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タイトルタイトル: 「少年兵への理不尽な暴力」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 與座 章健さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 将来の夢は軍人だった  06:41
[2]2 チャプター2 配って歩いた「召集令状」  07:38
[3]3 チャプター3 戦場の卒業式  02:38
[4]4 チャプター4 危険だった泡盛集めの「任務」  03:16
[5]5 チャプター5 最下級の兵士として  13:35
[6]6 チャプター6 除隊命令  07:45

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月15日

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まだ平和な時代でしたよ、その時分までは。わたしの南風原小学校から、同期生が6名入学して、大東亜戦争が始まる前ですから。戦争のうわさはありましたけど、まだ戦争が起こるとは夢にも思っていない、平和な時代でした。胸を膨らませて県立一中へ入学しましたから。

夢は、軍人学校へ行きたいと思っていた。さっきモリマサさんが、士官学校を受験したという話がありましたけど、わたしはそのあと航空士官学校を受験したんですよ。航空士官学校を受験して、それは19年の末ごろですからね。なにか軍人学校行きたいなという程度の夢しか持っていませんでした。そういう時代の流れだったんでしょうね。

ひとつは、軍隊へ入れば飯を十分食えると思っていましたからね。わたしたちの当時の田舎の暮らしというのはそれは貧しいもんで、米の飯を食えるという時代じゃなかったです。畑からとれる芋が常食でしたからね。だから飯を十分食えるところというのが、ハングリー精神ですよ、文字通りの。そういう時代だったような気がしますね。だから4年のときは、中学4年に進学したときは、入学したときは4クラスありましたけど、そのうち予科練へ行ったり、他の軍人学校へ行ったりして、あるいは疎開したりして、3クラスに減っていました。僕は甲組でしたが、それは軍人学校へ進学を希望している連中だけを集めてあった。わたしはそのクラスのいちばん背の小さい子どもでした。当時のクラスというのは背の大きさで並べてありましたからね、わたしはいちばんビリでしたよ、小さくて。1メートル52~53ありましたか。1番というのが級長、2番目が背の大きい人、わたしがいちばんビリ。わたしの後ろに副級長がいました。そういうクラスでしたね。

Q:雲行きがちょっとおかしくなってきたっていうのはいつぐらいからでしたか。

17年の、16年の4月に入学して、17年の末ごろからおかしくなったのかな。18年ごろからはもう那覇飛行場の掩体壕(えんたいごう)作り、あるいは読谷飛行場、嘉手納飛行場の滑走路、そういうことに駆り出されてほとんど授業がなかったですね。それは18年、19年。しっかりと勉強ができたのは16年と17年の半ばごろまででしょうね。19年ごろからはほとんど授業はなし。日本軍の基地建設、もっぱらそれでした。そして20年の、沖縄戦が始まる、20年の2月の初めごろだと思うけども、日本軍の基地建設に、米軍が上陸するというのはほとんで見通しとしては決まっていたんでしょうね。それに間に合わすために、わたしたちは、今の養秀会館のところに寄宿舎がありましたから(現在の那覇市首里金城町)、そこで合宿して、そこからあちこち壕作業に駆り出されていました。そこは限られた収容人員ですから、わりかし通学距離の、通学している皆さんの家の近いところ、南風原村、西原、浦添、その近辺から中学生の連中を集めて寄宿舎に入っていました。だからわたしたち寄宿舎に入った連中が主体になって勤皇隊を編成した。寄宿舎に入っていなかった連中は、沖縄戦が始まる2月(3月)の23日から機動部隊が近づいてきて、それこそ基地建設どころじゃない、みんな壕の中に隠れる潜むということでしたから、だから学校におったのは僕らだけですよ、寄宿舎におったのは。それを主体にして勤皇隊を編成している。

自分の住まいの近くにおる2年生、通信隊に召集令状が来ているので、それを持っていけと。あんたの近くには誰がいるのかと。この南風原町の津嘉山という部落に2人いました。金城シンイチ君と金城リュウショウ君と2人いましたから、その2人の召集令状をわたしは受けて持って行きました。

Q:当時17歳ぐらいだと思うんですけど、その召集令状の意味合いというのはわかっていましたか。

召集令状というのは、普通の正規の軍人が、中国戦線に参加したおっさん連中が、兵隊が、一応復員して帰ってくるでしょう。第2回目の召集ということで、赤札と言っていましたよ。赤札。召集令状自体が赤い紙に書いてある。それは「うちのおっさんは赤札が来たそうだ」と、これでそう言いまして、これはもう大変だと、働き手がいなくなる、うちも大変だと、こういう一つの恐怖心がありましたよ、赤札が来るということについては。ところが、わたしたちの通信隊に召集される皆さんについては、そんな赤いやつじゃなかった。白い紙に書いてあった。急造の、どこで作ったかわからんけど、それを持っていけということでわたしは持って行きました。   

「持って行け」というから「そうですか」という話であって。その2人のうちの1人は戦死しました。1人はまだ元気ですけどね。この戦死した金城シンイチ君の家庭というのは、お父さんが獣医でしたから、防衛隊に召集。それからシンイチ君のお兄さんが、わたしの同期生。開南中学へ行っていましたが、開南中学の勤皇隊、戦死。金城シンイチが戦死。残ったのはお母さんと妹2人。わたしは戦争が済んでから会わす顔がなかった。わたしが持って行かなければそういうこともなかったはずなのに。会うのが恐かった、このお母さんなんかに。

会いました。そんなに恨みがましいことは言いませんでしたけれども。ああ、もう、会うのはね。お父さんが戦死でしょう。長男が戦死、次男が戦死。残ったのは女ばかり。ああ、わたしがあのとき持っていかなければ助かったかも知れない。

だから卒業式が済んでから、2度帰った覚えがある。1回目は自分のやつを、自分の勤皇隊へ編入する場合の親権者の承諾書を取ってこいと、印鑑をもらってこいということで家に帰った。2回目はこれですよ、今の。  

Q:その承諾をとってこいっていう話なんですけど、そのときはどんな感じでしたか。寮でみんな集められて言われたんですか。

うん。そうだと思う。それは寮に合宿していた連中を主体にして勤皇隊を編成しましたから。たまたま学校に来ていた連中は、じゃあわたしも入ると。あるいは話を聞いてじゃあ一緒に参加したいということで首里界隈、那覇から来た連中もおる。わたしたちは寮にいたからいやおうなしですよ。そういうことになっていると。

いや、志願じゃない。要するに。「あんたたちはきょうから勤皇隊ですよ」、「ああそうですか」という話であって、そこには疑問の何もなし。「そうですか」というだけの話であって。

うちの親父も、役場に勤務していたせいもあったかも知れないけど、それを見せたときに、「そうか」と言って印鑑を押して、なんの、「行くな」とか「行け」とかいう話もしなかった。そうかというだけの話であって。近くの、識名に住んでいる同級生が2人いました。嘉数セイトク、嘉数セイフク。2人ともお父さんの承諾書をもらうということで一緒に帰りました。ところが戻ってこなかった。勤皇隊に戻って来なかった。戦後、彼に会ったときに、「あんたたちはこなかったな、あんたたちは正解だったよ」という話をしたときに、嘉数セイトクはこんなことを言いましたよ。「うちの親父は、あんたたちが戦争できるか、行かんでいいよ」ということで、印鑑を押さなかったと。こういうことを言っていました。「ああ、そうか、そういうことがあるのか」と思いましたね。

親権者の同意書、印鑑を押してこいということで、うちに帰って印鑑をもらって、勤皇隊に戻るとき、わたしは一日橋を通り過ぎて識名園(沖縄県那覇市)のあの坂を上がって、識名園の前を通ってトボトボと一人繁多川から勤皇隊まで、約50分の道のりを、これで家族と会うのは最後だったなという思いがして、涙があふれんばかりの思いで、一人トボトボと勤皇隊に戻りました。
そして4月の11日だったと思う。勤皇隊に入ってから1~2週間たって、あとわたしたちの作業の中身が8時間勤務の3交替でしたから、ちょっと昼間時間がとれそうなときに抜け出してうちまで来たんです。もう誰もいなかった。玉城村(現 南城市)の親慶原に避難したということで、誰もいなかった。そのときも一人でトボトボまた隊に戻りました。

4年繰り上げ卒業だとわかったのは19年の半ばごろですかね。まあ、こんな勉強もできないような状態ですから、むしろ喜びのほうが多かったような気がする。早く卒業して。とにかく、批判精神というものが全然養成されていないということであるのか、特にこれに対して疑問を持ったことがなかったですね。そういったことについて、なんかおかしいんじゃないかということじゃなくて、ご無理ごもっとも、そうですかという程度の話であって。

Q:卒業式はどんな様子で行われたんですか。

既にこちらの神山島(島尻郡渡嘉敷村)、無人島がありますよ、泊の沖に。そこに米軍は銃砲を据え付けて定期的にこの首里あたりを砲撃していましたからね。その砲撃の下で、ちょっと夕方ひところ、ひととき休み時間があるんですよ。それはあとで聞いた話によると、米軍は食事の時間だと、休憩時間、そのときを見計らってでしょうね、わたしたちはちょうちんをつけてその明かりで卒業式に臨みました。わたしはだから、まったく校長先生がなんと言ったか、あるいは32軍の高級参謀が来てなんか祝辞を述べたという話があるけれども、まったく記憶がない、それは。みんなの話を聞いて、ああそうかという話であって。ただ背も小さいから後ろのほうにただ立っていただけで。

わたしの班は、キョウド兵の、なに上等兵だったかな、それに率いられて、首里城第32軍の軍司令部の壕、そこの中へ入って、完全に貫通してないとところがあるわけ。あるいは落盤して土が邪魔しているところがあって、それをトロッコに乗っけて、壕の入口までトロッコを押して、そこにほうり出す作業、これをやっていました、ずっと。勤皇隊というのはみんなあちこちいろんなことをやっているの。わたしのやっているこの作業というのはわりかし安全な、壕の奥に入って土をトロッコに乗ってけてそれを押して、壕の入り口に来てその土をほうり出す、その作業ですから、壕の外に出る時間というのはそんなにないから。

一度だけ、今の崎山町(那覇市)の、崎山町には酒屋がたくさんあって、泡盛の地下貯蔵庫があるわけ。そこへ行って酒をくんでこいという命令を受けました。引率の兵隊と、誰だったかね、勤皇隊が2人か3名ぐらいだったと思うけれども、もう誰だったか記憶にないけどね。危険な中を崎山まで行って、そこの地下貯蔵庫に入っている泡盛を、ほら、昔のテンガロン石油缶があって、それの上をとって、このたらい、たらいと言うか水溜みたいにしたのがありまして、それを担いで行きました。それにいっぱい酒を積んでね。やれ帰ろうというときに榴散弾(りゅうさん弾)が飛んでね、榴散弾ってわかりますか。頭上2~300メートルのところでバーンと散るわけです、弾が。もう非常に危険、これ。それが爆発しはじめて、いや大変だということで、一目散に逃げましたよ。帰ってきたときは、せっかくくんだ酒が半分も無くなって。この酒はいったい誰が命令してくんでこいと言ったのか、それはわからんけど、あんなときによく酒を飲みたいということで、あんな危険な作業をさせるのかなと、今から考えるととんでもない。酒で命を失ったらいったいどうするのかと思いましたが、当時は当然のことでした。そういう危険な目も。

いや、実感。これはだからね、時々二等兵の一つ星の襟章をつけてありましたよ。僕らね、外出するとそこいら正規の兵隊がたくさんいるでしょう。全部敬礼しないといかんわけですよ、これを外して、こうやって。軍属というのがいましたからね。そういった人たちは階級章をつけてないわけよ。だから、そういった連中とは別に敬礼したりする必要はないけど、わたしたち二等兵というものは、少年兵というものは、道で会うたびに全部上級兵だから敬礼しないといけない。敬礼しなければぶん殴られるんですね。それがいやで襟章を外出するときは取っていましたけど。だから、兵隊になって良かったなとはあまり思いませんよ。

首里城の下の軍部の壕掘りに行く。あれは3交替ですから、朝の4時ぐらいから行ってね、午前中で終わって夜勤務の時間だったと思う。4時ごろ起きて班長に引率されて出発しようというときに、班長を自分の枕元に白砂糖をお椀に入れて置いてあった。それが全部なくなっている。だれかがなめたと思うさ。班長は怒り出してね、「お前たちのだれかが食べたでしょう、白状しろ」と言うわけさ。だれも知らんもんだからみんな黙っていたら、「お前たちはー」と言って、全体責任だといって殴られた。悔しくてね。何も、だれも食べてもいないのにぶん殴られて。その夕方作業を終えて帰ってきたときに、一期先輩の5年生が「実はわたしが食べました」ということで、その班長に自白したみたい。そしたら、「そうか、お前は勇敢に白状してくれた」といって、一つも殴られなかったよ。僕らは殴られ損。こういうのがあったし、一度は、シノハラ中隊長の命令によって、これが4月の何日だったか。4月の20日前後でしょうかね。きょうより、民間の農作物等を徴発してよろしいと、こういう許しが出ましたので「お前たち食料を調達して来い」と。「向こうにキャベツ畑があるからキャベツをとって来い」と。こういう命令が出たわけ。でね、7、8名でしたかね。かますを担いで、カリグスクの石畳を降りて、繁多川(那覇市)に上る坂の右側にキャベツ畑がありました。そこへ入ってキャベツがたくさんあって、「ああ、やれやれ」と思って、それを取ってかますに入れてさて帰ろうとしたときに、陸軍軍曹殿が走ってきて、いきなりものも言わずにみんな殴り倒された。張り倒されて、「お前たちはいったいどこの少年兵か」と。「誰の指示によって僕らの、ここのキャベツはわたしたち暁部隊がちゃんと代金を払って契約してある畑だ」と。「これをよそから盗むとはもってのほかだ」と。みんなぶん殴られたさ。泣くにも泣けんしね。わたしたちを引率してきた井口キヘイ先生がね、数学の先生でしたけど、この人は師範学校卒業でしたが、短期現役で陸軍伍長になっていました。僕らをぶん殴ったのは陸軍軍曹。僕らが殴られているのを見て、彼は逃げて行きましたよ。悔しいというか、先生は僕らを見捨てて逃げていったなと思ってね。そしたら、逃げたんじゃなかった。しばらくして教官を連れて助けに来ていました。井口先生は伍長では軍曹にかなわんと思って、陸軍中尉、中隊長を呼びに行った。ちゃんと来ていましたよ。そのとき、暁部隊のこの軍曹のほかに陸軍少佐殿も、中年の40代ちょっと、さかんに説教された。「お前たちはどこの少年兵か、どこの部隊か」と。「わたしは勤皇隊」と言っても意味がわからんかったでしょうね。うそを言っていると思ったんでしょう。そこへ井口先生がシノハラ中隊長を連れて走ってきて、敬礼してこの少佐殿にちゃんと説明しました。そしたら「そうか」と言ってその場はおさまりました。わたしたちはすごすご何も持たないで帰りました。「一つぐらい持っていけ」と言うかと思ったけど、そんなこと全然。みんなぶん殴られて。

 理由なく殴るシーンは、「お前たちは中学を出たといって威張るな」と、そういうこともときには漏らしていた。中学生に対するコンプレックスはあったんでしょうね。中学を卒業したといって威張るなということで殴るでしょう。

わたしは軍隊というのは、そんなに非人間的なというか、理由なしに殴りとばすところとは夢にも思ってなかった。現実は班長、分隊長がしょっちゅう殴ってばかりおるでしょう。こんなものかなと思ってね。さっきの砂糖を誰かが盗んで食べたという、あれはビンタじゃないですよ。こん棒を持って、頭をこんなですよ。こんなものかなと思ってね、悔し涙が出ましたよ、そのとき。何でこんなものかなと思ってね。身に覚えないですよ、一人も。ところが全体責任でこうでしょう。ビンタじゃないですよ。げんこつじゃないですよ。こん棒を持って頭を割る。普通ならあれで死ぬ人がおるかもしれんね。軍隊はそんなに何と不合理な、非人間的な、暴力が充満しているところとは夢にも思わなかった。皆さん考えたこともないでしょう。恐ろしいところだった。そんな軍隊の非合理的なというか、そういう真相をばらしたということはないさ、みんな美化されているから。戦後「真空地帯」という小説が出た。覚えていますか。軍隊にはそういうでたらめな非人間的な暴力の充満しているところ、それを書いた「真空地帯」という本を書いた作家何といったかな、それで映画化もされましたよ。戦争前まではそんなことは誰も知らない。美化されて、帝国陸海軍に素晴らしいところとしか思っていない。

それはたくさん思っていますよ。戦争が済んだときに、除隊されるときまずあれを殺してやろうと。フナガキ上等兵というのがいましたよ。いちばん殴りのひどい兵隊でしたけどね。あれをぶち殺してから除隊するという思いをしたのは何名かいます。これにも書いてあるさ。しょっちゅう殴ってばかりいたのに。

4月1日に米軍が上陸した。その前の3月26日でしたかね。慶良間列島に米軍が上陸した。そういうことを聞いたときに、さてどうなるかなと。そのうち日本軍が応援部隊とか、そういうのが来るんじゃなかろうかという感じはしていましたね。まだ連合艦隊が健在だと思っているから。そういったのが助けに来るはずだと、こういう感じしていましたから。そんなに悲観はしていなかったね。どこかで盛り返すという感じで、そこで自分も戦いたいというような気持ちは、まだ小さいころですからそこまでは考えてなかったですね。

これだけの精鋭部隊がおれば大丈夫だという感じでしたからね。特に関東軍の竹部隊というのが来たときは、これで沖縄は大丈夫かなという感じしましたからね。ところがあの部隊だったらもっとこっぴどくやっつけられたはずだという話もあったりしてね。なるべくしてなったなと思うし。そんなに米軍の物量というのがあんなに格段の差があるとは全然夢にも思っていない。それを比較すると、日本軍の装備というのは幼稚というか、何というか、話にならない。わたしは米軍に捕まって、6月24日、わたしが米軍に捕まったときだけれども、百名部落におって、わたしの目の前から米軍の装甲の厚いM4という戦車がゴーゴーと4、5台南部戦線に行くのを見ましたよ。目の前で。そのとき、「ああ、こんなところと戦争をやってはかなうはずないな」と。日本軍の戦車はまるでブリキ缶をはったようなヘナヘナの戦車でしょう。あれと比較すると、米軍の重装備、あの戦車を見たときに、「ああ、これはとうてい日本は勝てるはずないな」という思いがしてね。そのとき、わたし、涙がボロボロ流れてきましたよ。「これは日本というのはとうてい勝ち目はないな」と思いましてね、涙がこぼれてしかたがなかったな。これ、6月24日ですよ。この戦争はだめであろうという思いがして、それでも、まだ反撃に来ると、逆上陸してくるという期待もあったりしてね。そんな感じでしたね。

わたし4月の27日か28日ごろ、19名除隊させられたとき、わたしたちの識名セイイクという、この人は級長をしておったね。優秀な生徒ですけれども。彼に引率されて、各班長、分隊長にあいさつに行きましたよ。「そうか」と言って了解したのもいた。中には「何をー、お前たちの故郷を誰が守るのか」ということでぶん殴られましたよ。19名ぶん殴られた。「退職する中隊長の命によって僕らは除隊させられて家に帰ります」といったのに、「お前たちの故郷をだれが守るのか」ということでぶん殴られましたよ。それがどの分隊長だったのかは記憶にないけれど、殴られました。

学校、勤皇隊軍部で恐らく何か話しをしておったんでしょうね。中隊長を中心にして、わたしたちには鉄血勤皇隊大中隊のためにということで、砲兵隊からでしょうね。割当てされた食糧をわたしたちの県立一中のグラウンドに積んでありましたよ。それが米だったのか、缶詰だったのかよくわからんけれども、それがさっきの神山島に米軍が大砲を据えてそこをどんどん攻撃しているものだから、食糧を焼かれてしまった。砲撃で。だから、勤皇隊の全員を食べさせるための食糧が足りないと。だから何名かは帰ってもらわんといかんという話がチラホラ出てきましたよ。そういう話があって、そのときは「帰りたいな」とみんなそう思っていたでしょうね。それでその日中隊長命によって、勤皇隊の壕の入り口に夕方の7時ごろでしょう。7時から8時、もう暗くなりかけたときですから。そこへ整列して、「食糧事情が非常に悪化しているので、全員を食べさせるだけの食糧が足りない。したがって、何名かは帰ってもらわんといかん」と。「体力的に自信がないというか、帰りたいというのがおればどうぞ手を挙げてください」と、こういう話だったんです。そしたら手を挙げるのはいなかった。中隊長は、「そうか。じゃあわたしが指名するものは一歩前に出ろ」とこう言って、一人ひとり顔をのぞき込んで、「お前出ろ、出ろ」と。結果的に19名。「お前たちは除隊を命じる。識名セイユウ、お前が引率して各分隊長、班長に申告してから帰りなさい」と言われた。それを帰りなさいと選ばれたときにホッとするやら何やら、ああそうかと。そして軍服を全部脱いで、そこにわたしたちが入隊するときの私服を全部積んでありましたよ。首里城の後ろ、今の健児の塔の後ろの壕の、入り口の前に。ところが誰のものかもわからなかった。めちゃめちゃに積んでありました。その中から適当なやつを選んで着がえて帰りました。4名一緒に帰りました。

Q:どんな会話をしながら帰りましたか。

危険ですからね。同じ方向に帰る4名、1人は豊見城村(現 豊見城市)の饒波という部落の大城チョウヘイ。1人は玉城村の冨里の古波津ミノル君。もう一人は南風原村宮平の与儀セイシュウ、そしてわたし。4名。同じ方向だから一緒に帰ろうということで。暗くなってから一中の勤皇隊の壕を後にして、津嘉山まで来て、津嘉山のわたしの家族が別の家族と一緒に掘った壕があって、そこへ潜り込みました、その晩は。そしたら、そこにまだ一緒に壕を掘った家族が残っていましたから、その家族はちゃんとご飯も準備して僕ら4名ごちそうになりました。翌日暗くなって、安全だと思うときに、「さあ別れましょう」ということで、「お互い元気でまた会いましょうな」と別れた。この豊見城村の饒波に帰る大城チョウエイ君が家に帰ってなかった。戦後わかったことだけど、家に帰ってない。お父さんがうちのチョウエイはどうしたかなと探している状態。あとは元気ですよ。玉城村の古波津ミノル君、宮平の与儀セイシュウ君、元気です。古波津ミノル君は四、五年前に亡くなりましたけどね。大城チョウエイ君はどこでやられたのかわからない。そのほか、わたしたちを引率して、分隊長、班長に別れのあいさつを引率して行った識名セイユウ君は、せっかく沖縄戦を生き抜いて山原のどこかに連れられた行ったけれども、そこでマラリアにかかって死んでしまった。マラリアで亡くなりました。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1945年
沖縄県立第一中学校を繰り上げ卒業
 
鉄血勤皇隊へ入隊するも、部隊配属前に除隊
 
6月、家族とともに捕虜となる
1953年
日本大学経済学部卒業
 
その後、琉球政府金融検査庁に勤める

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