ホーム » 証言 » 中野 重男さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「タイ軍兵士に偽装して上陸」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島県・歩兵第11連隊~
名前名前: 中野 重男さん(広島・歩兵第11連隊 戦地戦地: ケイ諸島 タイ(シンゴラ) セラム島  収録年月日収録年月日: 2009年11月6日

チャプター

[1]1 チャプター1 マレー進攻作戦  03:44
[2]2 チャプター2 銀輪部隊  01:34
[3]3 チャプター3 ジョホールバルの激戦  01:24
[4]4 チャプター4 シンガポール攻略戦  03:31
[5]5 チャプター5 ニューギニア戦線  03:40
[6]6 チャプター6 見放された部隊  02:57
[7]7 チャプター7 栄養失調で命を落としていった兵士たち  02:31
[8]8 チャプター8 終戦  03:12
[9]9 チャプター9 戦争体験をふり返って  03:57

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島県・歩兵第11連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年11月6日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

志願兵です。4年早う志願兵に入れたんです。その当時の、心いうものは、天皇陛下と国のためなら尽くすいう思いで、偉うなろうじゃ何じゃろうと全然考えん。ただ天皇陛下と国のために尽くすいう思いじゃったんです、そのころには。

そして「兵科は何がええか」言うけん、まあ、「歩兵がええ」いうて言うたんです。じゃ、歩兵科へ、歩兵入って。したら補充隊の第8中隊いう、中隊へ入れたんです。で、そこで軽機関銃手の軽機関銃、軽機関銃手班いう班が2個班あるんです。その1つの5班いう班に入って、それで軽機関銃をそこで一生懸命で練習をして、

それから今度宇品から出征したんです。7月の15日。広島の連隊から、今の広島城んとこから、ずーっと電車通りを歩いて宇品まで行って、そしたら宇品では、みんな親類の人なんぞいっぱい来て、「万歳、万歳」言うておって、

それから御用船に乗って、夕方、船が出て、それから夜が明けたら玄界灘の方くらいなんです。のっそりのっそりと船が出て行って、どこへ行くんじゃろうか思うたら、

南寧作戦の途中で、わしらの中隊はウゴウいうとこにおるんです。してウゴウいうとこを追及してって、そこで11中隊へ入ったわけです。中隊長がタルオカセイジいう中隊長じゃったです。それから今度、行った日にすぐに、「お前、軽機関銃手じゃけえ」いうて軽機を持たされるんですよ。そしたら、ようほかの人を聞いたら、軽機のその訓練受けた人がおらんのですよ、軽機関銃手を。

昭和16年の12月8日にはシンゴラの沖へ来とったです。

辻政信(第25軍参謀)いうのが、あの、「タイ国の、その服を着て、入れ」言うて。タイ国の服をもろうて、そのシンゴラへ上陸してね。って言っても、なかなかタイ国の人間には見えませんよ。辻政信はああいう漫画みたいなことを、言いよったんです、あの人は。

自転車は持っとったです。自転車がねえ、その乗るとこが余計ありゃあいいが、ほとんど邪魔になるような具合ですよ。自転車に乗って、「銀輪部隊」じゃ言うけん、その銀輪部隊いうのは、ウースン出るところに、「機械化部隊」言うけん、

聞きゃあええように聞こえるが、マレーが道路がええけんいうても、道路をどんどんどんどん進みよったら撃たれてしまうんですけえの。

オートバイ部隊いうのを作って、それで川を、橋を渡って向こうを占領せえ、それで行きおって、橋の真ん中ぐらいで爆破されてね。その橋。

そのときの戦死者見たら、わしの同年兵も何人もおるんですよ。それじゃけん、その当時にそのオートバイをよう使えるんがよかったかどうかいうのはのう。使えん、ようオートバイを乗らんいうほうがよかったような気もするし。どこでどういう運命にあうやらわからんです。

ペナン島行かずに今度それからマレー南下して行って、今度シンガポールのジョホール水道に集結して、それでそのときの話じゃ、シンガポールじゃ、そのシンガポールの対岸には10メートル間隔ぐらいに砲を撃ち込むけ、絶対それはないいうて、いうその、伝達があったんです。

そしたら途中で撃たれるんですよ。バーって腹の底、弾が突き抜きゃ、人間ワーッと上こう向く、上へこう背中を上げや、上をこうバーンと弾が来る。

そして、ようようの体で上陸したとこが「白壁の家」いうとこですよ、目標は。そこへ上陸したらそこでその、泥ですよ、船が進まんけん。

ようようの体でその上陸してね、あっこへ。シンガポールへ。

そしたら向こうのその高地が、名前ではホスピタル高地いうんじゃが、

そこへ払暁攻撃に夜が明ける前の攻撃で行ったんじゃが、ちーとこれは夜が明けるんが早すぎた思うたんじゃが、わしら思うたんですよ。それじゃがしようがない、中隊長が軍刀抜いて、小隊長が「軍刀抜いて前へ進め」いうていうですけんな。進んで行ってほたら右側のほうの小隊が「わー」いう声を上げたんです。いや、これはだめじゃ、声を上げちゃだめじゃ、この夜間攻撃態勢でいうての。それじゃがしようがない、それから今度はどんどんされだした山の斜面について、斜面がこう、急なんですよ。それをこうよじ登って、

右側のほうで今度は機関銃の音がダンダンダンしだし、こりゃもう右側じゃ思うて、またちょっと下がって下へ飛びおりたんです、道路へ。そしたらもう、そこが撃たれっぱなしのところじゃったです。そんでわしゃ、即座にその側溝へ伏せたんです。

そしたらそのころに、そのときに動きゃ撃たれ動きゃ撃たれするわけですよ。

始めは120人ぐらいおった。ウースン出るときは。

たった5、6人になった。じゃけんね、玉砕じゃないんじゃいうのはね、もうなぶり殺しですよ。弾を撃ってるで、ありゃ、よけれんけん、しゃあない。それでもまだ撃ってくるんですけ。ほいで蜂の巣みたいになりますよ。

敵の手りゅう弾投げたのを、ちょうどわしらの目の前のほうへ落ちたんです。そしてぱっと伏せたんですが、そんとき伏せてバーンと爆発して、わしが思うて見たら顔のほうざらざらで、胸のほうから血は出とるんじゃが、そして相手を見たら山田・・・いうて

大きなのどへ穴があいとるんです。そいで血を吐いてね、それが。ほてわしに「中野殺してくれ、中野殺してくれ」いうんじゃが、殺すいうわけにいかんでしょう。それでとうとう息が切れよったとき、「お世話になったのう」いうて、息が切れたです。

この世の地獄ですよ。壮烈な戦死いうてもね、地獄ですよ。

あんなが全部死んで、ほしてそこでちょうどイギリスが白旗を挙げたとこですけんね、そこが。白旗、何カ所かで挙げたところ、その1か所です、そこが。

それから今度、シンガポールの戦争が済んで、今度はシンガポールの警備隊、警備隊だって、そして今度、警備についておって、

それから今度またどんどんどんどんニューギニアの北海岸を御用船が行って、着いたところがラバウルいうとこです。「さらばラバウル」いう歌があるでしょ。ラバウルいうとこへ着いて、

どこへ上陸するんじゃろうか言うたら、わしらの一個大隊はその、ウエワク、ニューギニアのウエワクへ上陸せえ言うて、そこへ一個大隊上陸して、そのときにほかの大隊は、どこにおったかわからんです。

Q:ウエワクではどんなことをしたんですか。

飛行場建設をせえいうて、仮設の飛行場を、があったんですよ。それをつくれいうて、つくるのに、エンピ(シャベル)と鍬(くわ)でヤシの木をほじくるいうて、アマじゃないん。それで、日本の船が、飛行場つくる船が来たけんいうて、行って降ろしてみりゃ、

大八車やらモッコを降ろすんですよ。「ああ、こりゃ大八車でこの飛行場をつくれいうんじゃ」言うて。「モッコで砂運べ言うんじゃのう」いうて言うて。そうして今度はその飛行場が狭いけん言うて、飛行場を広げるいうたら「ヤシの木を切れ」言う、切るいうても、アマじゃない。1本切るの5、6人かかって、半日かかるんですよ。

そしたらようようにできたら、今度は、まあ飛行場だ、飛行場隊が来たんです。そしたら降ろしたものを見りゃ、聴音機の、ラッパの、ほんなのいっぱい、飛行場の横へ据えてね、ほして、戦闘機が下りてきたですよ。

ウエワクへ上陸してあくる日に、飛行艇がグルーッと低うに飛んできたんですよ。それで、日本の飛行機かのう思いよったら、アメリカの飛行機じゃったんです。それからいうものは、今度、爆撃がひどうなってね、飛行場をつくりゃあ爆撃して穴をあけられるのう、そしたら、飛行機の形をつくれ言うて、竹で飛行機の羽根の形をつくって、ヤシの葉を、飛行機に見えるけえ言うて、そういうことをさすんですよ。

Q:それは何のためですか。

さあ、飛行機がこんだけまだおるぞいうことを、日本じゃあ、日本の司令部じゃあ、そういうように思いよったんでしょうのう。竹で羽根の形をつくってのう、ヤシの葉を上へこう、ヤシの葉を・・・それを何機も何機もこしらえて、おとりですよ。そういうようなんが日本の戦いです。

それから今度、わしらの第11中隊だけは別行動になって、アンボンに下がってきて、ほかの中隊は、その所には連隊は、(ケイ)諸島のほうへ来とったわけです。わしらの中隊だけは別になって、今度はアンボンからまたちいと沖へ船に乗って、ハルマヘラへ行けいうことになって、ハルマヘラの湾のとこに「春(ハル)」(日本軍が建設した飛行場)いうとこがあるんです。そこへ行けいうことで、

そこの、たったの1個中隊の軽機関銃と擲弾筒(てき弾筒)ぐらいでここを警備せえ言うて、とっても警備はできんがのういうて言いよったら、そのうちにまた、1か月するかしらんうちに命令が出て、今度また今度は南へ下がれ言うて、警備がかわってね、わしらはセラム島いう今度は島のワルいうところへ上陸したんです。そしたら、朝になって、そのワルで通信がこう話をしてみりゃあ、「ハルマヘラの『春(ハル)』にアメリカが上陸したらしい」言うて、「いやあ、あっこにおったら死んどるがのう」言うて。

毎日毎日、飛行機が来るんですよ。初めのうちには撃ちよったんですよ、低空で来るのへ。そしたらもうあくる日には(そこに)おれんのです、そこに、銃撃やら爆撃を受けて。それで、撃ったら(自分たちのいる)位置を知らせるようなもんじゃのう言うて、来ても知らん顔ですよ。もうヤシの木が揺れるぐらい低空でワーッと来るんです。飛行機は低空で来たら音がせんのですよ。じゃけえ、魚取る、インドネシアで網をこうやって地引き網しよるようにしょう思うてやりよっても、1人は飛行機の音を聞きよれいうて、「飛行機の音じゃ、飛行機じゃー」いうて言うたら、ダーッと砂浜をかけって逃げてね、ジャングルへかけり込むんですよ。そしたら、砂、足跡どおりにザーッと撃ってくるですよ、何回も。すぐに、ジャングルへ逃れたらすぐに横へ逃げにゃいけんです。

ほとんどセラム島で死んだ。それいうのは栄養不良ですよね。

インドネシアの食べるような、・・・、ああいうようなものを食べるんじゃが、満腹はするんじゃが、栄養価があんまりないでね。

栄養不良で亡くなったんじゃがね、書類を、栄養不良で病死じゃいうて書類を出したら、大隊本部から書類が返ってくるわけです。「何を言うか、栄養不良で死んだ言うたら、家族がのう、嘆くじゃないか」言うて。「何ぼでも飛行機が来て爆撃を受けたり銃撃を受けるんじゃけえ、そのときに戦死したことにせえ」いうて大隊本部から。ほじゃけえ、本部の偉い人が言っておったですの。それを皆、戦死にしたんです。じゃけえ、病死いうのはないわけです。セラム島で死んどっても、ほとんど病死ですよ。

中には自殺したんもおるんですよ。

Q:その人はどうして自殺したんですか。

行き詰まったんでしょうやのう、何かに。そしたら、それは役者じゃったいうて言いよったですの。それはセラム島で。これは芝居で女役をしよったって言いよったです。それを皆、戦死者にしちゃうんですよ。こういうことは・・・。

まあそういうようなことをしよって、今度はシンガポールへ移動じゃいうことになって、セラム島をどんどんどんどん歩いてね。

そこから今度、アンボンのトレフいうところへ上陸して、そしたら、そこへ上陸したら、終戦の3日目じゃったです。海軍が「えらい今ごろは飛行機が来んのう」いうて言いよったんですよ。そしたら終戦になっとったです。

Q:終戦を知ったときはどういうお気持ちでした?

いやあ、こんなはずねえのう思うたです、それは。皆、涙を流したです。あれだけ一生懸命になっとってね。特に兵器を返納せえいうとき、兵器の返納のときには、いよいよ日本の・・話もなかったです。小銃やら軽機関銃を。そして、アンボンの港へ、こう見たら、アメリカの軍艦が入っとるんですよね。はあ終戦ですけえ、なっとるんですよね。海軍は一生懸命、畑をつくりよる。そのうちにわしらの中隊は、今度は、1個中隊だけを、セラム島の島にこう半島があるんですよ。フォアマル半島いう半島があるんです。そこへ行け言うて、そこへ行ったら、まあイモ畑が5畝ぐらいあったですよ。あとはジャングルです。そこへ住みつくのに、どうなりこうなりそこで自活せえ言うんですよ。わしらがおったところはオランダの支配下じゃったけえね、オランダじゃけえ、食糧をくれんのですよ、全然。それで、大きな木を腰ぐらいのとこから切っちゃあ倒してね、カラカラになったら火をつけて、そして、そのあいだあいだへ土まんじゅうをつくっちゃあイモのつるをさして、それが終戦から21年まで続いたです。4カ月でイモがなるんです、肥を何もやらあでも。

今、振り返ってみたらね、当時の宣伝に乗せられた思うんです。教育いうものは大事なんですよ。天皇陛下と国のためじゃ、天皇陛下と国のためじゃいうて、命をささげるいう気持ちになるんですの。今じゃあ、軍隊小唄にあるとおりじゃのう思うんですよ。「人のいやがる軍隊に志願で出てくるバカもある」いうて、全く歌のとおりじゃわい思うです。軍隊小唄いうのを歌うですがのう。

とにかく上司が、とにかく天皇陛下の命令じゃ、天皇陛下の命令じゃ言うんですよ。軍隊じゃあ、ほうべたをたたかれるのも、天皇陛下の命令じゃいうて、ほうべたをたたかれるんです。いかに天皇制を利用しとったかいうことがわかるですいの。

それは、一種の、生きとるいうことは、何かがまだ仕事があるんじゃのいうことを思うとります。不思議に生き残ったんですから。靖国神社へ参らにゃいけんですよ。参らにゃあの。あれだけの戦死者を全部、靖国神社へ祀(まつ)っとるんですけえ。国のためじゃいうんで行ってした人をのう。当時はまあほじゃけえ、上層部も、A級戦犯になった人も、国のためじゃ思うてああいう戦いをしたんじゃろう思うですが、全然戦場のつらさを知らん人が考えたことですの。

やっぱりいちばん、戦うたときのことを思う。やねこい(つらい)ですけえのう。いつでもわしは言うんじゃが、火が熱いいうても、ほんとに火を握ったいう人間じゃったら熱いいうことがわかるが、そうでない人は熱いいうことはわからんじゃろういうて。参謀やらなんどいう人は、上におってから、ただ地図の上でこう言うだけですけえの、どこを占領した、どこを占領した、戦死者が何人出たいうことまでは調べんのじゃけえ。

そりゃあ、あの若さで死んでねえ、ましてや、何か言い残すことはあったじゃろうがのう思うようなことがあるですよ。

補充兵で嫁さんや子供がおるんが戦死者が多いわけですよ。いつでも死んでもええわいいうような、わしらみたいな一人もんいう者はなかなか、その当時、まああれじゃが、ほじゃが中にはその「生き残ったらのう、まだまだする仕事があるんぞ」いうことをよう言うて、みんなが言いよったです。

出来事の背景出来事の背景

【偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島県・歩兵第11連隊~】

出来事の背景 写真西南戦争や日清戦争、日露戦争にも参加した伝統を持つ歩兵第11連隊は、おもに広島出身の兵士たちで編成されていた。

連隊は、日中戦争、仏印進駐を経て、太平洋戦争開戦の12月8日、マレー半島に上陸、マレー半島を自転車で進撃、英軍の猛攻をはねのけてシンガポールを攻略した。しかし、激戦で多数の死傷者を出した。
さらに、シンガポール陥落後、現地25軍に「華僑粛清」を命じられ、多数の中国系住民の殺害に関わった。その後は西部ニューギニアやその沖の小さな島々を転々とし、補給が来ない中、密林と離島での苦難の生活を終戦間際まで、部隊によっては終戦後も送らなければならなかった。特に、「ケイ諸島」に駐留した部隊は、自活を余儀なくされ、飢えと栄養不足、マラリアや赤痢などの病気に苦しめられた。さらに、終戦直前、11連隊にシンガポールへの転進命令が下るが、制海権、制空権を全く失った中で移動するため、国際法で攻撃から守られている「病院船」を輸送船と偽装して使うことを命じられた。そのため、将兵が傷病兵になりすますことになり、偽名のカルテや白衣が用意された。武器は梱包し、その箱には赤十字の印をつけて医薬品に見せかけた。しかし、その病院船「橘丸」は、出港から二日後、米軍の臨検を受け、偽装は暴露された。
連隊の将兵全員が捕虜になるという前代未聞の事件となった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1937年
歩兵第11連隊補充隊に入隊
1941年
タイ・シンゴラに上陸、マレー作戦に従軍
1942年
ニューギニア・ウエワクに上陸、飛行場建設に従事
1944年
ニューギニア南海上のセラム島へ上陸、自活生活
1946年
復員、マツダ株式会社勤務
2010年
逝去、享年87歳

関連する地図関連する地図

ケイ諸島

地図から検索

関連する証言

関連するニュース

NHKサイトを離れます