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タイトルタイトル: 「現地中国人から略奪と反撃」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~
名前名前: 星 和夫さん(会津若松・歩兵第65連隊 戦地戦地: 中華民国(衝陽、信陽)  収録年月日収録年月日: 2009年10月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 共に歩き続けた軍靴  03:45
[2]2 チャプター2 行軍中の狙撃、自決  01:55
[3]3 チャプター3 徴発への反撃  03:52
[4]4 チャプター4 しんがり部隊  04:14
[5]5 チャプター5 反転中に起こった自爆  01:39

チャプター

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こうなると履かんねえよな、もう。ぱっかぱっかで。これなあ、中国歩いて。内地へ、博多へ上陸して。これひとつしか分かんねえ。どこに、どうなるか、分かんねものな。

もう履けねえ。ただ、記念にとっておいたんだ、一応はね。こういうの履いていったんだ。


Q:これは、ずっと中国で履いてきた靴ですか?

 そうです。これ1足だから。直すのがねえんだよ。靴屋さんがいねえからな。んだから兵隊がぶっつけでこんなことして。音がすんだもんな。金だから、下。支那は石畳が多いでしょ。カチカチって。だから夜、夜襲、掛けるときはここさ、縄を巻いて、そして音がしないようにして。


Q:この靴を見ると、今、何を思いますか?

 いやあ、足の痛いことだな。こっから。そして、小休止では、足をこうしてあげて休む。皆さんも床屋さんいくと、こう足を上げて、こうやっと気持ちいいでしょ。血液がこう来っから。それと同じ。


Q:足はかなり痛かったんですか?

 痛かったな。豆だらけだ。それでも歩かなくちゃならないから、(列に)ついてね。

命の綱だな、これだけがな。


Q:命の綱ですか?

 んですよ。何十里もな。重慶手前、70里手前まで行ったんだからな。河池、金城江な。あの辺まで、追っかけて。

兵隊、軍隊さ。歩けないとついて行かれないんだから、これがね(無)けりゃ。地下足袋なあ、あったな。


Q:ついて行かれなくなると、もう?

 やられっちまう。

後ろから土民がずっと押しかけて。裸にされっちゃう。それで死んだ人が多いですよ。いざ戦争だなんて突撃したり、めったにないですなあ。

大抵そういうふうに土民にやられっとか、敗残兵が横から出てきて、そして、やられて死んだ人が多いですよ。実際に突撃して、死んだなんていうのはあんまりみたことないですな。

一本道。谷間、谷間。一本道。そこに川が流れている。石畳なんだ。石畳。そして頂上さ、行くと、近くに望楼が立っているの。中国には、望楼っていうのがあるんだよ。向こうで言っていた、休み場所な。石でつくって。危険なところだ。そういうところ歩って、だから、いちばん先になって歩いた人は、やられたの。バツーンって。どっから撃ってくるのか、狙撃兵が現れて。

狙撃っていうのは、中国の兵隊、鉄砲って、あんまよくねえんだ。ボロボロっていう鉄砲なんだけど、使い慣れた鉄砲なんだべな。狙撃が上手だったな。高い木の上さ、上がってて、両脇を枝に抱えて、そしてダーンだ。

向こうの兵隊は、日本ならたいてい2年か、3年はいてくれば、帰られっぺって。向こうは5年も、10年も、飯食って、いっから、その点ね。だから、上手だったんでねえすか。

徴発っていうのは、言葉はいいようだけども、中身は悪いの。略奪だから。言い換えれば略奪だ。行って、モノをただ持ってくるんだから。


Q:軍票、置いてくるんじゃないんですか?

 いやいや、とんでもない。軍票なんて見たことない。

食いものがねえんだよ。さあ、探して来っかって。山道になって人がいそうな。獣と同じだ。そして訪ねて行くと、家がポツンとあって、そこに年寄りがいたりして。そして、米なんかあっかって、もらってきて。もらってくる、かっぱらってくるんだけどな。なんていう峠だったかな。一人で行ったことあんだ。そのじい様、抵抗しらっちぇな、やられるところだった。ダーツて沢の中に落っこちた。その音、聞きつけて、駆け付けた兵隊が、そいつ殺しちゃったけんどな。

どこさ、行っても部落は整然としているんでしょう。逃げて誰もいない。壁に、どういうこと書かれているかっていうと、どこ行っても壁にな、「日本鬼の子」

日本、なんてかってたなあ。「徹底抗戦」とか、「抗日分子」と。どこにも書かれているんだよ。壁新聞だな。大きくペンキで、日本は鬼の子だと。徹底抗戦とか。

徴発に行って、もの取っているうちはいい、探しているうちは。黙っているの。山のほうに上がって見ているわけだ。

バナナとか、食べ物を。油、そういうやつ、取るだけとって。さあ、担いで、声掛けをして、山肌を下ってくっとき、帰り際にバツーン、バツーンと。さあ、来たなと思って。次、ダダダダッて。そして連中は利口なんですよな。最初、撃つときは、向こうも機関銃持っている、軽機関銃。それ、ほとんど、チェコ製だ。わたしんのところ撃つ。そうすっとあれだ、チェコ製の機関銃は、軽機関銃は単発と、複射すっときと、2重に使われる。最初、撃ってよこすのはパーン、パーン。あっ、機関銃持たねえなと安心するわけだ。そのうち出て、ずうっと行ったらダダダダダツと来っから。

鉄砲みんな、渡っているから、中国は。とくにハクスウキなんて軍隊は、住民にみんな鉄砲、渡してしまう。そいつで抵抗しろと。

そして、帰って来っときに、今度、山の上からバチーン!バチーン! そんで戦死。

反転すっときは、もう負け戦だからな。大本営のこっちのほうの、本部のほうでは、負けて反転する、あの反転。満州まで続いたって、いうんだから、兵隊、並べっと、ずっと。そうすっと、向こう追ってくるんですよ。軍公路、どんどん、どんどん。すっとこっちは歩いていたの、場所まで下りて。山のちょうど峠の頂上、近く、ずっと、陣を敷いて。まず、山砲。向こうから、見えっから、ドーンドーン撃って。ほしてその次、山砲だあっと下げて。あと、一般の小銃がこないかんな。そうしたら、下がらせた。道路なんてみな、壊れてだめだからな。

道路なあ、壊して、敵が。こういう軍公路ずうっとあっと、場所ある程度、行くと、深く掘られて。戦車が通れないように。戦車なんて、あんまり見なかったな。


Q:あの、65連隊はしんがりを務めたって言う。しんがりは大変だったんですか?

 そうです。敵、見えんですから、軍公路、だあっと、山の上から見ていると。そして、日本軍と間近になると、こんど、やっぱり別れてパッタンパッタンと撃ち方、始まるわけ。

五旗嶺の戦闘。あれは戦争が負けるころだな。

あの街道をね、反転してくっときだな。山、こう、たいした高い山ではなかったな。峰がこう、浮き沈みあったんだ。んで、五旗嶺っていったんだ。あれはひどかった。私もこう見たら、敵が見えるんですよ。暗闇に。こう見っと、向こう高いし。こっち、何もなくなったの、手りゅう弾も。向こうもなくなって、石を投げてよこしたの。

こういう、ゴロゴロっていう石。手りゅう弾でなく、向こうも、手りゅう弾もないから。そして明け方になったら、敵がいないんだよ。すうっと下がって。そしてその五旗嶺の蔭から、平地なんだ、田んぼの中、そこをこう進んでいったら、そっちのほうから砲弾が飛んできたの。サササッと、ダダンと。すっと、山の方から砲列敷いてあって。大砲で、山砲だな、撃たれて。よし、昼、行ったんでは危ないから夜、襲って。ということで夜、行ったら、もぬけの殻。いなかったのな。夜襲するしかねえすよ。

昼間は危険だから。狙撃されっかんな。夜、いわゆるさっき言った軍靴、皮靴、縄を巻いて、音しないように石畳を進んでいって、そして、わっと突っ込む。間違いないですよね。夜、行くんだもん。その前に早く、彼らも逃げて行っちまうけどな。逃げ足は早いから、中国は。土地も分かるし、言葉も分かるし。

うん、自爆する人。兵隊は自分も疲れてな。

体がもう、言うこと聞かない、行軍。進む下がるも、同じだからな。歩いて逃げてくるわけだからな。


Q:なんで反転のときに多かったんですか?

 自分で疲れっちまったからでしょう。これ以上、ついていかんねえと。ほんで、ちょこっとずれて、横っちょの山の方さ、上がって、ダーン、と。自爆すんのな。いやほんに、かわいそうだった。戦争はやだ。


Q:星さんの周りにもいましたか?

 いたすぐ。なんともな。帰ってきてから私、中通り(福島県・中通り地方)2軒ばかりな、線香、立てにいったことがある。まあ、ほんに哀れですよ、戦争は。

出来事の背景出来事の背景

【中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~】

出来事の背景 写真陸軍歩兵第65連隊、兵員のおよそ半分は福島県出身者で、幕末の戊辰戦争で官軍と戦った「白虎隊」の名を受け継いで「白虎部隊」と呼ばれる精鋭部隊だった。
日本軍が劣勢に立たされた昭和19年(1944年)、中国戦線にいた65連隊は、50万以上の兵力を投入する陸軍史上最大の作戦「大陸打通作戦」に送り込まれた。
この作戦の目標は、中国大陸を南北に貫き、東南アジアから物資を運ぶ陸上輸送路を切り開くこと、日本本土への空襲を防ぐため中国南部の米軍航空基地を攻略することだった。
昭和19年4月、作戦は始まり、1000キロを踏破する行軍が始まった。
65連隊は、精鋭部隊として、幹線道路や線路沿いを進む主力部隊の盾になるように、険しい山岳地帯を行くことになった。そのため、頻繁に中国軍の攻撃にさらされ、戦死者が増えていった。
その間、日本軍は、「長沙」、米軍航空基地のある「衡陽」を攻略するが、昭和19年7月には、サイパンが米軍に占領され、本土空襲を妨げるという目的は意味を失った。

行軍はその後も続けられ、65連隊の兵士たちは、補給が途絶える中で飢えと渇きに苦しめられた。1300キロを踏破した時点で、兵員3800人のうち、900人が命を落としていた。

昭和20年3月、大本営作戦課長として大陸打通作戦を立案した服部卓四郎大佐が、65連隊長として着任。その直後、中国北部や中部の防衛のため反転が決まった。65連隊は日本軍部隊の「しんがり」となり、撤退途上、中国軍の追撃の矢面に立たされる。さらに、米軍機の機銃掃射を受けるようになった。兵士たちの中からは、苦しみから逃れるために手りゅう弾を炸裂させ、自決する者が続出した。

昭和20年8月、敗戦。2000キロを歩きぬいた65連隊は、この作戦で1500人が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
会津若松歩兵第65連隊に入隊
1944年
中国へ上陸、大陸打通作戦従軍、盲腸にて野戦病院へ入院
1947年
復員、保健所等勤務

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中華民国(衝陽、信陽)

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