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タイトルタイトル: 「軍刀だけで敵陣へ突撃」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~
名前名前: 浅井 藤雄さん(名古屋・歩兵第228連隊 戦地戦地: ガダルカナル島  収録年月日収録年月日: 2009年8月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 逐次投入された最後の部隊  06:27
[2]2 チャプター2 砲撃にさらされる陣地  05:01
[3]3 チャプター3 米軍機の攻撃  06:00
[4]4 チャプター4 「白兵突撃」  06:50
[5]5 チャプター5 撤退  06:09
[6]6 チャプター6 玉音放送で終戦を知る  04:05
[7]7 チャプター7 戦後の思い  01:46

チャプター

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戦争だから勝たないかんということですよね。我々は村で送られて、そして「勝ってくるぞ」と勇ましく出掛けてね。それは、みんな非常に村の中でも緊密に連絡はやり取りするしね。お互いに、どこそこの息子が今度は行きそうだからって。そうやってて、名誉なことで、非常にみんな応援をし慰労をし、こう頼んだわけですよね。「しっかりやってくれよ」と。それで桜通りを歩いて汽車まで行ったわけですよ。

チモール島から、ジャワ・スラバヤの近くへ移動していって、スラバヤの町で一服しとるというか、今までの訓練してきたやつを、まあ直しておると。そういうような調子でしたね。

とにかく、あれは秩父丸でしたかね、に乗ってとにかく走ると、南方へ。そういうこと、おおざっぱなことしか聞いてないですよ。
ガダルカナルという名前は全然、そのときは聞いてないですけども。聞かされたのは、途中でしょうね、船の中の。それで士官室がありますよね、昔は巡洋艦ですから。

全部開けてくれて。そして我々の将校だけがそこへ入れてもらって、それでいろいろなことをしたわけですよね。

ガダルカナルへ行くということは、飛行場を取りに行くんだということで。それを結局・・その前に、あれは珊瑚海の海戦でしたのですか、海戦があって。それで決着がついているというふうに思っていたのですよ、わたしたちは。

Q:どの時点で自分はガダルカナルに行くんだということが分かりましたか。

それはボーゲンビルですかね。ボーゲンビルでいろいろな荷物を置いて、そして整理をして、それから戦闘態勢をとって、軍艦、巡洋艦ではない、駆逐艦に乗って走ると。そういうことですから、ま、そのへんですわね。

Q:そのときにガダルカナルの戦況については知らされていましたか。

知らされてないね。前に、一木支隊かなんか部隊が行って失敗したということは聞きましたね。あれは一木支隊だったかな。

Q:アメリカ軍がどういう攻撃をして来るとか、どのくらい兵隊がいるとかは。

何人上陸したのかというようなことは全然分からないですね。

Q:それまで連戦連勝できたんですよね。かなり大丈夫だというか、楽観的なやっぱりあれがあったのですか。

ありましたね、やっぱり。

その地元にいるときには、我々はオーストラリアへ敵前上陸をするんだということで訓練をしてましたですからね。それで毎日、オーストラリア・ポートダーウィンへ海軍の飛行機が飛んで行って偵察をしてくる。それで、チャンプロというところですから、そこへ今日は何機行くよと、よろしく頼むというような、そういう連絡があるのですよね。それで、その話の延長だぐらいのつもりで話を聞いていたんですからね。だからガダルカナルの「ガ」の字も知らなかったですね、それは。そういう島があるというのは。

山になっていますから、がせがせのね。それでずうーっと下へ来るに従って、こう木が生えて、一番底がジャングルになって水が流れておるという、そういうような状況だっていうことが分かりましてね。
結局、こんな戦争をやっておったら、上から見たら丸分かりじゃないか、頭隠して尻隠さず。そういうような形じゃないかと、こりゃね。それで一番上は、もう木は生えっこないですから、全然。ですから栄養分は何もないですからね。それで下のほうへ下のほうへ下りていって、それで下側の低いところへおりて、木が生えてジャングルになって、それでその中に陣地を造っておったのですからね。だから、攻撃する準備でもすぐに見破られたりしてね、うまくいかなかったというようなことを思いましたね。

Q:アメリカ軍の装備とか攻撃方法は、どんな感じでしたか。

それは、分かりませんでしたね、全然。アメリカ兵については。

Q:どんなふうに攻撃をしてきましたか。

攻撃して来なかったですね。時々4、5人、こうジャングルの中を通ってくる。というのには出くわしましたね。2へんか3べん。あとで、戦争になったとかというようなことは、我々はなかったですね。それまでに済んでしまっていたのか、228(連隊)が行くときにはね。そんな感じがしましたね。

一発撃てばもう回って来て、ザアーッと集中して攻撃されて全滅ですわね。だからその時はじっとしておるように、分からんようにしとるより仕方がないのですよ。
だから極端なことを言うと、もうそのときには戦争になりませんわね。

(米艦は)ずーっと岸に沿って遊弋(ゆうよく)というのですかね、遊弋しながら、陸地に向かって、ポーンポーンとリズミカルにこう撃って行くということでしたね。そういう状況でしたね。だから、それは日本兵を見つけて撃ったという感じではなく、とにかくリズミカルに時空に向かって、あの辺は通り道だから兵隊が通るに違いないと、そういうようなことで撃っていたと今でも思ってるんですけれどもね。

Q:そういう中で戦うというのは、どういうお気持ちでしたか。

まあ、どういう気持ちと言われてみると、あれですな。これで勝てるかと思いますわね。制空・制海権を完全に握られて。まあ、全滅だと。食糧がありませんしね。夜、潜水艦でドラム缶で揚げてくれたら、前から取りにくると。取りに来る人も食べないかんし。そういうことで大変に食糧でも苦労したわけですよね。こんなこと長いこと続くだろうという、そういう不安もありましたね。

アメリカの飛行機はカーチスでしたがね。カーチス、ずんぐりした飛行機でしたね。

シャーッとこう低いところをね、シャーッと。マフラーが見えるんですからね。こっちからは近いわけですよね。だけど向こうが走れば、向こうとこっちが違うから、木に隠れておれば分からないのですよね。そういうことで、わたしは射撃を受けなかったですけどね、その時。
 
見つからないように隠れるよりしようがないですね。そりゃあとから行ってみたり、いろいろ考えてみれば、上から飛行機からこう、飛びながら下見とったら、なんか分かりますね。こっちは頭隠して尻隠さずという、言葉は悪いけれども、そういう感じじゃなかったかなというふうに思われますね。

敵は見て、それで部隊の記録。何がどこにあるのかということを探しているのだろうと思いましたね。

こっちから見えるということは、向こうからも見えるということですよね。だけど、移動しとる方向は違うから一概には言えんですけれども、とにかくマフラーをなびかせ飛んでいく。それに見つかると戻ってきて、こうまた徹底的に探すわけですよね、日本兵を。それで、どっかの陣地を構えておるかというようなことをやられて、そして、分かれば攻撃をしてくると、そういうことでしたね。

操縦席からのぞいて、マフラーをなびかせてね。そして下までのぞいていくわけですよね。それで、見つければそこを回って、とにかく一人でも相手にしてくるという、そういうことでしたね。

Q:浅井さんは、何をしていたのですか、戦地で。

何をしたかと言われると、情けない話ですわね。どういうふうに友軍のほうが、どういうふうに動いて、で、友軍とどういうふうな連絡を取って。そしてどういうふうにしてその飛行場を奪還するかということを、上のほうの人がちゃんと連絡して、協議して、そしてやってくれるのを待つよりしようがないですわね。

Q:武器は、どんな武器を持っていったんですか。

武器は普通の武器ですよ。三八式歩兵銃に、軽機関銃に、擲弾筒(てきだんとう)に、それから手りゅう弾ですわね。普通の装備、特別な装備を持っていったわけではないです。

しかし、全然、アメリカとは違いますよね。弾をこう、バーッとマンドリンというのですか、ウワワワワーッてこう、やるときはやるんでしょう。日本軍だったら弾が惜しいのでああいうことはしませんわね。

わたしたちは、とにかく夜やるということでね。夜、敵に接近して、そして攻撃をすると、そういう戦いをしてきましたわね。香港にしても。トーチカにしたって、トーチカを取るのに後ろから行って、後ろから爆薬があるから爆発の・・爆薬の詰まったあれを突っ込んでバアーッとやって。そして、中の人をおろして占領すると。そういうようなことをしていたわけですよね。

兵器も違うし、そういう電波探知機にしたって、非常に優れたものを持っとる。こっちがいくらあがいても、とてもどうもならんと。そういう、まあ、情けない戦争でしたね。

Q:浅井さんは、ガダルカナルでどうしてたのですか。

どうしておるだって、部下を掌握しておるだけですわ。いわゆる敵情を探りに行ったり。

Q:銃は撃たなかったのですか。

銃はないですから。わたしには銃はないですから。軍刀しかないのですよ。

軍刀で戦うのですよ、はい。軍刀以外にないですもの、それは。ちゃんと装備の命令でそうなっておるのです。

Q:どうやって軍刀で戦おうと思っていたのですか。

こうやって刺して。突く。だから明るいところでは、目が見えるところではできないわけですよ。だから夜の夜襲をやるわけです。

Q:ガダルカナルで軍刀は役に立ちましたか。

立ちませんでした。立ちませんでしたね。

それは、思っていると言われると悲しいですけれども、それしかないのでね。与えられた兵器としてね。

白兵突撃をやらすには「夜襲」が一番いいですね。昼間はじっとしておって、そして夜、攻撃してくると。

それは、夜、接近して行って、そして敵に「ワァーッ」と怒声を浴びせて、そしてビックリさせて攻撃すると、そういうことなんですがね。

そのためには、簡単には兵隊が・・30名までぐらいしか掌握できないんですよ。だからその兵隊を掌握して動かせる、そういう訓練をしておったわけです。それで動かして、それはうまく動いてくれて、そして敵をやっつけるのです。そういうことになってましたね。

山砲にしたって大隊砲にしたって、それで撃っている間は、撃たれておると。敵はみな頭をひっこめて穴ん中から潜っちゃっておりますわね。そのときに近寄っていくわけです。どんどんどんどんと、こっちはね。近寄って行くと、味方の精度が悪いと味方の砲でやられますわね。その限界まで近接せよと。膚接いう言葉を使いよったですよ。布の・・皮膚のフですね。膚接までして、突撃でダアーッと突っ込むと。敵が頭を上げん間にバッと頭の上に乗っちゃっておると。そういうすべしと、作戦用務命に書いてありますね。まあ、その当時としてはそういうのがいい戦法でしたね。

ただ、このガダルカナルまではね。それで香港でもアンボンでもチモールでも全部やってきましたのでね。それ以外にないですよ。

Q:実際、(夜襲は)ガダルカナルではできたんですか。

それはできないですね。それは、あれがもう発達して、電波探知機が。ジャングルの中でも直ぐこう入って来る。入るでしょう、敵に寄って行くと。

近づいて行けばですね、夜、敵がすぐ用心しますわね。そして反撃して来るなり、そこで戦闘が起こるだろうと。こっちは知らんですわね。そうしたら負けですわね、こっちにしたら。

Q:誰のために戦おうとかはありましたか。

それは、日本の国のために戦ったんですよね。それは当然の義務と言うかね。そういうような、誰のために戦うというような、そういう感情はあまり持っとらんように思いますね。

Q:どういうことですか。

とにかくお国のために頑張って、そして「やってこい」と。そういうことでしたね。それに・・今の空気との違いはそれでね、全然。

撤退援護で、最後の、いちばん最後の部隊の、いちばん最後を引き受けるわけですからね。やられたら、自分がやられるというところで撤退しながら下がって行くわけですよね。それで、ここで乗船をするんだと。それで敵の飛行場へ突入して、それで戦死するんだと。そういう命令を受けて、それでいちばん最後は行ったわけですよね。

「飛行場へ突入して、全員討ち死にするんだ」って。

飛行場へ突入してね、敵の。そして戦って、討ち死にするまでやるんだと。また戻るっていう気持ちはないですわね、別に。

もう全部、そこで心を決めたわけですよ。全員、もう戦死すると。敵の飛行場へ突入して戦死だと。

悲しかったのはね、撤退してきて、そして部下が13名ぐらいになっちゃって、しかも1人、行方が分からなくなったのがいるわけだよ。それでも、僕らは船に乗って、敵の飛行場へ突入して行かんならん。そういう運命と言うか、命令ですわな。
で、最後は発動艇が寄って来て、そしてそれに乗れと。それで、わたしは乗れなんだんですよ。それが、たまたまうちの部下が見つけてくれて、真っ暗な中ですからね。それで、両手を引っ張って上げてくれた。水をもうこの辺まで海水に浸かってるんですからね。それで上げてくれて、それで発動艇が駆逐艦に接近して、そして接舷して、そこで駆逐艦に乗せて。それで向こうに行くと思ったら方向を変えて、それでこっちのほうへ、ボーゲンビルへ戻って来たということですわね。

Q:これが本当の撤退だっていうふうに分かったのは、いつですか。

途中ででしょうね。大分経ってからでしょうね。向きが違うですからね。敵の飛行場のほうから、こっち、向き変えたんですから。海戦がありましたよ。船に乗ってから、乗ろうとしておったらね。ちゃんと敵のあれが、発動艇が、高速魚雷艇が出て来た。それを海軍がドンドーンとやって沈めたりして、ずいぶん優勢だったです。「こりゃいいなー」という、かなり希望は持ったんですけれども、結局、そこで動き出して、そしてボーゲンビルのほうへ引き揚げていったということですよね。

Q:撤退だっていうことが分かった時は、どんなお気持ちでしたか。

まぁ仕方がない。仕方がないというか、やむを得ないですよね。撤退以外に方法はないですもの。自分が一人、どうこうするわけにもいかない。それは命令ですからね。

ボーゲンビル島にはいろんなものが置いていってありますからね。ボーゲンビル島で船に乗って、それからガ島へ行って、それで戻って来て、そこに自分の荷物が置いてあるでしょう。その人の私物やらいろんなものがね。それで、そこでしばらく1週間かそこら掛かったんですかね、整理に。それからラバウルへ、ココポというところですかね、あそこへ今度移動した。そこで陣地を構えて、そして落ち着いたわけですね。そこで、いろいろ整理せんならんですよね。

Q:終戦は、どこで迎えたんですか。

美川です。美川というところでね、金沢から列車だと、もう一つ次ですかね、美しい川と書いて美川というところですけども。

Q:どういうふうにして、終戦を知りましたか。

天皇陛下が詔勅を放送したじゃないですか。あれ、蓄音機っていうのか、何ていうんですかね。それで放送して、これで戦争が終わったという。終戦の詔勅っていうんですか、終戦の。それを聞いて知りましたね。

Q:浅井さんはどんなお気持ちでしたか。

わたしは、それは天皇陛下の命令だから、それに従うしかないと。

Q:悲しいとか、ホッとしとか、何か、お気持ちは覚えてますか。

それは悲しいですよね。前日にも、わたしは一宮の駅で、アメリカの飛行機に攻撃されてましたからね。8月14日に。それまで訓練を。新しい連隊を、師団を作ったもんですから。それで突撃師団ですよね。つまり、海岸防衛部隊ですよね。それを作って、いろいろ訓練しとって、それでそれが一応済んだから休暇を2日くらいくれたんですかね。それで家へ戻って来て、家内と。家内はもうかなりあれだったからね、安静なところにいて、いさせて。そしてまたこっちへ戻って来て・・を受けて。それで全部地下へ、お客さんや何かは全部地下へ入りなさいと。そして、わたしが一人立って、こう飛行機にずっと見てたんですよね。自分に向いてこなければ弾は当たらないですからね。そういうことは、なんともないんですけど。それでちゃんとこういうふうにして。
だから稲沢で、でしたね。そこの稲沢で機関車が来るやつを、その機関車に乗るためにおったわけですよね。その機関車が今度はアメリカの、あれはグラマンですかね。攻撃されて釜に穴が開いちゃって、それでシューシュー、シューシュー蒸気が漏れて動かんのですね。それで3時間ぐらい経ってから、やっと夜の暗くなってから動いて、そして朝に美川に着いたわけです。

やるだけやったと。俺は死に損ないだと。何遍かありましたからね、死に損ない。紙一重で。それは、悲しい人もありますよ。これ、手りゅう弾をここに持っているんですよね。で、ここへ弾が当たって、シューッとそこが発火するでしょう。そうすると、それを取ろうと思ったって取れんじゃないですか。それで爆発して死ぬ。そういう悲しい運命を辿った人もありましたね。そういうことを思えばね、まだ良かったと。まぁ、しかし、死に損ないだわなと。わたしはいつでも死に損ないだと言ってます。

生きて人の役に立たたんようなことなら、死に損ないじゃないですかね。生きてね、そして国のために、人のために、役に立たなかったんだから、それだから……。今、生きとるっていうのは、死に損ない。死に損ないの運命ですわね。

出来事の背景出来事の背景

【ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~】

出来事の背景 写真半年間の戦闘で2万人もの犠牲を出し日本軍の大敗北に終わったガダルカナル島の戦い。名古屋歩兵第228連隊は、日本軍が三度に渡る総攻撃に敗れた後、最終段階に投入された。補給においても、戦力においても、緒戦段階に比べ遙かに不利になった状態で上陸させられた228連隊、2500人中、生還できたのはわずか300人だった。 
 
太平洋戦争開戦以来、攻勢を続けていた日本陸軍は、昭和17年8月にガダルカナル島で、米軍との初めての本格的な地上戦に突入。

日本軍は米軍を「すぐに勝てる弱腰の敵」と見ていたが、実は火力・兵力・戦略ともに日本軍を凌駕していた。作戦が失敗しても、戦訓の見直しをせず兵力の逐次投入を繰り返し、現地将校からの撤退の進言も軍司令部は無視。228連隊を待っていたのは、激しい米軍の集中攻撃と飢餓地獄だった。上陸から2ヶ月で、6割の兵士が命を落とした。

12月31日、ようやく大本営が「ガダルカナル撤退」を正式決定した後も、228連隊には更なる悲劇が待ち受けていた。「撤退命令」が前線に届くまでに16日を要し、その間に多くの兵士たちが命を落としたのだ。最後まで「撤退命令」が届かず、玉砕する大隊もあった。
さらに、餓死の恐怖に直面した兵士たちの中には、生きるために死体の肉に手を出したものもいた。飢えに苦しんだ陸軍将兵は、ガダルカナル島を「餓島」と呼ぶようになった。

ガダルカナル島に投入された日本軍、3万1000人のうち、戦闘による死者はおよそ5000人、1万5000人以上が飢えと病で命を落としたとみられる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1939年
歩兵第6連隊に入隊
1941年
歩兵第228連隊に配属
1942年
ガダルカナル島に上陸
1943年
ガダルカナル島撤退
1944年
日本に帰国
1946年
復員、愛知学院大学教授

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