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タイトル 「餓死者累々の白骨街道」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~
氏名 古野 市郎さん(第18師団 戦地 ビルマ(フーコン)  収録年月日 2007年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 「歴戦」の師団への入隊  01:29
[2] チャプター2 死の谷「フーコン」  02:49
[3] チャプター3 撤退の道  05:15
[4] チャプター4 敗戦を知る  02:59

再生テキスト

強いちゅうか、結局、あのう九州の者は気が荒いんですよ。

やっぱその、ああなんか、炭坑関係やらなんやら、川何とか育ちっていいましても、ああいうふうななんで、あのうみんなそういうふうな、もう入隊するときから、みんなそういう人たちばっかりで、しかも、あのう大きな体した者ばっかりやったですから。やっぱり気合いの入れ方が違いますよね。

やっぱり九州男児ちゅう、いろいろななんがあったから、少々のことで泣いたりあれしたりけがしたりとか、そんなことは絶対なかったですね。少々けがしてあれしとってでも、「ああ、おまえおれ」って、いわれても「いや行きます」っちゅうて、そういうふうななんで、あのうみんな、「先輩がついて行かれよんのに、あの自分だけそんなあれはできない」っていうふうな気持ちが、植え込まれとったですね。

ジャングルちゅうても、この辺のただ普通のジャングルやないですね。とにかくもうなんですか、もうそれは毒草もあるし、何もあるしですね。それはもう、木でも何でも大きな、なんで、雨期ちゅうても3か月か4か月ぐらいずっと、雨が降り続いて、降るとこであって。

ジャングルで、それは、いろいろイラのある木もあるし、毒草もあるし、あのトラとかあんなとか、ヘビとかいろいろたくさんなんが(巣)があれですからね、想像もつかんようなとこですよ。それで伝令なんかで行くときでも、そのジャングルの木のこの立ち方が違うから、もう道っちゅうたって、コマイあのうウサギ道みたいな、けものの通る道しかないから。それで、自分の木をこう折り曲げてですね、しとかんと、自分が折った木の折り目しとかんと、あの自分の中隊に帰れないわけです。

フーコンっちゅうとこは、人があの住まないような、人が今まで住んでないようなとこで、ただ、そこはけもの道で、カチンの人たちがあの通る、過ごす道だけであって、だれも通ってない。今まで人が入ったことのないようなとこが、そのフーコンのだいたいジャングルなの。そして山が深いんです。

フーコンに入るときですね、そういうふうな、なんで、もう毎日毎日もう、雨が降ったりいろいろしてですね。それはもう、第一、それは弾の来るのも、迫撃砲のあんな弾の来るのもなんもあれやったですけど、病気がですね、風土病にかかってマラリアの熱が出て、そして雨もシイキになるし。かっけなんかでもこうはれてしもうて、それから山ん中いたらヒルがおりましてね、そのヒルがこう来て。巻きハンはしておりましても、その間に入ってくるわけですよ。入って血を吸うですよ。それで、その足の片方(の中に)まだ残っとるようなありますよ。この足あけたら。

だいたい、だれもかれもが、かっけみたいな足がはれ、そして、マラリアの熱が出てですね。食べ物もないし、もうとにかく飯ごうの中に残っとる、その、「何日で食べようか」っちゅうぐらいのことで、もう、一遍に食べたいけど、それが食べられんで、置いてちょっとずつ食べながら、その荷物を担いで行ったんですから。それの中の大砲の弾を担いだり。ボンベのあれを、30キロのやつを担いでですね、行ったら、それは重たいから、足が人よりも余計、ぬかるみん中、入り込むんですよ。今度は上げるときは、なかなか上がらんとですよ。

そして水が、ひどくなって赤水がザーッと、一遍に、ずうっと水が流れますでしょ。そしたら、その泥が一緒に、ダーッと流れますからね。それにしたがって、横に寝とる兵隊さんも、一緒に流されていったり、「衛生兵殿、衛生兵殿」いいながら、みんな流されていくような人もおるし、そ轟音の、ザーッと降ったときの水の勢いのあんで、その赤い水に流されていく人もおるし。

もう、いよいよ動けんようになって、みんな早く、ぐあいが悪いからって、部隊から離れて、あのう後方に下がるような人たちは、もうこの辺でよかろう、というところで、あの、今の筑紫峠なんかの道の端におった人なんかは、やっぱりそんなのは、(吸血ヒルが)入り込んだりなんたりして、腫れたりなんたりして。

もうずうっと、このぐらいずうっと並んでありますよ、両端に、道の両端。山、こうなっとりますからね、その端の、あの木の根のとこいらに、ずうっと、天幕を置いたり。あるいはあれしてからね、木の根に寝たりしとります。

目にあのう、ウジがつくんです、ハエが。それは、ギンバエみたいなとか。それが、激しいですよ。それが来てからあのう、もうウジができるんです。そやから、目とかこんなところに、そのウジがついて、こんなもう遺体からもう、どうにもこうにもならんようなあれしたり、この鼻のとこやら、口のところにそれが来るわけですよ。

そんなあれがない人(払う力のない人)が、今度はあのもう、地べたがずるずるしとうから、その雨が激しゅうなったら、ズルーっと滑ったように(谷底に)持ってって、行くんです。

(谷底に落ちたらもう)助からない。もうそんな、助けるあれないですよ。もう、そういう余裕がないんやけ。もうそれは、ずうっと、次々にもう、そしてこんな向こうのほうに、大きな1メートルぐらいのハゲタカがずうっと、とまっとんですよ。もう、元気のない者、サーッと寄ってきて、バタバタ取ってしまいますよ。むしり取ってまわる。

今まで寝とったのが、もうあのう、皮膚からなんか、全部、取られてしとるあれはありました。とにかく、あのもう想像もつかんことばっかりですけ。もう、生き地獄。

もうつらいも何も、自分もそれもう、一緒ですよ。もう、いつ死ぬかわからん状態です。みんな手榴弾を持っておりますわ、みんな。それで中には、ボーン、ボン、ボン、ボン、音も聞こえるし、自決しようる人もおるし、それはもう本当ちょっと想像もつかんようなです。

着る物が第一もう、ぬれて。もうそれは本当、もうただここだけですよ。ズボンもない、破れてしもうて。もうそれは靴も、取られてしもうて。あれするし。その辺に寝転んであれしとる者を、靴を取って履いていかな、ないぐらいもう足取られてしもうて、ぬかるみで。それで足もはれとるし、もうそれで手もふやけてしもうて、もうそれはだれもかれもみんな一緒ですよね。そやけ、そういうあれな、見てですね、それやけど、まだ「負けた」なんていうあれはなかった。また、そのこのあれで、あれを、「激戦をせないけん」っちゅうあれがありましたからね。それは、一生懸命なって、担いで行っとりますよ。

とにかく、終戦なってですね、いよいよ、本当は腹が立つほどだし、「もう戦争終わった」っちゅうことで。

ビラをバーッとまいてきたり、いろいろしたんですけどね。まず、それまで「負けた」なんて思うとらんやったんですけどね。そのとき、サトウキビやら取り行ったりなんたして、輜重隊っちゅうこと一生懸命なって、しよったときですからね、その「負けた」なんか、思わんやったけど、もう負けてからね、あれしてから、いよいよ、兵器を返納せんならんっちゅうことになったときに、「はあ、本当情けないなあ」と思うて。思うたときに、向こうの対岸にずうっと、向こうの、砲がとか兵器がずうっと、並んどる、あれを見てから、「はあ、これ本当、戦争終わったんか。はあ、終わってよかったなあ」っちゅう気持ちもありましたね。あれを見てから。その向こう側の装備を見て。

もう本当、それこそあんな格好で、今まで戦いの間、あれしながら、きょうはあれしなら、歩兵の人たちも、決死隊のあれ、鉢巻きをしながら、「夜襲にきょうはあの何部隊から、何名」とかいうげなことで、行きよったからですね。あんなこと思うてしたら、終戦なって初めてその向こうの兵器を見てから、びっくりしました。

もう、あんとき兵器、返納するとき、「はあ、こら、本当、情けないなあ」と思って、そんとき、そう思いました。そして、そんときに流言蜚語が、あれしてからに、「3人か5人ずつ、そのう、みんな陸伝いに行かないけん」とか、やれ何とかで、「内地に帰っても、あの金玉抜かれる」とかやれ何とかかんとかいう、そういうような話やなんやら、あったけど、そのときのあれやったですけど、それまで、やっぱり一生懸命なってきたから、もう本当、情けないなあと思うて、返納しましたね。

やっぱり紙一重で、運が悪かったり、よかったり、いろいろしてから、戦友が亡くなっていた、その人たちの身がわりしてくれたなあと思うて、やっぱり、どこにおっても、その気持ちは、いつまでも、今日ありますけど、忘れることはできない。忘れられません。もうそれはですね、本当はあそこにあんな人たちを、そのまま置いてきてからっていう気持ちは、ずっともう、いつも胸ん中にあります。

出来事の背景

【北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~】

出来事の背景 写真昭和17年5月、日本はビルマ全土を制圧。しかし、連合軍はインドからビルマ北部を経て、中国の蒋介石率いる国民党軍に支援物資を送る「援蒋ルート」の一部建設に動き出した。その進行を阻止するため、日本軍は通称菊兵団と呼ばれた第18師団4000人を、インドとの国境線の密林地帯、フーコン地区へ送り込んだ。昭和18年10月、連合軍がビルマへ進攻。連合軍は、密林での戦いを研究し、小型の迫撃砲や自動小銃など機動性の高い武器を準備してきた。対する日本軍は、中国戦線で使われていた大砲をそのまま現地へ持ち込んでいた。砲弾は密林にさえぎられ、容易に敵陣には届くことはなかった。
さらに、中国戦線では日本軍が圧倒したはずの中国軍が、ジャングル戦の訓練を受けて鍛え上げられたうえに、米軍の最新の装備で、日本軍を追い詰めてきた。さらに、インパール作戦の失敗により、フーコン地区の第18師団は、援軍も補給路も絶たれた。そしてついに、昭和19年6月、連合軍の攻撃に追い詰められ、ちりぢりとなって、フーコンの南にあった日本軍の支配地域を目指して後退した。

昭和20年8月、ビルマ南部のシッタン河のほとりで斬り込み攻撃を続けていた兵士たちは終戦を知らされた。フーコンで戦った4000人のうち、3000人以上が戦死した。

証言者プロフィール

1921年
福岡県宗像に生まれる
1942年
久留米西部第51部隊に入隊、砲兵訓練を受け、中国を経てビルマへ
1945年
終戦
1946年
復員後は、製鉄会社に勤める

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ビルマ(フーコン)

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