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タイトルタイトル: 「無駄だった2千キロ行軍」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
名前名前: 油井 淳一郎さん(会津若松・歩兵第65連隊 戦地戦地: 中華民国(衝陽、信陽)  収録年月日収録年月日: 2009年10月16日、18日

チャプター

[1]1 チャプター1 「白虎隊」  02:11
[2]2 チャプター2 大陸打通作戦  03:02
[3]3 チャプター3 山道の進軍  01:48
[4]4 チャプター4 衡陽に引き返す  05:08
[5]5 チャプター5 続けられた作戦  03:38
[6]6 チャプター6 略奪した食糧  05:57
[7]7 チャプター7 避難民  02:58
[8]8 チャプター8 夜襲  04:28
[9]9 チャプター9 戦友の遺骨を抱いて  02:51
[10]10 チャプター10 背後に中国軍が迫るしんがり部隊  03:25
[11]11 チャプター11 歩けなくなった兵士が破裂させた手りゅう弾  01:52
[12]12 チャプター12 一兵士が見た打通作戦  03:38
[13]13 チャプター13 捕虜  03:21
[14]14 チャプター14 戦争について思うこと  02:22

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年10月16日、18日

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やっぱり郷土愛、故郷を愛するという意識はありましたね。ほとんど(福島)県内人ですから、県の名誉のためというようなことは確かに、存在しましたね。

「白虎隊」という呼び名も、されていたんですよ。したがって、そういう面でもね、責任があるみたいな、強い部隊であると言われるのも、その辺から、出発しているのではないかと考えていましたがね。

白虎隊は本当は、官軍ではないわけですがね。しかし、無意識のうちに、誇りと感じていましたね。

やっぱりあのう、なぜでしょうね。寄せ集めの隊ではないぞと、福島県出身者でもって、組織しているんだぞというようなことが、やっぱり意識として、ありましたね。そのように考えています。

昔から「白虎隊」というと、強いという代表名詞でも、あったような気がしますからね。そういうことから、おのおのが、一つの誇りと思っていたのではないでしょうか。わたしだけでなくしてね。

そうだ、強いんだ、頑張んなはんない(頑張らなくてはいけない)というようなことには、つながったかもしれませんね。

やはり、国の起伏に関係することである。つまり、大陸を南と北、通すことによってね、国の興隆につながるんだというようなことが、やっぱり無意識の中にも、ありましたね。国の利益につながるんだと。戦争もしたがって、有利に進むんだというような、そんな感じはありました。

国のためにというのはもう、至上命令でね。自分のためではない、国のためだというようなことで。大なり小なり国のために、役に立つということに対しては、むしろ、誇りに似たようなものを持っていましたね。


Q:打通作戦はどういうものかというのは、最初、わかっていましたか?

 ただ、わずかなりにもね、海は危険だから、潜水艦、その他に出っと危険だから、陸の上でもって、南方のものを運ぶんだという。あのころは石油、そんなに近いところにあるんでないけれども、一口に言って、やっぱりあれですね。中国大陸を通して、ものを運ぶための作戦であるということは、そんなふうに教え込まれていましたね。


Q:大体、この目標がどこら辺かというのも、聞かされていたんですか?

 それは、分かりませんでしたね。ただ、北にいる部隊は南に向かって、進む。南の部隊は北に向かって、進んで、南北両軍が、手をつなぐんだと。輸送路もそれに沿って、自分の有利に動くんだというようなことが、何か少ない知識の中にも、植えつけられた感じでしたね。

何か、目的に向かってだけ動くんだと、いうことではない、部隊全体のために動くんだ、ということは考えていましたけれどもね。打通作戦を成功させるために、というようなことの意識はあまりなかった、あれだね。

山はそれなりに、みんな苦労したようですね。まずは、身を隠す場所がない。逃げるに逃げられない。

場合によると、早く敵にぶつけてもらった方が、歩かなくて済むから、そこで、ひと休みというかな、戦はするんだけど、体の方はひと休みだ。そういうことで、敵に早くぶつかった方がいいなと、思うことはありましたね。


Q:それはなんでですか?

 体が楽になる。それだけ、歩兵の荷物は重かったということですね。


Q:戦闘で休める、というのはどういうことなんですか?

 戦闘で休める、というのは、何か遮へい物に身を託して、敵と射撃しながらも、体は休んでいるところは事実ですから、楽ですよ。弾にさえ当たらないようにすればね。

そのぐらいに、行軍というのは容易でなかった。敵と戦する方が楽だったと、いうようなことは、変な表現ですけどそういう事実は、ありましたね。

これは、昭和19年の夏、7月ですけど、衡陽が落ちなくて、65連隊に命令が来たんですね。そのときにはわたしたち一大隊は、来陽という、ずっと離れた南の方まで、進んじゃったんですよ。そして、衡陽作戦だから、参加しなはんない(しなければならない)から「引き返せ」という命令が来てね。このときの行軍のつらさは、平地ですけどね、これは、山道どころではなかったね。

あのときには、明るいうち、夕方、出発して、夜通し歩いて、休憩なしでね。そして次の日、7月過ぎですから、暑い盛りなんですよ。衡陽が落ちないで、65連隊が行くほかないんだということで、命令が来たんですから。二大隊、三大隊は、割合に近くにいましたから、衡陽から。作戦をするのに好都合だったんだけど、一大隊はもう、南の方へ行っちまったから。それを引き返すのは、痛い目にあいましたね、あのときは。

限られた、何日、何時までに、というような一応の命令は、上部機関には来ているらしいんですね。それに向かって、目的として、進むわけですけれども、それぞれ体力に限界がありますから。何人かは、そこに到達しても、そろってその定まった時間になんか、行きっこないですね、ああなるとね。そのときも行軍序列なんて乱れてしまって、速いのもある代わり、遅くて何とも、動き取れないのもあるしね。とにかく、死ぬまで動くんですから、これはひどいもんですよ。戦争というのは、死ぬまで、動かなはんない(動かなければならない)。死んで、後、止むという。命ささげて、後、止むというかな。それは、ひどいもんです。

だから、そこで中隊などで、3人も疲れ果てて、死んでいるんですから。戦死、扱いはしましたけどね。そのぐらい、亡くなるまでも、動かなくてはならないというかね、あれはひどいもんですね。

あのね。3人死んだという、1人の例をあげるとね、暴れてね、意識がもう、なくなっちまいますんね。そして、押さえつけているんだけど、なんとも、暴れ果てて、そして、亡くなったのが1人ありましたね。まだ若いんですよ、現役の兵隊でしたから。もう、正常でなくなるのね。

そして、弱り切って、動かなくなるという。あれはひどいもんですよ、疲れるということは。

猛行軍というのは、ひどいもんです。もともとは定まった時間までに、目的地まで行くことなんですが、とにかく距離が長いんですから、定められた時間になんか、それぐらいのなかったですけどね、あんときはね。ただ衝陽の敵が、白旗を挙げてね、65連隊が突入する前に、降伏してきたから、あれで大助かり。行軍の疲れとか、ひどさとか、苦労はありましたけどね、突入をしなくて済んだと。あれで突入したら、どんな目にあったか、分からないですよ。運がよかったというか、助かったというかね。

山道はね、平地とまた違った、つらさがあるわけですね、山道は。特にひどかったのは、湘桂作戦になってから、19年の8月~9月になってからですが。

この坂はいちばん、ひどかったね。行軍序列がもう、整わないんだから。なんとか体力のある者が、先に行く。体力のない者は、遅れるというのかな。行軍序列というのがあって、それに従って、行動するのが普通ですけどね。寺背嶺の山登りは、行軍序列が乱れちゃって、今も忘れることができないね。こうしてね、坂道が、また下りというか、その続きなんですが、わたしは歩兵ですから、小銃、一丁、担いで入るんだけどね、ところが馬部隊、馬を持っている部隊、これはちょっと触れると、片方は谷底、片方は断崖(がい)ですから2~3頭、馬を落とした。あるいは、砲を積んだ馬も落としたということは、情報として後から、聞きましたが、実際には見ていませんがね。あそこの山登りは、何かいちばん、行軍の中でも、山登りの中ではひどかったね。

馬が断崖(がい)に触れて、何か(荷物を)着けてありますから。そうすると、歩兵は自分のことさえ考えていりゃ、体、ひとつだからね、幅が狭いけれど、落っこちはしないけどね、馬はそうはいかないですね。ちょっと触れると、落ちるほかないと。それで馬が、あそこの場所では、2~3頭、落ちたということは情報としては聞きました。


Q:どのような道なんですか?

 険しい岩石を、切り崩してつくったというような道なんですよ。岩を切り崩して、開いたというふうなね。だから、こんなところに道つくるんなら、もっと探せば、ちょっと遠回りしてもあるんでなかったかなと思うんだけど。

片方は、谷底と言った方がいいですね。相当、高低差がありましたからね。


Q:行軍の中で、いちばん欲しくなるものといいますか? 求めるものというのは、どういうものなんですか?

 休み。体が休めること、ですね。

出発するときには、持たれるだけ持って、出発しますから、重いけどね。これは買い集めて、配給したらしかったね。そういうことで、どんどん、どんどん、行軍しているうち、今度は、手持ちの米もなくなりますから、次の米の入手方法を、考えるほかないわけですね。

トラックのような、通れるような、道路があまりなかったでしょ。だから運んで。輜重兵という、物運び兵隊がありまして、輜重隊。それなどは、持たなきゃならないのを、弾薬も持たなはんないし、食糧なんていうのは、あれは積む余裕があったのは、どうかな。ほとんど、自分の食べる米は、自分で持って出かけるくらいだったな。もう、補給なんて中国戦線では、あまり考えられなかったね。

前線部隊だったからですが、補給なんか、ありっこないんだし、補給に来たりできないでしょ。そうすると結局、探すほかないんだから。「徴発」といって、盗むほかないわけですね。それが当然というか、するほかないということを、起きるわけだよな。悪いなとは、思いつつも、これをもらうほかないわけですね。ちょうだいするほか、ないわけですよ。

「現地調達」という、立派な名前で。「現地調達」という。前戦を歩いていけば、前線兵は米をなんとか、見つけますから。それをお借りしてというか、ちょうだいしてね。そして「腹が減っては、戦ができない」というような言葉のとおりで、米を持ってないと、食料がないと、やっぱり不安でしたね。

結局、避難して誰もいないから、誰もいないところから、米をもらってくるわけですから、空き巣狙いですね。米のありがたさを、わたしらは特に、人一倍、感じていましたね。だからこれは、今は戦争だからやむを得ないと、借りているけれども、やがて日本軍が、あるいは日本政府が、支払いに必ず来ますからというようなことを、心の中で念じながら、米をもらってきたものですよ。


Q:みんなそうやって集落から、手に入れるしかなかったんですか?

 ええ、そうです。後方からの補給なんか、全然、ないですから。まず「徴発」という名前でね。徴発という名前が、あれが通り相場だったんだけれども、当てはまる言葉かな、徴発。大なり、小なり、米はありましたからね、そういうことでね。動けば、探せば。米をお借りして。自分が農家なものだから、特に、申し上げたような気持ちで。

年寄り。動くに動けない。逃げるに逃げられない。避難しようがない、そういうのがいることはありましたけど、気の毒だったね。わたしも、年、取ってみるとそういうことをよく感じますね。逃げたくても、逃げようがないんだ。体が利かないから。かわいそうだったね。

これは取りにくいものですよ、いられると。なければ、やむを得ないということもありましたけどね。動くに動けない年寄りだけが、残っているところからは、これはもらいにくかったね。そして逆に、隣のうちをもういっぺん、探し直しすると、いうようなことがありましたけどね。

殺されなければ、しかたないという、受け止め方でなかったかしら。向こうの年寄りの、その当時の年寄りはね。痛めつけられる、殺されたりしない限りは、なんともしょうね。自分の体は、自由に動かないんだし、日本の兵隊は鉄砲、持っているんだしね。武器を持っているんだから。戦争だから。今、考えてみると気の毒で、悪いことをしたもんだねえ、本当に。だから、いまだに迷惑をかけたことに対する、償いはしなくてはならない、というようなことを考えることはありますね。自分が、年、取ったから、年寄りになったから、余計に、そう思うのかもしれませんけどね。

避難民がどんどんと、戦地のない安全地帯を求めて、避難していったんだからね。もう、老人、子どもが、取り残されていくだけですよ、道の両側に。かわいそうだったね。年寄りたちが動けなくなっているんだ。あるいは、死んでいるんだ。そういう中でね、2歳ぐらいの女の子が、(そのそばで)母親が先に、死んじまっているんですよ。何の食べ物もなくなり。その枕元にたたずんで、見るともなく、日本軍がどんどんと進んで行くのを、見ているわけですよ。かわいそうだなと思ったって、何ともしようがないんだからね。アメ玉一つ、持ってあげられるわけでないんだし。何か食べるものをあげるわけでも、ビスケット一つ、あるわけでないんだし。

もう、泣き疲れて見るともなく見るわけ。50~60メートル離れる場所からですがね、草原の上から。そして日本の兵隊が、日本兵でなくても誰だかどうだか分かんないんだろうけどね、子どものことだから。疲れ果てて眺めている姿そのものがかわいそうでね。

そして今度、命令が出て反転することになって、同じ場所に今度、帰ってきたの。そして、この辺だったな、女の子がいたのは、どうしたかなと思ったら、もう、3日ぐらい後には、女の子も母親さ、かぶさるようにして亡くなっていたの。あれはかわいそうだったね、あの子どもは。これもやっぱり、戦争のもたらした不幸ですね。何にも避難しなくても、いいんですよ。非戦闘員には、危害を加えるんではないんだから、日本軍は。それを、どういうものか、安全地帯を求めて、避難したんですね。西へ西へ、奥へ奥へと、逃げたんですね。そんなことがありました。かわいいなと思うけど、あれは今も、仲間が集まると、話題になることがありますけどね。かわいそうで。1歳半か、2歳ぐらいの女の子でしたね。帰りには死んでいるの。

Q:(柳州西方の)河池の警備のときは、四中隊は結構、激戦の中だったと?

 いちばんひどい目に、あったの。いちばんひどい目に、あったんですよ。

19年の12月31日。大みそか、大みそかの晩なんだ、それは。今晩とれ、という命令なんだ。

大みそかの晩、大みそかの晩ね、セキチョウ嶺という山の名前なんですよ。標高が900メーターから1000メーター近く。そして、それが屋根型になっていて、130メーターくらい、あったっていったな、幅が。そこを夜襲するわけですよ。これはこれは、とてもとても。発見してたらば、全滅だから。山の上で逃げっとこないんだから。それで、屋根型で、高いところでね。

自分が夜襲する、参加するのではないんだけれども、命令を、持って行くだけなんだけどね、ああいうつらいことも、ないもんだな。

夜襲でもしなければ、あの山なんか、とれっこないんだ。敵はもう、重機関銃、重いの上げてね。そして、ひっきりなしに、撃ってるんですよ。下のほうで見ていてね、ああ、またこれ、わたしたちの仲間、4中隊員が苦労してるなと思ってね。

いや、あの命令を受けて持っていくときの心境は、本当に、今、思うと、足が震えるくらいでしたね。自分が夜襲さ、参加すんでなくても。命令だけ、持っていくのにね、足、震えるくらいの思い出があります。


Q:油井さんが、その命令を持って行ったわけですか?

 それね、大隊長からね、「おまえの中隊、まだ、奪んねえでいるらしいから、今晩、とれ」という、個条書きに書いてね、そして、それをわたしが持っていくんです。それが任務だから。命令受領の、命令を取るね。そして、中隊長に伝える。あるいは大隊長、小隊長に伝える任務ですから。あれはいまだに、忘れられないな。成功したから、よかったものの。成功したのはね、アダチさんという、軍曹の方はじめ、十何人で突撃したんだ。夜中にね、月夜の晩で、「明るくて、危なくて、行けない」というんですよ。そうしているうちに、幸運に運よく、靄(もや)が、かかっちゃってね。そして、月夜だから、いくらか明るいでしょ。

音、しないように、靴にわらを巻いて、わらで縛りつけてね。日本の軍靴というのは、結構、硬い石の上なんて歩くと音、すんですよ。で、わらでくるんで、音、しないようにして。

敵側からしたら、日本軍が行かないと、思うから、朝方だから、寝ちゃっているわけだ。

標高1000メーターからの山なんですが、毛布、何枚も着て、その陣地の中に寝った(寝ていた)っていうの。何人か、前線兵がね。そこへ、いちばん最初のアダチさんが、銃剣に刺すだけでも、毛布が何枚も厚いものだから、刺さらないわけです。そんな鋭利なもので、ないものだから。それで、今度は、引き金を引いて、射殺して。そして後から、行った者たちで、そこには、上には、何人かしかいなかったそうだけども、そして、取ったんですよ。成功したからよかったけどね。いや、あの命令を持っていくときには、わたしもかわいそうだなと、思いましたね。

弔いはね、遺骨をまず、取らはならない(取らなければならない)わけだ。そのために、全身を火葬するなんていうことは、よっぽど暇がないと、できないんですよ。腕を取るの。それで、腕だけを焼くんですよ。

全身を焼くというようなことは、燃料がたくさんいるしね、時間もかかりますから、そんな暇、よっぽどの暇なときでないと、そんなことはできないけどね。指1本のことも、あったそうだが、わたしたちはだいたい、片腕を取りましたね。うちの小隊長なんて、軍刀を持っていますから、軍刀で切ってね。敵を切ったことがないかも分からないけども、部下の骨を取ったりなどは、したりしてね。


Q:小隊長の軍刀で切っていたんですか?

 ええ。やっぱり日本の帯剣て、剣下げった(下げていた)んですよ。これはあんまり鋭利でなくてね、うまく切れないんですよ。まあ、何とか時間をかければだけど。将校は軍刀を持っていますから、だから将校の軍刀で切ったほうが早いですね。そして火葬をする。わたしも2人くらいの遺骨を首に下げて歩いたもんですよ。

これはね、自分の中隊の者を、あるいは、同一小隊のものを、これは寂しいものですよ。親しくしていた者に、先立たれるということは。あるいは、あのとき、戦死しなかったら、おれが戦死したかもしれないんだというようなことがあって。自分の身代わりではないにしても、仲のいい友達に、死なれるということは、涙が出てしょうないもんです。

65連隊に、服部さんが自分から希望して、そして来た、偉い人なんだというようなことは、誰、言うこともなく伝わってきましたね。

65連隊は、やっぱり、大した部隊なんだなというふうに、そのときちょろっと、感じたかもしれませんね。

河池で警備しているうちに、新しい兵隊が入ってきたんですよね。部隊を補充するくらいだから、これは、まだまだ続くな。重慶までも、あるいは、それ以上かも分かんないけどね。それは、補充が入ってきたから、そう感じたような気がしますね。補充されるぐらいなんだから、これ、まだまだだと、いうようなね。

最初のうちは日本軍は勝った、勝ったで、いたけども、だんだんとね、空気として、なかなか容易でない、というような感じは、抱きはじめていましたね。

終戦間際になってから、ですね。反転するということの目的がね、日本の国土に、だんだん近くに、行かないとならないという。あれは日本のもとの、自分の国に帰って、守んなはんない(守らなければならない)というようなことがあったかして、ですから、反転作戦などはひどかったですよ。

夜行軍が行軍の主、でした。

夜行軍はやっぱり、敵機を、敵の飛行機ですね。敵機に対することが、いちばん多かったんではあるまいか。敵の飛行機の被害を逃れるという。

反転というのは、敵に追われる怖さ。追ってくる敵は強いからね。逃げてく敵と違って、追ってくる敵のほうは強いですよ。勝ち気ですから。

追ってくる敵を、迎え撃たなはなんない(ければならない)。

攻めて行くとは、逆にね、それなりに、危険度が高かったわけですよ。

反転作戦はね、敵を食い止めながら、追ってくる敵を食い止めながら、最初のうちはね。あと、終戦近くなりますと、どういうものか、あんまり敵が、追ってこなかったね。それを抑えながら、逃げるというかな、逃げるわけですね、やっぱりね。だからこれを、やっぱり体力、使いますね。使ったようでしたね。

行軍がやっぱりきつかったから。自殺者が出るぐらいですから。手りゅう弾、自殺。みんなについていけなくてでしょうね。

体格のいい兵隊たちだったですよ、死んだのは。やっぱりあの、疲れる、疲労困ぱいですね、行軍は。反転行軍が強烈で。

ほんとにね、あの丈夫そうな男が、と思うくらいに体格のいいのが、自殺するんですから。

いや、もう、疲れ切ってでしょう。疲れ切って。みんなについて、みんなと行動をひとつにできないから。まだ、一緒に行く者は、1人、残して行くわけにもいかないから、無理やり引っ張って、行かなんないしね。それらのことを含めて、自殺する心境というのは、ひどいものだと思ったね。

自殺したのは、四中隊だけで3人、自殺してるわけですが、いずれも8月になってから、なんですね。終戦の年、間もなく。

あるいは、終戦を聞いてからもかな。どういう心境だか、ちょっと判断できないですね。想像できないね。戦が終わったのに。

まず、日本軍に利用されたくないから、中国では自分で、爆破してね、壊して逃げたもんですよ。道路なり、橋なりをね。それが、そのまま少しも、修復されていない、利用されていないんですね。日本軍では、それを利用して、実際には南方から、何か運ぶ物資なんか、あったったのかね(あったのかね)、あれね。そんなふうな受け止め方をしていましたね。そして、それは簡単に直んないから、容易でないですよ、なんぼ、小さな橋だって。爆破してからはね、それが全然、直っていない。

南と北つないだって、何にもなりっこない、できっこないのはね、そのころとして、一つの言い訳的なものとしただけなのか、なんだか分かんないですよ。できもしないことを作戦本部は、大本営は考えたもんですね。打通してみたって何にもできねえ。もっとも海はね、敵の潜水艦や、その他で、危険でしたから、大陸だって飛行機、空爆がありましょう。これだって、容易でないのにね。打通なんかしたって、利用できっこない、ばかげた話なんですよ。というように思って、行きましたね。だけども、帰れることになってからは、帰ることの楽しみだけが、先に立ってね、そればかりでした。


Q:なんで、利用できっこないっていうふうに思われたんですか?

 広すぎて、大きすぎて。とても、とても広大ですからね。わたし、行ったころは、広大な中の、本当にど真ん中という感じでしたね、広すぎて。そして、南と北を結ないでみたって、簡単にはつながりっこないわけですけれども、つないでみたって、作戦本部は、どんなことを考えてるのかと思うね。ばかげたこと考えたもんだと思うね。

何のために、戦したんだすらもね、あんまり判然としないまま、帰ってきましたね。何のために、戦したんだ。そんな感じでしたね。

正直に申し上げて、これは偽りのない、ひと言ですからね。迷惑をかけた。米、ひと握りにしたって、その当時、本当に迷惑をかけどおしでしたね。やむを得なかったんだもんね、飯を食わなければ、なんなかったんだから。そして、それが、戦が終わってから、中国側から米を、与えてもらった。何十万という日本兵に、米を。

終戦になってからはね、蒋介石が、全国民に布告を出してね、「恨みに報いるに徳をもってせよ」という有名な言葉ありましたね。「恨みに報いるに徳をもってせよ」、日本人を、日本軍人を大事にしろと、いうことですから、これはちょっと、真似できないような感じはしましたね。こんなに、つまりは悪いことして、戦ですから、にもかかわらず「恨みに報いるに徳をもってせよ」。恨んではならないという、そういう、布告を出してね、全国民に。

蒋介石のそのような方針も、ありましたせいもあってね、なんの危害も、与えられないでのんびりと8か月間も。21年の6月5日に帰ってきたの。8か月間も、あれですよ、世話になってきたんですよ。それもね、量こそ少なかったがね、一定量の食料を与えられて。そして待機船、復員船の順番待ちね。食料、与えてもらっていたんですからね。中国人の心は大きいというかね。蒋介石の力があのころは強かったせいかね。今も戦友たちで集まると「恨みに報いるに徳をもってせよ」というその言葉が使われて、ああ、大したもんだったなって、言う者もいますけどね。そんなわけで、助かって生きました。復員してきました。

戦地にいてはね、帰ってきてからですよ、いろいろな矛盾を、侵略であったというのを感じたのは。あの当時は、命令が命令でしたけどね。侵略なんだけども、我々は、侵略をしているんだというようなことは、あまり考えなかったもんね。今、思うとね。

本当に申し訳なかったと、いうような気持ちですね。

戦、終わって、帰ってくる道筋、感じたことは、戦争というものは破壊だけである。建設でなくて、破壊であると。実際また、壊された橋も、壊された道路も、あの時点では、少しも直ってない、利用されていないというようなところが多かったからね。戦争は悪であるということの、考え方一つですね、今はね。むだな戦争であった、というような感じで、申し訳なかった、というような、むしろ。わたし、個人で申し訳なかった、と思ったって、しょうがないんだけども、気持ちとしては、やっぱり、申し訳なかったという気持ちは、これは持ち続けるでしょうね、わたしの生涯。

そんなことで、戦争は反対です。やるべきでないということは、これはずっと、わたしは生き続けている限り、唱えたいですね。

出来事の背景出来事の背景

【中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~】

出来事の背景 写真陸軍歩兵第65連隊、兵員のおよそ半分は福島県出身者で、幕末の戊辰戦争で官軍と戦った「白虎隊」の名を受け継いで「白虎部隊」と呼ばれる精鋭部隊だった。
日本軍が劣勢に立たされた昭和19年(1944年)、中国戦線にいた65連隊は、50万以上の兵力を投入する陸軍史上最大の作戦「大陸打通作戦」に送り込まれた。
この作戦の目標は、中国大陸を南北に貫き、東南アジアから物資を運ぶ陸上輸送路を切り開くこと、日本本土への空襲を防ぐため中国南部の米軍航空基地を攻略することだった。
昭和19年4月、作戦は始まり、1000キロを踏破する行軍が始まった。
65連隊は、精鋭部隊として、幹線道路や線路沿いを進む主力部隊の盾になるように、険しい山岳地帯を行くことになった。そのため、頻繁に中国軍の攻撃にさらされ、戦死者が増えていった。
その間、日本軍は、「長沙」、米軍航空基地のある「衡陽」を攻略するが、昭和19年7月には、サイパンが米軍に占領され、本土空襲を妨げるという目的は意味を失った。

行軍はその後も続けられ、65連隊の兵士たちは、補給が途絶える中で飢えと渇きに苦しめられた。1300キロを踏破した時点で、兵員3800人のうち、900人が命を落としていた。

昭和20年3月、大本営作戦課長として大陸打通作戦を立案した服部卓四郎大佐が、65連隊長として着任。その直後、中国北部や中部の防衛のため反転が決まった。65連隊は日本軍部隊の「しんがり」となり、撤退途上、中国軍の追撃の矢面に立たされる。さらに、米軍機の機銃掃射を受けるようになった。兵士たちの中からは、苦しみから逃れるために手りゅう弾を炸裂させ、自決する者が続出した。

昭和20年8月、敗戦。2000キロを歩きぬいた65連隊は、この作戦で1500人が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
会津若松歩兵第65連隊に入隊
1943年
朝鮮に上陸
1944年
大陸打通作戦従軍
1947年
復員、農業に従事、福島市議会議員

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