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タイトルタイトル: 「何のための戦争だったのか」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
名前名前: 小澤 喜代志さん(会津若松・歩兵第65連隊 戦地戦地: 中華民国(衝陽、信陽)  収録年月日収録年月日: 2009年10月15日、17日

チャプター

[1]1 チャプター1 壮大な作戦に参加  02:50
[2]2 チャプター2 闇の中の山道  04:46
[3]3 チャプター3 マラリアに倒れる  02:25
[4]4 チャプター4 戦友の遺骨  02:43
[5]5 チャプター5 待機  01:41
[6]6 チャプター6 現地調達  03:33
[7]7 チャプター7 反転命令  03:23
[8]8 チャプター8 落伍は死に直結  03:51
[9]9 チャプター9 五旗嶺の戦い  05:31
[10]10 チャプター10 追いかけてくる米軍装備の中国軍  03:43
[11]11 チャプター11 眠りながら歩いた夜間行軍  03:22
[12]12 チャプター12 なんのための戦争だったのか  03:00

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年10月15日、17日

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ちょうど4月16日ごろ作戦開始になったのは。2か月しかって教育受けなかったんですよ。んだからあとは戦争やりながら、行って、ちょうど3か月目、5月の中ごろか、各分隊さ配属になって。本当に初年兵だけ集まっての教育2か月だけ。あとは一人前の兵隊です、取扱いは。

881名行って、すぐ2か月後から行動開始だもん。んだから、わたしたちが入ったときはあの、何人くらいいたべ。小銃班と機関銃班と擲弾筒(てきだんとう)班と、3個班に分かれて、教育受けていたの。だからかなりいたね、初年兵は。

会津は、福島県は65(連隊)、これはもういちばん優秀で。だから各部隊を一目で分かるようにこういう小さい布を縫いつけていたの。白虎部隊は紫。んだから、支那の兵隊が見っと、ああ紫。これ65(連隊)だ。これ危ねえ。そんで見分けしていたんです。

65(連隊)は激しいとこ、激しいとこへばっかり向けらっちゃみたいな。まあ、そういう方面には強いっていうことはやっぱり、上の方の人たちも認めていたんではねえかな。んだから激しいところは65(連隊)。

65(連隊)は白虎部隊だと。

何にも分かんねえとこ。あの軍装は、背のうは30キロですよ。小銃混ぜて30キロ。それを背負って「構わず歩け」っていうところを歩いて、それいるだけ。だから作戦の出るときは夜だけの行動でしょ。だから三差路とか十字路とか行くと、先の部隊がどっちさ行ったかわからなくなるわけ。んだから、みな紙さ、紙に書いて。鏡なら鏡、カ。あと8中隊なら8。そして、そのような三差路のようなところさ行くと、こう落として行くわけですよ。何枚か。すっと、「8中隊どっちゃ(どっちへ)行った?」。そして探せばその紙で分かるわけ。そういうことをやっていました。だって夜真っ暗で行くだもん。夜だけだもん。

地図は将校だけ持っているの。だから将校だけ持っているけんども、古い地図で、何にも何にもなんねかったって、あの地図。道路に線が引かれているんですよ。

ところが行ってみると道路なんてないんだもの。だから古い地図で当てにならなかったの。

だから山越ぐしかってねえ。山越えたり、川越えたり。

んだから、いちばんつらかったのは行く途中で、あの1880メートルの山を越すとき。

やっぱりほら、日本の兵隊ここ行くと、その脇は敵がいるんだから。ずっと敵がいるんですから。日本は、日本の兵隊は薄いけんども、中国は自分の国だから大勢いるでしょう。んだから、ずっと日本の兵隊は囲まれていたんです。んだから、ここに道路あって鉄道あるったって、この両脇の山とか川とか、そういうところばかりを歩いて行ったわけです。じゃから8か月で1200キロ(km)か、行くときはね。

必ず初年兵だけでなくて、全部、小隊さ配属になっているんだから、みんな古い人と一緒の行動をするわけ。んだから怖いだの、なんだのなんて言っていらんねえもの。

やっぱり丈夫でねえ人はなあ、かわいそうだな。んだって、わたしたち歩兵は弾薬も前へ60発、30発ずつ。後ろに60発。そして120発まだ背負ってんの。これは機関銃班のものな。ひと(他人)の弾を背負っているわけ。これが重いの。んだから、その弱った人のところなんか、その弾をみんなで分けて、かばっていたわけ。やっぱり、もう精一杯の人もいたなあ。なんでかんで一緒に歩かなくてはならないんだもん。馬なんてそんなにいないしな。馬でもうまくつかめば、それさつけて(載せて)歩くけれども。まあそんなこともあったけんどもな、まあやっぱり、荷物を分けて助け合っていたな。

病院さは入らねえ。3日くれえ駄目だもんな。熱だって40度くらいになるから。

Q:病院に行けっていう話にはならなかったんですか?

なんねかったな。病院なんてことはなかったな。

Q:40度の熱が出て、どうやって治したんですか?

あの、マラリアのいい薬本当はあるのな。だけどそんなに余るほどねえもの。どうしたのか本人には分からねえ。とにかく震えるだけで、上さ何人またがったって、もうダメ。震えて。寒いだけで。3日くれえ、そんなんしていたんでねえかな。治ってから言わっちゃもん。「おめえ死ぬかと思ったぞ、おら」なんて。病院なんてことはないし、薬なんてそんなにないわい。クレオソートぐれえで。

Q:小澤さんマラリアにかかったとき、3日間の意識はほとんどないんですか?

もうろうだな、2日くらいは。意識もうろうだ。

Q:どんな治療受けたとか。

まったく分からねえな。治療なんて、受けないべ。だから体力のない人、弱い人は死ぬか、助かっかねえ(助からない)。

だいたいは毎日休みなしの行軍だから。行くときも帰りもな。大体はもう休みなしだ。
もう、雨降る雪降るも関係なしだ。ほんとに疲れるばっかだわい。

亡くなった人に申し訳ないけんども、あの、そんなにして火葬にする暇はないんだから。亡くなった人は終わりよ。戦死した人は。南方の人は空っぽの白木の箱が帰ってきたっていうべ、あんなもんだ、中国だって。おら火葬しているのなんて1回も見たことないもん。そんな余裕ねえもん、毎日毎日構わず行軍行軍で。

戦友。これ重いもんだど。腕も、三角巾にくるんで背負っているのは。そして焼くわけいかねえだが、毎日毎日進め進めだから。すると臭くなってくる、腐って。んじゃ、しょうねえから指にしろ。指一本にして。腕って重いもんだって、俺は背負ったことないけんども。そんなもんだから、

腕重いし臭くなってくるから、何日も背負っているわけにはいかないから。で、指だけもいでこっちは捨てんのさ。指だけだと三角巾さくるんで小さいべ。背のうあたりさ結いつけて。

Q:その指はどうするんですか?

それを遺骨にして、まあ持ってくるわけだけど。んだから、終戦になってから、今度整理すんなんねえでしょ、みんな。「戦友の遺骨預かっている人、みんな持ってこい」。そこで整理したけんども、なんだそれも定かでなかったみてえ。

それが40日で股ずれ(またずれ)するほど太っちまった。若い者ばっかだから。なんにも仕事ねえんだもん。仕事しないで食うことばっかだもん。

ちょうどあの、農村だもん。んだから、トウモロコシも焼いて食われる。秋だからな。スイカもむいてこーなんて。スイカ食ったり、とうみぎ焼いて食ったり、食うこと仕事だもん。ほかの、あと戦争はやらねえんだし、その期間はな。まあ休養だな。まあ、上の方もそう言っていたみたいだもん。疲労困憊(こんぱい)でだめだから、ちょっと休み取れって。そのかわり補充はないぞって。

ほんと、楽しいばっかりだった。うまいもの、食いたいもの食って、仕事はすっことねえべし。楽しいばっかりだった。このあとどうなんべな、なんては考えなかったな。ところが、40日いたっけが、そのあと、明日からまた戦争だもん。全県の先な。

そう、命令。命令。んだから、おら女の服着たこともあった。女の服、ここんとここうなんでしょう。洗たくすっことないもん。明日また別なの着ればいいもん。なんでも現地調達でやりなさいと。服装もなにも補充できません。そういう命令だから、何着てもいいし、何食べてもいい。そんなときもあった。

やっぱ、悪いけんど、食うためだからしょうがない。ただ、なまじっか日本の言葉覚えているから、「憲兵に言うぞ。憲兵に言うぞ」なんていう人もいてやったけど、「やかましい、この」なんて。食わなければならないんだから、

自分だけでねえから兵隊は、「おーい、米あんぞ」。そうすっと今度みんな来て、米詰めて。

んだから、ほんと迷惑かけちまったわい、中国さはな。中国の人は一人もいなくなっちまうんだから。この街なら街全部。したから、ご飯炊いたばっかりのときもあった。こんな釜さ。「おい、ご飯あんぞ」。もう、できたばっかのご飯。構わず茶碗さ分けて食って。食うのがもう精一杯だから。とにかく中国人はひとりもいなくなっちまう。

Q:そういうなんの補給もない自給自足の食糧事情で、小澤さんどう思いましたか? 自分で見つけろっていう。

だって、それが最初からあれだから、それが普通だと思っているもん。最初からねえもん。「米受け取りさこい」なんて一言も言わっちゃ(言われた)ことねえ。んだから、それが普通だと思って。「おー、米あんぞー」って言うと、そこみんなもらってくる。軍の靴下には1升入るんですから。

悪いなあなんて、そういう考えもなかったな。もう食うので精一杯だもん。そんな、肉魚なんて、そんなのないんですよ。ただご飯とみそ汁くらい。その味噌汁だって、自分で見つけてくるんなんねえんだから。田んぼさ生えている草、田んぼの草、あんなのも食ったことありあます。そしてバナナの根っこ。掘って。何にも食うものねえときは。

服部作戦部長(課長)が来るんだから、連隊長になってくるんだから、今度は戦争がちっと強い(激しい)んでねえかっていうわけだ。そういうことを(仲間で)言っていたの。強くなんでねえかって。まあ、猛烈な戦争になるんでねえかって。

なんかやっぱ、上層部が変わるっていうことは、なんかあんでねえかなっていう気持ちにはなんな。

ただ戦争が激しくなるんでねえかという噂で。もちろん戦争が激しくなれば体だって危ないわけだよな。だけどそれまでは言わなかったみてえ、みんな。まあ、命令が強くなんでねえかっていう噂だな。もう、命令以外なにものもねえだから。ほんとに。終戦までは。

んだから、おれたちは最後尾だから、誰も後いないんだぞと。みな下げるための、おれたち最後尾で敵を攻めているんだからと。それは最初から。最後尾っていうことはね、皆下げるための最後尾。それは分かっていました。

しんがりは名誉だなんていうこともないけんども、とにかく俺たちはいちばんしんがりだから、敵を抑えてみんなを反転させんだからっていうことは最初から。んだから、あと誰もいないんだから、人の面倒は見るようねえぞってことを言われた。

恐ろしいの何のってはねえ。構わず命令だけだから。だから攻めてくっと追い返す、攻めてくっと追い返すして、そしてその間にほかの部隊を反転させたわけだから。

Q:小澤さんは他の部隊を反転させるために自分たちがしんがりを務めるというのは分かっていたんですか?

分かっていたの。分かっていたの。すぐ後ろをもう来ていたんだもの。追って。だから、なんであそこの橋も落としてきたんだけども、すぐ追っかけてくんのかなあって。

ほら、みんな渡りあげると、小さい橋などは爆破してしまうの。爆破、橋なかったらちょっこら追ってくるようないんでしょう。それがすぐ追ってくんの。

反転作戦に入るときは、「死ね」とは言われないけども、「おれはこれで精いっぱいだと思ったら、自分で処置しなさい」。「自分が精いっぱいで、人のところまであの、手を下すことは誰もできないんですから。あと後ろは日本の兵隊は一人もいねえんですから。すぐ後ろにいるのは敵だけだから」。そういうことは言われました。そんでみんな一人1発ずつ手りゅう弾。あれ、10秒ではらわたなくなんです。ここさみな全部結わえつけて。そしてそういうことは言われました。

Q:自分で処置しなさいと。

そのための手りゅう弾を結わえつけらっちゃの。みんな一人1発ずつ。んだから簡単だわい、死ぬのなんか。10秒ではらわたなくなっちまうんだもん。

すぐ後ろは敵が追っかけてくるんだから。なんともしょうがねえ。

すぐ追っかけてくんだ。そうすると、また追って行くしかないでしょう。追って行ってはワーツと下がってくる。追っては下がってくる。

追われる身はやっぱりつらいな。んだから、もう弱ってきたら

まず飯は投げねえから。米を投げろって。米は投げても飯は投げらんねえの。飯はいつでも食べられるでしょう。米を投げろ、あれも投げろ。じゃあ弾薬みんなで分けろ。そんなことして面倒は、お互いの面倒は見たんだけんども、

やっぱり、「俺はこれ以上迷惑かけらんねえな」っていう人が大勢いたみてえな。

Q:もうこれ以上無理だっていう人はどうしようもなかったんですか?

どうしようもねえな、動かんねくなっちまうんだべな。なんとも。もう足出なくなんだべもん。もう精一杯になっちまうんだもの。もう頼る人はいねえし。

手りゅう弾のお世話になるしかってない。もう敵はすぐ後ろから来るんですから。したか余裕はないのよ、時間的な余裕は。もうすぐ撃ってくる、(それを)追い返す。だから時間的な余裕はなかったな。

Q:五旗嶺のときのみなさんは、自分たちはなんのために戦っているのか、というのは分かっていましたか?

いやいや、そういう考えはありません。ただやってくるから負けねえでやるだけ。なんのためなんて、そんな考えはないです。

その1週間か10日前くらいから、小刻みには攻めてきていたのな。そしていよいよこの、日本兵は反転するっていう情報は(中国軍は)とっくにつかんでんだか。んだから、今度は優秀な兵隊を重慶から送って、優秀な装備で。それで、この冲天(独立混成第88旅団)なら、わたしたちのところを殲滅(せんめつ)するわけだから、敵は。んだから、あのときの犠牲者はかなりなものでなかったですか。

遭遇戦。たまたま丘のような上から撃ってきたから、こっちでも撃ち、それがものすごかったの。だからみなんで声かけ合って、「近いぞ!近いぞ!」って。近いぞってことは気をつけろってことだ。少しでも、何かに隠れるような状態で。まああんときは、戦争に慣れていないような人は余計にやられてしまったの。変なところへ動いたり、立ったら1発だからな。1発だから。わたしの隣の隣の人、みんなで「危ないぞ」って声かけているのに、ひょろひょろひょろと立ったけがポンと。それで終わりだもん。もう動かんねえときは動かんねえのな。もう先がほんとに攻めてくるときは。いつか切れんだから。そんときはこっちからうんと攻撃かけるしかない。

Q:戦闘はどのくらい続いたんですか?

4日か5日は激しい戦争はあったな。そのあと先は少しずつは攻めていたの。敵がな。それに本当に強いのは4~5日だベな。ものすごかったのは。 

いちばん大きな作戦のときは、ちょちょ、ちょちょっと攻めてきていたのな。ほして今度いよいよ、大きく攻めてきたときは、やっぱりなだらかな丘の上から攻めてきたんですが、あんときは本当に・・まあ心理的に、草一本でも隠れるような感じだった。鉄砲の音しないんですから。石投げると同じだから。バチッバチッと来るだけ。んだから、みんなで近いぞ、近いぞって声かけ合って、やっていたの。

Q:どんなところからどういう攻撃をしてくるんですか?

まあ、丘みたいな上からが多かったな。こう、そんなに山ではねえんだからな。だから上からも撃ってよこすわけだ。それ木も何にもねえんだもん。草ぐれえでな。んだから、もう、隠れるのが精一杯だわい。あと亡くなった、死んだとなっと、そんなの構ってらんねえから。今度は後ろさ、立てば撃たれんだから。だからのたまわっているまま下げるしかってないわい。次から次へと。

そんでもあんときの被害はいちばん大きかったべな。

んで「冲天危ない」っていうんで。すぐ来るわけにはいかねえ、ここ敵がいるんだから。だから65(連隊)、2日くらい経ってからかな。65来る。今度他の部隊も応援に来て、そしてようやくわたしたち助かったわけだったの。

ああ、機関銃だけでなく、小銃でも、ほら、あの連発のあんだから。日本みたいな5発ずつではない。バラバラ出んだから。機関銃なのはまたものすごいだから。

Q:それはまだ日本にはない兵器?

日本にはなかったな。あれは。日本の重機関銃は、装備としては悪い方ではなかったけんどな。あと軽機関銃なんかは、日本のがなは駄目だな。すぐ銃身が焼けたり、銃身焼けると弾が出なくなっちまうから、つっかえちまって。そうなっと使い物にならないもの。そして中国あたりで使っているのは、チェコ銃。チェコの機関銃とか。あと水冷式なんておれたち勝手に名前つけていたけども、銃身のところに水入れるところあるんですよ。水筒の水ちょろっと入れると、もう湯気がたって。煮たっても、ほら、いくらか冷えっから、そういうの使っていたの、敵は。日本の軽機関銃では使い物にならなかったもん。

敵が投げて行ったの見るとみんなそうだもん。みなアメリカのだもん。だから性能はいいわい。小銃でも機関銃でも。

飛行機はかまわず、B25だけだども、昼間は絶対動かれないの。動くものは顔が見えるんだから。動くものがあると、何回でもこう来るんだから。動くものあると大体来るんだから。それ1メートルおきくらいの弾落ちんですよ、バチバチバチって。その間さ、薬きょうが落ちるんだから。薬きょうだって小銃とは違うから、大きいだから、当たれば大変だ。当たりどころ悪いと死んじまう。

まあとにかく、あの弾はほんとの低空ですから。1メートルおきにバラバラバラバラ。絶対に動かれないの。

動くもの、ちょっとでも動くものあると、また反転して来るんだから。遊んでいるようなもんだ、アメリカは。

反撃なんてできねえ。反撃なんていう余裕あっかな。んだから、撃っちまうっていうの。なんぼでもぐるぐる、動くものがあると。日本の飛行機はあることはあったんですよ。アメリカのB25が去っていなくなると、とき過ぎてから日本の飛行機がちょっと出てくるの。出るときもあんの。全然太刀打ちできないもの。

いやあ、夜行軍はつらい。ほんとに。だって暗いとき、前の人離れらんねえんだから。離れたら分かなくなっちゃうんだから。

もう、ほんとに精一杯疲れているんだ。疲れてたな。大したこと寝ないで、また夕方になると出発準備かかるんだもの。

だから離れられねえの、前の人と。まあこれひどい、すごいなーと思ったのが、なんかあんなところもあんだ、石畳の農道な。

あの、日本の軍靴は鉄の鋲ぶたってんでしょ。つるつるだ。あれでなにほど転んで膝をむく、むいたか分からねえな。だいたい暗いとこ歩いているんだから、スルッとどっちゃでも転んじまうわい。だいぶあったな、石畳のところは。

Q:そんなに滑るんですか?

滑る。石の上さ鉄の鋲(びょう)だもん。つるつるだ。あれはすごかった。それであの、衛生兵っていうのがいるんですよ、各部隊にね。この衛生兵の持っている薬は、あの、ヨードチンキだけなの。「おーい、来いよー」っていうと、ヨードチンキ浸した綿でぐりぐり塗るだけ。何にもあと薬ってねえもの。

Q:かなり転んだんですか?

転んだ、おら。やっと跡なくなったくれえだ。むいては転び、むいては転びだから、いつまでもこの膝の傷は残っていた。

だから先の人見えなくなったときは、本気で歩かなくてはならなかったわい。追っかけるために。

そいで「小休止」となっと、べったりくっついてみな休むわけ。眠っちまうから。絶対離れられないの。

だから休憩だなんていうと、すぐ寝っちまう。すぐ寝っちまう。だからここで突つついて「おい、出発準備だぞ」。ぴったり(仲間と)くっついて休まんなければなんねえの。それでねえと(出発のとき、気づかないで)置いて行かれっちまうの。眠い。

何んでやったの、あれ。ほんとに戦争って何んでやったの、あれ。なんのために。あの、兵隊だけでねえだから、中国の住民もあれだけの被害受けて。もし、あの、ここが今日設営となると、この家はガラガラになってしまうんだから。ほんとにあれ、大きな迷惑だ。あれ、中国は。ほんとにとてもお世話になった。米は、食糧はそのとおり、中国のばっかでしょ。補給ってねえだから。ほんとにまあ、大変お世話になりました。

ほんとに、もう、悪いことしたなあ、日本は。中国ばっかり大きな迷惑だわい。あの住民ばっか。なんの関係もねえ人たちが、帰ってみっと家の中がガラガラに。なんにもねくなっちまうんだもん。戦争はやらんねえな。絶対に。まあやっている国もあっけんちょも、なんのためにやってんの。戦争はやらんねえ。二度と。

どんな気持ちといったって、しょうねえもんな。だから「わたくし」って言う字はなくなっちまったんだ。ねかったんだ、ただ命令だけで。

んだから、教育の力と政治の力は、これは恐ろしいと思っているんだ、俺。右さでも左さでも向いちまうんだもん。向かせちまうんだもん。いきなり戦争になったわけではないんだもん。ほんとに恐ろしいよ、あれは。もう、教育の力と政治の力は。国を変えっちまうんだから。もう何も、ぐうの音も出せねえんだもん、国民は。

出来事の背景出来事の背景

【中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~】

出来事の背景 写真陸軍歩兵第65連隊、兵員のおよそ半分は福島県出身者で、幕末の戊辰戦争で官軍と戦った「白虎隊」の名を受け継いで「白虎部隊」と呼ばれる精鋭部隊だった。
日本軍が劣勢に立たされた昭和19年(1944年)、中国戦線にいた65連隊は、50万以上の兵力を投入する陸軍史上最大の作戦「大陸打通作戦」に送り込まれた。
この作戦の目標は、中国大陸を南北に貫き、東南アジアから物資を運ぶ陸上輸送路を切り開くこと、日本本土への空襲を防ぐため中国南部の米軍航空基地を攻略することだった。
昭和19年4月、作戦は始まり、1000キロを踏破する行軍が始まった。
65連隊は、精鋭部隊として、幹線道路や線路沿いを進む主力部隊の盾になるように、険しい山岳地帯を行くことになった。そのため、頻繁に中国軍の攻撃にさらされ、戦死者が増えていった。
その間、日本軍は、「長沙」、米軍航空基地のある「衡陽」を攻略するが、昭和19年7月には、サイパンが米軍に占領され、本土空襲を妨げるという目的は意味を失った。

行軍はその後も続けられ、65連隊の兵士たちは、補給が途絶える中で飢えと渇きに苦しめられた。1300キロを踏破した時点で、兵員3800人のうち、900人が命を落としていた。

昭和20年3月、大本営作戦課長として大陸打通作戦を立案した服部卓四郎大佐が、65連隊長として着任。その直後、中国北部や中部の防衛のため反転が決まった。65連隊は日本軍部隊の「しんがり」となり、撤退途上、中国軍の追撃の矢面に立たされる。さらに、米軍機の機銃掃射を受けるようになった。兵士たちの中からは、苦しみから逃れるために手りゅう弾を炸裂させ、自決する者が続出した。

昭和20年8月、敗戦。2000キロを歩きぬいた65連隊は、この作戦で1500人が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1944年
会津若松歩兵第65連隊に入隊
1944年
朝鮮に上陸、大陸打通作戦従軍
1945年
冲天部隊に配属
1946年
復員、昭和電工勤務

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