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タイトルタイトル: 「苦しみから手榴弾自殺続出」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
名前名前: 高宮 勲さん(会津若松・歩兵第65連隊 戦地戦地: 中華民国(衝陽、信陽)  収録年月日収録年月日: 2009年10月17日

チャプター

[1]1 チャプター1 岩山の行軍  04:33
[2]2 チャプター2 待ち伏せ攻撃  04:43
[3]3 チャプター3 衡陽(こうよう)の戦い  03:30
[4]4 チャプター4 桂林攻撃  05:51
[5]5 チャプター5 徴発  03:48
[6]6 チャプター6 反転  06:07
[7]7 チャプター7 力尽きた兵士たち  05:14
[8]8 チャプター8 昭和20年8月  02:55
[9]9 チャプター9 夢の中に出てくる戦友  04:47

チャプター

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まあ、山道だね。山道っていえば、自動車みたいなのはあるけねえ、人の歩く幅やっとの道路。それ、山の頂上まで歩いて。頂上まで歩くんだらいいけど、頂上まで行かねうちに、今度は、そこで全部敵が待ち伏せしてっから、銃持って。今度、上から今度はバチバチやられっからない。負傷者から、亡くなった人もいっぱいできたんだよね。

Q:その山というのはどんな山なんですか?

まあ、山だから、別に日本の山と変わりねえけんともない。大体、裸山が多いですね。木、立ってねえの。石くらだね。石だけでこう高くなって。そしていちばん頂上に石で積んで。そして今度はもうそっから陰側さ行かんにゃく(行けなく)なってるんだよね。そこの上に今度は細い道路があって、いちばん上に。そこんとこから今度は銃持って狙ってるわけだ。日本人の兵隊が来んの分かってっから。そして今度は、そばまで行ったときに、一斉射撃されるんだよね。ほんだから、やられっちまうんだよない。やっと登ってくんだから、高いからない。大体安達太良(福島県1728メートル)くらいの山だよ。そこの安達太良山あっぱい。あのくらいだね。1500~1600だね。あと、いちばん高いとこは、衡陽んとこの金魚石んとこの山もずいぶん高かったない。んだから人間はそれを細くても歩って登らっちゃんだよない。ところが今度は馬があっから。馬は大砲つけてしょって、馬登んですから。

大砲だね。山砲だの野戦重砲だのっていうのが、それ、馬につけて今度はそこ登るわけですから。山越えんのにね。

馬、今度は道狭いと、今度はたたき落ちっちまうばい。狭いから。ある程度幅ねえと馬は歩っていかんにばい。大っきな馬だからない。今度は、それ、滑って落ちて、転げ落ちちまうんだよね。バッタン、バッタン、バッタン。50メーターも100メーターも、こう、急になってから、下までドーンと落ちっちまう。

馬は目で、助けてくれよというわけなんだべ。鳴くんだから、本気になって。助けようも何しようもねえんだよ。こういう、まっきなとこだから。馬で大きなやつだからない。引っ張ったくらい、縛ったくらいではだめだし、脚折っちまってからはだめだからね。使いものになんねえから。だからそのまんま、大砲つけたまんま、そこさ置いてきちまったんです。

Q:それ、どのぐらい馬落ちたんですか?

場所によっていろいろだけんども、山登っときにはやっぱり、大体、磐梯山(福島県1819メートル)に登るくらいのあれはあったない。傾斜はね。すごい山なんだから。それも、空身で登んでねえからない。背中さ60キロ(kg)もしょってんだから。弾薬から何からいっぱい。そして、それを背負ったまま登るわけだからね。やっぱりいちばんかわいそうなのは馬だない。下で本気になって鳴いてんだけ、助けてくれってわけなんだよな。助けようも何しようもないんだわい。100メートルも200メートルも谷底さ落ちっちまってんだから。道路がねえんだからない。そういうことは毎日くらいだったよ。

1人で6発も当たった人がいるんだから。機関銃で撃たれっから。小銃であれば1発だけどもない。機関銃で撃たれると連続に出っから。だから当たったとなると、ここさ5発も6発も当たっちゃうんだよ。血だら真っ赤になってね。それで死ぬんならいいんだけど、死なねで「助けてくんちぇ」と、こうなるんだよな。そういう人いっぱいいた。

ブスブスブス、血吹き抜けているんだ。残酷で話になんねえわい、とても。それでわたしはすぐに衛生兵というのがいっから、衛生兵ね。その人は薬持っているんだよね、麻酔薬だの何だの。だから、その人を呼ばって、すぐに注射打ってもらうんだよ。苦しんでるんだから、転んで歩くんだから、助けてくれよって。そんなの、いつまでも眺めていらねえばい。だから、衛生兵に頼んですぐに麻酔薬を打ってもらう。そうすると1分か2分のうちに眠っちまうから。するとそれで静かになってね。どうせ生きようねえんだから。血だら真っ赤なんだから、体じゅう。血吹き抜けて。

山の上さちゃんと待ち伏せしているんだから。機関銃を据えつけて。重機関銃。重機関銃というのは大きいんだよ。最低4人かかんねどたんががんにんだ(担げないんだ)。それをダンと据えつけておくんだよない。それで、その上からこうやって狙い撃ちすれば、大体100発100中だね。当たっから。

Q:山から撃ってくるっていうのは、いわゆる狙撃ということですか?

狙撃です。中国の実態は、狙撃だけは大したものだからない。1発で100発100中当てっから。ぴたりと。狙われっと決まりだかんない。そうだばい。兵隊、捕虜にして聞くと、「お前、何年兵隊やってんだ」っていうと、「10年の上だ。12~13年になってる」「なんでそれで星一つしかねっていうのどういうわけな」と言ったら「いや、ご飯食べさせてもらっているから、兵隊は辞められねんです」と、こうなんです。

そういう連中ばっかりだから。十何年も射撃狙い方やっててからは、誰でも上手になるわない。日本の兵隊みたいに1か月や2か月習ったくらいなんては、とても、覚えようも何しようもないもんない。

Q:狙撃でやられるっていうことは、かなり多かったんですか>

いや、多いなんていうもんでねえすよ。おれさも死にっぱぐった、何回も。

自分は当たったのは、敵の弾にね、ここ1発貫通してね。あと、この手の間んとこ。今もこれ、つるつるになってけんどもね。

Q:指のところですか?

指のここんとこ。ここんとこ、擦過傷っていうんだいな。

Q:え、どこですか?

運がいかったんだよね。骨さちょっと触ったんだけんど大したことなかったんだ。これこれ、これ、はげたようになってっぺ。これ。ピカピカになってね。何十年も前だからね。これも敵の弾にやられっちゃんだ。ビューッと来たと思ったらバッと。石の上さ、こう。山さ登って石さ腰かけたばい。ほしたらばバーッて来たんだよ、下からね。どこにもかくにも敵いたんですから。日本軍の日本の兵隊来んの待ってるわけだがんない。

いや、それは、毎日それ不安だばい。いつ出てこられっか分かんねえから。住宅の家の中の窓からなんて、機関銃もぐられて撃たっちからは、逃げようも何しようもないからない。そうやって亡くなった人いっぱいいたよ。わたしらの中隊でなんかも、皆、小隊長から何から皆、そうやって亡くなってるから。

いや、それは、毎日不安だわい、戦しながら歩ってて、どこから弾撃ってくるか分わかんねえんだからない。いつ殺されるか分かんねえわい、それは。

衡陽のところで戦やったときは、あそこんとこは何千町分も真っ平らなんだよ。こんなサトウキビいっぱい植わって。そこんところの平らなとこで敵襲くったときなんていうのは、わたしは素手だから、手袋ねえから。畑の中、手でめど(穴)掘ったんだ。土。頭突っ込んでずっとこうやって。そして、戦終わるまでいたの。音しなくなるまで。おかげで助かったよ。ぼやぼやしてたのは、みんな多分やられちゃった。畑の土、手で皆掘ったんだ。そして、そこさざぶっと体半分くらい潜って、こう。分かっから。頭なんて上げらんにんだから、弾来て。土煙、ぱっぱっぱっぱっ。バチバチ来るんだから、弾。

衡陽の戦んときになんて、山、こんな山の上から10丁、20、30、40くれしつけておいて、上から連続に撃ってよこすんだから。山の上の上から。それ、下から日本の兵隊は突撃じゃ。突撃命令出されるんだから。行きたくなくたってだめだわい、命令だから。ずっと登っていって100メートルぐらい登んねえうちに、バタバタ、バタバタ、みんなぶっ倒れて、ひっくり返ってきっちまうんだ。上がってきちまうんだ、下から。弾に当たって。そうすると今度、別な部隊に、別な中隊にすぐに命令出すんだから。今度は別な部隊。だから、仙台から行った104連隊なんていうの、あそこで全滅したんだから。

そんとき65は、その104連隊の後、今度はそこやったんだ、わたしらの部隊が。なんせ占領するまではやめろって言わねからね、絶対に。上からの命令は、そこ取っちまえっていうんだ。陣地な。まあ、無茶苦茶だわね。

そして、そんなこといっては亡くなってる人も生きている人もいるけんども、指揮官は、200メートルも300メートルも後ろにいるんだから、おっかなくねえんだから。いちばんおっかないのは兵隊だけだからない。そういうやり方やったんだ。

弾に当たってみんなバタバタバタ死ぬんだべ。それに連続に、またそこさ突っ込め、また突っ込めって別な部隊出すんだよな。そんではとても、なんぼ兵隊いたってだめだわい。片っ端からやられちまう。

いちばんひどいのは、消耗すんのはの兵隊だけだよ。「突っ込め」って言われれば突っ込まねえわけにはいかねんだわい。反抗して、「わたしは行きません」なんて言う人は1人もいねえからの。「天皇陛下の命令だぞ」って言われると、何ともしょうねえばい。そうやって死んだ人いっぱいいるよ。

桂林攻略のときなんかは、あそこらは軍公路つって幅広い、5メーターから10メーターくれの道路あったんだけどね、舗装になった。そこんところにいたときには、日本の兵隊と、いや、中国の兵隊と中国人の周りの人たちだね、そういう人たちが一緒になって逃げたんだよ。日本軍が来たとなって。逃げたから、道路、山になって逃げたばい。それが全部せん滅作戦っていって、全部殺してまえっていう命令だかんない。だから後ろから機関銃で撃ってバチバチバチ、バチバチやっから、めちゃくちゃに倒れちまうんだよね。行って、見た人でないと分かんねえない。あのつらさは。兵隊でない普通の町民、町の人だの農家の人たちが、皆それ兵隊と一緒に逃げたから。ほんだから今度は軍のほうでは、せん滅作戦だから全部殺しちまっていいからっていう、命令出っちまったんだよない。ほんだから、それ、撃ったわけなんだけれども、わたしらはそういうこと、だれもやっち(やりたい)人はいねえんだよね。人殺すなんつうことはない。それも赤ん坊の子どもをおぶって逃げる奥さんたちもいたから。そうすっと今度はそれを、親が弾に当たって亡くなっぱい。そんときにビタッとそのまま即死で死ぬんだらだけど、生きてるんだからない。そいつの今度は子どもは、体が小さいから弾に当たんねえんだよね。それ、今度は乳首さ、死んだ親の乳飲んでんだ、本気になって。腹減って。わたしらは行くとき全部それ、かわいそうだけんども全部殺していったけんどね。置いたってなんともしょうねばい。とにかく残酷だない。上からの命令で動いてんだけど、わたしらはね。

撃てっていう命令だから、上からの。せん滅作戦っていって、一人残らず全部殺しちまいなさいっていう命令でもって動いてるわけだから、兵隊はね。上からの命令だから。そういう残酷なことはやるべきではねえとわたしらは思っていたけんどもね、これは上から言わっちゃやつだからない。言わっちゃとおり言うこと聞かなければ自分で殺されちまうかんね。反逆者になっからね。

あれは桂林から日本軍が来たってこと分かんなかったんだばい。そうよ、日本軍は夜寝ねえで進んでんから(進んでいくから)。どんどん、どんどん入っていくからね。ほんだから、今度は桂林の町、あの町も大体人口200万くらいあったからね。日本軍が来たんでは、これ、おっかねえから逃げろとなって。それ、荷物山ほどしょって、布団だの何だの、そして逃げたわけだよね。それを今度は後ろから銃撃しろっていう命令だから、これもない。早く言えば、戦争は殺しくら(殺し合い)って、ほんとにね、言うけんども。桂林からどんどん、どんどん進んでって金城江の近くまで追撃していったからない。いや、今思い出しても、とても夜眠らねえわい。

桂林から向こうさ行って戦闘やったときに、夜歩けねえときは、片っ端から家さ火つけたんだから。先に一個分隊って、14~15人ね、先兵って出すんだよ、先にね。その兵隊は何するかというと、家さ火つけ方専門だから。町ん中。すると、燃え始まると、どんどん、どんどん、1週間も10日も燃えるんだから、大きな町だから。その明かりでもって、今度は日本の兵隊が何万人も前進していくわけだ、夜。昼間は進まんにばい。敵さ見っかさっから。夜。夜はあれだよ。真っ昼間と同じだ、明るくて。どんどん、どんどん、火つけて燃やしてしまうんだから、そうたばい。誰も消す人はいねえんだから。ほんだから、中国人だってひどい目に合わせられたんでねえすか。それ、夜中の寝てっとこさ行って火つけっちまうんだから。それも、軍からの命令だからない。歩けねえんだと。歩けねえってばかな話ねえだんだと。どんどん、どんどん、火でも何でもつけて燃やして明るくして前進しなさい。何という町を占領しろっていう命令出てるんだから、こう言われるんだから。

徴発っていうけんども、早く言えば泥棒だからない。日本の兵隊は泥棒だかんない。日本の兵隊も食わなきゃいらんねえから、豚でも牛でもなんでもかんでも、見っけだすと、みんな引っ張ってきて殺して食っちまうからね。

わたしらも徴発にずいぶん行ってこいって言わっち行ったけんどもね。ほんだから豚なんかは、生きてる豚、殺して、そしてたんがいで(担いで)くるわけだばい、引っ張って。それが狙ってて、今度は支那人の人たちがそういう拳銃みたいなの持ってっから、それで狙い撃ちしられんだよね。そうして亡くなった人、いっぱいだわい。日本の兵隊。徴発に行ってね。日本の兵隊だって、飯食わねえでは戦できねえからない、ほんだから支那人の農家さ入って、早く言えば泥棒しっと(すると)同じだもんない。米でも何でも、あるものみんなかっぱらって持ってきちまうんだから。

食糧、誰もくれる人ないです。日本の国からは、わたしらは日本の米は一粒も食べないですから、5年もいるうち。日本では送ったって言うんだ。送ったっていったって、一線部隊さなんかは行くはずがねえんだよな。何年もかかって、そんな戦していったとこだべ。そんだから、いちばん手前にいて警備しった部隊が、全部自分で、自分の食糧分を取っちまって、戦地さは、一線部隊には一つも来ないです。だから、わたしらは支那人が田に植えた田んぼをね、稲うっすら青いうちに、かま刈って、それで刈っちまって、そいで今度は棒ではたいて、そいでモミにしてね。そして今度は玄米のまま食ったんです。それだって泥棒だからね。

ばあちゃんもじいちゃんもいっぱいいるよ。そして、手を拝んでいるよ、こう。日本の兵隊行くと。「アイヨー、セイサン」って、何だって。「殺さねえでくれよ」って拝むんだ、こう。そういうのおめえ殺すのは、そういうことはできねえわね。

そんときに、支那人も持っていかっちゃんでは(持っていかれたのでは)自分で食いようなくなっから、日本の兵隊来たらば、ほんじゃそれをぶっ殺してやるというような考えでもってみんな拳銃持っていたです。それで亡くなった人がいっぱい。そばまで行ってね。目の前まで来るまで待ってんだから。拳銃隠して、ここにね。それ、ほんでポンと出して撃たれっと、たまんねえわ、1回で決まりだわい。

命懸けですよ。食わなければ戦できねえばい。ほんだから、おめえ、命がけで食糧徴発に行くわい。出ていくわい。そうすっと今度は敵にみっかさっと(見つかると)、敵から撃たれっから、行ったまま帰ってこないっていう兵隊がいっぱいできちまうんだよない。そしたら、みんな殺されちまうんだよね。向こうでは日本軍の、日本の兵隊来んの待ってるわけだから。まだ泥棒に来たから、来たらば、そこまで来たときに殺しちまえとなって、皆、待ち伏せしてるわけだから。そいつにぶつかっと1回で決まりだわい。

五旗嶺。あそこで、みんな、子ども(少年兵)だよ。なんせ12~13か、15になったのいっかな、小さこい。ほれがおめえ、手りゅう弾持って日本の兵隊んとこさ突入してくんだから。突っ込んでくんだから。子どもだよ。蒋介石の兵隊がそういう教育を受けていたんだよね。子どもだから言わっちゃとおり、正直だから。手りゅう弾、それでもって突撃しろって言われっと、子供だから、正直だから、日本の兵隊んとこさ突っ込んでくんだ。こんな小さこい子どもだよ。それが何万人もいたんだから。すごいですから。手りゅう弾の投げ合いになっちまうんだよね。手りゅう弾、その子どもたちが投げてくんだ、日本の兵隊んとこさ。それで今度はすぐに、逆に今度は向こうさ投げ返してやんだよね。破裂しねえうちに。こういう柄付いてる手りゅう弾だから。柄付き手りゅう弾っていってね。だから普通こっからこうやって投げっと、50~60メーターだばい、普通この辺に投げてもね。柄付いてっから3倍くらい遠くまでに飛ぶんだよ、バーッと。それでもってずいぶん日本の兵隊やられましたよ。わたしらも1回ここけがしたときに、五旗嶺のとこで、子どもたちの兵隊ね、それやらっち。わたしらもやっぱり死にたくねえからない、命懸けだ、逃げたばい。山の上から下まで200メーターもあっとこ、ころころ転んで。立ってたらば完全にやられっちゃうから、ぶたれっから、上からね。山の頂上から機関銃でぶってんですから。

それがおめえ、12~13の子どもだよ。子どもだから、あれ、言わっちゃとおりにやっぱり本気になってくんだべない。

あそこにいた中国の兵隊は強かったよ。大人でねえんだから。なんせ中学1年か2年くれえだない、ここで言えば。それ子どもたちだ。そういうの山ほど置いて、こうして日本の兵隊んとこさぶっ込んでくんだ。やらせてくんだよ。どんどん、どんどん攻めてくんだよね。

大体あれだわい。今の、銃の名前は忘れちゃったけんどね、チェコっつうのかい。チェコ銃なんてのがあったんだよね。軽くてね、弾1回20発くらい入るやつ。ほんで1回に20発くらい出んだよね。それが全部アメリカのほうで渡してくっちゃんでねえすか。金魚石の戦闘ときなんかは、米軍の飛行機ね、爆撃機来て。そして日本軍のところさ、日本と支那の兵隊で戦やってっぱい、そこにおめえ、あれだから、食糧から弾薬から飛行機の上から、どんどん、どんどん下ろしてよこすんだ。低空して。荷物。弾薬から食い物からね。アメリカの兵隊、毎日来ったよ。

とにかくアメリカの兵器はいっぱいいたね(あったね)。戦車なんか全部アメリカですから。

アメリカの飛行機なんていうのは精巧にできてっから低空してくるんだない。100メートルから50メートルくらいのところ飛んでくるんだから。そうすると、音、聞こえないんだよね、山の合いから来っと。何も音しねえでてもヒューッと出てきて、今度は上から、おめえ、機関銃の銃撃だから。だから、駄馬部隊の馬なんかは、背中さ荷物いっぱいしょったまま体中が穴だらけになって。アメリカからはずいぶん飛行機でやらっちゃわい。

Q:行軍していて、倒れたり戦死したりする方を弔うこともあるというふうに伺ったんですが、腕を切ってですね。

ああ。腕切って持ってくるのに。指ね、大体はね。腕だ何だ切ったら今度は大きくてたんがいて(担いで)歩かんにべ(歩けない)。だから指切って、それで、ご飯炊くときに、はんごうのご飯たくときの火の中さ指と骨をそっくり入れっと、焼けて骨だけ残っから、それを袋に入れて、名前書いて、階級と名前を書いて、そして背のうに入っちしょってきて、そして内地まで持ってきたんだよ。

大体は火葬なんかはしねえない、戦地では。そんなことやってる余裕がねえもん。下手に火葬なんかして煙なんか出したんでは、すぐに飛行機に一発で見っかさっちまう。

道路の歩くとこで、自分で今度は、この首ね、首かけして、木さ、自殺している人もいっぱいいだったわい。食い物はねえべし、どうにもしようなくて、今度は自分で首かけしちまうんだよね。木さワイヤーかけて、グッとシブかけてぶら下がってんのはしょっちゅう見てたね。戦っていうのはこういうわけなんだなと思ってない。

Q:それ、日本軍がですか?

日本軍もいたです。日本軍では拳銃で、いや、手りゅう弾、あれで自殺したのいっぱいです。食い物はねえべし、腹は減っぺし、歩けねえばい。今度は命令はどんどん、どんどん、前進しろっていう命令が上から電話で来っからない。そうすっと、歩けねくなった人は、皆、置いてくるしかねえんだわい。連れて歩かんに(歩かれない)から。そいで(仲間が)今度は山から、道路からちょこっと離れて、今度は「トイレに行ってきます」なんて行くんだよね。行ったと思うとダーンって。あ、これはやったなあと思ってない。行ってみっと体ねえんだ、吹っ飛んじゃって、全部。手りゅう弾抱いてやっからね。手りゅう弾っていうのは、こう、これくらいのあんだけれどもない。鉄のかたまりだから。それは編上靴、革靴だない。編上靴の底さバチーンとぶっつけっと火出っから。3秒以内に投げねえと自分で自爆すんだかんない。そいつを今度、投げねえで今度は腹が抱くんだよ。そうすっと1回で何もなく吹っ飛んじまう、体バラバラに。手も足もみんなバラバラになってね。そして早く言えば自殺だべない。自分から自殺、そういう人はいっぱいいたわい。戦、戦闘中。普通の山でなくても、普通の道路でも。食い物はねえべしない、前さ出ろって命令で歩くんだからない。歩かねえ人はやっぱりみんなに迷惑かけてなんねえから置いていってくださいと、こうなんだよな。置いていかれた人はそんで終わり、全部。助けようも何しようもないんだべない。そうやって、わたしらみてえに健康な人だって、自分の体やっと歩ってんだかんない。人助けっとこでねえわい。戦争つうのはそういうもんでねえすか。

食い物はねえべ、腹は減っちまうし、歩かんにべし。今度は水だの何だのねえからない、泥水でも何でも構わないで飲むばい。そうすっと今度は赤痢になっから。1回で決まりだわ。下痢しちまって、そんじ(それで)終わり。薬も何もねえから。赤痢にはずいぶんなったよ。泥水飲むからない。中国の山ん中、割合にこの泥水が多いんだよない。そうすっと、今度はのど乾いていられねえから、それ飲んじまうばい。そうすっと、今度はその赤痢の病菌が腹さ入るんでねえすか。

話になんねえ。話になんねえ。みんな歩っててぶっ倒れちまうんだから。道路端さ。ばったり倒っち。「どうした」て言うと、「いや、先に行ってください」って。そして、そんじ終わりだからね、そんじお別れだから。誰も迎えに来る人いないんだから。

そして、そういうふうになっと、自分で、病人で歩かんに人はね、覚悟しているから、いつ死んでもいいっていう気持ちになっからね。それでも、手りゅう弾で自爆する人はよっぽどいいほうなんだよ。自分で手りゅう弾抱いて自爆しちまえば、それで終わりだからね、死んちまえば。痛い思いして、おめえ、生きているよりは、そのほうがいいかもしんにの(しれないの)、あれは考えようではね。

Q:しかし、死ぬより歩くほうがつらいんですか?

いや、つらいわい。死んだほうがいいっていうことになるんだよね。つらいなんていうもんではねえわい。その本人の身になってみるとね。食い物はねえべし、足は痛てえべし、体じゅう痛べえし。

アメリカの飛行機はビラをまくんだよな。日本語で書いたやつ。日本の兵隊いっとこさ。戦は終わったんだから弾を撃つなって、ビラ撒いたんだよ。終戦になったとき。わたしら全然分からなかったべ。ベラベラベラ、こうこう下ろしてよこすんだっけ。戦は終わったんだ。「なるほど、弾の音しねえや」なんてみんなして笑っていたんだよな。「じゃ、日本で勝ったんだわ」なんて。勝ったでねえべない。めちゃくちゃにたたかれちゃった。

Q:作戦の意味っていうのはまったく知らされていなかったんですか?

わたしらにかい。いや、わたしら兵隊には、そういうことは分かんねえわい。全部秘密だもの。

Q:この戦いは、いったいどこまで行くんだとか、目的地はどこかというのは分からなかったわけですか?

分かんねえない。日本で、あのころは戦に勝っていたからない。勝てばいいんだっていう考えでもって言われるとおり皆動いったけんどない。

何で歩いたんだか分かんねえない。わたしらは極端に言えば命令でもって歩かせらっちゃって言うしかねえんだよな。上からの命令でもってな、歩かせららっちゃんだって。歩くだけだらいいけんどもない、今度は戦しながらだからない。いつ死ぐ(死ぬ)かわかんねえんだから。弾どっから来っか分かんねえからない。

負ける気もしなかったけんどね。だから、終戦になったときに、日本に負けるはずねえって言ったんだよな。わたしらこれほど骨を折って戦して、こうやって、そして土地占領してきたんだから負けるはずねえって言ったのを、負けたって言われてがっかりしちゃったけどね。

疑問はあったってね、なじょにも言うようも何しようもねえんだよ、わたしらみたいな普通の兵隊ではな。偉い人はいろいろ作戦を練ってやっていることだからね。わたしら兵隊の、下っ端の兵隊までそういうことは徹底しねえから分かんねえわ。上からの命令だけ聞いていればいいわけ。

終戦後、今度はそれ、上海まで下がってくるまでの期間、何年もかかったんですから。そんときに栄養失調になっちまってない。途中で自分で自殺した人が大変だったない。

んだ。夢に出てくるんだよな。しばらくだったって。だから、生きてんだとばっかり思って目が覚めるときがあるんだよな。

はっと思ってない。「あらら、これ、とっくに亡くなって、これ昔の人だな」と思ってっけんども、時々そういうのは出てくんない。

やっぱり、いっきゃって(行き会って)話してみてえとか何とかっていうことがあるんでねえすか。仏様はね。時々わたしも、一年じゅう、5~6回は夢に出てくんない、そういう人。とっくと忘っちた人がひょっと出てくるときがあるない。だからやっぱりお墓参りしなくてなんねなあと思って。

同じ一緒に行った兵隊の中で亡くなった人いっぱいいっぱい。そういうのが夜になると出てくるんだよね。

やっぱり、同じくそうやって戦で骨折った人が出てくるっていうことは、おれはありがてえと思うからね。だから、墓参りはしなくてなんねえなと思ってっからね、いつまでも。

やっぱり一緒に戦やって、苦労して弾に当たって亡くなったんだからない。やっぱり慰めてやんなくてなんねえというのがいちばん頭にはあるんですね。それと、時々それを見たりまったりすると、夜なんか大声出して、それ、顔さ出てくるんだよな。そうすると、今度、話なんか語るときあるんだよ、死んだ人とない。捕虜になって死んだ人、いっぱいいるんだから。わたしの部隊の中で。わたしの中隊の中に。

そういうことは絶対わたしは話しねえからね。その家の人たち泣かせるだけだべ。おらえの息子、捕虜になって殺さっちゃんだぞなんて、そんなこと分かったら大変なことになっちゃうばい。だから、わたしはそういうことは絶対しゃべらないことにしておくんだ。

全部分かってるけんちも。皆、そういうのいっぱいいたんだから。何千人って、捕虜になった人。

そして今度は、戦の盛りに弾に当たってけがすっぺ。そうすると支那の兵隊は、そういう日本の兵隊のこと、全部重慶まで送っちまうんだから。担架で。車で。そして、それを全部治してくれるんだから。

日本の兵隊はそんなことしねえよ。片っ端からみんな殺しちまうから。

まあ、犠牲になって亡くなった人はいちばんかわいそうだわない。わたしらはこれ、何とか生きてきたからない、そういうこと語っていられるけんちも、死んだ人は何にもねえんだからない。だから、しょうねえから自分の戦友のうちさは行って線香でも上げるしかなくなっちまうね。なじょにもしようがねえんだんない。わたしはお参りに行って、その家のお子様に泣かっちゃこと何回もあるよ。「おれえ(わたしの家の)の誰々は何して死んだんだい」って。おれ、聞かれたって何ともしようねえんだよな、おれ親方でねえんだから。「弾に当たって死んだんだ」って言うしかねえんだよな。

まあ、絶対に、これからは戦争だけはやってもらいたくないと。わたしら自分で苦労したからない。

やってならないというわけだない。そういうひどい目にあうんだからね。それを、これから子孫の人たちがまた同じこと繰りけえす(返す)んでは、かわいそうだわない。わたしらは、それ、戦やってきちまったから、まあ、やむを得なかったけんどない。できるなら、誰もあんなとこさ行きてえ人はいねえよ。弾来る中さはない。1発当たればそんで決まりだから。早く言えば、絶対戦争だけは繰り返してもらいたくないと思うない。

出来事の背景出来事の背景

【中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~】

出来事の背景 写真陸軍歩兵第65連隊、兵員のおよそ半分は福島県出身者で、幕末の戊辰戦争で官軍と戦った「白虎隊」の名を受け継いで「白虎部隊」と呼ばれる精鋭部隊だった。
日本軍が劣勢に立たされた昭和19年(1944年)、中国戦線にいた65連隊は、50万以上の兵力を投入する陸軍史上最大の作戦「大陸打通作戦」に送り込まれた。
この作戦の目標は、中国大陸を南北に貫き、東南アジアから物資を運ぶ陸上輸送路を切り開くこと、日本本土への空襲を防ぐため中国南部の米軍航空基地を攻略することだった。
昭和19年4月、作戦は始まり、1000キロを踏破する行軍が始まった。
65連隊は、精鋭部隊として、幹線道路や線路沿いを進む主力部隊の盾になるように、険しい山岳地帯を行くことになった。そのため、頻繁に中国軍の攻撃にさらされ、戦死者が増えていった。
その間、日本軍は、「長沙」、米軍航空基地のある「衡陽」を攻略するが、昭和19年7月には、サイパンが米軍に占領され、本土空襲を妨げるという目的は意味を失った。

行軍はその後も続けられ、65連隊の兵士たちは、補給が途絶える中で飢えと渇きに苦しめられた。1300キロを踏破した時点で、兵員3800人のうち、900人が命を落としていた。

昭和20年3月、大本営作戦課長として大陸打通作戦を立案した服部卓四郎大佐が、65連隊長として着任。その直後、中国北部や中部の防衛のため反転が決まった。65連隊は日本軍部隊の「しんがり」となり、撤退途上、中国軍の追撃の矢面に立たされる。さらに、米軍機の機銃掃射を受けるようになった。兵士たちの中からは、苦しみから逃れるために手りゅう弾を炸裂させ、自決する者が続出した。

昭和20年8月、敗戦。2000キロを歩きぬいた65連隊は、この作戦で1500人が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1941年
会津若松歩兵第65連隊に入隊
1942年
中国へ上陸
1944年
大陸打通作戦従軍、マラリアにかかり、野戦病院入院
1946年
復員、農業に従事

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中華民国(衝陽、信陽)

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