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タイトルタイトル: 「自転車でマレー半島南下」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島県・歩兵第11連隊~
名前名前: 伊藤 強さん(広島・歩兵第11連隊 戦地戦地: ケイ諸島  収録年月日収録年月日: 2009年10月5日

チャプター

[1]1 チャプター1 兵士になるのは当然だった  04:26
[2]2 チャプター2 敵前上陸演習  03:25
[3]3 チャプター3 上陸  03:37
[4]4 チャプター4 銀輪部隊  03:09
[5]5 チャプター5 暗夜の敵前上陸  03:41
[6]6 チャプター6 英軍降伏  03:29
[7]7 チャプター7 墓標  01:54
[8]8 チャプター8 ニューギニアへ  02:59
[9]9 チャプター9 飛行場づくり  04:32
[10]10 チャプター10 今振り返って  02:03

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島県・歩兵第11連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年10月5日

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もう徹底した教育を受けておりますからね、当時は。日本人としても、もうあれですよ、完全に義務化されとったから、みんな観念してましたよね。行かなきゃならんもんだと、1回は、男の子だったら、軍隊へ行って帰ってこにゃあ男になれんのじゃと、そういうふうにみんな観念していましたから。特にわたしらのときの者は、そういうふうに開戦を、戦争を始めとったときですから。普通の兵隊の要らん年は、兵隊をとるのに現役としてとるのは非常に少なかったんです。わたしらのときはとにかく、少々指の1本ぐらいないからいうても全部とったですから。平和な時代にはもう厳しいんですよね、入隊が。現役の、ものすごい優秀な兵隊をとるわけですけど、わたしらの13年兵時代にはもうあれですよ、もうとにかく、まともに歩けりゃあ皆とったわけですよ。何も疾患がなきゃあね。結核とか何とかいう病気がない限りは、みんな現役として入隊したわけですから。

Q:11連隊といったら結構強いとして有名な連隊…

まあ、当時、まあわたしらがね、言い伝えられたことは5師団全体がですね、日本最高の軍隊じゃというふうに、徹底的にそういう先入観を持たされたですよね。まあどこの兵隊さんも強かったですよ。だけども、まあやっぱり、特に5師団は敵前上陸とか何とか、一線ばっかり、一線要員ですよ。最前線で戦争をさせられとるですから、慣れてますよね、その点は。

Q:やっぱり兵隊の方もそういう気持ちを持って…

そういう、いわゆる自信を持っとったですよね、わしらの軍隊は強いんだと。

Q:当時のやっぱり気持ちとしては、そういう強い11連隊に入れるというのは伊藤さんにとっても誇りだったんですか。

まあ当時はね、兵隊にとられんような男はだめじゃいうような時代でしたからね。ほんと実際だめなんですよね、みんな、体が悪いからとられんのじゃから。内地におっても病気になって死ぬるいう人が多かったですね。平和な時代はね、要らん兵隊はとりませんよね。わしらのときはとにかくもう、元気ならもう皆甲種合格。ねえ。甲種合格、乙種合格、丙種合格、第1乙、第2乙のようになっとるんですよ、階級が、現役にとられても。昔は要らんときはとらん、甲種合格しかとらんのですよ。その当時はもう、乙も2も全部入隊しました。支那事変が始まって、戦争が激しゅうなって戦場が拡大してきたですけえ、少々の人間をもうあれですよ、中国に送ったからいうて、10キロに1人ぐらいしかならんですよ、立たしたら。

敵前上陸の演習ですね。大東亜戦争を始める前に敵前上陸の演習を、内地の佐世保軍港をシンガポールに見立てて。佐賀県の虹の松原へ向けて我々は敵前上陸の演習をしたんですよ。

それを済まして、また舟艇に乗って、まあ上海に帰るんですけども、途中、舟山列島(舟山群島:中国浙江省)で敵前上陸の演習をまたしたわけですよ。舟艇に乗って、本船から舟艇に乗って敵前上陸の演習をして。

それを済んで、またすぐ引き続いて台湾の真向かいにアモイいうとこがあるんですね。寧波いう、丁寧の寧に波いう字を書いてニンポいうんですけど、ニンポ、チャン語で。寧波。そこで敵前上陸の演習をして、これは演習じゃないんです。ほんとにしたわけです。

Q:敵がいて。

ええ、そこで。そこは敵も弾を撃ってきましたからね。

いわゆるシンガポール、あくまでもシンガポール、大東亜作戦用の演習をしたわけです。

Q:そのときは、それがシンガポールとかマレーとか、そういう話は聞いてましたか。

それはね、薄々は分かったけども、はっきりしたことはね、まあもう極秘ですからね。ほんとに「こうだ」いうのはあれですよ、1万トン級の本船に乗せられて聞いたわけですよ、そこで。

特にマレー作戦の中で歩兵第11連隊第3大隊、わたしらですね。第3大隊だけは、わたしどもの大隊に大本営の直轄参謀で来て、その人が指揮したわけですよ。

Q:辻政信(第33軍作戦参謀)を直接見たわけですか、当時。

直接見たじゃない、おまえたちの命をおれにあずけろと。本船の船の中で、いわゆる海南島あたりの海の上で説明したわけですよ。特に日本の兵隊の中で戦争をさせて上手なのはおまえたちなんだと。これはおれが夢で見た作戦で、おまえたちの命はおれに任せてくれと。下士官以上が集められてね、そういう話を聞いたもんですよね。当時はまあ、軍隊で辻政信じゃあいうたら神様みたいなもんですからね、ほんと。

船の中で、ここから上はタイ国の服をもらったんです、僕ら。

タイの服装をして、我々は日本語を使うちゃあいかんよ言うわけですよ。

そして、「今日からもう散髪しちゃあいかん」言うわけですよ。タイの兵隊は髪伸ばしたんですよね。

それで、わしらも全部、髪伸ばせ言う。すそ刈りしてね、髪を伸ばしたんですよ。おそらく軍隊始まって、陸軍始まって以来でしょう。海軍は髪を伸ばした人もおったんですがね、陸軍はそういうことは許されていなかったですけど。ところが、そのときは、タイ国の服装で上へ上がるわけですから、敵前上陸を。わたしらだけ、3大隊だけ。それで、腹に日の丸の旗を3枚巻け言うて、日の丸の旗を3枚巻いてね、

「どこそこへ行ったらこういうキャバレーがある。そこの女性を皆捕まええ」言うわけですよ。女性を連れて、ほいでまあ機械化部隊になっとるんじゃけど、自動車へその女性を乗せて、わしらも乗って。タイ国の兵隊いうのは女を連れて歩くんですよ。日本のはそういうことは許されておらんですけえね、びっくりした、わしらも。それでまあそれを実行に移したわけですよ、上陸して。

わたしらがなぜタイ国の服装をさしたかいうたらね、あれですよ、トラックに先ほど申し上げたサイゴンのバーやなんかの女性と一緒に乗って、キャアキャアキャアキャアじゃれ合ってね。マレーの国境を突破して、日本軍が来たけえ助けてくれいうて逃げ込めいうことなんですよ。タイ国の兵隊になって、助けてくれ言うて入れと。そうすると、向こうの税関は門を開けてくれて無血侵攻。攻めていくことができるから、そういう戦術を、これは夢で見た作戦じゃいうて辻政信がわしらに説明したもんですよ。しかし、これは完全には成功しなかったんです。そうまでせんでもダーッと行けたわけですよ、車に乗って。

国境を、タイとマレーの国境を突破するときに、もう税関を開けさしたら一瀉千里(いっしゃせんり)にシンガポールへ行け言うわけですよ。連隊長が死んどろうが、中隊長が死んどろうが、上官が死んどろうが、構やあせん。1人でもええけえ行けと。それは、第一にペラク川まで行けと。クアラルンプールの手前にペラクいう川がある。そこまで行ったら腹の、日の丸の旗を1人が3本立てるんですよ。100人行きゃあ300人来たことになるじゃないか言うんです。ところが案外ね、そうまでしなくても国境を越えてトラックでダーッと入ったらね、豪州兵も何も皆退却したんですよ。ずーっと下がってしもうた。

でもまあ、そんな苦しい戦争じゃなかったですね、マレー作戦は。鼻歌でしたよ。

5師団はやっぱり早かったよね、機械化を。今から思えば大したものじゃないけど、当時としちゃあ、馬を引っ張って歩くようなもんじゃあないですわね。それまで馬じゃったんじゃから。

機械化部隊に編成替えしたですから、その車の運転から何から、もうみんなあれですよね、

5師団の兵隊が全部始めたわけですね。

小銃中隊は自転車なんですよね。それで大隊砲・機関銃は重たいからトラック。大隊砲、わたしの隊なんかはトラック4台に乗せて走ったんですよ。大砲、弾薬を積んで。その点は楽でしたよね。ただ、橋を落とされたらどうにもならんわけで、そのときにはもうしょうがないから、日本の兵器じゃから捨てるわけにいかんから置いといて、敵の自動車を取って、それに乗って行ったもんです。わたしはオートバイをね、自動二輪を、BSA(英国のバイクメーカー)を捕ってね、それへずーっと乗っとりましたよ。

大隊砲を引っ張って行きよったんです。戦争にならんから。オートバイの後ろへくくりつけてね、引っ張って走ったんです。

Q:どんどん進撃するときはどんな気持ちで行くんですか。

いやもう、あんまり抵抗がないからね。あれですよ、苦労いうのはなかったですね。暑いばっかりで。それとクアラルンプールを早く落とそういうんで、ジャングルを迂回したわけですよね。これはつらかったですね。
裏をかいて裏から攻めるわけですよ、また。そのためにジャングルの中へ入っていったんです。まさか日本軍がジャングルの中を歩いてくるとは思わんわけですよね。

Q:挟み撃ちにするんですか。

そう、挟み撃ちにしたわけです。で、早かったですよね。クアラルンプールへ、何日ぐらいかかったかな。とにかくシンガポールが落ちたんが60日目ですからね、わりと早かったですよ。ジョホールバル(シンガポールの対岸)までは実に早かったです。ジョホールバルのところでちょっと抵抗があったですけどね、まあそれほど苦しい抵抗はなかったです。

あのときはすごかったですよ。どっちが撃ちよるんか分からん。というのは、夜中でしょう。こっちが撃ちよる銃口がバババババ火が出るから、こっちが撃ちよる、敵に向かって撃ちよるのに、我々を船に積んできた舟艇の、敵前上陸用の舟艇の工兵隊がここで飛び込め言うたら飛び込むわけですよ。歩兵は工兵の言うことを聞かにゃあいけんわけですよ。いやじゃ言うわけにいかんのです。

ジョホールバルの今の敵前上陸地点は、わしらも1週間前から望遠鏡で観測しとったんですがね、まさか海の中を、壕を掘っとるとは思わなかった。飛び込んだところは浅かったけど、歩いていきよったら、ズルズルズルーッと深うなって沈んだわけですよ。

 (深夜で)真っ暗闇ですから、わたしらが飛び込むでしょう。飛び込んで、海岸へたどり着いて上がって。それで、向こうから撃ってくるけえ、こっちも、まあめくらめっぽう、見えんのだから。向こうから撃ってくる火光を見て、それへ向けて撃つわけ。そうすると、今度、兵隊を積んできてくれた友軍が後ろにまだおるわけですからね、それが自分らが撃たれとる思うて(撃つが)、今度、(暗くて)わたしらの体は見えんわけ。あれは日本兵とか何とかいうのは見えん。火光を見て撃つんですよ。じゃけえ、それによって(日本軍の弾で)死んだ兵隊もだいぶおります。まあ修羅場よね。

やっぱり装備でも相当、全然見たことのない装備ですよ。まあほんとに価値のある兵器を持っとったですよね。日本の鉄砲は、撃てばよう当たるかもしらんけど重たいでしょう、第一。向こうのは腰だめ銃もこのぐらいな短銃ですよ。ここへ、ダダダダダダダダダダダダ。非常に携行するにしても楽だし、火力が違いますよね。弾が、日本のは1つの薬きょうを撃つのに5発撃ったらやりかえにゃいけんから。連発ですわね、ダダダダダダダダ。じゃけえ、それがどうにも避けがたいもんがあるというのはみんな警戒したですよね。

最後の砦ですけえ、死守しましたよね、向こうも。それで、自分の住みなれた庭ですけえ、庭の内へ、道路に向けてマイクを入れとるんですよ。マイロフォンを。それで線を引っ張っとる。今、どこまで日本軍が来とるいう、観測班が全部つかんどるわけですわ。そこからそこまで距離何ぼいうのを先に計っとるわけですから、砲を撃つにしても射程距離がすぐ、分かっとるわけですけえ、

目標を確認して撃ってくるんじゃから、確かなんやね、落ちるところが。

(11連隊第3大隊は)敵の陣地へ向けて突撃したんですが、ちょうど比治山(広島市内にある70メートルくらいの小高い丘)の山を、あれですよ、こっちの丘から比治山ぐらいのところへ向けて攻めて上がるんですよね。突撃したんですよ。そこで全員やられたわけです。

もちろんわしらも大隊砲を撃つ、機関銃を撃つ、したんですけど、わたしらが大隊砲を撃ってやろうと思うても、撃てんのですよね。比治山の、こう山にへばりついたようになっとるわけですよ、兵隊がみんな。敵から撃たれるから。わたしらが大隊砲を撃ったら、確実に敵の中へ行きゃあええけども、10メートル、20メートルは射程距離が狂いますからね。狂うたら友軍を殺すようになるから、あまり撃てんのですよ。

そういうふうなことで援護射撃も十分できなんで、11中隊はそういうふうな大きな犠牲者が出たわけです。マレー作戦でそこは全部の連隊の中でもいちばんひどかったでしょう、3大隊の11中隊がね。

もうほとんどあれですね、22~23人残ったぐらいのときに向こうが白旗を上げたわけですよ。

「おかしいじゃないか、窓へ白いシャツを振り出したで。おかしいのう」、あっちの窓でもこっちので窓も白いものを出して振るんですよ。「ああ、白旗。手を上げたんじゃ」いうことで、射撃やめで。我々も「ああ、これで済んだ」。で、それでシンガポール陥落いうことになったわけですね。

勝ったらね、うれしかったいね。いやあ、これで済んだ、帰れるわ思うてね。それはもう、それまでは大した戦争、弾の撃ち合いをしてないからね。シンガポールだけは5日間ぶっ通しで撃ち合いしたからね、ほんとに戦争したような気持ちなったですよね。

もう、敵前上陸して上がって一睡もしてないんですけえね。まあ立って歩く歩く寝とるんですよね。もう白旗を上げたいうた途端に、もう、弾もこんし、そこの丘でね、全員寝ましたよ。バッタリ。腰をかけたらすぐ寝る。

まあ3日ぐらいはどうにか頑張れますがね。4日いうたら、もう眠たいの何ので話にならんのです。白旗が上がった途端にみんなそこの畑の中で、クラッと腰をかけたら大隊長も中隊長もない、皆、こうやって寝てしもうたです。いわゆる睡魔に襲われて。

マレーは、シンガポールが落ちたすぐ後、みんなできれいに掃除したんですよ。墓標を建てて、誰と誰がここへ入っとるいうのを全部書いて。

ただ、この指とか手首かぐらいから切ってね、死んだ者の。それを戦友が皆持って歩くわけですよ。それで夜、火葬してね。それだけはお骨に一応とるのはとりますけどね。今のタバコの、向こうのタバコのカンカンがあったから、それを利用してね。それへ皆、遺骨を入れて、ガーゼに包んで首へさげとったんですよ。すぐそのとき焼くわけにいかんから、皆、大体手首を切るんです。死んだ者の手首を切って、これを魚を焼くような網の上で焼くわけですよ。焼いて遺骨をとって、それを内地へ送るんですけど。それで戦争がシンガポールの場合は、もうあっこを占領したら、掃除することができるいうことになっとるけえ、その場へ埋(い)けてしもうて。終戦して後に、各部隊から出て、ずーっとタイの国境まで掃除して歩いたんです。死んだ人を皆はねくり返して、掘り起こして、ほいで焼いたんです。焼いて歩いたんです。その後へ向けて、墓標なり石碑なり建てたわけですよ。

それでまあ、わたしらはまあ、よくやったいうご褒美ですの、もろうたようなものです。11連隊の3大隊だけシンガポールの警備に当たれいうことで、シンガポールの町の真ん中へ置いてもろうたんですよ。町の真ん中いうても、チャンギー刑務所いうんがあるんですよ、飛行場の近所に。そのチャンギーの刑務所を警護するいうことでそこにおったんですがね。

 それでそこで、シンガポールで警備しながら訓練をしてあれです、わたしは上陸地点で目をけがしたもんですから、陸軍病院へ入院して、1か月ぐらい入院しましたね。それで入院しとったら、今度はもう5師団は内地へ帰してもらうんじゃと、よう働いたいうご褒美で帰るんだと。わたしらは草津のほうへ民宿もするようになっとるんですよね。喜んで喜んで、もう。やれやれ、ほんとみんなほっとしとった。と、途端に一晩のうちにクルッとひっくり返って、5師団はまだ帰っちゃいかんと。次期作戦準備に入れいう命令がまた総軍司令部から出てきたんですよ。

明日は内地へ帰るいうのが逆にニューギニアへ行け。命令が変わったわけですね。

もうがっかりよね。まあ文句を言う者は、まあいませんけどね。当時の日本の軍隊いうたら、そうした筋はピシーッとしてましたからね。

鉄砲なんか、全部、油を差して錆んようにきれいにしてね、内地へ持って帰るようにしとったんです。それで、ニューギニアに行けいうことになって、急きょまた石油ね。石油でそれを全部きれいに掃除して、使えるようにまたやり直したんですよ。

広島弁で、「どうなったんかいの」ぐらい。あんまり変わりようがひど過ぎるじゃあないかいうて、随分愚痴をこぼしたんですけど。それはもう軍の命令がそうなったら、当時の我々の立場としちゃあ、「はい」言うてそれに従うしかなかったですよね。それは喜んだんですよ、わあ、今度は帰れるんだいうて、早う帰ったら嫁さんもらおうでいう、もうぬか喜びですよ、途端に。

ほいで、ウエワクに上がって、ウエワクで飛行場をつくったんですがね。

基地がないから。飛行基地が、日本の。あの辺がもう全然なかったわけですよね。

ニューギニアでつくったらもう1つの拠点ができるいうことで、つくったわけですよ。それは、今のジャングルを切り倒せばね、ものすごい広い所ですよ。切り倒さん限りはもう、ものすごい木が生えとるんだから、大きな木が。アメリカのように、ダーッと大きな機械を持ってきてダダダーッとやるんならあれじゃが、日本のはナタを持ったり、手斧(ちょうな)を持ったりして切ってですぜ、ようやったもんじゃ思う。感心するよね。

飛行場をつくったけどね、そうさいさい日本の飛行機も来なかったよ、もう。もう飛行機なかったんだろう思うんだよ、それほど。

2回ぐらい来た思うんですがね、もう戦況が悪うなって、持ってくる飛行機もなくなったんじゃないか思うよ。それで最初来た・・今日、日本の飛行機が初飛行して来るんじゃ言うて喜んで日の丸の旗を出したはいいけど、下で飛行場をつくった兵隊が振りよったら、ヒューッと来て滑走してきた思うたら、アメリカの飛行機じゃ。爆弾を落とされて、飛んで逃げて。ヒューッと逃げてしもうて、せっかくつくった飛行場の真ん中に大きな穴があいて。

もう、「早うやめりゃあええのに、早う戦争はやめりゃあええのに」、もうしょっちゅう言いよったいね。「どうなるかい」いうて。

食べ物には困ったです。バナナの木でもなくなってしまうですよね。切ってから上だけ食うんですよ。ほかにいうたらヤマイモ。日本にもあるけど、山のイモを探して掘ったりね。ほいで、ジャングルの中に、川にエビが結構おったから、エビを、毎日エビをとってエビを蒸して食う。そういうことだけでしたね。

魚は随分とりましたよ。道具がないからね、ジャングルの中のカズラの木を切ってね、それで網をつくる。皮をはいで。それで、それを兵隊がみんな海の中へ飛び込んで追い上げるわけよ、陸(おか)に。

ところが、700人の人間が朝から晩まで魚をとって食うんじゃから、すぐおらんようになる。

Q:マラリアやりましたか。

やった。わたしは、三日熱、四日熱、熱帯熱、3つ持っとったです。帰ってたから、こっちへ帰ってきて3年出たね。ええ具合にいっぺんに出んから、1つずつ、三日熱、四日熱いうように出てくるときは死ななんだんですがね、熱帯熱と三日熱が一緒に出たら死ぬるんですよ。毎日、今日1時に出たら明日2時に出るのは分かっとるんじゃから、はあ2時になったのう思い出したら、寒うなってウーッと震い出す。30分ほど震うたら熱がバーッと40度。それが毎日出たからね、最後にはグロッキーじゃね。食べもんが食べれんようになる。ほかに薬がないんじゃから、キニーネがあるだけで。よう助かったもんじゃ思う。わしはまあ1か月続いたね、40度の熱が。あのときは参ったけど、もうこれは生きて帰れんな思うたけどね、これはこのまま死ぬるんか思うた。

喉は渇くし、大抵、胃をやられてしもうてね。それで最後には死ぬるんです。そういう風土病だね、向こうの。相当みんな命とられたよね。

振り返って、それはするもんじゃない思う。戦争をしちゃあならんぞと、絶対しちゃあならん思いますよ。ほんま死なんでええ者まで死なんにゃあならんです。まあそれはしたくて戦争したもんでもないじゃろうけど、まあ、それにしても、しちゃあならんいうけども、アメリカも軍備を拡張し、中国も軍備を拡張し、まあ備えはしよりますよね。日本も自衛隊をつくって、まあ、守る、国を守るいうのはあるけども、それはもう、鉄砲を撃って戦争して、こっちが勝つか、あっちか勝つかいうようなことはしちゃあならん思う、もう。絶対だめです。繰り返しですよね。

今の人は、「おまえら戦争へ行ってこい」と言われん思うとるから、そういう気がないんであって、やっぱり、日本を守らにゃいけん言うたら、そういうても、今の人でも、「それはいけんのう、行かにゃいけんのう」いうことになるんじゃないかないうてわしらは話すんじゃけど、果たしてそう思うじゃろうかの。

うちの息子に聞いたら、そんなバカなことをせんでええじゃないか言うよね。せんでええじゃないかいうても、日本の国がこうなるいうたら、それはそうなったらやっぱり・・やっぱりみんなで守らにゃいけんいう気にゃあなるたあ言うけどもね。

やっぱり、それはそれなりに、親を守る、きょうだいを守ってやるいうことになったらやっぱり立ち上がるんじゃないんかね。「わしゃ知らんよ」言うて逃げる人が半分、逃げん人は半分はおる思う、わしゃ。逃げん人が。

出来事の背景出来事の背景

【偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島県・歩兵第11連隊~】

出来事の背景 写真西南戦争や日清戦争、日露戦争にも参加した伝統を持つ歩兵第11連隊は、おもに広島出身の兵士たちで編成されていた。

連隊は、日中戦争、仏印進駐を経て、太平洋戦争開戦の12月8日、マレー半島に上陸、マレー半島を自転車で進撃、英軍の猛攻をはねのけてシンガポールを攻略した。しかし、激戦で多数の死傷者を出した。
さらに、シンガポール陥落後、現地25軍に「華僑粛清」を命じられ、多数の中国系住民の殺害に関わった。
その後は西部ニューギニアやその沖の小さな島々を転々とし、補給が来ない中、密林と離島での苦難の生活を終戦間際まで、部隊によっては終戦後も送らなければならなかった。特に、「ケイ諸島」に駐留した部隊は、自活を余儀なくされ、飢えと栄養不足、マラリアや赤痢などの病気に苦しめられた。さらに、終戦直前、11連隊にシンガポールへの転進命令が下るが、制海権、制空権を全く失った中で移動するため、国際法で攻撃から守られている「病院船」を輸送船と偽装して使うことを命じられた。そのため、将兵が傷病兵になりすますことになり、偽名のカルテや白衣が用意された。武器は梱包し、その箱には赤十字の印をつけて医薬品に見せかけた。しかし、その病院船「橘丸」は、出港から二日後、米軍の臨検を受け、偽装は暴露された。
連隊の将兵全員が捕虜になるという前代未聞の事件となった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1939年
歩兵第11連隊補充隊、歩兵砲中隊に入隊
1941年
タイ・シンゴラに上陸、マレー作戦に従軍
1942年
ニューギニア・ウエワクに上陸、飛行場建設に従事
1943年
現役満期除隊、広島県に帰還
1945年
広島市内で被爆、在郷軍人として被爆者救護にあたる

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