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タイトル 「肩に食い込んだ砲弾の破片」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~
氏名 古瀬 正行さん(第18師団 戦地 ビルマ(フーコン)  収録年月日 2007年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 「不敗」の部隊  03:33
[2] チャプター2 死の谷・フーコン  04:51
[3] チャプター3 連合軍の猛攻  04:05
[4] チャプター4 一変した中国兵の装備  02:29
[5] チャプター5 負傷  01:23
[6] チャプター6 一命を取りとめる  02:24
[7] チャプター7 戦場に戻る  03:07
[8] チャプター8 「負けた」とは思えなかった  03:03

再生テキスト

「世界最強の軍隊なり」だね。


Q:と、みんなで言ってたんですか?

 そう。ああ、言ってたですよ。「世界最強の軍隊なり。軍隊菊兵団なり」といったもんですよ。
もうどんなことあってももう、負けない。

「菊兵が通るんだから、みんなのけなさい」っていうぐらい、権限を持ってたですよ。もうそら、のかなきゃその場でぶったたくんだから、みんな。そら、それぐらい気合いが入ってると思う。

そらもう、気合いがもう、すげえんだから。そんなもん、生半可じゃないですよ。しまいには靴でもって、靴のかかとでこうたたくんだから、たまったもんじゃないですよ、そんな。人間じゃない。馬。いやまだ馬はね、生きた兵器っちゅってね、みんな大事にしますけどね、それはもう兵隊はね、ほんとに「おまえたちはもう」って言って鍛えられたもんですよ。

よし、今度は負けない、負けちゃいかん。やらないかんという、ひとつ、僕ら、祖国をしょって来てるんだと。祖国の人間に苦労かけるようじゃ、駄目だっていうことだ。守るっていうことじゃ、さあ、随分やっぱり責任重かったんでしょうね。

「そこにおれたちが、やらなきゃだれがやる」っていう気持ち。

自分ひとりで、日本をしょって、立つような気持ちであったんじゃなかろうかな。

命令を忠実に守って、動いたんじゃないかな、僕ら。特に九州の人たちは。もうそれは、「上官の命は朕が命と承れ」って言うのと同じ、ことだもんね。そらあ、もう、「上官の命を聞くことは、朕が命を承ったのと同じで、それに従わなきゃいかん」という教えで、教育。教育でしょうね、やっぱりね。だから、最初からもう、出発点が全然、違うんですよ、九州の人たちは。もうそれは、人間扱いを僕ら、受けたことないもん。本当に。

とても、人間の行くところじゃない。あれは、もうね、あそこはね、何ちゅうかな、道が第一、もう本当に、幹線道路というよりも、ほとんど、もう自動車、もう要するに、もう、とまったら、動けんでしょうね、全部。それが(道が)一本あるかないかですよ。あとは全部、自分の足ですよ。もう鉄砲、大事ですよ。銃と銃剣以外は、もう自分に味方するものがいないんだから。自分は自分の身をもって守らなきゃ、どうしようもないでしょう。

フーコンという場所そのもの、ほとんど、ほかの部隊じゃ物にならんでしょう。フーコンを通り抜けると、インドに入るんですからね。それは大阪の兵隊とか、京都の兵隊は途中で会ったけど、「これはあかんわ」ちゅうて。「ばかやろう、『あかんわ』で物がおさまるか」というわけですよ、僕はね。その場でびんたですよ、「こん、ばかたれが」っていうような状態だったですからね、うん。一線の連中は、もう目の色が、第一全然、それは頬はこけて、人間の形をしているだけですよ。だって、食い物が第一ない。

やはりね、食べ物は徴発をしながら、戦争するんですよ。それと、向こうはどんどんどんどん、食べ物でも運ぶ人がいるんですから、それはもう、体力的に全然、気構えが違いますわね。だけど最後まで、みんなやったんじゃないかな。まあ、なかなか大変なフーコンだった。ああ、大変だった、あのときは。まあ、もう二度と行くとこじゃない。とてもね、考えるとぞっとしますよ。だって、入って、フーコンに入っていくときに、向こうの兵隊が、こんな逃げたときにね、車とかトラックをみんな、動かんから、置きっぱなしでしょう。場合には、車の中でハンドル持ったまま、死んだ兵隊がいっぱい、そのまんま残って、それを追い越して、僕らは戦争しに入っていった、フーコンに。

(大砲は)砲身、砲蓋、砲架、前脚、後脚、みんな90キロあるんですよ。


Q:その90キロのものを何人で運ぶんですか?

 いや、まあ、2人でだよ、大体。だから、ひとりで少なくとも、50キロ担がなきゃいけないわけですね。自分の装具でしょう。装具が大体15キロぐらいありますからね。米を大体、まあ、1週間分ぐらいと、これは、おかずと言ったって、今、粉しょうゆとみそぐらいでしょう。わからない。あとは現地調達。

それはすごい。これはもう、それはもう、目も口もあかん。

それぐらい、弾が来るということ。あけている暇がないよ。もう豆をいるような音で、バンバン、バンバン来るんだから。1門や、2門や、5門や、10門じゃない。それぐらい、向こうはやっぱり兵隊さんも多い、数も多い。

それはすごい。もう先回り、先回りしよる。

(日本軍は)ジャングルに隠れていて、1人ずつ殺すんでしょう。ところが向こうは、自動小銃から。弾、数で来るんだから、たまったもんじゃないでしょう。

パンパンパンパンパンという音がする。やっぱり、機関銃はドドドドドッと。特に、日本の銃器はドッドッドッという音。腹の底から響くような音がしますが、向こうはパンパーンっていう音がしますね。だから、敵の、機関銃の音と、友軍の機関銃の音は、もうすぐわかる。どこに敵がおる、どこに日本軍がおるというのはわかって、だって数がもう決まっているんだから。(日本軍は)1万そこそこでしょう、あんた。向こうは何十万と来るんですよ。

もうそれは、話になんない。入れかわり、立ちかわり、向こうは来るんだから。こっちはみんな、1人でやるんでしょう。1人倒れりゃ、1人減るのに、向こうは負傷したらすぐ、交代で来るでしょう、新手が。だから、ここにいたと思ったらここへ、そこへ出るわけだから、もうね、もう僕らがもう、移動したかと思ったら、常に敵がそこにいるんじゃない。

僕らはね、一番撃ったときで、13発か、1分間にね。腕のよくないような、分隊長で1分に13発かな。1発ずつ、ほら、僕らはこう、込めていくでしょう。だからまあ、全然、話にならない。それはもうね、もうならないですよね。ただ、「気持ちで戦争している」っていう気持ちじゃないかな。それはもう、物資においてはもう、全然歯が立たん。そりゃあ、初めて敵を捕まえて、自分がそれを見て、「はあ、なるほどな」と思うんだから。これじゃあ、勝てるわけない。

いや、もう僕は既にね、シナでもって、まだ、戦争前の事変のときに、(中国人)とやってたから、もうなれてたの。ばかにしてた。ということは、(日中戦争での中国軍とは)装備が違うから。ほら、(中国戦線と)もう全然。向こう(中国戦線)と、フーコンとは全然、違うわけですよ。だから、フーコンであの兵器を持って、僕らのところへあらわれたら、人間の数がもちろん違うけど、そりゃあ、もう全然、やっぱり話になんない。

戸惑いますよ。「こんなはずじゃなかった、あんなはずじゃなかった」まさか、「(中国軍が)2年間もかけてインドで教育をされて」と思わんでしょう。みんな、もうそれは今、言ったとおり、小銃も小さい弾も、どんどん出るようなね、要するに、箱ん中へ50発入って、機関銃のようなもんだけど、あれがバーっと全部、そういうのを各自、持っているでしょう。それはたまんないですよ、そんなもん。とてもじゃないが、太刀打ちならん。すごいもの。それは。

フーコンで玉砕したときは、要するに300名が6名になるんですよ。36名、それが玉砕ですよ。だから、いかにフーコンの戦いが、まあ、熾烈であったか。それに抵抗した日本が、ばかであったかということに尽きると、僕は今、考えてみれば思いますね。

こっちの肩、こっちの肩の下。こっちの肩、こっちの、僕は2発もらった。

僕は2発。敵のあれ、山砲でしょうね。(壕の中は)4人で、1人の人はここか、ここへ1発抜けて、1人の人はこの左の心臓からここへ抜けて、僕はこっちの肩から、こっちの脇の下へ、こっちの肩、だった。で、余り血が出るんで、死んだやつの血をかぶったと思った、僕は。

あの連中、死んだ連中の穴を掘って、処分して、その血をかぶったもんだと思ったの。

ところが、ふんどしまで寒くなって、「おお、寒い」と言ったときはもう遅い、そのまま、バタンキューだ。

もう、出血多量で、全然わかんなくなって。

僕を探しに来た後ろの連中が、「(古瀬さんが)どうしても、めっからん」ちゅうわけ。もう、めっからんから、帰ろうか。いや、だけど夕方だったらしいんですね。

何か知らんけど、大きな人間がね、木の根っこを枕にこうやって、たがっていうことだった。「じゃあ、まあ、見に行かなあかん」って、見たら僕さ。ここに注射をぶすぶす、3本目に、ぴっ、痛くて目が覚めた。というのはね、もう体が2つに引き裂かれるような、痛さですよ。その注射。「あ、これはいける」ということになって、そして、みんな暗くなったから、背負って帰ったらしい。

ずうっと並んでるの。歩兵の連中とか何とか、負傷者ばかり、「痛いよう」というような声をやっていると思ったら、「おっかさん、おっかさん」って、もう、かすかな声で。これはだめ、これは? っていう人間から、だんだん送ってくるわけ。

この野戦病院に。担架に乗っけて。途中で亡くなる人間が、何人いるかっていうんですよ。上り、下りでしょう。ジャングルといえども。そうすると、みんな雨が降っているから滑る。担架に上っている患者さんは、落っこっちゃうっていうふうな状態。

熱が40度ぐらいあるし。ああ、もう食べ物、とても食えないし。

(傷は)まだ治ってないですよ。だけど下半身が丈夫だから、僕は「歩いて帰れる、大丈夫だよ」と言って。

(野戦病院に入院している)大阪とか、京都の兵隊さんの鉄砲をかっぱらって、戦争の中に入っていって、行ったわけですもんね。

師団が玉砕をするということだったから、「死ぬなら、一緒じゃないか」ということになった。そうよ。だから九州の兵隊は、まあ何とか、そこまでに、団結をしてたわけ。だから、九州の兵隊は強いというのは、そこにあるんじゃなかろうかな。死ぬならば、一緒だよ。自分だけ生きて帰ろう、それはいかん。

入隊する前から「死ぬときゃ、ひとりじゃないよ」というのは肝に命じていましたからね。

でなきゃね、ああいう戦争はとても、普通じゃ、なまじじゃ、できない。なかなかね。

(自分の命が)もったいないなんて、あんた、そんなこと考えたら、ばちが当たる。本当です、ばちが当たります。

やっぱり人間は、つながりちゅうもんがあるはず。あんたの気持ちと、僕の気持ちのつながりが。あんたのためならばやろう、おまえのためならばやろう、というもんじゃないかな。

いや、どうしてか。それは、いつの間にか、そういう堅強な気持ちは、きのうきょう、あすあさってや、ともに同じ釜の飯を食った人間が、同じように死んでいくのは、当たり前じゃないかなと思うの。同じこのこうで、「おまえ半分、おれ半分」といって食べた人間が、どうして別に死ぬの。「おまえのためならば、あなたのためならば」と言って、初めて、人生観というものが生きてくるんじゃないかな。

シッタン川に僕はいたんだけど、ほとんど、裸足で歩いてて。「敵さんが朝から、鉄砲の弾も、大砲の弾も、全然、撃たんばい」ちゅうて思ってね、「どうしたんだろうな」と思ったら、白い旗を。線路伝いに、掲げてきたらしいんですけどね。

もうね、兵隊の気持ちはなかったね。ただ、「ああ、これで戦争は終わったんだ」っていうことで、目いっぱいだったですよね。あしたからもう、どこで飯炊こうとも、構わん。煙上げても構わん、大きな声出してもいいよ。こんなね、自由がどこにありますか。それはね、ありがたい。もう、それに尽きるんじゃないかな。それはもう、怖いものなしですよ、本当に。それはありがたい。もう、あしたから戦争しなくてもいいんだから。

菊兵団が敗れたでない。天皇陛下が、「もう戦争はやめた」ちゅうから、「天皇陛下の、上官の命が承ること、朕が命を承るなりと心得よ」という、そことがあるから、天皇陛下がもう、戦争やめたんだったら、僕らがやることないじゃないかということになるでしょう。菊兵団が負けたんじゃない。天皇陛下が「もうやめた」ちゅったんだから、これはもうしょうがない。そこに初めて、「しょうがない」ちゅうことが、ここにできてくるんじゃないかな。

今、考えたら、何だか、ばかばかしかったなあっちゅうのが、今の心境です。昔はそうじゃない。やっぱ筋金入りで、ほんとの筋金、筋金入り。そらもう、手でもって刀、受けるぐらいのね、力を持ってた。「切れるもんなら、切ってみれ」っていうぐらいの気持ちじゃった。今はもう、ごめんなさいだ。

出来事の背景

【北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~】

出来事の背景 写真昭和17年5月、日本はビルマ全土を制圧。しかし、連合軍はインドからビルマ北部を経て、中国の蒋介石率いる国民党軍に支援物資を送る「援蒋ルート」の一部建設に動き出した。その進行を阻止するため、日本軍は通称菊兵団と呼ばれた第18師団4000人を、インドとの国境線の密林地帯、フーコン地区へ送り込んだ。昭和18年10月、連合軍がビルマへ進攻。連合軍は、密林での戦いを研究し、小型の迫撃砲や自動小銃など機動性の高い武器を準備してきた。対する日本軍は、中国戦線で使われていた大砲をそのまま現地へ持ち込んでいた。砲弾は密林にさえぎられ、容易に敵陣には届くことはなかった。
さらに、中国戦線では日本軍が圧倒したはずの中国軍が、ジャングル戦の訓練を受けて鍛え上げられたうえに、米軍の最新の装備で、日本軍を追い詰めてきた。
さらに、インパール作戦の失敗により、フーコン地区の第18師団は、援軍も補給路も絶たれた。そしてついに、昭和19年6月、連合軍の攻撃に追い詰められ、ちりぢりとなって、フーコンの南にあった日本軍の支配地域を目指して後退した。

昭和20年8月、ビルマ南部のシッタン河のほとりで斬り込み攻撃を続けていた兵士たちは終戦を知らされた。フーコンで戦った4000人のうち、3000人以上が戦死した。

証言者プロフィール

1920年
長崎県島原に生まれる
1939年
久留米西部第51部隊に入隊
1943年
ビルマ・フーコンでの戦闘に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、家業の大工職人となる
2009年
逝去、享年88

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