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タイトルタイトル: 「驚きの集団投降」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 星野 一雄さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月6日

チャプター

[1]1 チャプター1 アイタペ作戦  04:16
[2]2 チャプター2 移動を阻むジャングル、川、湿地  03:19
[3]3 チャプター3 密林へ  02:11
[4]4 チャプター4 驚きの「集団投降」  04:52
[5]5 チャプター5 玉砕命令  02:26
[6]6 チャプター6 収容所での出会い  06:37
[7]7 チャプター7 ニューギニアの戦いを振り返って  02:26

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月6日

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もうね、中央ってか東京っていうか、本部というか・・・補給を全然してないでしょう。食料とか弾薬。それでね、「アイタペやっつけろ」なんてことは言えませんわな。だからね、上もうまいこと言うんだな、そりゃもう「選択に任せる」と。

補給がなくなったのは、もうね、とにかく船で運んでくるでしょ。目の前でね。制空権を奪われたからね、飛行機はこっちはダメだから。そうするとね、船が入ってきても目の前でね、我々の食べるものなんか積んだ船がボカンボカンやられるんだ、目の前でやられるんだから悔しいよねー。
あと蓄えね。やっぱ、あれ、その蓄えって相当なもんなんだな。昔は船で運ぶといっぱい。で、ウエワクにはたくさん、この貨物所ってのがあって、そこに蓄えがあったんでしょうね。するとやっぱり敵はね、今度はそういうその蓄えたところを爆弾が落ちてくる。分かるんだから。だからそれはますます食べるものが無くなってしまいますよね。

だから、安達さん(41師団が所属する第18軍司令官 安達二十三中将)としては本来ならば、歩兵っていうかな、もう戦争しないで山の中に入り込んじゃってもいいわけよ。命令違反じゃないわけ。そういう道もあったの。だけど彼としては、まぁずいぶん苦しいんだろうけどね、これは「日本男児ここにあり」ってことだ。「敵が目の前にいるのに、のこのこ下がることはできない」ってことだ。「やろう」ってすごい決意をしてね、やるってことにしたの。

もう敵が目の前にいるのにね、尻尾を巻いて逃げるとは、男子として面白くない。「一発やろうと、やろうじゃないか!」となると皆ワーッてそういう気になるんだよな、日本人ってのはもう。こちらもそうだけど。「ようしゃ、やろう」ってことで、それで鎧(よろい)を固めてもうやろうってやった。

僕らはね、マダンまでいったんですよ。そしたらどっこい、敵さんはね、ずーっと迂回(うかい)してね、ずっと後ろの方のホーランディア。後ろの方ですよ、こっちから見たら、こっち(マダン方面)に攻めてたんだから。どうも上がった(上陸した)っていうんで、こりゃいかんと。それじゃ回れ右して、そっちの敵からまず、アイタペね。だから我々はせっかくマダンまで行ったのをね、とことことことこまた帰るのはね、大変なんだもう。

昼間は飛行機が来るから、夜こっそり川行ったりして、やっとね、ウエワクに戻ってきて。さぁこれから、それじゃあ、今までこっちに攻めていってから、今度はこっちね。アイダペの方に攻めに行かんって。ウエワクで準備して、ありとあらゆる物資を使って、それでアイタぺに行こうっていうわけで。

アイタペよりか、ホーランディア、ホーランディア攻めろとか、初めは。とてもホーランディアまでは行けそうにないけ、アイタペで敵がしっかり軍備しちゃったもんだから。
それをね、川を越したりしてね、やっとね。それがアイタペ作戦。アイタペ作戦のときはね、向こうはね、全部こう船で資材運んでるから準備できちゃってるわけよ。こっちは遮二無二突っ込んでいって、

とにかく攻めたんだけども、向こうはもう飛行機もあるし、大砲もあるし、それこそメチャクチャですよ。こっちはもうさんざんやられて、また山の中に逃げ込んじゃってね。

川、坂東川(ドリニュモール河)とかいったなぁ。その川を、向こうとにかく攻めるんで、やっと渡ったな。やっとこだ。一応僕なんかは、参謀と一緒に坂東川渡ったんだ。で、行こうと思ったら、お先に行った部隊がもうやられてね。引っ込むとこだった。

やっぱし僕らが川を渡って向こうに行こうとしたら、兵隊が7、8人、ボロボロになってやってきたんだ。「どうしたんだ」って言ったら、「退却すんのか」って言ったら、「そうじゃありません」って。部隊とこう、敵を攻めようと思ったら、目の前が全部敵で、やられると思ったから、道の横に離れた。それでここに来ちゃったんだっていうから、「そうか、それじゃまぁ一緒に行こう」って言って、また出直したりしたけどね。やっぱりあれだよね、それで行こうと思ったら本当に向こうはね、整備してるわけだ、守るほうをね。こっちはもう行きようがないもんだから、それでまたまた下がちゃって。アイタペ作戦ね。

逆にアイタペはとてもじゃないけどダメになっちゃって。それでね、いよいよもう物資も補給がなくなったから、しょうがないからってんで転進って。要するに退却ですわな。で、山の中入っちゃったの。

(作戦を)やったはいいんだけど、何しろもう、向こうは船でね、輸送してるし飛行機も使えるし、やろうっていくら言ったってこっちは空威張りだな。全然ダメで、やっつけられて、しょうがなくもう、山の中に入り込んじゃったの。もう山の中に入り込むというと、いわゆる退却ですよね。山の中に入っちゃえばいいと思ったら、とんでもねーんだなぁ。向こうは飛行機で、低空飛行機でこうだから。下で物音させると分かっちゃうからね、もうじーっとして隙間を見ながらだんだん、だんだん奥へ奥へと。ま、退却だな、して行ったんですよ。
そんなん、しょっちゅうそんなことばかりしてるんで、敵が来そうになったら、そーっと動いて、また敵が来そうになったら、そーっと。

それでこっちはしょうがないからどんどん奥入って、だんだん、だんだん追い詰められて、とうとうもうこれ以上はどうにもならない。食料も無きゃ、弾薬はともかく、もうどうしようもない。

とうとう最後は包囲されちゃってね。

そうするとだんだん追い詰められて、玉砕の陣地まで追い詰められちゃったわけだ。嫌な気持ちですよ。ねぇ

いやそれはもう、死んだ人がうらやましくなるね、しまいに。「あいつ死んじゃって良かったなー」って。とにかくもう、死ぬのは当たり前なんだから、その死に方ですよね。

敵がビラまいたらしいんだ。「士官学校出のこれこれ」なんて書いてあるからね、さあ、びっくりした。軍司令官以下、日本の本当の将校は。こんなことありうるかって。士官学校ができて以来、こんな不祥事はないって。これは憤慨、大憤慨してましたね。

僕らはあんまり直接には知らないけどね、噂にも聞いたけどね。(第2大隊長)竹永さんがやはりどこどこを死守しろっていうかな、固守しろ、固守しろという命令受けて行ったわけだ。そこへ行ったところがね、何もないところだったんだ。食べ物はなければ、補給はなし。さぁどうすんだったら、僕らだったらね。やっぱしね、捕虜になっちゃうかね、手を挙げてね。どうするかっていうことですね。やっぱし、僕でもそのときだったらね、やはり敵に下ったと思うな。ただ、そういう状況だから竹永さんはやはり下ったらしいんだな。それがね、そのころはね、例の東条(英機)さんが「捕虜になるくらいなら死んじまえ」っていう命令出したんだからな。だからね、普通ならダメなんだ。で、その竹永さんは、そいつは、個人的には苦しんだと思うけど、結局はそんなんなっちゃったってことでしょうね。

僕らは竹永さんって特別良く知ってるわけじゃないけどね、噂には聞きました。そうしたら今度、そりゃあ本当の軍人さんは士官学校を始まって以来の不祥事だって、こんなことはないって。そりゃそうだろうね。東条さん。だけどね、本当の国際公法(国際法)ではね、そんなことないんですよ。本当に戦ってね、もう例えば病気なって寝てるとき捕まったら、こりゃ一種の捕虜だけどね、ちゃんとそれに対する待遇はね、国際公法で認められてる。ちゃんとして。そういうことを知らされてないわけだ。知ってりゃ頑張りゃいいんだけどね、頑張ったってとにかく東条さん、とにかく「捕虜になったら死んじまえ」って言うんだから。皆黙っておったんですよね。

その禁を犯して自分で捕虜になっちゃったってことでしょうね。大変な決心ですよ。今考えればなんでもないことだ。捕虜になったら、戦争で負けちゃったら、さんざん戦ったんだから、「もう降参」って。それは当たり前のことで。

しかしね、冷静に考えれば、これ以上やったって。とにかくもう補給が何にもないんだから。食べ物はもちろん、武器弾薬なんか全然ないんだから。それでね、ほおっておかれて。とやかく言われたもんじゃないや。自分で判断するしかないと思うわね。
やはりね、やっぱしね手を挙げるというか、「捕虜になる」という言葉が、どうもこの抵抗があるんだけど。手を挙げちゃうと「参った」という意味だ。ね、あれいい言葉だ。参ったんだよ、ほんとに参ったんだ。だって食べ物もなきゃ、武器弾薬何にもないもの。どうしろっていうんだ。参った。参った。参った、本当に参ったよ。これ以上参ることないわ。そしたらどうするか。参った参った、いい言葉だなぁ。

それでね、最後はもう、こちらは物資の補給がなくなっちゃったから、それこそ食べられる草やなんか食べながら、もういよいよ玉砕命令が出ちゃってね。もうここで我々は全部全滅する、最後の、するんだっていう命令が出てね。もうすっかりだから身の回り整理しちゃって。

そりゃもう最後の一戦だ、っていうときに、(連合軍の飛行機から)バーってビラまいたのが、そのビラがね、「日本降伏セリ、速ヤカニ戦闘停止スベシ」っていうんだよ。俺は、こっちはね、ホッとしたんだけどね。上の人はね、あれは敵の謀略だって。皆呼び寄せといてね、バンってやるんだぞって言うんだけどね。こっちは内心「やれやれ」と思ってね。

そしてしばらくしたら、3日ぐらいたってからかな、やっとね、陸軍の方は通信がダメで、海軍から来たっていうんだけどね。やっぱり日本は戦闘を停止したようだから「速やかに武装を解除して、こちらから絶対攻めてはいけない」っていう命令がきてね。そしてやっと、3日ぐらいたってから向こうが、ジープに乗せられて、敵の拠点まで行って、そこで武装を解除されたんだ。武装たって、もう皆、ない。ほとんど持ってないんだけどね。

僕はもうほっとしたね、これで助かったかなって思ったよね。

武装をみんな解除してね、出てこいっていうわけよ。それでね、皆出て行ったわけだ。

僕は師団長の遺品として、万が一帰ったら遺族に渡そうと思ってさ。拳銃くらいしかなかったけど。だけど全部。いわいる武装解除ですよね。

で、今度はウエワクでね、2万人くらいいた。そして、ウエワクから今度はムッシュ島っていう島があるんですよ、そこにね全員で運ばれちゃったわ。そこには昔からいた、戦争しないでいた海軍とか何かいたけどね。何人くらいたかな。そこで、一応収容されたわけよね。だから、もうそのときは、戦争は終わってるんだから、戦争捕虜、戦争捕虜ってのはprisoners of warっていうんだけどね、そういう言葉は向こうは使いませんでしたね。Laborers’ partyっていったの。まぁ、収容所の労働者をね、っていう、扱いでね。

その内にね、400人くらいね、仕事ができそうなの寄こせって言うんでね。中でも皆もへばってね、中でも少しは丈夫な人を400人選んで、またウエワクの収容所に。まぁ作業にね。そうしたら、その中にイングリッシュスピーキングジャパニーズって、書いてある。インタビューだ。通訳とは書いてないで、要するに英語のわかる日本人を2人、その400人の中に入れろって、こう命令がきてるわけよね。

いっそのことだからね。じっとしてるよりは、なんかと思って、思い切ってまたその2人で入ってね。そのウエワクってとこに、昔の、そのちゃんと収容所ができてましたよ。そこで400人と僕が通訳ってことで2人。

入口にいた監督の長がキルパトリックっていう例のやつがね。人が良いんで、また英語もね、ちゃんと、クイーンズイングリッシュ使うしね、非常に気が合ってね。いい人だったから非常に皆、捕虜になってもいじめられることなんかなくてね。非常によくしてくれたんだ。で、それからいまだに付き合ってるんだから、

で、帰るときなんかもね、もう通訳要員は今仕事しなくていいって気分だから、皆残りたかったけどね。だんだん皆帰っていくとね、

やはりね、だんだん帰って、結局最後は僕一人になっちゃった。通訳要員っていうか。そしてそのときもね、キルパトリックが最後まで一緒に見回ってね。そいで、いざ僕がトラックに乗ったら、一人兵隊さんがキルパトリックに何か言いに行ってしゃべってるんだよ。なんだと思ったら、ツカツカってきてね、この毛布ね。向こうはテーブルクロスに毛布使うでしょ、あれでね。あのころは2月だから冬だからね、これね、僕らは「日本に帰ったらこんなものは純毛でね、大変大事なものなんだから」なんだって言ってたことがあるんですけどね。それをね、その兵隊さんがキルパトリックに耳打ちしたらしくてね、クルクルってそれを持って来てくれたの。それはね、本当に帰ってきたら何もないでしょ、あの時分。そして、その毛布を染めてね、洋服にしたら、いわゆる純毛の洋服だからね、もう上等でね。喜んどったら泥棒にとられちゃった。

キルパトリックっていう人はいい人だったからね。お礼の手紙も、一応彼が帰るときに教えてくれた住所に出したけどね、全然ダメなの。僕が社用でオーストラリアに行ったときもね、向こうの軍隊の経験ある人とかね、全部調べてもらったの、住所。そしても全然わかんないんだ。

あるとき逆に、50年くらい経ってから、オーストラリアの大使館からね、なんかね、「ニューギニアのキルパトリックって人が、あなたに手紙を出したいって言ってるんだけど、どうか」って。
だから、確かめたんでしょうね、あれは。そういうのは、僕がいるかどうか。「それはもう、わしゃそれを一生懸命探してたんだ」って言ったらね、そしたらね、手紙が来ました。50年ぶりかな。「僕はこんな手紙出すのはあなたびっくりするだろう」と。「君は忘れてるかも分からんが、わたしは君が捕虜のときの通訳をしてたもんだ」と。キルパトリックが。それでね、今度はその、「僕が資産の一部を売って世界を回ろうと思ってるんだけどね、君に会うことができるのか」なんて言ってきて。「冗談じゃない、できるどころかこっちは待ちに待って探し回ってたんだぞ」って言ってね。

そしてそこで初めて、久しぶりに50年ぶりかな、会って、彼「家に来い」って言うから、行ってね。二日間くらい泊まったら、ずっとあっちこっち案内してくれてね。

いいようにされちゃったんだなこちらは。で、それでね、もっとも、アイタペ、ホーランディアを攻めたって言ったってね、そんなもの大体後は補給が続かないことは分かってるんだから。そういう先を先を皆見ないから負けちゃったんだなぁ。それならば、先を見てたら、初めからこの戦争、日本のこの戦争はやらなかったですよね。

だから変なもんだよ、生き残りってのは。偶然だよ。生き残ってるのは偶然だ。偶然、偶然が繋がって現在94までね。偶然、偶然の連発だ。

Q.今もニューギニアの亡くなった方のことは思い出しますか?

亡くなった人のことを考えればね、本当にね、考えるなぁ。だけどね、生き残ったから、ね。

お悔やみかたがた訪問したらね、いや驚いたね。お母さんが出てきてもう会いたくないと。引っ込んじゃったの。こっちはびっくりしちゃってね。まぁ、お悔やみに行ったつもりが、なるほど、お母さんの身になってみればね、皆は、一緒に行った皆はこうやって帰ってきてるのに、自分の息子だけなぜ死んだんだろうっていうのが、カーって来ちゃったんだろうね。いやー、びっくりしたよ、こっちの方が。で、もうすごすご引き下がってね。それからうっかりね、亡くなった方の留守宅に行くのは考えなければいけないと思ったね。本当にこっちは予期しないことだけどもね、そういうことありうるんだ。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1914年
東京市世田谷に生まれる
1939年
習志野騎兵第15連隊に入隊
 
騎兵第41連隊に配属、北支山西省へ
1941年
第18軍創設に伴い第41師団司令部付将校に転じる
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
1944年
アイタペ作戦当時、大尉
1945年
終戦 当時、陸軍大尉
1946年
神奈川浦賀にて復員

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