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タイトルタイトル: 「殿軍にせまる中国軍の追撃」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
名前名前: 小泉 保清さん(会津若松・歩兵第65連隊 戦地戦地: 中華民国(衝陽、信陽)  収録年月日収録年月日: 2009年10月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 道なき道を行く  05:44
[2]2 チャプター2 分水嶺の戦い  06:00
[3]3 チャプター3 突撃と狙撃  02:32
[4]4 チャプター4 戦死者をどう弔ったか  02:31
[5]5 チャプター5 空からの攻撃  01:52
[6]6 チャプター6 戦闘より恐ろしい行軍  05:13
[7]7 チャプター7 現地調達  02:41
[8]8 チャプター8 負傷  07:08
[9]9 チャプター9 反転命令  02:15
[10]10 チャプター10 追われる恐怖  02:24
[11]11 チャプター11 極限状態の行軍  03:09
[12]12 チャプター12 終戦  03:32
[13]13 チャプター13 軍馬との別れ  02:36
[14]14 チャプター14 戦争がもたらしたもの  02:34

チャプター

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山道って、道がねえわけだ。ただ、命令のままだべ。

いわゆる、師団命令、連隊命令、大隊命令、そして今度、大隊から、中隊のわたしらのところに、命令が来るわけだ。その命令は何月何日までに、あの陣地を攻略して陥落させろと。そして、それが終わったら、次のどこどこの町。あそこらも土民が、いや、(中国)軍がいっから、これも陥落させろと。何かまず、命令もらうんだよ。だけど、そこまで行くのに簡単にこう行って、行くわけでねえからね。途中、陣地もあれば、道路だって、どうなってっか、分からねえべよ。結局、まっすぐ行くきり、ねえんだよ。

(中国南部の)湘桂作戦はどこの部隊も、ほとんど市街戦なんていうのは、衡陽とか、金魚石とか。あとは、分水嶺とか、分水嶺は山岳戦だけんども、衡陽戦くらいだよ、市街戦は、町、やったのは。中国もそこまで行く間の途中に、陣地構築して、われわれが来る情報が入ってんだから。そこで待っていて、待ち伏せかけて始まる。これが、ほとんどなんだよ。だから、道のねえとこ、山、山の中腹もあれば、谷底もあっぺし、で、登りつめてまた下さ、降りたったり、そうやって道のねえ所、なるべくその目的地にいちばん近い、最短距離でもって行くと。

いやあ、しかし、中国ってところには、これ、道ねえのかなと。どこまで歩いても、1年歩いても、道がねえんだと。あれ、だけど上海だとか、武漢とか、南京あたりとか、ああやって立派な街、あっぺよ。道路もあっぺ。ああ、山さ、入っちまうと、こういうものなのかなと思ってしまうけど、ところが、あんのはあんだ、道路。あんだ、軍公路っていって、既存の道路が石畳してあんだ。軍用道路っていって。その道路だって、1メートルくらいの幅だから、これが軍公路っていうんだ、軍の管理している道路だから。そこさ、石畳、敷いてあるんだけど、それがとても、とても、平地だから、我々の戦闘の目的地まで行くまでには、そんなことやっていたんでは、いつ到着するか、分からねえから、そんで、命令としては最短距離を選べと。いち早く、陣地を陥落させろと、ただそれだけの命令だから。だから山越えても、谷越えても、いちばん近いところ歩くのが、それきり、方法はないっていうこと。

もちろん、足を踏み外せば、今、言ったように馬のように下に、谷底に落ちる場合もあるよ、そういうところも、歩いているから。だけど、兵隊はひとりだから、わが身だけだから、つかまりながら、たとえば、こういうガンケン(崖)なところでも、つかまりながら、歩いて行かれっけど、んだから馬はそういうところ通れないから、少しでも柔らかなところ、我々はこんな急なところ、なんでも、つかまって歩いてっちゃうけれど、だから、馬は平らな所から、上がってくると。そしてお互いに、こう、かばい合い、助け合いながら、こう、山岳戦っていうのはそれなんだ。

いちばん苦しいってことは、ちょっと話したように、行軍中に、下痢、やっちゃった。このときは四苦八苦だった。戦闘、戦闘で行軍、行軍だから、いや、おめえは待ってろってことは、許さんねえから、

行軍で、疲れていっぺし、いやあ、どうでもいいやってことになって、垂れ流し。ただ立っているっていうか、ふらふらって。

しからば、入院しろと言われれば、入院すれば、病気なんとは、病院では相手にしないから、そっちのほうに置いておかれっから。この夏、マラリアとか、下痢とかで、入院すっと、帰ってこらんに。そんなことから、おれたちの班長はこの間、言ったように、「入院すんなよ」と、言って。

もう、その行軍がいちばん、4日くらいその行軍が続いたときにはもう、死んでんだか、生きてんだか、分かんない。もう、どうなってもいいという、いちばんつらかったな。

その、分水嶺に行くまでの間、わたしは指揮班にいたから。指揮班に。だから、こっちのほうの、金魚石とか、ここまで来る間の戦闘は3~4回、あったよ。そこでも犠牲、出している。だけど、この分水嶺っていうのは、山岳戦だよ。山。その山がこんど、命令は結局、この山は夕方かけて、明日の朝、頂上まで上がれっかどうかだから。そして、頂上さ、いっても飯ごう炊さんもできないから、下で、1食、2食携帯、夜めし、ここで食って、あと飯ごうさ、いっぱい炊けと。そして、明日の朝と、お昼までもてば、山越えられっから、と。

そういうわけで、下で飯ごう炊さんやって、夕方、登り始めた。そのときは、もう1大隊やっているんだ。われわれは2大隊だから。さあ「出発準備」って命令、来たから、山を登り始めた。だからもちろん、おれら本科といま言った、機関銃中隊というのが配属だから、いつも。あと山砲も来るし。山砲はあとからだけど、機関銃と、われわれ中隊は、一緒になって、俺ら、先頭だけんど、山、登ったわけだ。その山だって、道でねえんだよ。木、生えているから、その間々を縫って。急には登られないから、間々を縫って、登って行った。で、今の機関銃中隊の連中らは今度、馬さ、機関銃を積んであっから。

で、それを分解して、はずして、みんなで担ぎあげて、いったんだけども、そしたときに、上り詰めたら、もうちょうど3時、時間的に2時、朝方の3時ころかな、ちょっと、うすらまわったとき。よく市街がみえないような、状況だから。だけど、靄(もや)かかっているのかな、なんて考えて、頂上さ、登っていった。そしたら、みれば、全然、山の状況、1大隊ここで、苦戦したっていうけど、なんの状況も見えないんでねえかっていうんだよ、靄かかって。霧かかって、どっちが高い、どっちが低いも、分からねえから。で、頂上まで登っていって。そして、夜があけてきて、おれら頂上さ、登って。

そのうち、今度、明るくなって、霧がバーッと、晴れた。ほしたら今度、一斉に向こう、敵の陣地、一段高いんだよ。こっちの、俺ら上がっているところ、低いんだよ。丸見えなんだもん。ほしたら、一斉に、ぶちこんで寄こしたの。ほら、危ねえとなって、一旦、下がれとなって、そっち側さ、下がっちゃった。

敵に、当たんねえようにね。そして、ここで今度、戦闘隊形ととのえて、命令もらって。それが、おれらの6中隊が先兵中隊だと、これは正面攻撃せいと。

もう、いやいや、すごいんだ。やたら人、丸見えだもん。あそこ誰いるも、彼いるも、まるまる見えるんだもん。こっちはしょうがねえから、地形物を利用しながら、なるべく敵に見つかんねえところさ、銃を据えたり、あるいは、状況を見たりしてやっているんだが、なんとも、出れねえんだよ。出れば、全滅くっちまうから。そうやって、だいたい何時ころだあれ、2時、3時ころまで、あれやったっぺ、夜明けから3時ころまで。

だいたい3時ころになったら、敵のもう、あまり攻撃してこねえんだ。谷間なんだから、谷間から今度、手りゅう弾、持って、ヤーッって、わんかん、わんかん、おれらさ、ぶん投げてくるんだから。それも3時ころになったら、静んだな。で、「よし、ここからだな」って思ったら、今度、連隊命令で、6中隊の「尖兵中隊はなにやっているんだあ!」って、どならっちぇよ。そのときの中隊長、山崎っていったけど、よしこれはもう、ここがそうかって言っただけで、今度、軍刀を抜いて突撃命令。「突撃!」って立ったとたんに、狙撃されちゃった。腹部と胸部と、2弾くらい、入ったんでねえか。

んで、なんとか、かんとか敵を追い込めて、まあ日没ごろになって、戦闘終わった。ちょうど、夜明けから、日没まで撃ち合いだよ。そこで、おれらの中隊では、今、言ったように中隊長以下24名の犠牲者、出しちゃった。下士官3~4名か。下士官3名、伍長、軍曹級。それから中隊長、それから大越小隊長と、あと兵隊17~18名、それだけの犠牲、出しちゃったから。

(突撃は)無茶、無茶ですよ。もう敵が、どんどん攻撃しているところさ「突撃!」なんて言ったって、たいがい、分かっぺ。向こうで待ち構えていんだもん。どっから日本の兵隊が撃ってんだか、どこに潜んでんだか、向こうから見えんだもの。そこ狙って、彼れは撃ってよこすんだっぺ。そこさ、立ち上がって軍刀振ったくらいでは、決まったもんだっぺ。だけども、日本の軍隊っていうのは、そういう仕組みだから。「危ねえから行くなよ、撃たれっちまうかんな」なんて、そんな生ぬるいもんではない。いち早く、敵の陣地をまず、取ること。それには犠牲なんてのは、2、3の次だと。それが、日本の軍隊の仕組みだもん。後退はしてなんねえと。


Q:中国兵の狙撃っていうのはかなり正確だったんですか?

いや、精密だ、これは。これ、ひとつの、それ専門に扱っているやつがいるんだ、狙撃兵っていうの。日本にもそういうのあったけんども、日本では攻撃一方だから、狙撃兵でなく、まともに攻めていくから。中国には、そういう狙撃兵っていたから。これは優秀なんだから。だいたい、その狙撃兵になるくらいのは、下士官級っていって、5年兵。中国は4年、5年兵が狙撃と、機関銃の射手なんだから。日本みてえに、2年兵あたりで、射手やっているのはいねえんだから。4年、5年兵で下士官級だから。みんな、しょっちゅうやっているの。だから、これに狙われっと、もう100発100中って言っても、いいくらいなんだ。

中国の狙撃といえば、まあ文句なしだから。外には絶対、それないから。余程、こっちが動いて、物が動いていれば、なかなか照準が当たらねえってことはあるが、少しきりの動いているのは、計算で分かっから。今度、こっちが10センチずれれば、また今度10センチ、そこらを中心にしてやるから、すばらしいんだよ。感心しちまうんだ。


Q:狙撃兵は主に、どういう人を狙ったんですか?

 だいたいは、どこでも同じくね、指揮官。指揮官を狙うんだ。

Q:戦友の方が亡くなると、どのように弔ったんですか?

 一線だから、亡くなれば、ぶん投げてこらんねえから。

やっぱり、同情しながら成仏しろよとか、なんとかやって、ただ、腕まくって、帯剣ってあるからね、それでさっと取れば、はずれっから、腕一本なんて、軽いようなもんなんだよね。ところが、これ実際、ここからはずして、これ1本だけって言うと、相当、目方あんだよ。

三角巾って衛生兵の袋、医療あっから、それさ、くるんでこの背のうさ、あげて、で、縛って。行軍して、次の大休止まで、それをみんなで背負って、そして大休止になったところで、みんなそれを集めて、そして山から木を採ったり、石油とかなんかねえから、で、山の木とか、ボタを集めて、じゃんじゃん火をたいて、そこさ、この骨を並べて、そして骨にしちまう。

おいらの場合は、この骨は「小泉保清」と、この骨は「ウエダ・タロウ」とかって、この骨は「ヨシダ誰それ」とか、みんな、印をつけてね。間違わねえように印をつけて、そして、ひとつの箱の中に入れて、5人とか8人分を入れて、そして連隊本部さ、送ってやる。

ここからではかなり重いし、作戦行動してっから、まあ、どこまで行ったら大休止になっか、分かんねえから。だんだんには、まあここでいいやなんて、班長命令で、まあここで落とせって。で、だんだんそれも重くなったんで、手首だけでいいだろ、骨さえあればいいんだからと、いうようなことも、最後にはなってきたけど。

そんな戦友だからっていう、同情で、ただ、ぶん投げて放っておくわけにはいかねえから、そして骨を帰すべと。いうのが我々の戦友愛だ、やっぱり。

昼間、歩けなくなっちまった。もう爆撃でなく、爆撃も来たけんど(米軍の)戦闘機が。

その操縦士が、マフラーをなびかせて、ロイドメガネかけてウーンとこっち見て、くんだから、ウーンと。おれらはそれ、稜線の山さ、退避したつもりになっているんだ。「ああ、いかった、いかった。大丈夫だ」。ほうすっと、2分もたたないうちに、帰ってくんだ。行くときにちゃんと見て、行ってんだ。ほうして、そこさ来っと、ビュービューッ!と、弾、流すように機関銃で撃って。いや、あれにはまず、参ったな。

夜、行軍していて、そして、そろそろ夜が明けてくるから、もう敵のグラマン機が引っ掛かるから「もう陰で休めえ」って伝達、出すんだよ。「はい、分かったあ」なんて、そして夜が明けてきたから、退避しっかと、思っているうちにバアーッと来た、2機編隊。「ほれ来たぞう、逃げろお」って言ったぺよ。そして、なんとかかんとか、俺らは体、ひとつだから、自由になっぺよ、そしたら、機関銃中隊は馬いっから、馬、早くなんて言ったって、そんなにはね、できないから。ほんで、馬を移動しっぺと思っているうちに、戻ってきちゃった。ほしてバーッと往復。あそこで、機関銃中隊、あらまし全滅になったくらいだった。

山も谷も関係ねえっていう。だから雨の日も、雪の日も、関係なく、傘さして歩いているわけでもねえ、かっぱ一枚、かぶせらっちぇるだけだから。

ここ、だぶだぶ水入っちゃう。仕方なくて、ここ、びゃうって、絞り落ちて、そうやって歩いたんだ。そうすっと、靴ん中がふやけちゃって、ぐずぐずになっちゃう、年中、水の中がっぽすっぽ、がっぽすっぽって、やっているから、そうすっと、皮がむけちゃって、血が噴き出してんだ。それだって、歩かなくてはなんねえ。歩いてしまえば、そんなことねえけど、1回、休んじまうとこんど、いざ出発となったときに今度、これが痛くてよ、飛び上がってそのうちまた慣れてくる。

苦しくなって、最後は中国の土民に綿とか、何かあっから、中国は綿、豊富だからね。そういう布団切れや、綿をむしってきて、そして、この靴の底に綿、敷いて、ほで、指と指の間に綿、絡めて、そして歩いたんだ。そして、なんとかかんとか、耐えていくべとなった。

そこ火が燃えていて、向うさ、行くの危ないと。だけども「そんなこと心配するな、そこ飛んで行け」と。いやあ、煌々と燃えているんだもん、そこさ、行ったら、衣類に火ついたら、火焼けしてしまうでねえすか、というのが普通だっぺよ。そんなこと、文句ねえ「行けと言ったら、行け」命令だと。

誰も、そんなところに行きたくないべ、今、言ったように、もう靴の中、血だしながら下痢で、ごたごたにしながら、そんなこと、想像つかないよ、地方では。そんだって、逃げるわけにもいかんべし。死ぬまで、死ぬまで歩かなくてはならないべよ。

だから、それほど戦闘なんていうと、恐ろしいとも、感じなくなっちゃう、頭がそうなっているから。むしろ夜、昼、寝ずに行軍させられるんなら、敵とぶつかるといいなと。そうすれば、少し楽になる。歩くことねえから。そういうことも、一度、あったんだよ。「よおし、いいぞ。今度は少し休まれんな、やるめら」なんて、そんなこともあったけどもね。


Q:敵とぶつかったほうが、休めるんですか?

 もちろん、前に敵、いるんだもん。その敵を追い出さなければ、前進できねえもの。んだから、結局、敵と遭遇すれば、戦闘になる。歩くよっか、楽だって。

敵の弾は来るよ、それは。そんなことは無関心になっちまうんだよ、2年も3年もやっていっと。「おっかねえなあ、また、弾くんでねえかなあ」なんて、そんなこと、関係ねえ。2年兵、3年兵になってくると弾、弾の音でもって、遠いか近いか、あるいは、右から来てんだか、今の弾は右だなとか、待てよ、今の弾は左だなとか。あれっ、今の弾は近くにいて撃ってんなとか、遠くから撃ってんなっていうのが、分かってくんだよ。

大体、敵のいるところの距離が、だいたい、弾の音で分かるようになってくんだ2年兵、3年兵になってくると。最初の初年兵のころは、わあんとなってくっと、亀のこみたいにおっかながって、それきりないんだ。


Q:そういうのの、怖さより、歩くのが大変なんですか?

 大変だ。これは誰も、同じでなかったけ。あの湘桂作戦で苦しかったのは、あの行軍ではなあ、と。あれほど歩かされたんだもんな、と。これがまず、最初に出てくる言葉でねえかな。早く、そこらに敵でも、いないかなと、いうくらい、戦争2年、3年、体験したものは、そういう考えになんでねえか。だって考えてみろ、おめえ、足の底、赤真っ赤になって血、噴き出してんだよ。皮がふやけてすれちゃって。それを歩かされて、たいがい、ほんとになんて言って、分からねえくらいだから。

風呂なんて入らねえ。ひげなんかもそることないから。頭もそのとおり、衣服も同じ、ぬたぬたになっている、つらつらになってんだ。そして、初めて30日から、40日くらいの戦闘を、やっていって、そこで早く言えば、休養のために、「大休止、1週間」とかってこう、軍から命令、下るわけだ。まあ兵隊も、苦労しているから、疲労困ぱいしているから、この辺で少し、休養させっぺというのが大休止といって、1週間とか10日とか。それが楽しみだった。だけんどそれで、10日間なら、10日間の糧秣も確保しねっかならねべ。またさっそく、では各班ごとに、もう糧秣を確保してきて。たぶん、1週間はここで、滞在しなくてはならないし、軍から糧秣、くるわけでもないし、向こうは決まっているんだ。で、みんなその辺から、だいたい、2里四方くらいの、わざわざ警戒しながら、土民ところ。

軍では「調達」っていう、うまい言葉を使って、そして賄えってことは、金を支給しないから、買うこともできねえべよ。なんぼでもあんだ、豚、1頭100円するやつを、10円でもやればいいんだよ。そうすれば調達で、略奪にはならねえんだ。だけども、そんな金、ないから、結局は自由自在にかっぱらって、食えという意味なんだっぺよ。

「おい、お前の中隊、あそこの部落だぞ、あめえの班、あそこだぞ」って、みんなで分散して兵隊が各々略奪に入るわけだ。でな、「おめえは米、あとおめえは豚肉、鶏でもいい、あとそれから、おめえは調味料、みそか塩、あったら持ってこい」と。「後の残りは、おめえらここで、火をたいていろ」と。

わたし、軽機関銃持っていたから、射手だから。「小泉な、あそこに鉄道線路、あんだよ、そのこっち側にわたしら、一個小隊があんだよ。で、敵は向こうなんだよ。その、鉄道線路、俺が越えて、下さ、いって、敵状を見っから、ほして、“軽機前へ”って言ったら、来い」と。軽機関銃、持ってっから「はい」なんていった。そして、いたら彼が、鉄道線路越えて、降りて、敵状、見たら命令が来たから、あっ、となって、班長が越えたとこ、わたしも軽機関銃、抱えて、越えようと思ったところ、ワーンときた。狙撃で足やられちった。それがもう、立とうと思っても立てねえんだもん。あれ、なんかしたのかなあ? たいした痛みも思わねえで。ただバーンとはたかれた程度。あれえと思ったら、動かねえから、今度、鉄道線路から、ごろごろっと転がって。ほで、班長に「いやあ、やられちゃったあ」って言ったら「どこ、やらっちゃんだあ?」って来てくれて、そのうち、こっちの右だけど、ふくらはぎこっちからポーンって、こっから、内から、入ったやられた、弾って、どういうわけなんだか、こっちゃくるわけなのがここさ、通しちゃったんんだ。

「ああそうか、これだ。よし分かった」なんて言っているうちに、もう、ガス壊疽(えそ)くっちゃった。ガス壊疽、なりがちなんだ。ほうしているうちに、だんだん腫れちゃって、このズボンも抜けなくなって、軍靴も抜けなくなっちゃった。そんで班長は「よおしいい、帯剣で切っちまえ」帯剣でこのズボン、割いて、軍靴も、ひもでこう縛ってあるからね、ひも全部、切って。ほで、はずしてくれて、3か所にガス壊疽。上さ、あがんねえように、班長がやってくれた。これだけはどうにもなんねかった。傷の痛みはそうでもねえんだが、戦闘の役には、立たねえわけだ。足だから、歩けねえから。これだけは、困ったな。「小泉、入院するきりねえぞ、その代り、いつまでもいんなよ。もう大体、少し治療してもらったら、原隊さ、帰ってこい」「はい」なんて、言った。どの程度なんだかもわかんねえ、病院行っても。そして今度、兵站(へいたん)病院だから、それから今度、野戦病院、それから陸軍病院と、こう病院渡っていっから。一線で怪我したものは兵站病院さ、まず収容する。

ほれで兵站病院さ、来て。ほで、兵站病院で20日間くれえ、治療してもらって。そんだって、治療があんまり構っていらんねえんだよ。わたしよりもっと、重症なのいんだから。

そして、1週間も治療してくんねえから、変だな、なんだかかゆくてね。それからなんで、かゆいのかなと思って、自分で包帯、解いてみたら、ウジ虫がぼろぼろ、両方から。あれ、なんだこら? ウジ虫だ。わたしなんて、そんなの経験ないから。それから、あれ、なんだこれ、ウジ虫だな。よし、これでは大変だとなって、医務室さ、いって、「衛生兵いないのかあ」ってどなって。「はい」なんて、来たっけ。「貴様ら、一線の兵隊をなんだと、思っているんだ! このくらい、治療できないのか!」ってどなりつけた。その陰に、軍医がいたわけだ。軍医が聞いとったんだか、なんだか、「おおっ、そっちの兵隊、こっちに来い」なんて言って。「はい」なんて行ったら、そしたら「そうだな、これウジ、わいてんな。ウジは化膿しなくていいんだわ。ウジが膿を吸ってくれんだから、絶対、心配ねえんだ。これ以上化膿しないから」「じゃあ、治療しないんですか」って、こっちから聞いたら、「うん、治療はしてやる」そしたら、その治療が、もう、薬が思うようにねえんだからね、兵站、野戦までは。

そしたら、持ってきたのが針金。細い針金、ある。それさ、脱脂綿丸めて、この先さ、そして赤チンっていう薬、あんだ。これがまた、痛てえんだ、しみて。それをつけて「そうだな、少し痛いど」なんて言って、こっちから、少し入ってからこう、ここさそのまま、グワッと入れて。いやいや跳び上がっちった。麻酔もなにもないから、そんなもの。

いや、跳び上がっちまったけんど、まあいいやと、思ってた。そして3日に1回くらい、それやってくれた。それで、1週間くらい、10日ちょっと過ぎたら、いやこんなとこいたんでは、これは、殺されちまうなって思ったから、ではこれ、退院した方がいいなって。で、班長が言うように。

自己退院。自分で退院しちゃう。「自己退院、お願いします」なんて言ったら、「ん、君、その足で、戦闘の役に立つか?」っていうから、「はい、大丈夫です」なんて、あてかまして。「大丈夫なんです」なんて言ったら、「ちょっと無理だな、それは」なんて言われて。「いや、大丈夫です。これから、まだまだ、戦闘します」なんて、強気な姿勢でよ、言って。そして、じゃあ、しょうがねえな、では退院命令、出すから元隊復帰。

そこも、敵状もあんまりよくなかったんだけんども、でも、衛生兵のトラックがまだ前線さ、行くトラックあったもんで、わたしと3人くらい、誰か、自己退院したそのトラックに乗せられて、元隊まで送ってもらった。そしてまた元隊さ、行って。まあ駐留していたからね、戦闘していないから。「小泉、そうか。ではあれだ、少し休め」なんて。「その代り衛生兵のこと指導、させっから」なんて。そんなことやってきたのが、だいたい6月終戦の6月20日ころだ。

服部卓四郎さんっていうそのひとが、連隊長で、来て。

やっぱり、作戦本部、陸軍の本部からの士官だっぺよ。おお、たいしたもんだと、思った。だけんども、ただ、ただ、その、そういうエリート級の将校士官は、机上の上で、机の上での作戦には、間違いないんだよ。だけど、一線の現地の戦闘とは、机上の戦闘とは、違うからね。状況が変わっから。ここでやんだらば、重慶はこの線だな、あとこっちは桂林線だから、こうやって、ここに敵の陣地もあんな、で、これと、これと、やれよっていうだけで、作戦計画はできっぺよ。いざそこさ、行って、状況見て、やってぐとなっと全然、違うからな。実戦の現況と、机上で計画立てるものとは全然、違うから。だから反面、不安にも思ったよ。ただ、ただ行けっていうか、勢いっていうか、それに任せて命令されたんでは、ひとたまりもなくなっちまうなっていう不安もあったよ。

ほして、こんど反転作戦って。何で。だって、重慶まで行くわけで、重慶まで行く作戦の準備だって、聞いたんだけども、違うんだな。反転か。では凱旋(がいせん)か、なんて喜ぶような考えでいた。

おれらは、負けた戦争ではない。どんどん、どんどん攻撃して、支那全土をものにしてんだっぺよ。それなのに今度、反転ってのは、あれ、どういうわけなのかなって。

おれら、こうやっているのに。おれら、勝ち戦だから、この負けているのなんのなんて、分からねかったから。

反転はこれはもう、怖い。敵に、後ろ見せんなって、ことだっぺ。前進なら、どこから来るな、どこあそこだなって、いつ来ても構わないような態勢で進むべ。反転の後ろから来る者の警戒をしながら、前を見ながらだもの。これはうんと重荷になるし、早く言えば、おっかねええよ。だから、あのまま反転作戦がどこまで、南京あたりまで、追われてきたら、そうとう犠牲、出したんでねえのか。あれは。わしはそう思うな、やった経験からいうと。

だから、敵はそっちからじゃんじゃん来っぺし。こっちからも、今度は日本人が退却すんだって、全滅させちまえっていう攻撃精神だから、旺盛(おうせい)だ。これを今度、抑えなければならない。だから容易でねかったんだ。あれ、衡陽から下がってきて、ずっと、あと20日くらい、そういう行動とっていたら相当、犠牲出したと思うんだよな。

いつ包囲されるか、占領されるか、分からねえ。今まで攻めていくときには、状況を見ながらだからな。状況を見ながら攻めるほうだから、恐ろしいなんてことは、あんまり感じねえけども、これ、反転っていうのはいちばん、敵に背中を見せるっていうことは、いちばん恐ろしい。いつ、バーッと来るか分からねえし。

後ろ見ながら、前見ながらだから、いざとなったときには、とっさの行動が鈍くなっぺよ。こうやって前向いて、前から来たら、さっと出られっぺけんど、こうやって後ろ見い、見い、いるうちに、どう変化してくるか分かんめい。

だから、それだけは、かえって攻撃して前進してくときより、なんていうかこう、はっきり言えば、恐ろしいくらいだった。いつ休んでいられっか、分からねえって。

Q:そういう中で、いわゆる反転に疲れ果てて、落伍(らくご)しちゃう人はいなかったんですか?

 落伍、落伍者。落伍者いねえ。これ、落伍したらもう終わりだっぺ。誰もかばってくれない。置きばなしだっぺよ。だからもう、そういうときには、本気になんでねえのか。もう、何なていうか、緊張するっていうか、おっぱなされたら、一人になったら、死んじまうっていう頭にみんな、なんでねえか。

つらいもの、このくれえだっては、言葉では表せねえな。早く言えば、こんなまねして生きてんだら、死んだ方がいいと。なんで、こんなまねして、生きていなくてはならないんだと。もう、心身共にっていうけれども、もうフラフラだよ。なんの考えもねえんだよ。もう、ただただ、命令のままくっついて歩いているだけ。ついて歩いているだけだよ。それだけだわな。数字とか、言葉では言わんねえ。

んだらば今、言ったように、手りゅう弾っていうの、持っていっから、そんでちっと離れて、自爆しっかっていうこともひとつの方法なんだ。それと、もう逃亡しちまうかな、と、そうすれば自由になるからなと、こんなことくらいだもんな。んだけども、いやあ、そんなまねしたら今度、うちのお母さんだの、お父さんだの、家族のところにも、これ、迷惑すっぺな、と、いうのも煎じつめると、そこさいっちまうから。ああ、それではしょうない、また我慢して人が歩いているんだから、俺だって、歩けないわけがない、いうくらいで、無意識のうちに、ついて歩いているようなもんだよ。んだけんどもね、これもまた、不思議なんだよな。そうやって、無意識に行軍していて、結局、途中から、敵の弾がババーンって、飛んでくる場合もあるよ。いちばん戦闘部隊だから。そうすっと、ハッと目が覚めて、機関銃下ろして装填(てん)して、向かうっていう、その気力が出てくんだよ。

もう、お互い、兵隊同士、しゃべりながら行軍しているどころでないんだから。無意識のうちに、くっついて歩いているんだから、そういう感じ。あと、ときたまおめえ、午前2時ごろになったら、眠てえんだから、いちばん。1時、2時、3時ころは、いちばん眠たくなっちゃう。そして銃担いで、こうやって歩いていると、前の兵隊とくっついて歩いているから、前の兵隊のところポカーンとぶっつかって、歩いて。「何やってんだ、このやろう!」なんて、そんな状況で歩いているんだもん。

終戦、あっ、では日本、勝ったんだなって、一時は想像したよ。おれらは負けてねえんだから。どんどん、占領したんだから。「ああそうか、日本軍、勝ったのか、じゃあ凱旋(がいせん)だな」って言っている瞬間のうちだはな。

日本は連合国によって、無条件降伏したんだ。だから、おれらも武器は、みんな中国の、解除しなくてはならないんだと。で、「なにい!」となって今度、一時期、騒然としたけんども。

敗戦、なんで、われわれ、敗戦なんだと。ここまで戦闘、続けてきて、敵を追ってきて、負けたんでねえ、勝ってんだって。それが、なんなんだって、終戦だ、敗戦だって。そんなこんなで、一時期ね、まあ、なんていうかな、みんな兵隊も士気が、おかしくなっちゃって。で、連隊長からの達しだって、言われたけど、命令受領が持ってきたのは、日本は南方戦線において、苦戦して、そしてもう、本土近くまで来ていると。だからもう終戦、敗戦だと。負けて、無条件で降伏したんだと。こういう、連隊本部の命令受領が来ていうわけだよ。ああそうか、いやあ、これじゃあ、おれら帰らんねえな。もう、これほど中国全土にまたがって、彼らとやって、土民にも迷惑かけたのに、こんでは、おいらも帰らんねえな、なんて、いろいろ意見も、話も、出たけんども。したら、また連隊長の命令は、いや、蒋介石将軍は、日本の兵隊を必ず、時間かけても日本にかえしてやると、復員させると、そのかわり、武装は全部、解除させろと、こういう命令きてっから、決して銃殺させたり、あるいは、いろんな危害をかけることは、絶対ないから安心して、このまま行動、続けろという命令だったんだよ。

日本の兵隊を全滅させてしまうと、皆殺しだという意気込みになっかと思ったら、ああそうかなと、やっぱり蒋介石はすばらしいなと、こんなことで感心して。

軍旗を焼却し、そして今度、兵器返納。九江のちょっと手前かな。そこに日本の100何万いた兵隊、それから馬、兵器、全部そこで、もう並んで、しりから置いて、帯剣もなんでも置いて、銃も置いて、そして次々とから裸になって、早く言えばね、武器も全然、持たないから。それから将校たちは軍刀、それをみんなワッタワッタとぶん投げて、どんどんどんどん燃やして。

人間は消耗品だけんど、馬は兵器だから。だから、人間よりも馬の方が、ほんとは大事だったんだ、作戦中は。それでも結局は、いずれにしても、馬もろともやんねっかなんね。機関銃とか、銃器積んだやつを下ろして、ほして、こんど馬は手綱、持ったまま中国の兵隊に、渡してやるわけだ。手綱は中国人もらったけんども、ほらって出しても、全然、出ないだ、馬は。わたしは見ったんだけども、われらの付属の機関銃中隊だから。ほしたら、馬がいつまでたっても、行かないんだよ。

そしたらな、中国の兵隊が、バーシャ、バーキャなんてやって、ほして、無理矢理やってんだけど、馬はぐっと踏ん張っちゃって、行かねえんだ。ほしてこんど、その、今まで、馬と一緒に行動を共にしてきた兵隊は、「ほらほら、ほらほら、行ってくれ、行ってくれ」って、撫でながら送くんだけんども、頑としてきかねえんだよ。感じたなあ。やっぱりな、これ、何年、機関銃の人らと、行動やっていたんだか。やっぱりこれな、けだものは畜生っていうからな、なんぼ口、しゃべんねえものでも、心は通じんだなって。そしたらその、今まで担当してきた兵隊は、もう、帰るに帰らんなかったわ。涙、ボロボロこぼしてんだよ。愛情で。「行けよ、行けよ」って後ろ押し立って、踏ん張って。出るまでもいらんねえから、彼らも、後ろ見ながらもう、置いてきたけんどもね。あの姿だけは、やあ、ほんとにこれなあ、なんぼ動物でも、同じく苦労してきた心の通いっていうのは、これ、切れないのかなあって。全く、みんな涙に埋もれたのは、あの瞬間だったな。あれは、今でもその姿が浮かぶ。

わたしらからいうと、あれほどの苦しみ、悲しみ、そして、国民の犠牲。これは2度とやってもらっては困ると。やればこうなんだどと。これが、おれらにしては声を大にして、訴えたいんだ。それは、そういう経験をしたものでなければ分からないからな。言葉では、通じねえからな。無残なもんだ。ただ、兵隊だけが、犠牲になっただけではねえべ。その家族がいっぺよ。家族はいちばん大事な人を亡くしたということは、早く言えば、一家の半分自滅のような状態だからな。一代、終わっちゃうんだから。

めちゃくちゃだ、我々にとっては。何のために、こんなことしねっかならねえんだと。もう南から、どんどんもうは、早く言えば、あんまり状況よくなかったっぺよ。

無茶苦茶だ、やっぱり。偉い人らの考え方でいえば、そういう計算は、理想をもって、計算していたんでねえの。

我々は、そういう上層の計画は分からねえけんども、最後の一兵まで、戦うんだと、日本人には大和魂があるんだと、それ、1点ばかりだったんでねえの。

やっぱ、それは無念だわい。あれだけの犠牲を出したってことは。無理に殺したんだっぺ、なんでもなければこうして一緒にいられんだっぺよ。それも、我が家の土も、踏めないで、途中で、野垂れ死にだっぺ、これほど、無残なことはねえよ。

忘れれめえよ。肌で経験して、心で経験したものを、忘れるなんてことはないよ。ただ、んだけどよ、こんなこと、あんまり語りたくないな、という気持ちは、持ってんだ。それというのは、亡くなった慰霊に対しても、済まないから。なんだ、いい気になって、生きてきたから、大変、立派なこと言ってんなんて、また言われるようなこともあったりしたりすっと、もう、あんまり、語りたくはなかったんだ。最近、こんなふうになってっから、わたしは語っているけんども。

出来事の背景出来事の背景

【中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~】

出来事の背景 写真陸軍歩兵第65連隊、兵員のおよそ半分は福島県出身者で、幕末の戊辰戦争で官軍と戦った「白虎隊」の名を受け継いで「白虎部隊」と呼ばれる精鋭部隊だった。
日本軍が劣勢に立たされた昭和19年(1944年)、中国戦線にいた65連隊は、50万以上の兵力を投入する陸軍史上最大の作戦「大陸打通作戦」に送り込まれた。
この作戦の目標は、中国大陸を南北に貫き、東南アジアから物資を運ぶ陸上輸送路を切り開くこと、日本本土への空襲を防ぐため中国南部の米軍航空基地を攻略することだった。
昭和19年4月、作戦は始まり、1000キロを踏破する行軍が始まった。
65連隊は、精鋭部隊として、幹線道路や線路沿いを進む主力部隊の盾になるように、険しい山岳地帯を行くことになった。そのため、頻繁に中国軍の攻撃にさらされ、戦死者が増えていった。
その間、日本軍は、「長沙」、米軍航空基地のある「衡陽」を攻略するが、昭和19年7月には、サイパンが米軍に占領され、本土空襲を妨げるという目的は意味を失った。

行軍はその後も続けられ、65連隊の兵士たちは、補給が途絶える中で飢えと渇きに苦しめられた。1300キロを踏破した時点で、兵員3800人のうち、900人が命を落としていた。

昭和20年3月、大本営作戦課長として大陸打通作戦を立案した服部卓四郎大佐が、65連隊長として着任。その直後、中国北部や中部の防衛のため反転が決まった。65連隊は日本軍部隊の「しんがり」となり、撤退途上、中国軍の追撃の矢面に立たされる。さらに、米軍機の機銃掃射を受けるようになった。兵士たちの中からは、苦しみから逃れるために手りゅう弾を炸裂させ、自決する者が続出した。

昭和20年8月、敗戦。2000キロを歩きぬいた65連隊は、この作戦で1500人が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
会津若松歩兵第65連隊に入隊
1944年
朝鮮半島に上陸、大陸打通作戦従軍
1945年
銃弾を受け負傷、野戦病院で治療、復帰
1946年
復員、農業に従事

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中華民国(衝陽、信陽)

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