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タイトルタイトル: 「砲弾の嵐の中で」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 比嘉 重智さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月11日

チャプター

[1]1 チャプター1 砲弾が落ちる中の卒業式  11:35
[2]2 チャプター2 野戦重砲部隊への配属  06:16
[3]3 チャプター3 失われていく体力、体重  09:29
[4]4 チャプター4 埋葬することもできなくなった  02:57
[5]5 チャプター5 解散  04:33
[6]6 チャプター6 投降の決断  05:08
[7]7 チャプター7 方言で話して殴られた現地召集兵  07:01
[8]8 チャプター8 中学生だった比嘉さんがしたためた遺書  01:45
[9]9 チャプター9 壕を訪ねて  03:25

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月11日

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結局あれ、8時ごろですか、9時ごろかな、養秀寮の中庭にみんな集まってそれから来賓として島田知事(島田叡沖縄県知事・沖縄戦で戦死)が、ちょうど校医の与儀っていうお医者さんがいたんですが、そこのお家がトウロクナなんですよ。島田さんは向こうに宿泊していたものだから、島田知事がむこうからお見えになって、それから寄宿舎のほうに木村参謀という32軍の参謀がいましたけど、2人が来賓としておみえになって。艦砲がときたま落ちるんですよ。2~3発、ちょうど那覇港に米軍の艦船が停泊して、そこから首里城をねらい打ちするものだから、弾が養秀寮の近くにも落ちちゃって。みんなびっくりして逃げようとしたら、篠原中尉が「動くな」と一喝されて。島田知事も木村参謀もびっくりして逃げようとしたのを、篠原中尉が「動くな」という一言で、みんなそのまま弾の落ちる中を不動の姿勢でやりましたけどね。だから島田知事が「日本一の卒業式」だと、ほめ言葉がないものだから、しようがなくて日本一の卒業式だと言ったんですが、わたしは、弾の落ちる中でする卒業式が日本一かなというんで疑問を抱いたんですけど。
    
Q:知事が訓示で日本一の卒業式だと。

はい。日本一の卒業式だ、こんな卒業式はいまだかつて日本にはなかったからということで、褒めたつもりでしょうね。

Q:先ほど、軍国主義教育を受けていたから兵隊になるのは当然と思っていたとおっしゃっていましたけれども。

当然と言うよりはしようがないなというふうな感じですね。わたしは予科練とか幹部候補、軍関係の学校は受験しなかったですよ。学校の先生方が、お前、工兵に受験しろとか予科練に受験しろとか言っていましてけど、黙殺と言うんですか、聞かないふりで。首里の連中はほとんど軍関係には行っていません。行った連中は助かって、ここに残ったのは全滅しましたね。わたし以外は全部。10名のうち9名死んだから。

あれは軍服をもらって、当時洋服は木綿じゃない、あれはなんと言うのか、ちょっとすると、すぐ破れる洋服だったんです。それで新しい新品の軍服をもらったものだから、みんな嬉しがって、なにか将校になったみたいでね、上級生たちはいつも腰に手ぬぐいをぶら下げていたんです。で、軍服を着て、それから手ぬぐいを腰に下げて威張っていました。そうしたら上官が、上官と言っても上等兵ぐらいですけどね、上等兵とか二等兵とか一等兵というのは最下級の兵隊でしょう。入隊以前は下っ端の兵隊だというので侮っていましたけど、そいつらが来て、貴様は上官が来ても敬礼もしないのかっていうことでビンタやられましてね。それで、ああ軍隊に入ったなという。

沖縄戦が始まったのは3月23日で、22日までは、当時の中学生はマチマーイというのがあって、町を散歩するのを方言でマチマーイと言うんです。それでもって女学生を見るとなんとなく胸のときめきを覚えて、よくやったんですけれども、23日に空襲が始まって、友だちとマチマーイに行ったんだけど、みんな戸締まりしちゃって、当時は電灯もないですから真っ暗ですよ。道が真っ暗して人通りは全然ないし、だから軍服をもらっても別に外に出るとか、それよりはどうしたら弾の来ない、壕(ごう)、防空壕みたいなの、どうしたらそこに避難できるかなっていうのが。

親父はもう2月の26日に防衛隊で召集されたんですよ。それからちょうど1か月後の3月27日の晩ですから。わたしの家族は3名なものですから、親父とお袋とわたしと。親父が召集されてわたしが3月27日に勤皇隊に行くというので、まあ今から考えるとお袋はだいぶ心配だったと思いますけど、当時の一般の国民の考え方としてはもうしようがないなという。特に沖縄は島津の侵略(1609年の薩摩藩の琉球侵攻。琉球王国は薩摩藩の支配下に置かれ、幕藩体制に組み込まれる)があってからあきらめの境地になるのが早かったんじゃないかと思いますね。何も言わなかったですよ。

そのとき、ごろっと横になると艦砲がバンバン落ちるんだけど、なにかその艦砲の音が子守歌みたいに聞こえましたね。疲れて睡眠不足なものだから。

それがね、洗脳されていますよね。皇国は不敗であるとか、遠来、皇御国は2600年敵に破られたことはないからということで、まさか敗戦になるとは知りませんし、いつかは勝つだろうと思っていたから。あれでだいぶ助かりました、洗脳されたから。あれが最初から負けて、どうせこの戦は負けだということが分かっていれば、体力的にも参っていたと思いますよ。

あれは、3月23日に空襲が始まって、24日に島尻のほうに艦砲が、ドスン、ドスンという艦砲の地響きがちょっとして、25日からは・・米軍の艦船というのは1498隻でしょう。だから結局、首里から那覇を見ると、那覇沖のほうに米軍の艦船というのがほとんど海面が見えないぐらいですよ。だから敵ながらあっぱれだなというので、敵がい心というよりは、すごいなという気持ちでした。

いや、それでも連合艦隊のほうが強いと思っていましたからね。本当に子どもですね。敵は1500隻となると、連合艦隊が来るのは30隻ぐらいですよ。10倍でも300でしょう。それでも日本が勝つという、本当にあれは何と言いますか、洗脳されると、どこでもそうですがね。

他には、無煙炊事場という・・あれは最初、ちょうど3月31日かな、米軍がチービシって神山島という那覇港の沖に島がありますけれども、向こうに米軍のカノン砲ですか、155ミリ砲の、24門かな、を揚陸しまして、陸揚げしちゃって、それが盛んに首里城に向かって神山島からじゃんじゃん砲撃するんですよ。それでもって、その晩、3月30日には金城町の石畳のそばにみんな連れていかれて、どんなやって行ったかな、無煙炊事場を作れって言うんです。だから無煙かまどというのは初めて聞くもんだからポカンとしていたら、上官に怒鳴られまして、「貴様、そういうのの作り方も知らんのか」と言っても分からないでしょう。結局かまどを作って、それから沖縄の瓦の、メスとオスの瓦を上から重ねて、タコの足のように四方八方に煙突を作るわけですね、丘のほうに。そういうのを作りましてね。

あれはですね、第一小隊壕という、わたしは、第一小隊というのは今の安国寺の下のほうに横穴のL字型の壕がありましたけれども、そこに配属将校の篠原さんがいて、篠原中尉が一人ひとり名前を読み上げて、野重隊が27名ということで、野重隊に配属になったんですけれども。野重隊というのは、美女と野獣というのは当時は無かったんですけれども、何かすごい部隊に配属になったなというので、みんな嫌がりましたね。6つに分かれるんですけれども、12名は独立測地第一中隊、当時は測地隊と言っていましたけれども、なぜだか非常に響きもいいですし、向こうに配属になった連中はみんな喜んでいました。それが、5月の13日かな、艦砲の止むのが午後の6時ごろから、艦砲が約1時間ぐらい弾がこなくなるんですよ。そこでみんな道のそばで座って、お前はどこに配属になったのかっていちいちみんな聞いたんですが、俺は野重だと言ったらみんな大変なところにやられたなというような顔をしていましたし、わたしのそばに座っていた4~5名は測地隊だったものだから、お前いいところに配属になったなって、非常にうらやましかったんですけど。結果的には、野重に入ったのは、野重一に配属になったのは25名のうち10名戦死して15名生き残って、戦死率が、戦死したのが40%、生き残ったのが60%なんです。それで測地隊に配属になったのは12名配属になって、12名全滅ですよ。だから当時の勘で測地隊がいいなと思ったのが反対になりましたね。

第32軍の司令部の坑道は第一、第二、第三が北向きで、第四、第五、第六が南向きなんです。そこの第四坑道かな、ちょっとあれは大尉ぐらいですか、将校が負傷したというので、それを4名で担いであっちの前を通ったんです。通って志多伯(那覇市の西南方)に行った。重いものですから、弾が来るでしょう、ちょうど友寄の近くが、道があるとそばは崖(がけ)っぷちなんですよ。そこに弾がジャンジャン落ちたものだから、ぱっと崖っぷちのところに4名で担いでいるのが、道端のほうが真っ先に座ったものだから担架が横になっちゃって、その将校がゴロゴロゴロッとずっと下まで転げ落ちたんですよ。それからそれを担ぎ上げて、また担架に担いで志多伯まで行ったんですが、しょっちゅう文句を言っていましたね。俺を投げ飛ばしたのは誰かって、傷が痛いものだからそればかり言っていました。翌日またビンタかなと思ってみんなビクビクしていましたけど、なんともなかったけど。

6日分しか弾は無いんですよ。例えば1回戦分というのは、歩兵で言いますと薬盒(ごう)に鉄砲の弾30発、ここに30発。うしろに30発で、背ろうに60発ぐらいやって、だいたい120発も撃つんですけれども、あれが1週間分ぐらいの弾薬の量なんですよ。ところが僕たちがもらった弾というのは、わずか15発でしょう。15発じゃ1時間も戦えないんですが、日本の歩兵もそうなんです。約1週間分の弾でもって3か月を持ちこたえたわけだから。だから明治28年の日清戦争では1軍平均50発撃っているんです、8か月間に。昭和20年5月4日の総攻撃がありますね。あのときには日本軍は午前中で50発撃っていますよ、わたしのほうの部隊も。それでも弾は、無いのによく撃ったなと思いますね。

あれは2日の夕方出て、翌日の朝帰るものですから、中1日おいて今度は新城の軍院に行くとかということで、その合間はまた、医務室だから足とか手とか切ってそのまま置いてあるんですよ。だから勤皇隊はそれを埋めてこいというので、それが、当時の飯というのは1日にこれぐらいですよ。それもお湯に米をつけたものと、お湯に芋をつけたもので半煮えでしょう。今だったら犬でも猫でも食えないような食事ですからね。それで1か月すると本当に骨と皮ばかりになって、骸骨に皮がついたような・・また1回、1期下の連中が鏡を持っていたんですよ。お前鏡見るかと言って鏡を借りて見たんですけど、ちょうど10年か20年前のエチオピアの難民の子どもが本当に骨と皮ばかりになって、目玉だけギョロッとしたような、あの顔だったですね。あれは自分でびっくりした。

だからそれがね、体力が無いでしょう。わたしはちょうど4年のとき60キロあったんですけど、今から考えると30キロか40キロぐらいだったんじゃないかなと思うんだけど。それでわずかこれくらいの手を箱に入れて持とうとしたら全然動かしきれない。で、動かせないものですから、引っぱって。ちょうど壕の前に川が流れていたもんだから、そのそばでバッと捨てて、また弾が来るでしょう。だから埋める暇がないんですよ。そのまま捨てて、パッと壕の中に逃げ帰るという、そういうふうな。それとあとは、炊事の手伝いというのが、キャベツなんか当時畑には無かったんですが、キャベツをとった、切って根元のほうからちょっと芽が出たの、それを取ってきて炊事場に持っていくとか。
あとは、伝令でいちばん恐かったのは、ちょうど朝から間断なく弾が、台風で言えば40メートルぐらいの台風が吹くように弾がジャンジャン落ちて、破片がずっと舞っているんですよ。そのときに志多伯から小城までちょっと片道1000メートルぐらいあるんですが、向こうの連隊本部に行けということで命令を受けたんですが、命令を受けて一応復唱をするんですよ、軍隊というのは。ところが覚えて、当時は暗記力は自分で言ってもおかしいけど優秀ですけれども、暗記してぱーっと出て30メートルか40メートルぐらい歩いたら弾がバンバン落ちるもんだから、あれ2~3歩、ドカーンと来ると飛び起きて走って、伏せってドカーンと来るとまた伏せる。弾がドカーンと落ちてから様子を見てから走ると、次のドカーンというのとすぐ負傷するんですよ。だからドカーンと来ると走って、ドカーンと来ると走るという、そういう繰り返しで1000メートルぐらい行くあいだに、30メートルぐらい歩いたら忘れましてね。それでも小城までに着いたら思い出すだろうということで、本当に暴風の中ですよ、鉄の暴風の中を走って向こうの連隊本部に行って「勤皇隊比嘉二等兵、伝令に来ました」と言う。「何か」と言ったら「忘れました」と言った。連中、みんな手を叩いて喜んでね。みんな喜んだものだから余計こちらは上がっちゃって、もう分からないですよ。しようがないからまた弾の中を帰って、そして壕の入口で松浦軍医が、さすがに伝令に子どもをやったんだけど心配だったんでしょうね。で、どうだったかって。返事はどうだったかって。しようがないから忘れましたって言ったら、苦笑いしてなんとも言わなかったです。

撤退は、あの、三八銃っていうの、あれ案外重いですよ。だから最初は、こう、基本、教練基本の姿勢というのがありましてね、こう、45度の角度でやっていましたけどね、ちょっと歩くともう、体力がないもんだから、天秤(てんびん)棒のようにかついだりね、それから、ガラガラガラと鉄砲を引きずって歩いたんだけど、あんときはさすがに横井庄一さんじゃないけど、天皇陛下から預かった銃を足げにしているようでね、非常に気がとがめましたね。で、撤退前に負傷兵をトラックに運んで、それから志多泊から真壁まで、あれから、約7キロ(Km)くらいですかね、ちょっと分からないですけど。向こうに着いて、5分もしないうちに、また、志多泊に伝令に行けというんですよ。で、みんな尻込みしちゃって、疲れているもんだから。で、誰か居るだろうと思ったら、また比嘉、お前行け、ということでね。それで、あれはこたえましたね、さすがに。あれは、正味20時間くらい歩いていましたからね、飲まず食わずで。で、あの、真壁の壕を出てから、りゅう散弾っていう、空中で爆発する弾があるんですよ。で、そこに、そこでパーッと破裂したもんだから伏せましてね。で、あの、起き上がろうとしたら、立てなくなって。で、なんで立てないのかなぁって、当時は自分が栄養失調っていうの全然知らなかったもんだから、おかしいなぁと思って、上等兵が返って、衛生が返って、お前何してるんだと、立てようと思っても立てませんと行ったら、何を貴様と、脇を蹴られましてね、脇腹を。で、それで、パッと飛び上がって、それからまた歩いていって。

まあ、特攻、わたしは特攻だとおもってますけどね、ああいう精神です。まあ、今だったら、今の若い連中でもできないと思いますね。だいたい天皇陛下のために死のうって人、いないですしね。国のためにっていうのも、ちょっとどうですか?

Q:重智さんは当時は国のためにと思ってた?

いや、あれは無意識ですよ。もうコテンパに、骨の髄まで染みわたってるからね。別に国のためとか、天皇陛下のためとかね、あの、靖国神社に祀られるとかね、そういうこと、全然、考える余地はないですよ。あれは、それからオヤジとかオフクロとか南部に下がっていますけどね、それを考えるヒマもなかったですよ。もう、よっぽどヒマじゃない限り、そういう考え方は浮かばないですよ。

真壁はもう、伝令行くところないでしょ。だから死ぬと医務室だから、死んだ兵隊がいるとね、それを担いで、埋葬するヒマってないもんですから艦砲のちょっと大きな、池みたいな艦砲の跡があるんですけど、そこに死体を運んでってね。ちょっと申しわけ程度にスコップで2、3杯ちょっと土をやつて、それで逃げて返るっていう。それで、死んでから2、3日とか、4、5日立つとね・・あの、壕というのはこんな高くないんですよ。壕のそばっていうのは、こう斜めでしょ? で、こう通路の方に寝ている、死んだ兵隊はいいんですよ。ところが、壕の奥の方に頭をやっている連中のね、死体を引っ張り出そうとするとね、頬の方を合わさないと持たないですよ。こういう風に、天井低いもんだから。だから、こう、顔を引きつけて引き起こすとね、あれはどこのあれですか、あの中国のね、まあ話はやめましょうか。あの中国では、死んで一週間くらいするとね、死体を揺り動かして鼻血とか、口から血が出ないと成仏しないという信仰があるんですよ。で、それと同じで、4、5日するとね、顔をつけてやるとね、口と鼻から血がパーッとでるんですよ。それでみんな嫌がりましてね、みんな足の方をもちたがるんです。で、それで引き出して艦砲の穴に投げ込んで逃げて帰るっていう。

Q:じゃあ死体は、敵の撃った砲弾の穴に埋めてたんですか?

いやいやいや、もう、投げ捨てる。そういっちゃもう失礼ですけどね。そんな、埋めるなんて余裕ないですよ。埋めようとしたらその間にやられますしね。

敵中突破したのが、6月19日です。

Q:最後はどういう状況で解散になったんですか。

いや、突然です。結局、後で分かったんですがね、あの、20年の6月18日にですね、連隊本部と医務室は真壁の方で、連隊長は摩文仁の、あれ、なんていうのかな、今の慰霊祭するところ、向こうに連隊長いて、向こうからあの真壁の方にですね、解散命令を出すんです。出したのが、6月18日の六時ごろなんです。で、真壁に着くのが遅いもんだから、その日には解散は出来ないで、翌日、6月19日に解散命令が。それも遅くなってからですね19日の、あの8時ごろか、解散命令がでて。勤皇隊は25名かな、ひとりか真壁でやられて24名がいたんですよ。24名を4分隊に分けて、ちょうどわたしの方が、あの7名。1班の方が6名。それから2班のですね、3班というとおかしいんだけど、別々にで出るんですけど途中で一緒になったもんだから、結局、11名ですけどね。本人に聞いても、班長も何班だったのかも分わからないということで、今2班ということにしていますけど。で、わたし、1班が6名、2班が11名、わたしの班が7名で。

Q:命令はどんなふうに言い渡されたんですか。

結局ね、あの敵中突破をして、北部で友軍と合流して再起を図れと。

Q:それはそう言われた?

まあ簡単ですよ。だから、びっくりしましてね。日本は勝つと思っていたのに、何であの解散命令が出たのかなっていう風に。あれからてんてこまいですね。結局、鉄砲と帯剣、弾を入れた帯剣と鉄砲を持って。まあ、わたしの部隊はもなんていうの、わたしの班は頭が幼稚なもんだから、みんな、南に下がるのを北の方に行ったんですよ。

Q:また一方で、解散命令で出かけて行った2つの班は悲惨な目にあってますよね?

3班。で、3班は24名から7名ひくと、17名かな。で、17名のうち、あの、9名が戦死するんですよ、南方に下がってね。で、わたしの方は北に向かって、結局7名全部生き残ったもんですから、結局運命というのはおかしなもんですよ。南に下がって死ぬと。半分が、約半分が死んで、北に向かったのが全員助かるというような、それが戦争ですね、紙一重ですよ。

6月21日か2日に、米軍が真壁の壕の入り口に来て、「出てこーい、出てこーい」ってなことを言っていましたけどね。そのときに、イワナガさんが、あれは指揮班長大尉ですけど、あの人がね、上等兵の方にね、あの人は高等商専出の上等兵でね、「お前通訳してこい」ってことで、「殺すか殺さないか、聞いてこい」って言ったもんだから、全然意味が分からなかったですね。で、上等兵が帰ってきてね、「殺さないと言っています」「ああそうか」。なぜ殺さないかと言う、その殺すか殺さないかとい意味が分からないし、殺さないと言っていますという意味が分からなかった。で、それで、指揮班長がひとりずつ壕から出ろということで。結局、最初分からなかったですね、捕虜になるというのは。当時は、三八銃、教練銃でしょ。あれでもつて向こうがパーンと撃ったら、こちら側もパーンと撃ってね、西部劇みたいにドンパチ出来ると思っていた。

もう本当にうれしかったですね、結局捕虜になって、戦陣訓で、あの、まあ、捕虜になるなという教えですからね。捕虜になって、友軍が逆上陸してきて、米軍を駆逐すると。で、そのときに捕虜解放になるけれど、そのときには捕虜になったということで、今度は日本軍がね、友軍から銃殺されると思っていたんだ。だからあの日本が負けると、日本軍から銃殺される恐れはなくなったという、あれが非常に強かったですね。ほんとに戦後の、あれをみると、ちょっとした文献をみますとね、8月15日に日本国民で泣かなかったものはいなかったという嘘なことが書いてありますけどね、ほとんどの人が喜んでいますよ。特に沖縄のね、わたしたちみたいに洗脳されてた連中は捕虜になって、まあ、ほんとに助かったという意味で喜びましたよ。

いやあれねえ、生き残った戦友会っていうのがあるんですけれどもね、生き残った連中は、俺は絶対死なないという信念を持ったのが生き残っていますね。例えばね、虫の知らせというのか、やられる前にね写真とか家族の写真とか整理して土の中に埋めるとか、そういった連中はね、その日の翌日にはやられていますよ。で、あれは迷信かもしれませんけどね、やはり虫の知らせで整理。死ぬっていう無意識に分かってたんじゃないかという。

わたしは、結局、国のためとか、君のため天皇陛下のためとか全然頭にない。靖国神社で会おうとか、そういうことはなかったですけどね。俺は絶対死なないという、みんなそういうのを持っていましたね。戦友会の連中、生き残った連中は。結局、沖縄人が「チャーガラナイサ」という方言があります。「どうにかできるだろう」っていう、ああいう本当に希望的観測で。あれねえ、最後だ死ぬかもしれないなと、体力がないときにそういうことを考えるとすぐ死にますよ。体力がないから。体力があって危ないなと考えておれば生きのびますけどね。体力がないときに、もう駄目かなとやると、確実死にますよ。

あれはね、防衛隊がね。わたしの部隊は山川、南風原村の山川の出身の防衛隊が配属されてましたけどね。で、当時の防衛隊というのは大体40歳くらいで、わたしの親父が41歳で、満41歳で防衛隊に召集されていますけれども、40歳ぐらいの防衛隊の方は、当時は標準語と言ってましたけど、共通語が分からないんですよ。で、日本の兵隊がね、上官が防衛隊員に向かってね、何やってというふうに命令したら、防衛隊がね、防衛隊のおじさんが、意味が分からないものだから、ニヤニヤ笑ってたっていうんですよ。お前何がおかしいんだということで、これはわたしの壕の野重一の医務室の壕の真壁での話。直接見たんですけど。「お前何がおかしいんだ」と言ったらね、「テーファと思いました」。「なにぃ、テーファとは何だ」とって、いうふうにね、ヤマトの本土の兵隊は。結局ね、俺をおちょくっているのかというふうなことを言っていましたけどね。1期上の昭和19年10月15日入隊の沖縄の初年兵、浦崎さんが丁度そばを通ったもんだから、「テーファとは冗談という意味であります」というふうに説明してね、「なにぃ。貴様、何で俺がお前に冗談を言うんだ」と言って、パーッとやられた。だから、当時の40歳の沖縄の人はあまり・・方言ばかり使っているから。あれはね、わたしの部隊が志多伯に4中隊・5中隊・6中隊・医務室という壕がありますけどね、南部から下がった避難民をね、4中隊の壕に避難させていますよ。それから島田知事、それから新聞社(沖縄新報社)の人が南部に下がるときには、志多伯の壕に泊めてます。

ただね、捕虜になってからね、馬天からLST(landing ship tank)みたいなの、米軍の輸送船に乗せられて二見(名護市)の突端に上陸したんですけれども、沖縄の連中ですよ。向こうが「ィヤー マーカラチャガ(お前どこから来たか)」、方言で全部やってましたけどね、当時わたしは中学生でしょう。ああいうときは方言は使わないということになっていたもんだから、標準語、共通語で話したらね、非常に怒ってましたね。「お前は日本の兵隊だろう」ってことで。で、あまり怒っていたもんだから、「ワンネー ウチナーンチュドーサイ(わたしは沖縄の人間ですよ)」と弁解しましたけどね。それからすると、住民はよっぽど友軍の兵隊に南部でやられたんじゃないかと思いますね。結局、ヤマトグチ(標準語)を使っただけで、民間人は非常に怒ってましたから。

あれはね、別に無意識に国のためとか、天皇陛下のためとかね、これは意識的には全然なかったですね。ただ戦うのが当たり前だというふうに。ただ敵が攻めてきたから戦うのは当たり前というふうな。聖戦とかいう、そういう意識はないですよ。あれね、小さいころから寝ても覚めてもずっと皇国史観とか軍国主義教育でしょ。

上からの命令は絶対的なもんだということでね。なんていうのかな、俺たちも昔はああだったなというふうに。まあ若い連中が。まあドイツのヒットラーの若い配下の連中もそうだったと思いますけどね。今はちょっと、あと100年くらいすると、もう一回そういう教育できるんじゃないですか。生存者が生きてる間は、今の政府としては前みたいな軍国主義の教育はできないですよね。わたしたちが死んであとは、またぶり返して。日本は神国であるという思想を植え付けるかもしれませんよ。今はちょっとね、昔に戻りつつありますよ。

日本人は愛国心が足らないというでしょう。結局、愛国心というのはね、義務みたいな。愛国心で国のためにやるのは義務だというようなことを言ってますけどね、結局、戦争を体験している僕たちなんかから言わせますとですね、愛国心をぶり返すんだったら、その前に国は義務を果たしてくれと言うんです。というのはね、わたしたちの3か月の給料をまだもらってないし、それからね、復員手当もまだもらってないでしょう。だから、愛国心を植え付ける前にね、国の義務として、3か月の給料と復員手当をやって、それから愛国心をみんなに納得するように洗脳しろっていう、そういうのを言いたいですね。結局、国は自分の義務を果たさないで、国民だけに義務だ義務だということで、国のためにやれということ。それはちょっとおかしいですよ。

「父上様、母上様 16年間育てられたご両親様とも別れのときがまいりました。わたしが死んだと聞いても決して嘆かないで下さい。一人っ子として、なんら恩に報いることもできず、死ぬことを残念に思っています。自分は今、ただ感謝でいっぱいです。父母の恩がしみじみと感じられます。それからいちばん最後には、自分も死ぬときには、立派に御国の花と散ります。重智が死んだと聞いてもほほえんで下さい。」まあそんなもんです。

Q:やっぱり、今読み返すと、どう思います? 幼いなと思いますか?

いや、結局、他の『聞けわだつみの声』とか、日本の皇軍ですか、兵隊の書いた遺書を見る機会が、見ますとね、中身は同じことを書いてますね。結局ね、「両親に何の孝養もできずに死ぬのを残念に思ってます」というだけですよ。だから、ああいうのを見ると、俺も16だったけど、同じような感じを持っていたのかなと。

Q:重智さんがいちばん最後にいた場所ですよね。ここ。

そうです。で、急造爆雷を担いでね、あの道を。ぱあって北の方向かったんです。他の連中は全部向こうに、南。ここは戦前は葬式のときにガンという、ガンヤーのメーのガマというんです。

Q:爆雷背負ったときに涙出たって言ってましたけど。

ええ、そこで泣きましたね。ほんと涙そうそうです。で、担いだ途端に、気持ちが良くなって突進したんです。裏口は向こうのほう。こういって。

Q:でも敵にたまたま会わなかったから。

いや、戦車が来てもですね、晩になるとずっと後方に下がるんですよ。だから、昼突進しておればやってますよね。晩だから良かったんです。

引き返してきてから、20日の晩、爆雷攻撃受けたんですよ。よくテレビでやってますけど、壕がありますよね、そこに旧式の14インチくらいの大きさの爆雷攻撃をやるとドカーンと煙が出るでしょう。あれをやられたのよ。ここで。

Q:壕の中はパニックですか?

ええ、壕の中に投げ込まれて、で、息ができなくなってですね。僕たちは防毒面、ガスマスクあれを持って防いだんですがね。防衛隊の人はそういうのを持っていなかったから、もうせき込んでね。で、そのときにみんな声を出すと米軍に見つかるというのでね、「タックルサリンド」というのを方言で「ぶん殴るぞ」というふうに年上の人に言ったんだけど。

結局、せきをするなという意味ですけどね、もう自分だけ助かりたいという本能的なもんですよ。結局、ひめゆりの方がですね、二日前に爆雷攻撃を受けてほとんど全員が窒息死してますよね、あれと同じようなもんです。ただ、勤皇隊はですね、この壕はですね、入口があって出口がもう一つ向こうにあるんですよ。だから風通しでちょっと助かった。あのひめゆり部隊の方はすり鉢状だから。風通しがないでしょう。それで窒息死しています。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1945年
沖縄県立第一中学校を繰り上げ卒業
 
鉄血勤皇隊へ入隊、野戦重砲第1連隊第2大隊へ配属
 
沖縄本島での戦闘に参加
 
6月、米軍に捕らえられ捕虜となる
 
戦後は、薬局を経営

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