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タイトルタイトル: 「歩けなくなった兵士達」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~
名前名前: 伊藤 博之さん(名古屋・歩兵第228連隊 戦地戦地: ガダルカナル島  収録年月日収録年月日: 2009年6月22日

チャプター

[1]1 チャプター1 ガダルカナルへ  04:51
[2]2 チャプター2 先行した兵士の無残な姿  03:09
[3]3 チャプター3 底をつく医薬品  05:05
[4]4 チャプター4 食べるものは何もなかった  01:45
[5]5 チャプター5 死んでいく兵士たち  02:28
[6]6 チャプター6 遺骨収集はナシ  01:36
[7]7 チャプター7 歩けず命を落とす兵士たち  02:17
[8]8 チャプター8 自決する兵士  02:30
[9]9 チャプター9 乗船  03:45
[10]10 チャプター10 食べすぎて死んだ兵士  01:54
[11]11 チャプター11 敗戦  02:20
[12]12 チャプター12 伝えられない死の真相  05:20
[13]13 チャプター13 喧嘩したらあかん  01:13

チャプター

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Q:ガダルカナル行きというのは、どんな状況で、知らされたんでしょうか? 

 これはね、今の香港、終わって、半分攻略、終わって、チモール、終わって、チモールで1年くらい駐留で、宣撫(せんぶ)工作しておったかな。それで、ガ島行くのが16年の、東亜戦が始まったのが16年の12月8日だったもんで、その前だで、15年だね。15年の10月時分に、今のスラバヤへ、ジャワのスラバヤへ、静養という形で連隊が全部行きました。向こうで静養しておるうちに、召集兵と13年兵は、一応、勤務を終えて、内地の初年兵と交代だという噂まで流れた。その人たちは、土産物を買わした、どんどんとジャワで。わたしたちは14年兵ですからね。そしたら、3日、4日経ったら、急に命令が来たんですな、司令部の方に。直ちに、次期作戦に備えて、準備せよという、命令らしいわ、どうも。細かには、言わんけども。次の作戦に出発準備というようなことを、伝わってきたんですな。

さあ、それから大変です。1週間もないうちに、今度はガ島の方に、出ていくことに、命令が来ておった。ガ島ということは、言わんです、わたしたちには。次の作戦準備のためという。それで、それを2~3日で準備して、すぐと今の御用船で、輸送船では、間に合わない。日にちが、かかるから。だもんで急遽、海軍の巡洋艦「足柄」。わたしたちの連隊は、巡洋艦の「足柄」に乗船しましてね。それで、昼夜兼行で、今のラバウルの方へ走った。向こうへ着いても、すぐと、ガ島行くわけでない。ラバウルには友軍の軍司令部があって、そこには軍司令官もおる、師団もおる、連隊もおりますから、よその。そこで、次のガ島に上がる指揮を、準備するわけですな。

ガ島の方が、それくらい緊迫しておるということも、チモール、ジャワに行くときでも、聞いておらない。

とにかく、戦争ということは、間違いない。急遽、そんな、輸送船で行っておっては、時間的に間に合わんから、軍艦で出ていった。巡洋艦というと、艦載機積んでおります。2機ね。これも、夜昼関係なくカタパルトで、巡洋艦の上から打ち出して、敵の状況を、敵の軍艦の状況を、海軍の状況を、調べなきゃ、無茶無茶走っておれば、やられちゃう。その状況を判断しては、誘導されて、そしてラバウルに着いた。その時分には、はやだいぶ、悪かったです。

上陸するまでに、後方遮断のために、駆逐艦7隻くらいに40~50人ずつ乗って、後方遮断。日本軍が総攻撃をする、我々はそれの、後方遮断に行くくらいだ。800人ばか。大隊長以下800人ばか。こちらから、日本軍の強力な部隊が、向こうのガ島の飛行場を攻撃するで、そいつらが、逃げていくところを1個大隊700~800人で、それの後方を遮断せよという、これはもう、決死隊です。知らんけれども。死ぬまで、やらんならん。そしたら、残念ながら、総攻撃が2回、失敗してね、我々はその任務を解かれた。それでラバウルの方で、次のガ島に上陸する準備をまたして、それで我々の番が、回ってきたわけです。

哀れなもんだ。見たことない。そんなつもりで、わしんとらあ、行っておらんよ。もっと、ええ状況で、行っておるわさ。敵前上陸だちゅうもんで。日本軍が行っておるんだ、すでに。行っておっても、負け戦で、ほんとに戦えん奴が、パンツ一丁や、何もなしで、服なら、破れちゃっておる奴や、靴なしで、裸足で、山の方からどんどん出てくる。日本軍、それ。

それらの言葉は「もうダメです」ちって。はっきりした言葉、出ない。ほんとに哀れな人。わたしたちはまだ、上がって、元気がいいもんで「あれんとらあ、情けないこと言っておるな、というんだ。俺らが来た限りには、絶対に向こうをやっつけて、帰ってくるでな、安心しておれ」といって、そんな気持ちで、いっぱいだわさ。そんな状況、知らんもん。それはおそらく、負傷したり、食うものがなくて、戦闘に間に合わんから、後方へ命令で、下げられておるやつだから、こんなもんだと思うわ、思ったけど。あまりに。靴、履いておらんもん。

おかしいなばか、じゃない、大変だと思った。そんなものは、普通なら、あんな程度のものなら、今の野戦病院の方が担架を出して、収容して、連れてくるはずだ。連れてこん。それも、ぞろぞろ、ぞろぞろと、出てくるでいかんがや。1人や、2人でないもん。おそらく、あれは、一線を交代したときの部隊が、下がってきておる数、だろうと。

何人といったものは、数しとらんがや。そこどこない、我々。あとからどんどん、来ておるで、そこどこじゃない。そんな数しておるとき、わたしたちは行っておれせん。自分の作戦のために、出ていっておるだけで。飯食ってすぐと、その道を逆に、わたしたちは上っていっただけ。

これは、容易でないなと思った。容易では。普通の考え方では、いかんなと思った。容易ということは、安易に進めんということね。だもんで、それからすぐ、上陸して、その晩はとりあえずそこで。その晩だないわ、朝、早く上陸しておるで、すぐとそこで、食事して。まだ、それは友軍の占領地だでね。食事して、すぐと、それらあと、代わって、わたしたちは、今の土人の通る道だね。日本軍のでかした道路でない、狭いこんな道路が、海岸にずうっと続いておる。それを行ったり、あるいは、敵のおそれがあるときには、山の中へ入って、山の中歩いて、そして目的地に。2日かかったですな、目的に地に、行くまで。

赤十字の付いたね。こんな革の鞄で、赤十字が付いております。これをもらって、中に衛生用具が全部、入って。小銃は返して。その代わりに、拳銃をもらって、護身用だね。


Q:ガダルカナルでは、医療品はどんなものを持ってらっしゃったんですか?

 戦闘に1週間ないし、半月くらいのものは、ということで、あらゆる注射関係の、飲み薬や、腹痛や、そんな差し当たったものは、我々に直接、渡る。包帯や脱脂綿やガーゼ、アルコール。

差し当たった、止血するトロンポニンという、これは注射液、栄養関係のA、B、Cの、今のビタミン剤、そして、痛み止めのモルヒネ。それからあれは、リンゲル関係は大きいでね、あの時分のリンゲル。500から600入っておるで、こんなものは、持っていけんから。だもんで、そういうものを、元気づけのものは、今のビタミン注入、「ビタ注」「ビタ注」って言いよったけど、そういうものの、注射。これをどうだろう、何やかや、混ぜて、30本くらい持っていったんだないの。あと、補給がまだ、本部から、本部が後ろにおるで、そんな時分には補給がまだ、効きます。

補給が効かんようになったのは、12月初めくらいから。本部の方も、後からの補給が効かん。後の今、軍司令部のおる所も本国の、あるいはボーゲンビル島からの、軍司令部のおる所からの、補給も効かない。船が出入りできんようになっちゃったから。輸送船はもちろん、軍艦でも、直接ガ島に着けるのは、難しい状態になってきたから。だもんで、実際、そういうものの補給の効いたのは、11月しまい頃から、初めまでくらいの、もんでしょうね。

もう後、それ以降は、本部へ行っても、本部もない。本部ないということは、今の後の方の、軍の方も、手持ちが限定があるもんでな。それかといって、いまの衛生兵、野戦病院なんかも、自分の所は、空っぽにせれんでね。自分の所の保管せんならんだけは、保管しておる。本部でも、もし後方へ、後送された場合の患者に対する、治療分くらいのものは軍医が握っておって、野戦まで、一線までは渡さない。我々は、どっこも、保有しておる所がないから、使うやつ使ってまって、それでパア。衛生兵も4人ばかおったけど、次から、死にましたしね。だもんで、あの時分では、衛生兵としての活動は、何もない。

こりゃもう「衛生兵」は、人の命を守るということには、間違いないけれども、守るといったって守れる状況にない。

何もない。薬ない、包帯ない、食べ物ない。何するだ。 

ケガした人、どうやるったって、傷にウジが湧きますわな。薬、何もないもんで、それ取って、沸かした、水ではいかんで、沸かした湯でもあれば、それで洗ったるか、そんな程度しか、ないわな。何もやることはない。それは哀れなもんです。陸へ上がった亀と、一緒だわ。

ケガしたって、付ける薬もない。止血止めくらいのもんだ。止血止めなら、これは一般の兵隊でも、ここら辺やった場合には、ここの動脈を止めよという、こういう教育は受けております。わたしたちも、三角巾も余分に、包帯も余分に持っておるで、それやるだけやります。そんなものの、携行量みたいなものは、知れたもんです。

だもんで、どちらかというと、1日に1回くらいは、自分の所の関係の方を、要するに、1個小隊だけだわね、関係といったって。1個小隊、1個小隊、みんな衛生兵がおるから、そういうもの、健康状態がいいかなくらいのもので。それは、腹痛いといえば、今の持っておる薬のあるうちは、下痢止めやったり、痛み止めやったり、そういうことをやるはやりましたけど。ないもんで、何もないわな。おるだけだわな。もう衛生兵なんて、まったく何にもならん。

ほんとに何もない。食べる物といったら、何もないもんで。おそらく、病気になったというのも、食べる物が欠乏したから、そういう、内臓を壊した人は、多いだないかと思うな。水だけしかない。水もしまいに、汲みに行く所、向こうに占領されてまって、汲みに行った者、全部やられちゃって。

食べる物は1合のコメもらって、それを1合のものを炊いて、それで、3人や4人で食べておっては、生きておるだけだな。1合というと、茶碗にコメ1杯です。生米。普通茶碗に1杯というと、1合ちゅうことを言うわね。あれを炊いて、4人や3人で1日です。1食だない、1日分がそんだけです。だもんで、推して知るべしです、食べる量は。最後の2~3日は、何もないったら、何もない。そんなものは草も生えんだろう、生えるような山でもない。岩山で。木なんかも枝はみんな、砲弾で落ちてまって、はっきり言って、坊主に近いくらいの枝葉のない木が多い。それはもう、哀れなもんだ。

(死んでいく兵隊たちに対して)どうしようもない。親にも、会わしてやれん。兄弟もおらん。ただ他人、ただ生命をともにした兵隊、戦友がおるだけ。

悪いという話があれば、すぐ行きますけども、行ったって、治療薬、何もない。「頑張れよ」と、言うだけだなわ。「おお」と言っておるだけです。

しゃあないな、「頑張れよ」といって言うだけで、向こうはしまいがけには、何も物を言わない。「うん。うん」とか言っておる。これでしまいだな、と思う。

知らずのうちに、死んでまう。出てこんで、見に行ったら、あれ、死んでおるぞ、というようなことが多い。

それは、もう放ってはおけないから、我々の残っておる者で、自分のおる陣地から下がった所で、穴を掘るといっても珊瑚礁ですから、今の十字くわといって、こちらのツルハシというやつね、あれの小さいやつがね、ちょうど真ん中に柄を入れて、刃先が両方に、こちら尖ったやつ、こちらは先っぽの広くなっておるやつ、これくらいの刃の付いたやつが、柄のすがった、こんなもんな柄の長さ。これは、みんなが持っておるんです、塹壕掘らんならんから。これで掘るといったってそんなものは、とてもだない、掘る力もないだろうな、これが。

けども、そんなことも言っておれんで、それで掘れる限り、たとえ3寸でも、5寸でも、穴らしいものを掘って、そこに亡くなった人を横たえて、ほんで今度、返しは、掘ったやつや、その付近の岩を持ってきて、上に乗せておくだけ。草の下に枝葉乗せたり。だもんで、おそらく埋葬したという、埋葬ではないかもわからんけど。けども一応、理屈としては埋葬したことになります。で、手合わせて終わり。

涙、出てくるまで、行かんな。それくらい、何と言うのかな、精神的にも、涙の出るくらいの余裕、なかったんだないかな。

次から次に、「今日もまた、死んだげな」「今日も、死んだげな」。でも、わたしも、直接、涙、出たことはない。


普通(戦場では)爪や歯を遺骨の代わりに、持ってくるということに、なっておるけども、そんな、遺骨の収集も、せいということも、聞いておらないが、した人も、わたしは見たことない。わたしもしたことない。

遺骨を持って、帰れんもん。みんな、そこで死ぬことになっておるもん。生きて帰れれば、そういうものも、今までの「勝ち戦」なら遺骨も、歯も、爪も、髪も(持ち帰れる)。兵隊も、生きておるうち、それを取っても、誰が持っていってくれる? 持っていく人は、一人もおらん。全員がそこで、死ぬことになっておる。それは、哀れだわ。

だもんで遺骨、持ってってくれとか、歯、持ってってくれとか、言った人もないが、持っていこうかと、言った人もない。中隊長も、それを預かれとも言わん。言うこともない。そんなこと言えんがや。生きて帰れる人、初めてそういうこと言えるけど、生きて帰れん人が、遺骨を云々とか、命令も出せない。持っていく方も頼めん。持っていく方も「持っていったろか」とも言えない。命令、来たときに「引き上げよ」は1人でも多く、連れて帰れ、という命令だけで、そんな、遺骨収集なんてしておれん。



転進せると、いったって、別に、助かる所へ行くわけじゃない。転進ということは、次の飛行場が完成したから、中隊長、我々の部隊はそこまで、転進するのだと言っただけ。退却すると、言っておらない。

次の飛行場ができたから、そこの守備交代に、行くんだという。やれる守備交代の、兵隊の力だないけども、守備にいくんだ、という命令だ。退却だと言わんもん。転進。

2日2晩歩いて、わずか500~600メートルの乗船位置まで行くのに、歩いて、歩けんから、はいずっておる人もあった。こんな人んとらあ、そこまで行けるか、行けんかも、分からん。そして、その船に乗れるか、乗れんかも、分からんもん。

3人ばか、道でつくなっておった。道でしゃがんでおった。歩けない。「お前、そんなことやっとって、あかんがや。一緒に部隊と動かんと、道、分からんようになるぞ」とそう言ったんだ。そしたら「いや、そんなことない。道くらい何とか分かるで、ちょっと休憩してから、後から行くで、先へ行ってください」。それは、来なかった。

途中で2人ばか、動けんという人が出た。杖、突いておって。

そしたら「中隊長。わたしはもう歩けません」「中隊長、歩けんって言っとりますよ」というと、「そうか。そんなこと言っとっては、いかんで、もう、近いからな、いくらでもないから、50メートルや、100メートルくらいのもんだ。頑張って歩いてこい」と。だもんで中隊長、「持っとる物を、全部、ほかってもいい」と。「六尺ふんどし一本でもええで、ついて、帰ってこい」と。靴も脱げ、剣もほかれ、銃もほかれ、鉄帽もほかってもいいと、中隊長そこまで言ったけど、歩けなんだんだな。来ない。



手りゅう弾の爆発の音が、聞こえる範囲まで、来ておったで、もう、おそらく100メートルか200メートルまでくらいへ、ミズノ・スギイチ軍曹は、今の松葉杖、要するに木で作った松葉杖突いて、歩いてきておっただろうと、思うんだ。とにかく、担架小隊からも、見離されておる。見離されな、そんなことやれせんで。それで、自爆して、手りゅう弾でバーンとやって、死んだ。「誰、死んだ。」といって、今の曹長、あれはミズノ、あれもミズノというんだないかな、曹長がそこまで距離がないもんで見に行った。我々と一緒に、帰っておるミズノ・スギイチが自爆しておった。

どうも、これ以上中隊に、迷惑をかけてはいかんと、生存者に、迷惑をかけてはいかんという、いわば、中隊精神、命令精神に徹しておった。いかんときには、手りゅう弾でやれという、手りゅう弾、もらって持っておるでね。それで、おそらく、命令どおり死んだんだないの。 

偉いもんだ。それくらいだったで、中隊長、連れて帰れと言ったんだな。あれ本当は、我々もそれを、連れて帰る力がなかったわけだから、本部に渡した。本部まで、連れてこいで本部に渡した。本部は自分ところも、連れていく力がないから、担架小隊を専門の方に、渡した。その後は、小隊の独自の判断で、どういうふうに動いておったか分かりません。次の部隊に渡すと。それまでの責任は分かるけど、その後の責任は分かりません。だもんで、聞いたら自爆した、スギイチだったといって。そこまで、確かめただけで、その後は、自爆したから、それなりで、我々は乗船場に向かって動いてしまったでね。

乗船準備が始まって、工兵隊の上陸用舟艇という25~26人、大きい方のやつは45~46人乗せる、敵前上陸やるときにする、舟艇というやつがある。工兵隊が持っておる。それへ、次から次に、乗ってね、そして駆逐艦まで。駆逐艦、乗るのも必死だわ。上れんで。ちょうど、海の中で立って、舟艇が来ると、わたしたちのここまでくらい、舟艇の舷が来るんですよ。これを、そんな上る力ない、誰も。水の中で立っておるでね。向こうは、砂浜までドーンと付けておる。こいつは舟艇でも、後ろに戻れんといかんから、30メートルくらい向こうに、イカダをボーンと放り込んで、おいてね、そしてブーッと来て、砂地へ上げておる。後ろへ下がるときに、下がれんで。

それで、そこへ兵隊、乗せて、それで、ウィンチでイカダ巻いてね、引っ張ってもらって、ずうっと、後ろへ下がる。そして、駆逐艦に乗る。これも乗るのも、タラップで乗らんならんでね。でも、何とか、1個大隊の部隊はね。駆逐艦が5隻、両横と前に5隻ずつ、20隻くらいだという話だ。護衛についておった。5隻に20隻くらい護衛がついた。で、時間が経ったらすぐ、「これで終わりだぞ」という、工兵隊の話が出たら、すぐとはや船、動いておる。船も碇下ろしておらんです。水の中間に碇、吊っておるだけだ。すぐと動けるように、しておるわけ。下ろいてまうと、巻き上げんと、動けんもんで。いつでも、逃げれるようにしとる。それで、その声とともに、軍艦が動きかけてね。それも全速でね、危険区域を脱しないかんから、むこうの航空隊の。

みんな這いつくばって、上ったろう。タラップというやつは、軍艦から縄梯子。縄梯子じゃない、梯子が下りてきておる。横たにずうっと、舷についてね。それから、みんな1人ずつ登っていくわけ。

それで、最後の押し上げてもらった時分に、2~3人のときに、わしも乗らないかんもんで、そばへ行った。そしたら中隊長。中隊長、兵隊のあれ、何十人ケツを押し上げた、知らんけども。初めからでないで、代わって、やっとるだろうと思うけどもな。わしが見たのは中隊長。


Q:自分たちの力では上がれなかった?

 上がれん。上がれるか。そんなものは、上がれれば、お前さん、歩いてくるわ、いっくらでも。歩けんような奴がこんな、腕の力があるか、お前さん。銃持っておっても、歩けんくらいだ、中隊長がほかれと、言っておる。歩くのいっぱいだで、おそらく、わたしが現状、今の押し車引いておれば、歩けるけど、あれなけな、50メートルか30メートルしか杖だけでは、わたしも歩けん。それより、ひどいだろう、歩けんということは。

わたしが見たのは、中隊長。中隊長、押し上げとった。わたしも、残り少なくなったで、そばへ行って見たら中隊長。中隊長、わたしが押し上げておいて、わたしは中隊長に上で引っ張ってもらって、上がった。

助かったなと思ったわ。とりあえず、助かった。駆逐艦だもん。輸送船だないもん。戦闘能力、持っておるもん、駆逐艦。そして、間もなく、動きかけて、間もなく、帰るときもあれで、自分とら、あの食べるにぎりめしを作ったやつを持ってきたんだないの。 わたしんとらあは、知らんよ、甲板で、這いつくばっておるだけ。タラップで、這いつくばっておる奴もおるし。そしたら、中隊長は「それ、兵にも渡ったか?」と言わした。何だしらんと思ったんだ。そしたら、にぎりめしだった。

それで、そこで、食べておらんところへ、急に食べたでしょう。だもんで、ああいうふうではいかんらしいな。急に食べたやつで、今度、返しは、何ちゅうんだな。胃拡張ではないんで、胃の方に副作用して、その場で、その日に、食べた晩に、12~13人死んじゃった。胃が痛くていかん。頭が痛くなった。熱はない。食い過ぎだ。食べておらんところへ、急に食べた。あれは、回食にしていかないかん。ぼた餅、食べたでしょう。わたしも食べたわ、好きな方だで。

ここと、同じ硬さになるまで、食べていいといって、みんな言うもんで。一晩で。明くる日までに、12~13人死。あれ何ちゅう。病気ではないわな。食い過ぎだわ。内臓関係に支障を来した。

あそこにね、ボーゲンビルにね、ひと月くらい、おったんだないかな。おった部隊に食事なんか、やってもらってね、自分とらあは、食べて生きておるだけ。静養だわな。それからラバウルの方に帰ってきて、今度、返しは、もうひと月くらい、静養しておるもんで、どうにか体、元に戻っておりますのでね。


Q:8月15日の終戦っていうのは、どうやって知りましたか?

 これは、本部の方からの連絡で。軍の連絡系統を通じて、来たんだないの。それだで2日くらい。2日だないか、1日くらい前か、終戦の我々が、聞く前。おかしいなあ、敵のグラマンや、いろいろな飛行機が、我々のすぐと、頭の上をバンバン飛ぶ。それまでは、そんなことやらなんだでね。高い所、飛んでおっただけだ。どえらい、低空飛ぶがやといって、そのたびに、ビックリしておった。だで、そのときにはや、終戦だった。分からんだけで、我々は。終戦だから、いくら、敵の上を飛んでも、いいわけだ。我々も、撃つ弾ないことは、ないけども、そんな、いくら低空しても、撃てせんもんでね。低う飛んだ、というのはおかしいと思って、そしたら、終戦だった。昨日、終戦だったって。

「負けたげなぞ」というだけだわさ。「負けたげなぞ」といって。戦争、終わったてなもの。安気になっただけだ。そんで、それから大変だわな、また。食う物がない。くれせんで、誰も。明くる日に、軍旗奉焼という、連隊から招集があってね。中隊長と将校、希望者は行ってもいいと、いったけども、兵隊は行った奴ないわ。

Q:伊藤さんにとってガダルカナルの戦争って、どんなものでしたか?

 忘れれる島では、ないわな。それは、忘れれる島では、ないわ。戦友がたくさん死んでおるわ。

内地へ来て護国神社で慰霊祭があるときに、(戦友の)おっ母さんも護国神社へ招待状が行っておるでござったけど、
連絡係下士官というのが1人、そういうのを連絡する、下士官が中隊長に付いておったで。そいつがその人に、おっ母さんに、返事しておった。「どう言ってやりゃ、あた?」と、そう言ったわさ、オレが。死ぬ状態を、知っておるもんで。「そんなこと、言えんがや」といって。

「一生懸命やらしたけども、ついに、向こうの弾に当たって、玉砕だった。死んだ。戦死した。そう、言っておいた」と。「野垂れ死にしたって言えるか」と言う。それは言えん。言えんわな。まあ、勘弁してちょう。

みっともないとこ見して、申し訳ない。死んだので、涙流すのあれだけだ。最後のひょろひょろ、歩いておるところ、ふんどし一本で歩いておるところ、見たもんでよお。あと、ついて来れなくて、置いて来た奴は顔、見とりゃせんで。

それと、お袋さんの顔を思うんでな。お袋さんに、ウソを言わなきゃいかんのだから。ウソ、言っていかんけど。そんなこと、言ってやれんわな。わたしたちは、ウソついたわけだないけど、そういう、ウソを言ったということを、下士官は言っておるけどもね。それを思うと、気の毒だわ。あと、一線で病気したとか、ケガして死んだ人は、任務に基づいて、死んでおるやろな。助けてやらにゃいかん、男だった。

それは、中にはいろいろな、終戦までに、あるいは東亜戦が始まってから、いろいろなことがありましたけども、殴られたって、涙出なんだ。蹴られても、ない。「この、クソ」と思いよっただけで。けども、そこまで来たやつが、連れて帰れなんだ。おっ母さんもそのウソの話、聞いて「ありがとう」「ありがとう」と言っていかした。

Q:わたしたちは伊藤さんたちの体験からね、何を学ぶ? 何を伝えたいですか?

 それは、何もやっていかん。平和のために、皆が幸せのために、努力せないかん。

それは日本みたいなものは、日本ばっかだない、どこの国でもそうだわな。自分の所だけの国は、何とか残ろうという考え方。国が残ろうということは、お互いの国がそう思えば、けんかせんならん。

人と争っては、いかんということ。助け合っていかな、いかん。一人では、生きれないから。人の嫌がること、やっていかん。隣近所、仲よくやらにゃいかん。それだけだ。原点はそれだけしかない。自分たちが幸福に暮らすには。喧嘩したらあかんもんな。

今、皆が平和である、こんな平和は、どこもないですよ。わたしは、いいことだと思う。60年間、楽さしてもらいました。

出来事の背景出来事の背景

【ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~】

出来事の背景 写真半年間の戦闘で2万人もの犠牲を出し日本軍の大敗北に終わったガダルカナル島の戦い。名古屋歩兵第228連隊は、日本軍が三度に渡る総攻撃に敗れた後、最終段階に投入された。補給においても、戦力においても、緒戦段階に比べ遙かに不利になった状態で上陸させられた228連隊、2500人中、生還できたのはわずか300人だった。 
 
太平洋戦争開戦以来、攻勢を続けていた日本陸軍は、昭和17年8月にガダルカナル島で、米軍との初めての本格的な地上戦に突入。

日本軍は米軍を「すぐに勝てる弱腰の敵」と見ていたが、実は火力・兵力・戦略ともに日本軍を凌駕していた。作戦が失敗しても、戦訓の見直しをせず兵力の逐次投入を繰り返し、現地将校からの撤退の進言も軍司令部は無視。228連隊を待っていたのは、激しい米軍の集中攻撃と飢餓地獄だった。上陸から2ヶ月で、6割の兵士が命を落とした。

12月31日、ようやく大本営が「ガダルカナル撤退」を正式決定した後も、228連隊には更なる悲劇が待ち受けていた。「撤退命令」が前線に届くまでに16日を要し、その間に多くの兵士たちが命を落としたのだ。最後まで「撤退命令」が届かず、玉砕する大隊もあった。
さらに、餓死の恐怖に直面した兵士たちの中には、生きるために死体の肉に手を出したものもいた。飢えに苦しんだ陸軍将兵は、ガダルカナル島を「餓島」と呼ぶようになった。

ガダルカナル島に投入された日本軍、3万1000人のうち、戦闘による死者はおよそ5000人、1万5000人以上が飢えと病で命を落としたとみられる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1939年
歩兵第6連隊に入隊
1940年
歩兵第228連隊に配属
1942年
ガダルカナル島に上陸
1943年
ガダルカナル島撤退
1946年
復員、名古屋市三菱重工で働く

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