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タイトルタイトル: 「行軍に耐えられず自決する」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
名前名前: 石井 文三さん(会津若松・歩兵第65連隊 戦地戦地: 中華民国(衝陽、信陽)  収録年月日収録年月日: 2009年10月15日、16日

チャプター

[1]1 チャプター1 山道の激戦  03:19
[2]2 チャプター2 狙撃兵の的になった  06:20
[3]3 チャプター3 地図のない作戦  03:17
[4]4 チャプター4 遺骨を抱いて歩く  06:24
[5]5 チャプター5 現地調達  04:55
[6]6 チャプター6 「苦力(クーリー)」  04:29
[7]7 チャプター7 反転命令  06:31
[8]8 チャプター8 金城江は戦場から逃れる避難民であふれていた  05:32
[9]9 チャプター9 五旗嶺の戦い  03:59
[10]10 チャプター10 突然だった終戦  03:01
[11]11 チャプター11 「無駄な戦争だった」  04:26

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年10月15日、16日

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とにかく、南から北上してくる部隊と合流して、大陸の打通作戦ですか、だから、南から来る部隊と会うまでは、どこで会うか知らんけれど、そこまでは行くんだな、というような感じはしましたね。大陸打通作戦と、言っていましたからね。それが、どこで終わるんだか、どこで向こうの部隊と一緒になるんだか、ということは予想もつかなかったですがね。

これは、南からのルートと、北からのルートを、確保するということだったんでしょうね。

どこまで歩かなきゃなんないのかな、というのは、やっぱり不安でしたね。中には、重慶までなんて言う人もいたけどね。果たして、重慶まではどのくらいあるんだか、そんなことも分からないし。

途中で、戦友がばたばた、亡くなっていくのを見て、わたしもどこで終わりになるのかなというような。このままで、こういう戦闘を続けていたのでは、生きては帰れないなという考えはありましたね。


Q:こういう戦闘というのはどういう戦闘ですか?

結局、途中のね、金魚石とか、分水嶺の戦いとか、激戦が続いたわけですが、その都度、わたしの部隊なんかは、ヤマザキ中隊長はじめ、将校が何人も亡くなっていますからね。中隊長あたりが亡くなるというのは、相当の激戦ですよ。そういうことの繰り返しだから、生きて帰るというのは恐らくできないだろうなというような考えを持ちましたね。

これはやっぱり、狙撃兵ですね。射撃の優秀な射撃手を、日本軍には狙撃兵というのは、なかったんですがね、中国軍では、射撃の名手を射撃兵として、第一線に何名かを、入れておいたんですね。そうすると、狙撃兵というのは大体、指揮官を狙うわけですよ。だから、わりと将校がやられるのが、多いんですね。湘桂作戦の途中で、分水嶺ですか、わたしの中隊長だった、ヤマザキ中尉などもそれでやられたんですよ。

わたしの中隊長はね、腹をやられたんですね。そして、倒れて、ちょっと後ろへ下げたんですが、そのときに、拳銃をくれ、拳銃をくれって。自分の拳銃をくれと、言うんですが、拳銃をくれということは、拳銃をここから取ってもらって、自分で死のうと、思ったんじゃないですか。さすが、拳銃をとっては渡されなかったんですが、ちょっと下げた段階で、亡くなりましたね。腹というのは、いちばん危険なんですね。この辺、貫通したとか何かは、助かるんですが、腹はだめですね。腸をずたずたにやられるわけですから。

大体はまず、指揮官を狙う。あとは、一般の兵隊みたいに鉄砲1丁でいる者なんかは、軽機関銃の射手なんかはやっぱりやられますね。重火器の機手を狙うということだね。

一本道ですからね。ここに来るに違いない、ということを見計らって。ここから上っていくわけですが、この山に陣地を構築して、狙ってくるわけですから。その道しかないわけですからね、道というのは。だから、必ずこの道を進んでくるということの想定のもとに、向こうは陣地を構築して、そこを集中して、射撃するわけですから。

そして、そのときなんかはどうしても、中央突破では、突破できないと。こういうふうに、射撃されるわけですから。そして、別な小隊をこっちの谷に下りて、こっちの小隊をまた、こっちの谷へ下りて。ここはこういう道だから、そして、その谷を下りて、これをよじ登っていって、突撃して、退却させたんですがね。これもひどい谷を下りて、ひどい谷を上るわけだから、この部隊もひどかったのね。だけれども、まさか、敵はこんな深い谷を下りて、こう上がってくると思わないから、そっちにはわりと、銃眼というんですが、そういうのは作っておかなかったから、こっちが成功したんだね。こっちでこれを退却させて、あとは主力部隊は進むことができたんですが。

その後ろには大隊本部があり、その後ろにはダーッと連隊本部と何キロもつながっているわけですからね。後ろのほうは、前の状況が分からないから、だから、何をぐずぐずしているんだと、早く突破しろということで。

連隊本部あたりは、いついっかまでに、どこどこに進出しろ、どこどこを占領すると、命令が上から来ているわけだから、それがここでつまずいてっと(つまずいてると)、その時間までにここの占拠ができないわけだから、だから後ろは、ジャンジャン言ってくるわけだよね。

強行突破をしろ、ということなんでしょうね。だから、いちばん先の中隊長なんかは、やっぱり後ろから、そういう命令が来ているから、気をもんで、自分が真っ先にここを出ていくから、よけい狙われるということですね。やっぱり、中隊長なり、小隊長が、先へ出なければ兵隊はついていきませんからね。だから、先に出るようになるんですね。そうすると、それが狙われると。

Q:何で、そういうところを通らなくては、いけなかったんでしょうか?

結局ね、いついっかの何時までに、ここを占領しろという命令であれば、なんでかんで、そこに向かっていくわけですから。こういうふうな迂回なんかしていたんでは、その命令された時間までに、ここを占拠できないわけだから、こういう迂回では。だから、どうしても、突破していくしかないんだわね。当時の中国あたりには、満足な地図というのはなかったんですよね。だから、例えばここを突破できないにしても、すぐ、ここに道があれば、それを行けばよかったんでしょうが、そういう地図はないんですよ。

(中国打通の)湘桂作戦になるとね、制空権が大体、敵側にあったから、だめだったんですが、それ前、揚子江沿岸あたりにいたときはね、日本の飛行機で航空写真撮って、それを地図にすぐ直して、そしてまた飛行機で来て投下して。それができたのね。ところが湘桂作戦あたりになると、今、言ったように日本に制空権がほとんどないから、それはできなかったのね。だから早く言えば、地図のないところを攻撃していくんだから、すぐ何キロ先にこういう道があったって分かんないわけですよ。


Q:地図がないということは、勘で進むんですか?

 勘というよりも、ここまで追ってきたわけだから、それから、道がこう続いていくから、やっぱり、それを進むしかなかったんでしょうね、地図がないんだから。そうすると敵は、もうこの道しかないのは分かってるから、ここに陣地をつくって待っているという、そういうことですね。だから、それを突破しない限り先には進めないわけですからね。

中央突破か、やむを得なかったんでしょうね。やむを得ないと思うね。

衡陽に行く前あたりの山は、大きかったんだよね。これは、こういう山でなくて、大きい山。登り1日、下り1日くらいの山。

やはり、下痢や何かで、歩けなくなって、夜、トイレに行ってきますなんて、離脱して、そこで自爆した人はいるわ。何人かはね。もう、これ以上、戦友に迷惑はかけられないということで、自決を覚悟したんだろうね。よほどつらいと思うんですよ。自決するまでの覚悟、するまでには。

その場でやったんでは、ほかの人に迷惑かけっから、だから隊列を離れて、多少離れたところで、ダーンとやるのね。

体を悪くして、つらいだろうなと、やっと、ついて歩ってるくらいのときに、つらいだろうなと思いますね、見てね。しかし、どうしようもないんだよね。衛生兵に言って、下痢止めの薬くらいは飲んだんだろうと思うけれども、そのくらいでは、やっぱり止まらないんだわね。さればって、行軍中にはその後ろに軍医とか、野戦病院があるわけでないからね。何とか、軍装品というんですが、荷物をみんなして分け合って、運んでやって、空身で歩かせるくらいがせめてものやり方だったもんね。そのくらいしか、やってあげられないもん。それ以上のことはね。馬を持ってる、駄馬部隊とか、そういうのはね、輜重兵とか、具合が悪くなれば、馬に乗せたりはできたらしいけれども、歩兵はね、そういうのはないから、なんでかんで、歩くしかないんだから。


Q:そうやって、自決された方の遺体というのはどうされるんですか?

 これはやはり、もう、ここから先を(腕を)、エンピ(兵士用スコップ)というんですが、それで切って、戦友が天幕に包んで、それを背負う。あとは、残りの遺体は、やっぱり穴を掘って埋めるしかないんです。そこで火葬するわけにもいかないし、行軍の途中なんだからね。そして、ある程度、いったん落ちついたところで、大休止というのがあります。飯盒炊さんやったり、何かための大休止というのね。その時間に、この先(腕)をだびに付す。そして、いろいろ塩だの入っている、こういう缶があるんですよ。それにその骨を入れて、そして、戦友が背のうの中に入れ、背負って、ある程度のところまで、落ちつくまで持ってって、それしかないんですね。

不満なんていうのは、毛頭なかったですね。勝ち抜くためにはやむを得ないんだなと、いうような感じでしたね。このくらいのつらさに耐えなければ、戦いは勝てないんだなという感じで歩ってたね。


Q:かなり、機銃掃射では損害というのは出たんですか? 湘桂作戦、全体で?

 いちばん敵の飛行機にやられたのは、輜重(しちょう)隊ですよ。馬を持っていますからね。歩兵の場合は飛行機が来たというと、パーッと山とか、あれに逃げて、隠れたんですが、馬はそういうわけにはいきませんからね。だいぶ、輜重隊はやられた。ということは、輜重隊が食料から、弾丸を第一線に運ぶわけですから、それがやられると前線では困るわけですよ。食料も、弾丸もね、届くのが遅れるわけですからね。

大きな作戦というのは、秋の収穫時期を狙ってやったわけです。そうすると、稲が実りますから。一日のうちに稲刈りから、脱穀から、精米までは、いかないんですが、玄米までには1日のうちにできちまうわけです。それが何万という兵隊ですからね、辺り一面の田んぼは全部、刈り取られる。野菜は全部、刈り取られる。後で、いったん避難した住民が帰ってきて、がっかりしたと思うんですよね。せっかく丹精込めて作った田畑が、一網打尽に荒らされてるわけですからね。

とにかく、支那の領民が避難する場合には、鶏とか、豚までは、連れていけないですからね。そういうのは残っているわけですよ。だから、豚を殺し、鶏をつぶし、そういうのは犬までね、犬の肉まで食べましたよね。

徴発というのも、非常に危険なんですね。ある部落に行って、例えば、一個分隊12~13名で行くわけですが、そして、ある部落を探し回るわけですが、どこに潜んでいて、逆にやられるか分かりませんからね。それでやられた兵隊もいますよ。

例えば、家に入っていくと、屋根裏というか、屋根裏なんかはないんですが、上に隠れていたのが下りてきて、これをやられたりね。刺されたり。そういうことなんです。

とにかく、部隊がいっぱい留まっている部落では、もう、いろんな物を探し終わって、無いわけですから、この部落には。だから、その部落から出て、ある1つの部落を狙うわけですからね。そこに、行くわけですから、どこに敵がいるか、あるいは、その部落民が隠れていて、攻撃してくるか、分からないわけですから危険なんですよ。


Q:命令として、行ったんですか?

 そうです、そうです。中隊長が「今度は、二小隊で行ってこい」とか「今度は、一小隊の一個分隊で行ってこい」ということですね。今、考えると本当に、住民がかわいそうなんですよ。大体、兵隊はね、塩とか、米とか、そういうのは各家庭でどこに隠してあるのかということを分かるんですね、あれ。慣れてくるというかね。だから、必ず行けば、ある程度の物資は持ち帰ったんですね。

作戦中に逃げ遅れて、あるいは隠れていたのを見つけて、それを捕まえてきては、荷物運びに使ったんですよ。それもね、ひもで縛って、逃げられないように1人の兵隊がひもを持って、そして行軍した。だから、夜の行軍なんかでね、途中でやっぱり、ひもほどいて逃げた苦力(クーリー)なんかもいるんですがね。逃げるのを見つけると、ほかの苦力(クーリー)の見せしめにね、ダーン、撃ったりするんですよ。そうするとほかの苦力(クーリー)は、ああ、逃げればやられるんだなと思うから、逃げないというような、そんなこともありましたね。

やっぱこれもやむを得ないんですね。例えば、途中で腹をこわしたとか、いろいろやっぱり病気で、自分の背のうさえ背負えない兵隊がいるわけですよ。それを、ほかの兵隊が、ほかの兵隊だって、弱っているわけだから、疲労しているわけだから、そういう荷物を担がせたり、背負わせたりして、使ったんですね。だから、いったん捕まって苦力(クーリー)として、兵隊と一緒に歩ってる。それは、食料は兵隊と同じく食べさせますけどね。食料、食べさせないとへたばっちゃうものだから。しかし、どこまで連れて行かれるか、分からないわけです。だから、不安だと思いますねえ、あの人たちは。

中にはね、器用な少年なんかいて、湘桂作戦の初めから、終わりまで、一緒に、くっついていた「次郎」なんていうんだ、子どもなんかいて。これはなついちゃってね。今度は自分から、離れようとしないんですよ。同じ兵隊の着古した兵隊の服、着せてね、一緒に歩った子どもも、いましたね。子どもっていっても17~18歳の子どもで。あと、器用で床屋さんかな、散髪をやる床屋さんなんかもいてね。そういうのはずっと、連れて歩ってたね。でもそのかわり、そういうのは普通の苦力(クーリー)とは違って、荷物を背負わせたり、そういうことはやらせないから。これ便利だから、連れて歩ってたわけで、我々とおんなじ、同じ待遇をしてね。それもね、もう、何百キロも行くと、やっぱり今度は1人で、帰れないんですよ、もう。途中が危険だから。だから最後まで、連れているようになるんですね。

せっかくここまでやってきたのに、これで反転するということは残念だっていえば、残念。大本営はじめ上層部では、どういう考えを持っているのかなという疑問は、抱きましたね。

時すでに、日本本土の空襲とか、あるいは仏印、あるいは南方の諸島での激戦、苦戦などはある程度、情報で聞かされていたから。これはやっぱり中国戦線に、これだけの兵力を置いては、今後のためにやっぱり無理だということで、撤収して、本土防衛に向けるんじゃないかなんて、そんな考えを持っていましたね。もったいないといえば、もったいないけれども、これも国防のためには、やむを得ないのかなというような考えでしたね。

敵さんの飛行機に襲われるから昼間、歩けないんですよね。昼間は部落に隠れるとか、あるいは、林の中で休憩すっとか。それで夜でしょう。夜行軍。それがまず、電気の明かりひとつあるわけでなし、月夜の晩なんかよっぽどいいんですが、暗闇の晩なんかはひどいです。半分眠って、歩ってますからね。前が止まると分からなくて、背のうのいちばん後ろには鉄帽があるわけですよ。そこへバカーンって、ぶつかって、目を覚ますというようなね。あるいは、こういう細い道を歩っていくときに、両側に草、生えてますよね。左側に寄り過ぎれば、左足に草が触る。右に寄り過ぎると、右の足に草が触るんで、それで真ん中を。触ったら右、こっち触ったら左、というふうなことで、勘で、歩ってるわけだ、半分ね。しかし、触るのは分かるんですよね。


Q:眠って行って?

 ええ、半分眠って、歩ってますね。それと、いちばんつらかったのは、雨の中の行軍でしょうね。もう、下着までずぶ濡れですからね。そして、「大休止」というと、1時間や1時間半の休憩はあるんですが、それ、やっぱり部落に入らないと、休憩できないんですよ、雨ん中ですから。部落を見つけると、そこで、休憩するわけです。そうすると、もう、あらゆる燃えるものを、うちの中で燃してね。そして裸になって、これを干すわけですが、ようやく乾いたなと思うころに「出発準備」という伝令がまた、来るわけですよ。そうして慌てて着て、そして「整列」とかかって、表へ出る。まだ雨は、じゃんじゃん降ってますからね。もう10分もたたないうちに、また、ずぶ濡れになりますよね。だから、病気も出るわけですよ。まあ、雨の夜行軍なんていうのは、いちばんつらかったでしょうね。体を悪くした人なんかはね、もう行軍に耐えられなくて、隊列から離れては、手りゅう弾で自爆すると、いうような例もありましたよね。気の毒ですが。もうついていけないですよね、下痢をしたりなんかすると、つらくて。さればって、1人、残されればね、これまた、危険極まりない場所ですからね。

日本軍の戦闘というのは、歩兵が行って敵を追っ払ったり、敗走させたりするわけですが、それがね、逃げたら今度は日本兵は、こういうふうに進むだけですから、脇に逃げたのは、また日本兵が去った後に来るわけですよ。ですから、残されたのはもう、生きてはいられないですね。

わたし、いちばんかわいそうだと思ったのは、避難民はね、本当の身近な、自分の必要最小限度のものを、担いでいますね。女、子どもが、いますから、兵隊の行軍というか、進撃に追いつけないくらいなんだわね。それで、わたしがいちばんかわいそうだなと思ったのは、道路の脇で、妊婦がお産してるのね。お産して、まだ本当に股の下に子どもがいるような状況で、それを通り過ぎていったときに、ああ、この親子は死んじゃうのかなと思うような感じして、かわいそうだったね。そのほかにいろいろありますけど、病気で呻いている者があれば、動けない者もあればね。でも、そんなことは、もう全然、構っていらんにんだんね(いられないんだね)、我々は。どんどん、どんどん進まなきゃならないから。しかし、本当に気の毒だったね。野宿しいしい、やっぱり逃げたんでしょうね。あれはね、別に逃げなくてもいいんだけれどもね。兵隊は、一般民は、関係ないわけだから、敵軍とみなしていないわけだから。

それは、進撃しているときの話で、今度は撤退のときも、また日本軍と同じ道を自分の部落に向かって、進んでいるわけだよね。いったん逃げたところを、先へ行ったって、わが居住地はないんだから、やっぱり、元のところへ戻るしかないんで。そのときもやっぱり、日本軍と一緒に歩いていたね。いや、気の毒なもんだ。

子どもなんかはね、よくよく歩けないのに、泣きながら、母ちゃんの後をついて歩ってる姿なんか見ると、本当にかわいそうだと思ったね。あと、年寄りね。あのころはまだ、終戦にならなかったから、日本も戦場になったらこういうことになるのかなと、大変だなと思いました。いや、本当に戦場になった国、国民はかわいそうだ。中には、あのまま路傍で、本当に亡くなる人もずいぶんいたんじゃないですか。


Q:どうして、難民がそれだけ発生してしまったんでしょうか?

 日本軍が進んでいく。ひとつの部落に、入る。そうすると情報が入るんでしょう。やっぱり、恐ろしいんでしょう。日本軍が来ると殺されるとか、なんとかって、やっぱり、そういうイメージがあったんじゃないですかね。とにかく、日本軍もね、戦闘して進むけれども、部落があるところでないと、大休止できないですから、山の中では。水もない、炊飯もできないということになるから、部落があると、そこには必ず、水もあるし、雨露をしのぐうちもあるから、そのかわり、荒らされっちまうんだよね。そういうのがやっぱり、口伝いに、伝わっていたんじゃないの。だから日本軍が近づくと、皆、部落民はまとまって逃げたんじゃないの。

わたしは沖天部隊(88旅団)に転属になって、(桂林北方の興安付近の)五旗嶺から大体10キロくらい離れたところを警備していたんですよね。ところが五旗嶺付近に、撤退する65連隊の退路を断つというかな、そのために敵が五旗嶺付近に進出してきたので、わたしらの旅団が五旗嶺に出撃を命じられたわけ。その退路を断つために来る部隊を阻止するために、そして撤退する部隊を安全に撤退させるために、ここに出撃を命じられたの。ところが、わたしら夜、行ったんですが、ここに着いたら、こっちの中国軍の数がものすごいんですね。それで、わたしらの部隊が包囲されちゃったの、ほとんど、敵にね。それでバンバン、銃撃戦をやっていたんだけれども、敵の火力はすごいんですよ。わたしらの沖天部隊というのは、編成部隊で、急きょ集まった部隊なもんですから、兵器が旧式な兵器ばっかりで、火力が弱かったのね。装備が悪かったわけ、この部隊は。それで、苦戦したんですよ。

大体、中国軍のほうが先に五旗嶺にと、ついていたんですね。それを撃退するために派遣されたわたしの部隊ですが、逆に圧倒的な敵の大兵力に包囲されちゃったのね。そうして三方から、攻撃受けて、苦戦したんですよ。

そうして苦戦していて、夜になったときに、この撤収部隊が今度は、逆にわたしらの部隊が包囲されてるというので、この部隊が応援に来たわけ。ところが、それが、たまたまわたしらのもとの部隊の65連隊だったの。65連隊が応援に来たわけ。そして敵をある程度、追っ払ってくれて、わたしらは助かったわけなんだけれども、そうしたらなんとここで会ってみたら、昔の仲間なの、みな。いや昔の仲間に助けらっちゃって(助けられて)いうことでわたしらは非常にありがたかったんだけれども。

わたしは五旗嶺の戦闘、終わってから、また10キロくらい離れた警備に移ったんですが、そして、終戦の知らせを聞いたのね。

日本が無条件降伏したんだということを、知らされたわけですから、これで、やっと生きて帰れるなという、気持ちになりましたね。安心したというかね、これ以上、戦うことはないんだなということと、生きて帰れるなといううれしさと。戦争に負けたというのは、ひとつ、悔しい思いはあったけども、命だけは助かって、帰れるんだなといううれしさと、交錯しましたね。

そして、内地に帰ってくる場合に、わたし、九州鹿児島に上陸したんですが、うちに帰ってくるまで、うちには何にも知らせる方法もないし、電報でも打てば、あったんだかもしれませんが、それもやらないから、ぽこんとうちに帰ってきたら、うちでびっくりしちゃったのね。

戦時中、ずっと戦地では、わらの上に寝たり、土間に寝たりしてきたわけですから、そうして寝てて、なんとか無事に帰って、畳の上に寝たいものだな、というような考えをもったり、お互いにそんな話をしたりしてたんですが、うちに帰れたらば、もったいなくて、いきなり畳の上には寝らんにな(寝られないな)なんていう話してたんですよ。最初はうちの庭に寝て、その次から、上に上がって、畳の上に寝ようなんていう話もしてたんですが。

おやじなんかは、もうびっくりしてね。腰、抜かさんばかりでした。不意に帰ってきたから。

わたしたちはそういう時代に、そういう教育を受け、無理に召集をされて、戦争に参加したんだが、結局、戦争というのは無駄だったと、益はなかったと。あれほど苦労しながらも、やってきた戦争というのは、結局は、無駄だったんだと。これは上層部の命令で、やらざるを得なかったが、振り返ってみれば、無益な殺生を、繰り返すだけだった、と。そういうことは、やはり、避けるべきであるというふうなことですね。

今、考えると、軍部がむちゃな計画を、立てたものだと思うね。日中戦争にしろ、その後の太平洋戦争にしろ、身のほど知らずで、立てた計画だったなというふうに思うね。

まあ、悔しいというと、確かにその言葉に、語弊があるかどうかわかりませんけれども、我々と同じ年配の者が、同僚が、戦地に行った6割も、7割もの者がね、若くして、散っていったということは、人間として生まれて、これから結婚をしたり、いい生活ができるわけなのに、それさえできずに、散っていったということについては、やっぱり、悔しいというような思いですね。

わたしの親せきにも、何人もいますけどね、そういう点では、悔しいやら、悲しいやらですね。少年航空兵で散っていった者もいるんですよ。うちの家内と、いとこなんですがね。1軒のうちで、長男と三男と2人戦死した。本当に過去の戦争で犠牲になった人、並びに家族、その人のためには、本当に気の毒だと思います。将来とも、二度とこういうことを繰り返さないような政治をと、願っていますね。

出来事の背景出来事の背景

【中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~】

出来事の背景 写真陸軍歩兵第65連隊、兵員のおよそ半分は福島県出身者で、幕末の戊辰戦争で官軍と戦った「白虎隊」の名を受け継いで「白虎部隊」と呼ばれる精鋭部隊だった。
日本軍が劣勢に立たされた昭和19年(1944年)、中国戦線にいた65連隊は、50万以上の兵力を投入する陸軍史上最大の作戦「大陸打通作戦」に送り込まれた。
この作戦の目標は、中国大陸を南北に貫き、東南アジアから物資を運ぶ陸上輸送路を切り開くこと、日本本土への空襲を防ぐため中国南部の米軍航空基地を攻略することだった。
昭和19年4月、作戦は始まり、1000キロを踏破する行軍が始まった。
65連隊は、精鋭部隊として、幹線道路や線路沿いを進む主力部隊の盾になるように、険しい山岳地帯を行くことになった。そのため、頻繁に中国軍の攻撃にさらされ、戦死者が増えていった。
その間、日本軍は、「長沙」、米軍航空基地のある「衡陽」を攻略するが、昭和19年7月には、サイパンが米軍に占領され、本土空襲を妨げるという目的は意味を失った。

行軍はその後も続けられ、65連隊の兵士たちは、補給が途絶える中で飢えと渇きに苦しめられた。1300キロを踏破した時点で、兵員3800人のうち、900人が命を落としていた。

昭和20年3月、大本営作戦課長として大陸打通作戦を立案した服部卓四郎大佐が、65連隊長として着任。その直後、中国北部や中部の防衛のため反転が決まった。65連隊は日本軍部隊の「しんがり」となり、撤退途上、中国軍の追撃の矢面に立たされる。さらに、米軍機の機銃掃射を受けるようになった。兵士たちの中からは、苦しみから逃れるために手りゅう弾を炸裂させ、自決する者が続出した。

昭和20年8月、敗戦。2000キロを歩きぬいた65連隊は、この作戦で1500人が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1940年
会津若松歩兵第65連隊に入隊
1941年
中国へ上陸
1944年
大陸打通作戦従軍
1944年
手榴弾破片を受け負傷、野戦病院に入院
1945年
冲天部隊に配属
1946年
復員、石川町役場勤務、石川町商工会事務局長

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