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タイトルタイトル: 「組織された少年兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 宮平 盛彦さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 沖縄県立第一中学校の生活  05:31
[2]2 チャプター2 召集  06:58
[3]3 チャプター3 米軍沖縄本島上陸  01:45
[4]4 チャプター4 島尻(南部)へ  02:54
[5]5 チャプター5 大混乱の南部撤退  02:33
[6]6 チャプター6 母と姉  04:06
[7]7 チャプター7 本島最南端、摩文仁に追いつめられて  10:28
[8]8 チャプター8 摩文仁を脱出  04:01
[9]9 チャプター9 南風原での潜伏生活  04:01
[10]10 チャプター10 投降の呼びかけ  03:34
[11]11 チャプター11 投降  09:05
[12]12 チャプター12 自分は何のために戦ったのか  04:28

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月8日

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ちょうど、一中に入ったのが1943年。昭和18年ですよね。ちょうど小学校6年から、6年生から一中に合格して、この今の西原村、当時は西原村から首里まで歩いて通学しておったんです。丁度、今のような大きな道でなくして山道をこう、近道を通るようにしてこう、山道を伝ってね歩いていったんです。

Q:どんな勉強をしたいと思って一中に入ったんですか。

そうですね。もう僕らのころからは戦時中ですので、特にどういうという目標はなかったんでしょうけど、当時は兵隊さんになるんだというのが教育ですから、そういうことで、最初の1年間は普通の授業もあって、そのころまでは英語の勉強もしましたよね。そういうことで1年間は、普通の中学校、中学生としての授業をやりました。それで2年生に上がって、したら、もうそのころからは随時兵隊がドンドン増えてきて、学校も休みがち。というのは、学校、この入ってきた兵隊は、そういう受け入れの宿泊地とか、そういうのもないし。学校を利用して、もう、学生は授業をみんな取り止めて、そこに兵隊が駐屯すると。学校にですね。そういうことで、そうですね、2年生の夏休みごろ、5~6月ごろからはもうほとんど授業はなくして、軍隊の、例えば壕掘りを手伝いに行ったりとか、あるいは道路を造るのに手伝いに行ったとか、塹壕掘りなんかもさせられて。

いずれはなるという、なりたいということより、なるということだったんでしょうね。そんな、特にしかし、兵隊に、いえば、ありましたよ。わたしらのころは、僕らの同じクラスからもね、幼年学校、当時の軍隊の英才教育をする幼年学校に合格し
たのが1人おったしね。そういうことで、そういう軍隊志向というのはありましたね。

結局、1945年、昭和20年ですよね。2年生の1年間は夏休み以降ですけど、7月か8月ごろからはずっと、ほとんど学校は行けなかったんですよね。そういう作業ばかりさせられて。して、11月ごろになってね、そのころもまだ、ちゃんとした授業なくしても、学校に集まったりなんかはしておったんで、11月ごろになるともう作業行かなくていいような形になったんですよ。というのは、軍から無線通信の訓練をしにきたわけです。昭和19年の11月ね。19年の44年かに、11月ごろになったら、もう作業行かなくて、軍で、兵隊が来て、無線通信の基礎教育をやったわけです。あのトトツートトツー、イトールジョーホコーとかいってね。無線通信を習うわけです。テンキンもたたくまねしてさ。こんなことやって。もうそのころからは作業なんかは行かなくて。

それで、3月入ってからはもうほとんど、学校にも行けないんです。ずっと壕に。家族と一緒に壕に入っておったわけです。そこに、3月のおそらく24、5日ごろじゃなかったかと思うんですけど、学校のね、先輩の人が僕らの1期先輩の人が、入隊しなさい集まりなさいという、召集令状みたいなものを持ってきたわけですよ。さすがに真っ赤な紙ではなかったんですけど、普通の白い紙だっただろうと覚えていますけど。それで、28日。3月28日の何時ごろ集まりなさいという。まあ午前だったと思うんですけどね。集まりなさいということで、呼び出しがきたわけですよ。

Q:その呼び出しがきたとき、ご家族の反応はどんなでした?

父はあんまり、お父さんはあんまり何も言わなかったんですけど、母がとても心配してね。こんな小さい子まで、なんで戦場に行くのかと。行っても何もできないじゃないかという。もう背も小っちゃいし。まだ中学、やがて3年に上がるという年ですよね。だから何もできないじゃないかというようなことで、まあ行かんでもいいじゃないかと説得はされましたけど。しかし、わたしらとしてはもう、軍隊から無線通信を受けているんで、当然何かあったら呼び出されるんじゃなかというよう、一応内心では覚悟を決めておったわけですよね。だから大丈夫だからというようなことで説得して、まあ、母のそういうあれを振り切って行ったというような感じですね。

Q:それぞれの部隊に入って、政彦さんは、どんな作業をされたんですか。

僕はですね、その100何名から、それを4箇所の4中隊、5中隊、6中隊、それとコテイ隊というのがありましてね。僕は6中隊に大体32~3名分配されて、あのコテイ隊というのは少なくて20名以内くらい。4つに分けられて、僕は6中隊。これは大体クラス、クラスごとに何か分けられたような気がしますけどね。僕は6中隊。南風原の当時の南風原村の字本部というところにある、6中隊に配属になりました。

Q:どんな仕事をしてました?

それでね、6中隊に配属になって、その日のうちに6中隊に入隊して、したら、三角屋根の兵舎がありましてね。それで行ったら早速、中隊長からの訓示があって、まあハッキリは憶えてないけど、頑張れという訓示をしたんでしょうね。それで、一晩はそこで一泊したわけです。それで翌日なったらね、その前に、行ったら早速襟章、2等兵の軍隊の記章ですよ、それを渡されたわけですよ。何か最初は2等兵じゃ物足りないなという気がして。そのころの2等兵っていったら、もう大変な、みんなからいじめられて大変なもんですから。まあ、そういうあれもあって、したら、最初はね、軍属という位置づけで軍隊は考えておったらしい。しかし、軍属となるとそれなりの扱いをしないといかん。いわば、正規の軍隊じゃないわけです。軍隊と民間人の間みたいなもんですからね。僕らを兵隊にしたのは、何にでも、軍務の何にでも使えると。どんな仕事でもさせられる。いうことで、兵隊にしたという、なんか、あとで、こんなうわさが聞こえましたよ。

まだ砲撃が止まないうちに飛び出ることもあるし、あるいは、今は少し待っておいて、少し止んでから行けと言われるようなこともありましたけど。大体そういう感じで。特に首里城のそばを、首里城の横を通っていくわけですから、特に、普通の砲撃ですから、いつでも砲撃はあったわけだからね。特に危ないとか、のは2~3回はあったかもしれませんけどね。まあそういうことで、一応、伝令の仕事っていえば危ない仕事で、だったとは思います。

あのですね、これは、丁度、4月の初めに上陸するちょっと前さ。3月の29日ころ、首里に分隊派遣なったと思うから、2~3日したら上陸しているわけですよね。4月1日。そこで、何というか、召し上げしたり伝令したり、まあ雑用を軍隊でやっているうちには、結局4月も過ぎて、5月。したらもう敵は首里のすぐ近くまで、5月の20日ころからは安里、今の新都心ね、あそこあたりまでも米軍は攻めてきているわけですよね。それで、首里のすぐ下の安里辺りに戦車が出たんだと、戦車がここまで入ってきたと、米軍の戦車が入ってきたと。したら、弾の音がパラパラパラ聞こえてくるわけさあね、そのころからは。小銃の弾みたいなのがパラパラパラして。

ああもうここまでかなという思いはあったんですけどね。それで、わたしらは、その小銃の音も聞いて、そのころからまず軍司令部が先に撤退していったんですよね。その僕らいちばん最後ですから、傷病、負傷兵とかそういう人らももう団体で逃げられなかったような人は、1人でビッコひいたり、あるいは松葉杖みたいなものを突いて、道路をヨタヨタして逃げるような人らもおりましたよね。そのころからはね。

Q:でもすぐあと、少年兵たちも歩いていったわけですよね。

そうです。わたしらはね、どっちかというと身軽ですから、どっちかというと。こんな、もう兵隊のように重装備も何もありませんしね。鉄砲も、通信隊ですから、鉄砲も何もないんでね。身軽ですから。こんな大通り歩かないですよ。そばのあぜ道あぜ道あぜ道を伝って、大通り行ったらもう、大通りこそあれですからね。もちろん向こうに一本道、本当にこれ一本しかなかったんで。もう爆撃もあるし、飛行機でもやられるし、また、集中砲撃もあるということでね。わたしらはどちらかといえば、重たい荷物も食糧ぐらいですからね。あぜ道伝いに、いえば小道を探して逃げていったわけですけどね。それに、敵の砲撃とか爆撃とかあったら、素早く逃げるわけですよね。伏せたり、低いところを探してそこに身を隠したりなんかやるだが。この大通りを行く人は、もうほとんど周囲に散らばるくらいでね。中にはもう全然逃げる体力も何もないような人らが、ゾロゾロやられっぱなしでドンドン行くっていうような状況もあったんですよね。

Q:その大通りは死体が……

そうです。死体がゴロゴロです。そのころは。中にはちょっとした土手なんかね、道のそばなんか、土手なんかちょっとあったら、そこに腰掛けたり、あるいは荷物をね、背負った荷物をそこに載っけて休んだままやられているとかね。そういうのがたくさん、団体で行動した人らが、例えば荷車で引き揚げていくような。そういう荷物を輸送すると、そういうあれがもう、多くあれですよね。当時の敵弾にやられたのは、そういう弱いような人ばっかりね。そんなです。

Q:それを、15歳の最年少の兵隊は、どんな眼で見てました?

そうですね。もう、あのころからはね、どっちかというと、そういう死体を見ても何か自分とその死んだ人とのあれはもう、別のもんだというような感じしか、意識的にね、別種類の人間、いえば、人間が死んだという気がしないわけですよね。感覚のマヒっていうか、何でしょうね。

Q:でも同じ沖縄の人間ですよねえ。

そうです。そうです。まあそこまで、いわば突き詰めて考えたことも、もちろんなかったんでしょうけど、自分が助かったという思いだけですよ。もう死んでも、これ当たり前。というようなことじゃなかったかと思うんですけどね。

あれね、大体5月の初めころか、あるいは4月。まあそのころだったと思うんですけどね、そのころからは、いわば僕は伝令なんか行ったり来たり、往復する。首里城の中を通って、特に危なくないようなときは、この首里城の中を通ったりしたわけです。今の首里城のあれをね。別にあのころは行き来は別に大丈夫だった、何も制限なかったんで。したら、西原辺りはものすごく黒煙が上がったり、爆撃されたりというような音も聞こえるし、どうなっているかなと心配しながら伝令も行き来やっとんたんですけど、その伝令の5月の初めころ、帰りに砲撃、首里城をちょっと通り越して、東の方に通り越して、自分の壕の近く行っておったんですけど、この砲撃があったもんですから、それを逃げようと思って、隠れようと思って、ある近くの壕に飛び込んだら、そこに母と姉がいたんですよ。その壕にね。奥の方に、隠れておったんです。

Q:どんな言葉かけられました? そのとき。

いやもう、お互いに元気かということだけですよ。何しろ、情報がなにもわからんわけですからね。どうなるかとか、そういうこともわからん。どこに逃げるかということもわからないですよ。だから、あるいはうちの母親は、一応、わたしの分隊の壕に連れてきて、分隊長とも、息子がお世話になっていますとかいうようなあいさつもして。おそらく、どこに逃げるかというような話も、聞いたかもしれませんけど、僕らとしては、どこに逃げるかなんて……

Q:お母さんはどんな様子でした? そのとき。

いやもう、そうですね。まあしかし、軍隊に入ったからには、別にもうしかたないというようなことだったんじゃないかと思ってるんじゃないですか。ただ、会えたということだけは、確かに……。そうねえ、まだまだ子どもですからね。僕らもあのころは。こんな、例えば、首里から島尻に撤退しても、逃げ場がないんだということがわかれば、今の、その壕にそのまま残っておきなさいと言えたかもしれませんけどね。そこに残っておけば、別に生き延びたんだとは思うんですけど。結局、僕を、僕が逃げるところについて行きたいというようなことがあったのか。結局島尻まで逃げていって、向こうで亡くなったわけですよね。

もう摩文仁行ってからはね、伝令とかそういうのはなくて、中隊、6中隊と一緒に山城、最初は摩文仁の丘がありますよね、軍司令官が切腹したという、牛島中将が切腹したという、あのすぐ近くまで行ったんですけど、ここに適当な壕がないということで、他の4中隊、5中隊はその近辺の海岸縁に降りて行って、その岩陰に隠れておったんでしょうけど、わたしらは山城というところ、ヤマグスク。ちょっと4~5Km、4Kmまではないかな、3Kmくらいか。ちょっと離れたところに6中隊は、壕があって、そこはちゃんと簡単なあれでしたけど、岩の下に横穴掘ってね、ちょっと壕みたいのがあったんで。そこ行ってからは、何回かは外に出たでしょうけど、水くみに行ったりとかね。それから食糧もらいに、米とかそういうのをもらいに行ったとかいうことはあったんですけど、ほとんど出てませんね。したらもう、最初はね、行って6月の10日、10日にもならんかな、10日ころまではとっても平穏でさ、何も、戦争の気配も何もなかったんですよ。摩文仁でも。軍司令部が移った当座は。そこまではそんなに米軍も攻撃も何にもなかったです。1週間もたたないうちに、もうドンドン、兵隊から住民から、そこに終結するにしたがって攻撃もひどくなっていったんです。ホントに。

それ以降はもう、専ら逃げるだけ。兵隊も、鉄砲も何も持たんで、壕のある人は壕に隠れて。ない人は、道から歩く人はもう、もちろん銃に挿す剣とかああいうのはね、手りゅう弾みたいなのは腰に下げてましたけどね。鉄砲も邪魔ですから。鉄砲撃つわけじゃないから、ほとんどあれでしたよ。壕に潜んでいるときだけは、攻めてきたらやらんといけんから、しょうがない。それでもほとんどは、できるだけジイッと発見されないように静かに隠れろと。だから、住民でも、子どもが泣いたら口を押さえて亡くしたとか、いろいろいわれてますよね。そういうのもあったんです。できるだけ静かにして隠れると。発見されたらやむを得んと。

Q:15歳の少年が突然、14歳ですか、当時。それが戦場に投げ出されちゃう。

そうです。いやあ、困ってましたね。ああいう意識的な考えを持ったということはあんまりないですね。例えば、さっきの話のように守ってくれるかとか、あるいは、戦争をどう思っていたかもね、何ですかね、そういう風に仕組まれた運命みたいな感じで、自然に受け流しておったんじゃないかな。止めるんじゃなくして。もう流されていったような感じですね。運命に。

Q:14歳ですよね。

そうです。まだ14歳半くらいですよね。9月までいかんと15歳にならん。それで、そこをもう、その壕をもう、サカモト曹長と一緒にその壕を出ましてね。最初は向こうは、海べりは断崖絶壁ありますよね。向こうの海岸の波打ち際とそこの陸との10メーターくらいの崖がありますでしょう。そこの海側に降りていって、丁度、人が何とか上り下りするようなところがあってね。そこを降りていって、そしたら、下は波打ち際ですよ。ゴツゴツした、足もとはとてもゴツゴツしたようなところ。岩も、大きな岩がポツンポツンとあちこちある。そこへ行って、そしたらそこでもね、住民から兵隊からもう、右に行く人、左に行く人、もう右往左往でしたよ。そこの。で、そこでは、ちょうど断崖(だんがい)があって、その中腹ぐらいに、ちょっとしたほら穴があってね、そこに何とかよじ登れるようなあれがあったんで、そういう下にじゃなくして中腹ぐらいにほら穴探して入っておったんですけど。したらもう、そこに米軍がこう、裸でやってきてさ、やってきて自動小銃をパラパラ撃ったり、手りゅう弾を投げ込んだり、また袋にダイナマイトか何か入れてるんでしょう。中間辺りに潜んでいる兵隊を追い出そうということでしょう。そこに上からロープでつるしてさ、そこで爆発させてみたりね。もう本当に気が気で、命がけだったんで、ここにいたら危ないなということで今度は、そこからは逆にまた、陸の方に上がっていって、その波打ち際はすごいもう死体がねあって。例えば、水で、波にこうね、砂浜の方に死体が打ち上げられておったり、大変なあれでしたよ。その崖下(がけ下)から上に上がるときもホントに真っ暗。真っ暗闇の日に行ったもんですからね。向こうの死体をさ、踏みつけて、踏みつけて波打ち際を陸に、陸上に上がるたんびに、道を探すのにね、ホントにもう、足の下で踏みつけているを感触でわかるんですよね。こういうのをまだずっと覚えていますよ。

したらね、そこ逃げるとき、逃げ隠れしてると、車座になってね、自決したような人らの集団があったり、いえば一般民ですよ。兵隊じゃないです。あれはもう、親たちは死んでしまって泣き叫ぶような小さい子どもとかがほったらかされておったり、こんなのが目に入ったですね。このアダンのジャングルに。もう逃げられないと思ったんでしょう。あるいは、小さい子どもをほったらかして逃げたのか、いうようなこともあったしね。というのは、泣き叫ぶと、結局、人がいるということがわかるわけですよね。それを嫌って、子どもだけを置いて逃げたのか、それはわかりませんけどね。あとでまた、探しに行ったかもしれませんしね。そんな風景もあったね。そんなことでした。

そこで大体、それでも8月、ひと月ぐらいおりましたから。そのアダン林の中に。それで8月の初めになってから、もう周囲も静かになっているもんだから、じゃあ山原に突破しようということで。そこをサカモト曹長と一緒にそこを出て、それからまず与座、与座を通って、8月の初めですよね、それから東風平。東風平にね、東風平行くときに、その山道を夜、もう昼は隠れて。壕探して隠れたりなんかしているから。夜、山道を歩いておったら、日本兵がゾロゾロ行くのが見えたもんですから、声かけて、したら、同じ6中隊の兵隊だった。わたしらね通信隊の。そこにわたしらの同級生も3名、4名だ、4名で。それで兵隊が2人。それと出っくわしてね、じゃあ一緒に行こうというここで、東風平まで一緒に行ったんですよ。そしたら東風平に壕探して、入っておって、したらねえ、ある夕方、東風平から与那原っていったら近い。この与那原の中城湾さあね。中城湾。そこの方でね、ものすごい弾をさ、大砲とか機関砲とか、ああいうのを一斉射撃みたいなのがあったんですよ。空に向かってね。それでサーチライト、探照灯。これが乱舞しているわけ。それまでは特攻隊なんて最初のころは特攻隊も4月の初めころまではね。特攻隊とかそういうのも来たという話も聞いたけど。なんで、今ころからこんなのがあるかと。したら後で聞いたらね、これが8月15日だったんだよ。あのアメリカの戦勝。いわば、戦争の祝勝祝いというかね、そういうことで、何かアメリカのお祝いみたいな感じなんですよ。日本がもう降伏したと。

それで何でかというと、食糧がたくさんあってね。米でも、いろんなのが。水も上からこう。水もタラタラね、落ちて、これをこう容器に受けて、外に出る必要がなかった。いちばん少なかったのは、燃料。油。油っていっても、灯油。灯りをつけるためのね。ですから、それだけが不足であって、あとは食べるにも何も心配ないっていうことで、じゃあわたしらもそこで、合流させてくれということで合流したわけです。そしてそこで、結局、そこは9月の初めだから、10月11月、2か月、もうほとんど3か月くらいね、そこにじっとこもっていて、外との情報とかのあれもほとんどなくて。

捕虜になったら確実に虐殺されるという、考え方だけですよね。

Q:日本兵から投降するなっていうふうに言われたりとかはありました?

特には、いやあそんなあれはなかった。教育はそうですよね。教育は。それは日本兵だって同なしですからね。結局、進んでね、進んで捕虜になったというあれはなかった、いなかったんじゃないですかね。もちろんもう、「出てこい、出ないと撃つぞ」というときは手を挙げたかもしれませんけど。進んで捕虜になったという人はいないんじゃないですかね。それでねえ、だから、そこで長く居座って、言えば、こもった。というのもやっぱりある事情があるわけです。普通大体6月23日ころ、玉砕して、すぐ捕虜になった人、というのはほとんど囲まれて逃げ場を失って捕虜になった。あるいは、もう10月ころ、また9月10月になったら、もう日本は負けたから投降しようという、大部隊で、言えば、部隊ごと投降したようなところもあるわけですよね。こういう人らはやっぱり、そういうことを米軍から、あるいはそれを説得しに来る人がいるわけです。まわっている人らがいるわけです。

そういうようなときだから、そういうまだ隠れている人らをね、兵隊とか一般住民でも何でも助けようというようなグループがおって、こういう人らが、一応、10月の半ば、壕に入ってから、壕は9月の初めだから、1か月半くらいしたころね、日本はもう、ある日、この壕に入ってきた人がいてね、2人。日本負けたんだと。だから帰れるからね、自分の故郷に帰れるから、もう出てきて、捕虜になりなさいじゃないわけです、そのころから。負けたんだから、もう捕虜じゃないわけですよね。だから、そういうことで、それを説得しに来たわけですよね。2人。日本のもちろん、軍服じゃなくして、普通のね、簡単な兵隊のあれで、日本はこういうことで、無条件降伏したんだというようなことで、みんな国に帰るのを待っているんだというような話を持ち込んできたわけです。中に隠れている人は、これは敵のスパイだと。誰も信じないわけですよね、そのころは。みんな隠れているので。それに周囲とのそういう周囲の状況も全然わからんし、それで、もうこれは生きて帰すわけにはいかんというようなことで。その壕はとても大きな壕ですので、その入ってきた入口をね、他の壕の出口があって、裏から回っていって、そこをふさいでしまったわけです。逃げられないように。出られないように。それで、じゃあもう、わかった。出るからということで、納得したというフリをしてね、帰してふさがれているもんだからもう、そこで逃げられなくて射殺されたんです。この2人は。

そしてそれをもう見てるうちに、だんだん、兵隊たちも心細くもなるし、あるいは信じようという気になった。だんだん変わっていったんですよね。それで、やっと11月の末ですよ。僕は23日というふうに今あれですけど、そのころになってね、じゃ出ようと。壕を出ましょうというふうに話がついたわけです。それでこんな11月遅くまで壕にこもっておった、ひとつのね、遅くなった理由があるんじゃないかと思うんです。

Q:その2人の説得にきた日本人が殺されたとき、政彦さんは何をしていたんですか?

僕はまだあれだから、兵隊たちがいろいろ話しするのを、ただ聞いているくらいしかあれですから。ずっとこの壕大きいですからね。こういうのをやったのも、直接見たわけじゃないんですよね。ちょっと奥に引っ込んでいて、隠れていて、そこで協議したのは聞いていますけど、その人が撃たれる現場とかそういうのは見てはないんです。

結局もう、屋嘉の収容所行って、屋嘉の収容所行ってね、あれだけの人がもう捕虜になって、やっと、これ日本が負けたというのは本当だなと。というのは、屋嘉行くまでにも車で通りながら、もうね、戦争のあれはないんですよね。米軍のキャンプとかそういうのはあるけれども、戦は全然やってないわけですからね。それで、屋嘉行くまでは、どっちかというと、何か言われはせんかと、詮議(せん議)されて何かやられはせんかという恐怖はありました。したら、後で聞いた話ですけどやっぱり、屋嘉でもわかっておったと。そこで、やられたということはわかっておったけども、これは不問にしようということで話は決まった。あとでそういう話があったみたいですね。もう、この責任は問わんようにしようということだったらしい。僕には全然、そういう、その出来事について誰も詮議もなにもありませんでした。

Q:ただ、ご自身ではどうかなと。

そう。これは僕はずっともう、それ以後ね、ずっともう心の中にあって、申し訳ないことをしたんだと、いうことはいつでも思っていてね。だからといってね、あまりいいことでもないんで。

ですからね、どうしてもまあ、申し訳ないという気持ちだけですよね。元気でね、せっかく戦闘からは生き延びたわけですからね。戦争からはね。こういう人らが人助けのために、説得に来てくれたのに、手をかけてしまったと。そんな気持ちがどうしても、抜けない。あの、申し訳ないという気持ちが抜けないもんですから、ただ、中にはもう、そういうことをね、今さら知ってどうするんだと、こういうのは伏せておけと。いう意見もありましたよ。あります。ただ、この平和の語り部というのがありますよね。僕も2~3回、町でも戦争体験ということで話をするんですけど、さすがに中学校とか、小学校は先生方だけでしたけど、中学生とかね、こういうふうなのは、あんまり、なんか生々しいような気がして、この話はできなかったけど。町民を対象にした、戦争体験のそういう体験談の発表会みたいなのがあって、講演会があって、そのときに一応は、こういうことがあったんだというあれをやったわけです。

Q:50年目で初めてこのことを話されたと思うんですけど、何で50年間言えなかったんですか?

うん、やっぱりそれまで、あるいは、その後でいえば、屋嘉にね、捕虜になって行ってあと、あるいはそのままみんな口をつぐんで、隠しおうしたのか、あるいはまだ当時の人は元気で一緒に投降した人も元気だし。こんなことを話すと、僕はどっちかというと、直接手をかけたわけでもないと。まだ子どもだし。そういう、責任も問われないんじゃないかという気があるもんから、できるだけどこの誰、どなただったかを知りたいというあれもありましたけどね。やっぱり迷惑だと思う人がいたら困るなあということですよ。それとまあ自分自身も一団におったわけですから。グループにおったわけですから。自分自身の負い目もあるわけです。悪いことしたと。今だと殺人罪ですから。まあ戦争のときは殺人罪てない。殺したほうが英雄ですから。もうあれですけどね。ただこれだけは、やっぱり50年間ね、言えなかった。しかし、このままでいいのかというまた気持ちもあったもんですから。これももう、普通の平常心ではないわけです。まだまだ、これが気が晴れるということはないと思います。ずっと。

そうですねえ。やっぱり、自分自身の意思じゃなくして、何ていうんですかね。やっぱり教育がそういう教育だったんですよね。今考えても何のために戦争を、戦争に参加したかといっても、ちょっとまだまだその教育のあれが抜けないんですかね。まだわからないんですけど。洗脳ですね。

Q:自分の手で沖縄を守るんだという意識はありました?

いやあ。そんな、まあまだそこまで考えるようなね、年齢的にあれだったんじゃないですけど。あとで聞くと、だいぶそういう沖縄で徴兵された少年兵なんかね、ここは君たちの島だから、君たちで守れってあの、肉弾攻撃みたいなね、爆雷を背負って戦車の下に潜り込んだのは、ほとんど少年兵だといってます。もう鉄砲撃つ教育しないで、あの訓練だけやったわけですからね。戦う訓練も。これなんかも、この人らに聞いてみないと、本当はわからないですけれども、本当に進んでその役を、自分で進んでそれをかって出たのか、あるいはやらされたのか。特攻隊と一緒ですよね。特攻隊でも、「みんな希望する人は一歩前に出なさい」って言ったら、みんな出たわけですからね。ホントの気持ちだったかどうかはわかりませんよね。戦争は怖いです。うん。こんな、どういう事情があれ、例えば島尻であれだけのね、逃げ隠れする壕も何にもない。ただ道を右往左往している。しかも兵隊はどっちかというと壕を、探して隠れるその可能性もあったけど、一般住民はもう何にも無防備で何でもないんですよ。これをアメリカはあれだけ殺したわけですからね。戦争には正義も何もないですよ。今の中東あたりのあれも、でもそうだと思うんですけど。戦争は絶対やっちゃいけないですよね。そういうことです。戦争になったら、もう殺し合いするしかありませんのでね。戦争は悪魔です。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
西原国民学校卒業、沖縄県立第一中学校入学
1945年
一中通信隊として、電信第36連隊第6中隊へ配属
 
沖縄本島での戦闘に参加
 
戦闘終了後、洞窟に身を潜め続け、10月に投降、捕虜となる
1946年
首里高校3年に編入

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