ホーム » 証言 » 杉浦 敏夫さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「敗残の兵士たちが彷徨」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~
名前名前: 杉浦 敏夫さん(名古屋・歩兵第228連隊 戦地戦地: ガダルカナル島  収録年月日収録年月日: 2009年6月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 7年に及んだ陸軍での生活  04:01
[2]2 チャプター2 ガダルカナル島  05:02
[3]3 チャプター3 思い知らされた装備の差  02:08
[4]4 チャプター4 相次ぐ小隊長の死  05:13
[5]5 チャプター5 撤退  03:10

チャプター

1
2
3
4
5

再生テキスト再生テキスト

はたちで検査受けて、21ですね。それから丸7年間、軍隊の飯食べておりましたから。

Q:じゃあ、お仕事途中で?

途中で?

Q:丁稚さんの途中で?

そう。途中で兵隊に入ったわけですね。

Q:そういうときは、どういうお気持ちなんですか?

どういう気持ちだろうね。しっかり、ようわからんけども、誰それみんな行くんだから、自分一人行くんじゃないんだからね、みんな義務で行くんだから、そのときは何とも思わなかったんですよね。

Q:戦争に行くというのは、その頃はどんなふうに思ってらっしゃいましたか。兵隊さんになるっていうのは、どういうことだと思ってらっしゃいましたか?

どういうことだって、今言いましたようにね、自分一人行くんじゃなくって、全員がいわゆる義務としてね、兵役の義務ですね、男と生まれたときには仕方がないですもんね。まあ早すでに、私らか、私らのすぐ後くらいからほとんど、国民皆兵といってほとんど全員近く兵隊になりましたわね。昔は甲種合格って、わたしは甲種合格だったんですが、120人くらい行って20人くらいしか取りませんでしたわね、甲種合格っていうのは。その後はみんな、男ならみんな兵隊だったわね。

そんなもん結局、義務だからね、兵隊。男であればみんな兵隊に行くのが当たり前だったですから。ただ、私らの時分はまだ、全員じゃなくて。私らの2~3年後くらいからほとんど皆兵ですね、みんな兵隊になっちゃったんだけども、私らの時分はまだごく一部しか軍服着ませんでしたから。

私らの部隊はいわゆる新しい部隊、新設部隊で第3師団から生まれた第38師団というわけで、6連隊で編成されて、それで6連隊で228連隊です、私どもは。

旗護兵、軍旗を守る旗護兵てのにね、いわゆる成績のいい者順から4人取られましてね、軍旗の周りに、歩いていくときは軍旗が真ん中におって、周りに4人行くわけなんです。ですから、一番先頭がラッパ手です。それから軍旗。それから連隊長という具合の編成でわたしは6連隊を出て、そして笹島まで歩いたわけですよね。そこから汽車に乗って出征したわけですけども。

それでわたしが旗護兵で一番先頭で歩いて、わたしのいとこがすぐ見つけてくれたんだわ。営門の所にいたんだな、いとこがね。

ボーゲンビルという島にいたわけなんですが、そこから駆逐艦に乗って出かけたわけなんですが、ボーゲンビルにいるときにね、今現在2師団がぼくらがこれから行こうという島でさんざん非常に苦戦をしておるんだと。それで、食糧もなくて、一日の食糧がこれだけだよという話は聞いておったんですけども、それがこれだけが食糧がどれだけ苦しいか、悲しいかってことは、そのときはね「何だ、仙台(第2師団)のヘッポコども何やってるんだ」と。「我々がいけば1週間もすればアメリカ兵みたいな、片づけちゃうわ」というような気持ちでいましたから。われわれは長い間戦闘やってても負け戦って一度もやったことないですから、勝つもんだと思っておるんですわね。
ですから、そんなつもりで行ったんですが、それが、行けばあに図らんや自分たちが苦しい目するわけなんですけども。現在2師団の兵隊がこれだけのコメで一日をやっておるんだという、それがあまりピンと来ませんでしたもんね、それがどれくらい悲しい、苦しいことだということを。で、自分たちが経験して初めてね、本当に腹が空いた、腹が減った、食べる話ばっかだわね、余裕があるときはね。

Q:島の名前は知らされましたか?

いや、わからん。全然。どこ行くだかもわからんだわね、こっちはね。

Q:どんなお気持ちでしたか?

どんな気持ちって、変わりないわね。

ずっと長い間ね、ぼくらも戦闘ばっかやってきたんですけども、さっきも言ったように負け戦って一度もしてませんから、いつも鉄砲撃てば勝つに決まっておるもんだから、今度もそのつもりですからね。今2師団が難儀をしておると聞いてもね、他人事のように思えてね。これだけのご飯で一日やっておるんだといっても、それがどれだけ悲しいか、つらいかということはピンと来ないんですよね。そして、自分が行って初めて、その立場になって初めて、それがどれくらい苦しいかということがわかったわけなんだけども。行く前にその話を聞いても、我々がそこへ行くんだということがわかっておっても、それがどんな悲しいこと、苦しいことってことはピンと来ませんでしたもんね。他人事のように思えてね。

2師団の兵隊さんがね、本当にかわいそうな格好をしてね。

みすぼらしい格好に、長い間ね、着換えも何もなしに着ておるものですから着ておる物はボロボロに近いし、それで食べる物を食べておらんからやせ衰えておるし、それは哀れな格好でしたわね。哀れと言うよりないわな。

「何だかわいそうな顔して、ほんとに」と思ったんですがね、それが自分たちもそうなるということはまだ会ったばかりでわかりませんから、気の毒だなとは思いましたわね、2師団の兵隊を見て。これだけのコメをね、長いことやってそれだけのコメで暮らすということをね、やってきた兵隊さんばっかりだから、それはみんな、やせ衰えてね、いわゆる悪い言葉で言えば敗残兵みたいなものばっかだったわね、2師団の兵隊さんがね。その兵隊さんを見て、我々もそこへ行くんだということはわかっておっても、そうピンと来ませんでしたもんね。

負け戦知らないから、我々が来ればすぐ戦闘、勝つもんだと思っていますから。ヤンキーみたいなのは蹴散らしちゃうつもりでいたもんだから。それが、こちらが蹴散らされたんだから。

Q:上陸してから作戦については何か説明を受けましたか?

これという説明はね、どんな戦闘でもないですもんね。兵隊はついていくだけだから。
おそらく隊長は知っておったかしらんけどね。

Q:一兵卒というのはそういうもんですか?

そういうもんです。

Q:どういうもんですか?

とにかく「右行け」「はいっ」「左行け」「はいっ」というようなもので、ただ命令のまま動くだけだもんで、どういう目的があるとか、何で行くんだというようなことは全然知らされていませんから。

いわゆる砲撃、大砲ね、大砲をドンドン撃たれたですけどね。海岸ですから、敵は軍艦を持ってきて、軍艦から大砲を撃つんですよね。ですから、陸軍が持ってきた大砲と弾が全然違うわけです。大きいですよね。そして、軍艦だから何門も砲を持ってますから、それが一斉に射撃するんですからね、それはバカバカバカバカとね、すごかったわね、艦砲が始まると。軍艦の大砲ですから艦砲といいますわね。艦砲が始まると、それはひどいもんでしたわ。バカバカバカバカバカとね。

Q:杉浦さんたちはどうやって戦ったんですか?

だから、鉄砲ですよ。豆鉄砲。三八式歩兵銃というね。鉄砲そのものは優秀だったらしいですよね。ですけど、たまに1発撃って、ポン。それからガチャンとこう棹を引いて、そしてガチャンでは、これでは間に合わんわけなんです、戦闘にはね。

それはね、明治時代に始まっておるんです。38年に制定されたので、明治38年ですかね、ですから三八歩兵銃というんです。鉄砲そのものは優秀だったんですね。優秀だったですけども、戦闘になると、そんなポン、ポン、と撃っておる。ポンと1発撃つと、アメリカ兵は5連発くらいそのまま撃てるんですね。パパッと撃てるわけです。いっぺんに装填できる。1発ずつ装填せんことには撃てんわけです。1発ポンと撃つとこう棹をぐっと引いて、そして下ろして、そしてまた狙って撃つと。だから、豆鉄砲なんてやつは、だから戦闘には間に合わんわけなんで。

いわゆる1、2、3と3個小隊に分かれておった、中隊はね。そのうちの第1小隊でしたけども、1小隊は一番重要な所にいて、小隊長がみんな死んじゃうんです。というのは、今も言うように顔を出すから。顔出して敵状偵察やるから、ボンとやられちゃうわけだ。顔はちょっとも出せれんのですわね。何人も死にましたわね、小隊長は。うちの1、2、3の第1小隊だけどね、小隊長が何人か死んじゃったわね。

敵状視察をやるもんだから、顔を出すもんだから、背を立つもんだから、それで弾に当たるわけなんだわね。何人も死んだもんな、小隊長が。フナハシ、ミズノ、ニシオ、ノダ、5人くらい死んでおるな、小隊長がね。小隊長が一番目標になるわけなんです。また、ならないかんわけだわな。自分の部下を統率せんならんし、守らんならんしね。そうすると敵状の視察せんならん。それで、敵状を視察するというと立つわけだ。立てば撃たれるというわけだ。

ああもこうもないわね。出てボンと撃たれちゃうから。そのくらい近い所にいたんですね、敵とね。

Q:どのくらい近かったんですか?

ほんとに近いですよね。あれはね。飯ごうの音もお互いに聞こえる、ガチャガチャやるのが聞こえる、そこにいたですから。

日常はね、コーヒーでも沸かすと匂ってくるような近い所におったんです、毎日は。

ですから、そこをアメリカ軍がよう突っ込んでこなかったわけです。突っ込んでくれば、ああもこうもないです、我々はね。よう突っ込んでこなかった。最後までよう突っ込んでこなかった。

中隊というと百七十何名おるんですが、それが小さいコブのような山に散開、広がっておるわけですね。そうすると、我々は下におったわけです。山の上と山の下です。山というほど山じゃないですけどね。状況が悪くなって、隊長、「オレ上へ上がって指揮するから、お前下におれ」というわけで、わたしが1人兵隊もらってね、それで何かあったら連絡するというふうで、下に残っておったんです。それで、ある日、ガサガサガサッと来るから敵が来たと思ったんだわね。

撃ち合ったら絶対負けだから。だから、事実そのとおりで、我々の陣地は堅かったもんで、敵はこんなもの触るとケガするでという、我々の陣地は残しておいてどんどん奧へ入っちゃったわけなんですよね。敵、そのつもりで真っ直ぐに来られたら、我々一も二もなかったわ。みんなやられちゃっとるわね。全員玉砕しておるわね。

いつでもね、結局、戦友はバタバタ死んでいくけども、自分は弾が当たらん、自分は死なんと、そういう観念はありましたわね。戦友は死んでも、戦友には弾が当たってもオレには弾が当たらんと。そういう気分ではいましたわね。事実そのとおりになったんですけども。

Q:どういうことですか?

だからね、運がいい悪いなんだわね、弾に当たる当たらんなんていうのはね。だから、運がよかったわけだわね。

大変だったというのは、今の食糧がなかったことが一番大変だったわね。それで、なおかつそれで戦闘せなきゃならんもんだから、それはもう、これくらい大変なことはなかったわね。よう長らえてきたと思うんですけどもね。結局、我々守っておったのがよかったんですかね。敵がよう攻撃してこなかったからね。我々の陣地を残しておいて、どんどんどんどん奧へ入っていっちゃったから。

陣地撤退するときにね、だから杉浦先頭行けというわけです。ぼくは先頭でね、後ろへみんな一列縦隊で並んで。

真っ暗な所だわね。だから、先頭に立つ者は切り開いていくわけだね。それで、わたしが先頭に立ってずっと行って、そして音を立てていかんわけだ。音を立てていかんのに、崖をね、全然わからなんで、崖をザーッと滑り降りたです。ガラガラガラッと大きな音がしたもんで、「ああ、しまった」と思ったわね。これは大きな音を立ててまったでな、と思って。それはね、本当の崖なんだわね。そうしたらね、その下にね、戦友がちゃんと立っておったんだわ。あれは天佑だね。本当にね。よう立っておった。
その戦友たちは2人なんですが、1人が立っておったんですが。その2人は前日にね、食べ物がないでしょう、こんなことをやっておったらみんな飢え死んじゃうと、本部まで行って食糧もらってくるといってね。中隊長、いかんと言ったんだわ。橋本さん、いかんと言った。どうしてもやってくれといって2人、強硬に出ていっちゃったわけだ。出て、今度大隊長の所にこうやって持っていくといったらね、撤退の命令が出ておるで、もう下がってくるで、お前たちは大隊長も行くだないと言ったらしいんだわ。が、待っておるといかんといって持って出てきちゃったんだ。それで、2人のうち1人が道路偵察してくるといって出ていって、1人が下で待っておった。そこへわたしが滑り落ちたんだわ。ようあんな真っ暗でね、鼻つまんでもわからんような所でよう会えたと思うんだ。あれは天佑だな。

(撤退したことを)さあ、いつ気がついたろう。ボーゲンビル上がって、ラバウル行ってくらいかいな。ガ島から、ボーゲンビルが基地になってましたんで、一応はボーゲンビルへ戻って、そこからラバウルまで戻ったわけなんですけども。ボーゲンビルまで戻って、そこにボーゲンビルに幾日おった知らんけども、1週間もおらんと思うんだけども。全然、撤退とか転進なんていうことは夢にも思っておらんもんですからね。

駆逐艦に拾ってもらって帰ってきて、駆逐艦でまず食糧を、みんな飢えておるから食糧がごちそうだというわけで、にぎりめしをもらったんだ。それはそれはうまかったことはね、そのにぎりめしが。

出来事の背景出来事の背景

【ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~】

出来事の背景 写真半年間の戦闘で2万人もの犠牲を出し日本軍の大敗北に終わったガダルカナル島の戦い。名古屋歩兵第228連隊は、日本軍が三度に渡る総攻撃に敗れた後、最終段階に投入された。補給においても、戦力においても、緒戦段階に比べ遙かに不利になった状態で上陸させられた228連隊、2500人中、生還できたのはわずか300人だった。 
 
太平洋戦争開戦以来、攻勢を続けていた日本陸軍は、昭和17年8月にガダルカナル島で、米軍との初めての本格的な地上戦に突入。

日本軍は米軍を「すぐに勝てる弱腰の敵」と見ていたが、実は火力・兵力・戦略ともに日本軍を凌駕していた。作戦が失敗しても、戦訓の見直しをせず兵力の逐次投入を繰り返し、現地将校からの撤退の進言も軍司令部は無視。228連隊を待っていたのは、激しい米軍の集中攻撃と飢餓地獄だった。上陸から2ヶ月で、6割の兵士が命を落とした。

12月31日、ようやく大本営が「ガダルカナル撤退」を正式決定した後も、228連隊には更なる悲劇が待ち受けていた。「撤退命令」が前線に届くまでに16日を要し、その間に多くの兵士たちが命を落としたのだ。最後まで「撤退命令」が届かず、玉砕する大隊もあった。
さらに、餓死の恐怖に直面した兵士たちの中には、生きるために死体の肉に手を出したものもいた。飢えに苦しんだ陸軍将兵は、ガダルカナル島を「餓島」と呼ぶようになった。

ガダルカナル島に投入された日本軍、3万1000人のうち、戦闘による死者はおよそ5000人、1万5000人以上が飢えと病で命を落としたとみられる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1940年
歩兵第228連隊に配属
1942年
ガダルカナル島に上陸
1943年
ガダルカナル島撤退
1946年
復員、菓子問屋に勤務、経営、戦友会幹部

関連する地図関連する地図

ガダルカナル島

地図から検索

NHKサイトを離れます