んだようにして歩くと、非常にあの楽に歩けたと、いうような状態だったんですね。そういう経験もあるわけです。

象の足跡を通っていくと。そういうこともあったですね。

つらい思いちゅうのがですね、やっぱり、われわれとしてはですね、毎日40キロこちらの部隊に行っといてですね、騰越の部隊に、こちらに行っといて、今の拉孟に行くときには、何10キロってありますもんね。約40キロ以上はあるはずですよ。
それでその、その間には、やっぱ食糧もどっかで徴発せにゃいかんし、やっぱ弾薬だけはもう、運んで持っていかにゃいかんし。

背振の山、峠まで行っといて、ここ帰ってくるということで、もうとにかく大変だったんですよ。

それ、病気ちゅうのがですね、向こうはやっぱりあの何ちゅうか、今の食糧が悪いとと、やっぱり、健康状態があまりよくないもんですからね、それでアメーバ赤痢という赤痢にかかった、アメーバ赤痢にかかって。
そうすっともう、それやったら下痢するわけですよ。下痢がひどいわけで。それである程度の下痢してもですね、少々のことは練兵、軍隊で言えば練兵休って、休みになるわけです。
ところが、練兵休に出さないわけ。それで、少々のことだったらまあ陣地に行って、陣地にやっぱ運ばにゃいかんと。それで、そのときには、山を登ったりなんかしたらもう、きついもんですから、馬のしりっぽにつしがみついといて登ったということですね。馬はどんどん、どんどん、先の馬と一緒につながっていく習慣がありますから、それでその馬のしりっぽにつ、ので、やっぱり登ったと、いうようなことがあったし。
入院を最終的に、1回したわけです。そのとき、びっくりしたのは、入院していったら、ジャングルの中に木の陰にみんなが、あの負傷者やら病人やら寝とるわけです。寝とったわけですよ。そして寝とって、飯ごうがないもんですからね、木の葉に、チーク材、チークっていうのが、葉が、木があるわけです。チークの葉は大きいわけで、割合に。それで、そのチークの葉におかゆをもらって食べよったと。あの負傷者がですね。
ほう、こういうことかなあと思って。

そして、負傷者がおかゆをもらうだけならいいですけれど、その人が貫通銃創で、鉄砲の弾か何かが、肩を撃ち抜かれとるということがありまして、肩の撃ち抜かれとるとこにウジがわいて、薬がないもんですから、ウジがわいて。
「ウジがいっぱいたまっておるから、このウジを取ってくれんか」と、自分の肉をそのウジ虫が食いよると。
そら、痛くてたまらんちゅうわけですね。それで、それを取ってくれって言われて、私がウジ虫を取ってやったことがあるわけです。そして、その人に尋ねて、「何で飯ごう持たんですか」と尋ねたらですね、「部隊からここに移送されて連れてこられたときには、全部飯ごうから、銃・剣、全部、装備は全部、向こうから持ってきてもらっとった」と言うわけですよ。
ところが、そこで病気が良くなった人が、自分のとを持って、取られて前線に行っと、行ったと。
それで、ここに寝とる人は取られてしまった。それで、そういうことだったんですよ。
その人が良くなったか、死んだか知らんけど、良くなったら、また前線に行くときは、ほかの人のそういうものを取り上げて、持って前線に行くというのが、部隊のやり方だったんですよ。
後方から、その人に品物持ってきてやりますよと、いうことは絶対なかったわけですね。だれかのを取っても、前線に行かなしょうがなかったと、いうような状態だったですよ。

ところがもう、戦況が悪くなったら、もう全く、副食物は送ってこないわけですね。
もう、米も送ってこないと。日本の米ちゅうのは、全然ないと。もう、全部現地調達です。

中国の住民が、もう、戦争中だから全部逃げてしまっとりますから、もう田んぼのほったらかしです。それで、全然もう、田も植えん、もう野菜も植えないと、いうような状態じゃから、草を食べんとしょうがなかった、食糧がですね。
そのとき、ちょっとある程度温度が高い所に行くというと、バナナの木やらパパイヤの木やら、あったわけですね。
そうすると、バナナちゅうのはもう、なってないわけです。それで、バナナじゃなく、バナナの茎を切って、バナナの茎はどちらかというと、水芋みたいなものですから、それを切って食べよったということですね。

それで、もう昼間は全然、動けませんもんですからね。昼間はやっぱり、塹壕掘っといて敵から見つからないように。爆撃とか銃撃とかありますから、まあ、隠れたりなんかしよったんですけど。
夕方になって、まあ夕飯を炊いといて、1日分いっしょ、1食分じゃないです。3食分、炊かないかんもんですから、飯ごういっぱいが3食分ですから、その3食分を炊いといて。そして、その当時、もう野菜が全然ないから、草を取ってきといて草を炊いてですね、おかずに。

そして、あるときには戦死者が出るですね。戦死が出たときはあるときには戦死者が、同僚が死んで、戦友が死んで、その戦友の遺骨を焼くために、自分の飯ごうでご飯を炊きよる飯ごうの下に、指をたたき切ってですよ、小指をたたき切って、その小指だけを焼いて、後方に、「これは戦友のだれだれの遺骨じゃから送ります」ちゅうて送ったこともあります。いうことですね。
これは、普通ではあんまり言えないようなことですよね。それだけ、やっぱみじめなことがあったんですね。

後方のほうから、ほうてですね、危ないから、立ってこられんから、ほうてうちの、私の塹壕のとこにも恩賜のたばこを1本持ってこられたんですよね。
そしたら、「このたばこは何ですか」と私が尋ねたから、「これは恩賜のたばこ」って。
「この、この恩賜のたばこは、あんたがここでもう、今夜限りで、ここで死なないかん。敵が攻めてきたら、ここで死なないかん」と。「それで、これはもう最後のまあ、今夜は最期ということやから、恩賜のたばこを持ってきた」と。

それでそのうちに、やっぱ考えたことは、「ここの中の塹壕の中で死にたくはない」と、われわれも。
やっぱ、できることなら日本のですね、畳の上で死にたいというのが、本音だったですね。

つらい思いしたけれど、つらい思いちゅうか、そういう気持ち、何かつらい思い、玉砕したからつらい思いちゅうことはあんまり、あんまり感じなかったと思うんですね。
どちらかというと、やっぱり自分たちが、生き残るのが一生懸命ですから、人のことは、よその部隊のことはかまわれんと、いうようなことじゃなかったでしょうかねえ。われわれから言えば、まずわが命が、やっぱ生き残るためにはどうせにゃいかんか、ということで、一生懸命じゃなかったでしょうかね。各部隊が、ああ、向こうの部隊が玉砕したからどうのこうのちゅうことよりも、やっぱり自分たちが生き残って、戦争して、何とかして生き残ろうちゅうことが、やっぱ考えが、もう、本心じゃなかったでしょうかねえ。と思いますがね。

先が真っ暗というような感じがしましたね。戦闘のときには一生懸命、戦闘しよるでしょう。
ところが、終戦っていうとなるとですね、負け戦でこれはもう終わったと、いうことになって、われわれとしては、「果たしてもう、日本に帰られんじゃなかろうかな」という、やっぱ気持ちがしたですね、そのときは。

「ああ、これはもう先はどうなるじゃろか」というのが、やっぱ本当な気持ちやったですね。
「果たしてあとは日本に帰れるか、どこで殺されるかわからん」というような、やっぱ気持ちだったんですね。

そのとき、師団長の、のほうに、中国軍のほうから、「中国のほうさ、引き揚げろ」という命令があったらしいです。ところが、師団長が、「おれたちは戦争に負けてない」という、「龍部隊は戦争に負けとらんから、中国軍の言うことは聞かん」と。「それで反対のほうさ、行く」ということを言われたちゅう話を聞いておりましたね。
それで、われわれは中国さ、行かんで、反対のほうに、そのサルウィン川ちゅうのを、工兵隊があのいかだをつくって、そのいかだをつくって、そのいかだを、いかだに綱を引っ張ってですね、向こう岸まで綱を引っ張って、その綱を伝うて、そのいかだが、こう行くように工兵隊がつくって、そのいかだに乗って、そのサルウィン川を渡河したわけですよ。そして、それから今度はタイ国のほうさ、ずっと行くということで、行ったわけですね。

そうして渡河してから、1300キロ歩いて(タイ国の)チェンマイまで行ったわけですね。チェンマイまで行くと、1300キロち、いったから、大体、九州から東京までが1300キロぐらいですもね、そのくらい歩いたと。
その歩いた中に、輜重隊ちゅうのは、われわれは常に戦闘中に毎日40キロ歩きよったから、足が強かったんですよ。それで、その途中が非常にあの辺は暑いわけですよ、気候が。その暑いとこば、こう歩いていくとに、もうえらい大変やったと。われわれはあんまり大変ち、思わなかったですけれども、そのときにはもう夜間じゃない、昼歩くでしょ。割合楽やったんですわ。
ところが、そこに水が道路にないから、水を飲みに谷間に下って、水飲みに行くと、そうするというと、そこに軍服を着たまま、もうそこで全部安心、そこで軍服、水飲んで安心してですね、倒れて、そのまま死んどると。その人がもうズラーッと並んで死んどるわけですよ。それをだれも、遺骨も、その焼いて片づける人もない、ほったらかし。もうほんな野垂れ死にですね。そういうことがもう、ずうっとあったんですよ。

ああ、もうやっぱり「日本が負けた」という感じはしたですけどね。
「日本が負けたなあ」と、「もういよいよこれで終わったな」いう感じはしたけれども。これから、負けた勝ったよりも、自分たちがもう、生きる力がないっちゅうことよりも、やっぱりどこで、どこさんどういうふうに、今後はなるかなあ、という、やっぱ心配があったですね。
もう、これはそこで後がどうなるかっちゅうことは、やっぱ非常に何か気持ちがですね、暗いような気持ちの感じになったんですね。

出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール

1920年
福岡県三潴郡三潴町に生まれる。
1943年
現役兵として第56師団輜重兵第56連隊に入隊。ビルマ戦線へ出発
1944年
中国雲南省騰越、拉孟、高黎貢山系の作戦資材を輸送。9月玉砕。
1945年
終戦。当時26歳、兵長。終戦後は、タイ・チェンマイで患者輸送の任務に就く
1946年
復員(神奈川・浦賀)。

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