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タイトル 「全く来なかった援軍と補給」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~
氏名 大西 清さん(第18師団 戦地 ビルマ(フーコン)  収録年月日 2007年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 陸軍第18師団  01:00
[2] チャプター2 「作戦」と呼べない  02:06
[3] チャプター3 補給なき持久戦  04:02
[4] チャプター4 補給  02:34
[5] チャプター5 前線に届いた「感状」  03:33

再生テキスト

僕は(第18師団は)強いちゅうんじゃなしに、まじめな兵団だと、思いますな。言われたことを、命がけでやると、そういう感じですな。それで、頑張っただけで、おれは強いんだっちゅうような、僕はそう思いますな。それで、古い年は炭坑のね、その炭坑の暴れもんだいう、の兵団だから、強いんだろうという。だけど、実際、戦をやってみて、強いのは、やっぱり、まじめな兵隊ですよ。「行け」言うたら行くし。

中国で戦った兵は、兵器、装備、貧弱でしたわな。旧式でしたわな。こっちはね、われわれの正面に来た、中国人の新兵、一軍、第一軍にいるらしいですよね。

数は、それは、雨、あられときますわ。ですから、あの守備隊(日本軍)もね、「敵、ここ今、やっつけたらね、いいんじゃ」思うて、機関銃ババーッと撃つ。撃つと、そら4~5人は倒れますわ。そのあと、ここ、撃ったとこのやつは(中国軍から)ものすごい弾がもう1日じゅうきますよ。

よく弾があると、思いますな。だから、最後は撃たんようになりました。仕返しが恐ろしいから。それから、時々まだ勇敢なのがおりましてな、そのババーンと撃って、あとは逃げるわけ。逃げたのは向こうに、わかりませんからね、そのあとへ、ものすごいもう土煙が上がって、おられたもんじゃないです。

いや、(日本軍には)そら作戦なんか、ありませんよ。作戦ちゅうのは、やるちゅうのは、何ぼかおってですね、右、左、寄ったりこう、やり方考えるの。そらもう、前線に「頑張れ、頑張れ」言うしか、手はないです。作戦なんか、ありません、なかったですな。

もう、そらもう、第一戦の頑張りだけです。作戦ちゅうような、もんじゃないです。叱咤激励で「頑張れ、頑張れ」言うだけです。そらもう、ひどいもんですよ。

われわれが、習うた戦法ちゅうのは、敵を包囲したらね、包囲してやったら、敵は自然に弱小になって逃げるか、こそっと逃げるか、降伏するか、と、そういう、筋書きになっておりました、習うたときは。包囲してるんだから。ところが、包囲してるいうたら、上が筒抜けてる。

そうしたらね、その上のね、あの敵の輸送機がね、3機から4機ぐるぐる、ぐるぐる回っとるんですよ。回りながらね、パラシュート落とすんですよ。パラシュートにはね、あの糧まつ・弾薬って梱包がついてるわけです。どうも、そのパラシュートの色で、弾薬だとか、衛生材料とか糧まつとか、区分がつけてあるらしいんです。それが、もうバーッともうきれいな、粉が落ちるように、落ちるんですな、陣地ん中。それはもう何といいますか、ものが言えませんな、びっくりして。すごいなあ、ちゅう感じ。

それから、パラシュートですから、時々こっちへ、こぼれるんですよ。こぼれる。それをみんな、兵隊、急いで取り行きよったです。それ「チャーチル給与」言うてました。名前つけて、おりましたけどね。それ見たらね、幕の内弁当みたいに、ピシーッとしたのが入ってるんですよ。コーヒーから、何から、みな入ってるんです。それは素晴らしいもんだな、と思いました。そらもう、驚き以外にないです。

こっちは、あのう、米を炊いてね、2週間分持って、それが3週間もなると、減ってくるでしょ。で、それでね、その飯を炊くのも夜じゃないと、昼、煙ができたら爆撃されますから、こっそりやって。腹、減ってたまらんようになる。だから、こう見とって、こぼれるのは、それを拾いに行きよりましたな。私らの正面にも、そういうのがありました、何回か。それは大したもん、連隊主力のほどじゃなかったですけど、パラシュート拾いましたけどね。

食べたことあるですよ。

ただね、見たら、素晴らしかった。日本の幕の内弁当みたいで、もう、全部そろってる。これ、カロリー計算してあるなと、思いました。コーヒーまであるんですから。湯をわかしさえすりゃ、コーヒーも飲める。ただ私も、もらいましたけどね、胸が焼けたです。わしら、ひもじいばっかりしてるから、こういう、濃厚資糧もろうたら、合わんのだな。胸が焼けたですな。

パンでいろいろとね。サンドイッチみたいのもずっと、あれどういうようにするか、まあ、私らその敵軍の初めて見たもんですからね。よく覚えとらんけど。コーヒーがあるっていうのと、バターがあったことは、覚えてますな。

それから、塩があり、砂糖があり。だから、どういう計算したか知らんけども、カロリー計算はしてあるなあと。とは思いましたな。

そらもう、上の人が考えておらんのですからな、それ、習うほうじゃから、夢にも考えて、それは夢でも考えておらなかったです。それはもう、ほんとに。それはまず、びっくりしますわ。「ああ、ああ」って、口、あけた感じですよ。何も取らんから、対策は生まれませんがな。

1回だけね、その1機、ただの1機がね、応援に来たです。それも糧まつ、糧まつじゃないんですけど、衛生材料と手りゅう弾をね、こう雲の中から、こう回ってね、日本軍の陣地の中、落として帰った。これは、ものすごくうれしかったですな。みんな壕から飛び出て「バンザイ! バンザイ!」言うたです。涙が出ますよ。あれ不思議なもんですね。包囲されて、日本軍を見るという、そのありがたさいうか。敵ばっかりで。これはあれですな、1回だけあったです。

それから、1人も応援に来ませんがな。それから1発、その手榴弾100発以外に弾薬の補給もありませんがな。もちろん、糧まつはありません。腹減って仕方ないもんですから、そら、猫、追っかけたり、犬、追っかけたりしました。だから、赤犬なんて、大隊の下士官がね、殺して一晩、埋めて食べりゃあうまいんだよって、1発やって、それ埋めてね、赤毛の。岩塩でな、煮て、食わしてくれたですわ。うまいですよ、そりゃ。腹減ってるから。

それから、その大隊の幹部の軍医さんがね、薬用アルコールを飲ませてくれましたわ。これね、酒じゃないけど、酔いますな。それから、今、言うた下士官が犬を、1発やってね、土、埋めてあくる日に、岩塩で炊いて食わしてくれた。これも、けっこう食べられます。まあ、そういうことを決めて、そのときは、そういう余裕は出ましたな。

軍医が飲ましてくれたです。アルコール飲めるとは、思っておりませんでしたから、知らなかったけど、けっこういけるなと思いましたな。

味はありませんが、ボーッとしますわ。あの、酔うて。それは覚えてます。

「よくやった」いうお褒めの言葉が、電報で。その感状ちゅうのは大体、戦が終わったあとに「おまえはようやった」言うてくれるもんですけどね。それは、戦死。そんときには、その私の部下が「弔電か」言いましたが、私のとこに。それが、そのときにこれで「死守命令、死守せい」いうことだな、と感じましたな。

それを戦闘、作戦中に出したということは、ああ、これでもう、死んでくれということだなと。それが死守命令だと、ま、こう感じましたな。

「(玉砕・死守)しろ」ということだなと、思ってね。そのときはね、「ああ、そうか」と。「弔電か」っていう軽い気持ちで聞いとった。それね、日にちが経つとこう、現実味を帯びてくるわけ「あそこがつぶれた、ここがつぶれた」いうてね。保有する兵隊がおらんから、つぶれたとこから、穴があけば、また入ってきますよ、敵は。それで、だんだん、だんだん、こう縮小して、現実味を帯びてくるわけですね、これでいよいよ最後。

そしたらね、妙にまたいろんなことを、一番、感じたのは、「このまま消えて、どこでどうなったか、消えてしまうというのは、寂しいなあ」いう感じでしたな。無性に寂しかったです。そのおふくろにだけでも、「清はミイトキーナで戦死したんだ」と知らせたいと。そういう印象も、後で考えたら、そんな、わからんこと、ないんですがね、そのときは、そう思いましたな。無性に寂しかったです。

せめて「ここで戦死した」ことだけでも、知らしたいという。その寂しさは何とも、言われませんな。どうやって、玉砕する、自決するとか、そういうことなしに、寂しかった。そらもう、やっぱり僕だけじゃなかろうと、思いますけどな。あれは、もう寂しいもんですわ。

「ここで死んだ」いうことを知ってほしいということですな。闇から闇へ、消えてしまうんじゃなしに。

無謀とも、何とも、言われたら「へい」ちゅうだけで。わかりませんから。

金輪際、戦はもうやっちゃいかんと、こう思って。

そりゃ、応援が欲しい、糧まつが欲しい、弾薬が欲しいです。感状なんか、どうでもいいです。それはみんな、そう思ってた。まず、増援が欲しい。応援に来てほしい。だから飛行機見て、泣けた、飛行機を、ただ1機でも、泣いたちゅうのはそれだけ。それから、弾薬が欲しい。撃つ弾ありませんから。その次に食うものが欲しい。衛生材料が欲しい。それはそうです。それだけです。それを1発も、ひとつも(補給)せずにおいて「ようやった」ちゅう、そんな、ばかな話あるかい。今から考えれば、そらそんな、ばかなっちゅうけど、そのときはそうでしたな。

出来事の背景

【北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~】

出来事の背景 写真昭和17年5月、日本はビルマ全土を制圧。しかし、連合軍はインドからビルマ北部を経て、中国の蒋介石率いる国民党軍に支援物資を送る「援蒋ルート」の一部建設に動き出した。その進行を阻止するため、日本軍は通称菊兵団と呼ばれた第18師団4000人を、インドとの国境線の密林地帯、フーコン地区へ送り込んだ。昭和18年10月、連合軍がビルマへ進攻。連合軍は、密林での戦いを研究し、小型の迫撃砲や自動小銃など機動性の高い武器を準備してきた。対する日本軍は、中国戦線で使われていた大砲をそのまま現地へ持ち込んでいた。砲弾は密林にさえぎられ、容易に敵陣には届くことはなかった。
さらに、中国戦線では日本軍が圧倒したはずの中国軍が、ジャングル戦の訓練を受けて鍛え上げられたうえに、米軍の最新の装備で、日本軍を追い詰めてきた。さらに、インパール作戦の失敗により、フーコン地区の第18師団は、援軍も補給路も絶たれた。そしてついに、昭和19年6月、連合軍の攻撃に追い詰められ、ちりぢりとなって、フーコンの南にあった日本軍の支配地域を目指して後退した。

昭和20年8月、ビルマ南部のシッタン河のほとりで斬り込み攻撃を続けていた兵士たちは終戦を知らされた。フーコンで戦った4000人のうち、3000人以上が戦死した。

証言者プロフィール

1919年
岡山県岡山市に生まれる
1940年
小倉歩兵第114連隊に入隊
1942年
シンガポール、ビルマ攻略作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、建設会社に勤める

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ビルマ(フーコン)

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