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タイトルタイトル: 「少年兵 仲間の死」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 摩文仁 朝彦さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月12日

チャプター

[1]1 チャプター1 沖縄県庁での仕事  04:09
[2]2 チャプター2 米軍上陸  03:51
[3]3 チャプター3 飯ごうを突き抜けた迫撃砲弾の破片  03:34
[4]4 チャプター4 南部へ  05:45
[5]5 チャプター5 南部に追い詰められて  03:24
[6]6 チャプター6 切断手術  08:03
[7]7 チャプター7 戦場の真実の姿  08:23
[8]8 チャプター8 脱出  06:09
[9]9 チャプター9 投降  01:40
[10]10 チャプター10 仲間の死  07:43
[11]11 チャプター11 被害者であり、加害者でもあった  01:35

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月12日

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どういう具合でわたし県庁に派遣されたのか、わたしハッキリしたわかりませんけど、何かいろいろな話を総合すると、県庁によこして助けようという気持ちがあったんではいかという話も聞きましたけど。ハッキリしたことはわからない。10何名か19名かと聞いておりますが。

Q:では、どんな作業をしてましたか?

県庁では、一番下のいわゆる小使いみたいな。要するに、県庁は10・10空襲(昭和19年10月10日の米軍艦載機のよる空襲、那覇市は壊滅状態となる)で、全部破壊されましてね。そして各局によって民間を借りましてね。して分散しておったわけです。その分散したのは楚辺という部落に分散して、して与儀から楚辺まで間に残った家を借りましてね。してそこに各課もあったわけです。その間の連絡、電話はできませんので、わたしどもが伝令です。各文書を持って。して、課長とかなんとか召集するときには、ひとつご足労願いますということで、口頭で伝えて、そういうふうな仕事をしていましたですね。それからわたしどもは、人事課というところで働いて、そこで暗号文の解読とか、まあ真似事みたいなもんですが、そういうものもやってごらんていって、させられたですね。人事課というところは5~6名くらい。職員が1部屋借りて、そういうところでしたね。そして知事官房にとかなんとかは、一番偉い人がいるもんだから、いろいろとあれはあるけど、わたしどものところは、こういう風にして単なる連絡係と雑役。

Q:で、あるとき学校へ戻れといわれたんですよね。

工芸学校というところがありましてね。最後は首里高女といって、儀保町に首里高女という学校があったんですが、そこの壕(ごう)の底のほうに、我々県庁の職員は避難しておったわけです。そうしたら、わたしどももそこで、もう皆さん勤皇隊に入っておるのに、わたしどもそこにいるのはどうも心苦しいなとそういう風な気持ちもありましてね。皆さん一決して本隊に戻った方がいいんじゃないかという風な話がありましたんですが、そのときに、学校の方から戻れというふうな連絡があったらしいです。連絡を受けた誰それが来て、学校へ戻れと。そうしてわたしどもは、そこから引き揚げて、いわゆる県立一中の壕の方に編入されたわけですね。そのときにはもうすでに、部隊3隊。3つの隊に分かれておったんですが、わたしどもは第2中隊になるんですかねえ、第2小隊になるんでしょうか。2番目のこう、今の首里高から健児の塔に降りるところの左っかわの方に壕があったんですが、そこに入って配置させられました。

もうその頃の教育はそういう教育ですから。もう本心では少しはあれがあっても、国の為、君の為。その頃は死ぬことを賛美されるような世の中でしたから。

Q:その頃、アメリカ軍が沖縄に上陸してくるかっていうのは、何となく感じて知ってました?

感じてましたね。もう、サイパンとかあちこちが玉砕でしょ。その次は沖縄だと。もうですから、どんどん疎開の船は出るし、潜水艦で沈められている情報は入るし、ああ、この次は沖縄だなあという感じはありましたですねえ。

その頃校長は国粋主義者ですから、「絶対勝つんだ」と。「やがてはまた日本軍が周囲から攻め寄せてくるんだ」という風な思想ですねえ。みんな半信半疑でも、そう信じようというふうな感じでした。配属将校は南方で負け戦の体験があるもんだから、それほどでもなかったらしいけど、校長は勝つと思っていたでしょうなあ。

もう昔はもう、今はいろいろなことしゃべれますけど、思っておっても言葉を封殺されて、しゃべれないような時期でしたからね。

もう口を出して、言えるような状況じゃなかった。だいたい軍歌でも、死んで帰れと励まされというふうな歌が主体でしょう。そして、靖国の母でも、靖国に祭られて母は嬉しいとか、もう歌とか思想そのものが全部皇民化教育ですから。それをもし反対のことでも言おうものなら、もう非国民としてみんなからさげすまれるような。まあ先生方には1人2人いましたよ。「君ら死ぬんじゃないよ」と。僕らの担任じゃなかったですがね。甲組の担任ですけど。「君ら決して死ぬんじゃないよ」と。「生き延びるんだよ」と。「皆さん死ぬんだよ」というふうに教えられたときに、この先生だけは、そういうふうに言っとったそうですね。とうとう校長と反りが合わないで、辞めていかれたですがね。

まあしかし、心では少し変だなと思ってても、あのときの情勢は、ああいう教育しなきゃいけなかったんじゃないでしょうかね。校長の立場として。ですから、校長先生も、相当厳しい立場だったんじゃないでしょうか。

わたしどもが入ったときは、もうそれどころじゃない。もう近くまで来てますから。もう艦砲射撃。特に首里は、艦砲射撃すごいですから。外に出ることも出来ないで、ほとんどモグラ生活ですねえ。

もう首里城に第32軍の本部があるって知ってますから、そこを集中的に狙われてますんでね。みんな、口では勇ましいこと言っても、みんな怖いんですよ。

Q:隠れるしかなかったですか?

はい。ただねえ、わたしどものところには、本部から兵隊が教育係として2~3名来ておったんですよ。して、壕がコの字型にありまして、その入口にこの兵隊がいるわけです。そして、脱走するのを防ぐためかどうかはわかりませんけど、兵隊たちが教育係としていましたけど、わたしどもがこの人たちの飯ごうを洗ったりね、あるいはキャベツだけは、畑から取ってきて刻んで、それを食べておったんです。そういうのを上官とか上等兵とか、見習士官が1人いましたけど、その人たちにあげて、ありましたけど。わたしどもとしては、下級兵士だなと思っておったんだけれども、入ったとたん、散々シゴかれましてね。僕らはそんなにだったんだけど、一遍だけ、この人の飯ごうを洗いにいって死ぬ思いしたことありましたけどね。
飯ごうを3つですけど、飯ごうを引っかけて、下の沖縄でいうフィージャー、泉ですけど、そこで洗っておったんです。そうしておったら、僕らは体験で、弾が近くに来るなあ。ああ遠くに流れたなあというのは体験でわかる。もうそこで上官の飯ごうを洗っているときに、シュッてすぐ瞬間的にやったもんだから、こっちにすぐ落ちるなあと。もうビックリしましてね。そして、この泉は石垣で囲ってこっちから水が出るんですが、その中にわたし飯ごうを持ったまま、飛び込んだんですよね。意識的に上官の飯ごうを傷つけたら、それこそ大変だというふうな気持ちがあったんでしょうね。そして飛び込んで、手を伸ばして飯ごうをつかんで、中に隠れたんです。すぐ庭先に迫撃砲が落ちましてね。そして、その破片が飯ごうを3つ貫通。手にブルッとくるもんだから、やられたかなあと思っておったら飯ごう。3つ綺麗に。その後、班長に、班長殿って見せたら、長いこと記念で置いてありましたけどね。その日は別に怒られもしないで済みましたけど。そういうような状況で、そばに艦砲がどんどん落ちる状況ですから、訓練どころっていうのはわたしは全然体験がないですね。わたしが入ったころは。

あれは配属将校が決めたのか、どういう風にして決めたのか。ようするに、本部と我々たちは支部ですよね。本部に対して支部ですよね。本部というのは校長、配属将校。先生方。それから職員ですね。お手伝いさんとか、小使いさんとか家族。その家族が一緒になって、そして生徒は、南部の知識に有る程度精通している人。それから先生方から受けのいい、まあ使いやすい。そういう人々が選ばれたんでしょうねえ。次に寮におった人ですね。イシカワエイキさんみたいにして寮におった人。そういう人たちは先生達が使いやすいから、その人達が選ばれて、本部の方に言ったんです。そして残ったのが部隊に編さんされたわけです。

Q:朝彦さんは、どんな風にして配属されていきました?

その部隊に、その頃の知識は憶えてませんけど、今の慰霊塔の前の方に並びましてね。そして、はい、1班・2班・3班と分かれて。はい上級生、5年生が3名。そのほか25名ぐらい、それを僕らの第1連隊の方に配属ということで、そこから志多伯の方に東風平村の志多伯の方に歩いていったんです。

Q:配属されるときは、どんな気分でしたか。

もうあれでしたね。もうこれで、もう生きた気持ちはなかったですね。もう通るところ。ナゲーラというところ、辺りでもう周囲は全部死んだ人とか、ウヨウヨいるわけですよ。もう自分らも明日はこういうことになるのかなと。ですから、皆さん民間の人は、壕を求めてあちこち行くんですけど、わたしどもは、軍のお陰で、壕はある程度あるわけですね。壕はあるもんで、そこへ行って生活したから、割とその辺の犠牲は少ない。民間人よりは少ないということになりますね。

もう本当に軍が、僕らが動員されてつくった壕もありますよ。しかし、沖縄には自然壕がたくさんありますでしょう。それから出された人も確かにいると思いますよね。それで本当に心が痛む思いはありますね。もう、通る道、道は全部死人。特に兼城の十字路辺りはもう、こっちから通るってわかってるもんだからもう、集中的に狙うわけですねえ。そこを通って津嘉山の部落通って東風平の志多伯というところに行きました。

Q:そこではどんな仕事を?

わたしはねえ、そこでは本当に皆さんに対して悪い、済まないという気もちしかないんですが、大砲は南に向けてあったものを引っ張り出して、こう北に向けて撃ってはいたそうですが、わたしは首にヨウという出来物のちょっとタチの悪いのができましてね。もう首が動かない状態で、三八の小銃持つのも辛くて、壕までようやくフラフラしてたどり着いたようなもんで、とうとう、首が痛くてもうどうしようもないもんだから、とうとう思い切って軍医に「軍医殿。ちょっと首がこういう状況ですけど、ひとつ診てもらえませんか」と。わたしどものところは、部隊だけど、病院付きなんですね。そして軍医が診て、「ああ、これは切らなくては駄目だ。そこに寝なさい」と。もうそのまま、そのころは麻酔なんてないですから、兵隊にやるの。もうわたしなんかそのまま切られたんです。そのままわたし気を失いましてね。わからなくなっちゃって。そしてこれは終わりだなと。もう激痛。脳にこう、突き刺さるような痛みですから。もうこれはこのまま死ぬんじゃないかと。あと何時間くらいかしてからかな。丁度土の匂いがするもんですからね、わたしは生きているのかなと。まだ生きているのかなと思って、見ると、土間に寝かされている。そして、うつ伏せになっているもんですから土の匂いがする。「ああ、これでわたしは生きているんだなあ」という感じがしましたですね。そういう、軍医にわたし言ったお陰でわたしは助かったという面もあります。

こちらは追いつめられて真壁まで来ているわけですから、もう本当に負傷兵が運ばれて来るわけですね。運ばれてくると、軽い人と内臓をやられた人がいるわけですよ。ひん死の状態の人。そこに下士官がいまして選別するわけです。今の病院ですと重い人を優先してみるのがあれですけど、そろころは、重い人はもうどうせ助からないと、薬の無駄だというふうな気持ちもありまして、傷は浅い人からやる。どういう人が対象になるかと言うと、下士官がこっちで気合いを入れているんですよ。「貴様、帝国軍人がそれぐらいの傷でへこたれるのは何ごとだ」ってやっているわけです。そうしたらやっぱり軍隊の教育を受けた連中は、「はい、はい」とやっていますよ、担架の上で「はい、はい」と。「なんでそういうことをやるのかな」と聞くと、「もう気を落としてそこですぐ死んでしまう」と。「気を引き立てるためにやるんだ」と言うんですが、それでもだんだん声が小さくなる。「はい、はい」ってだんだん声が小さくなる。そうしたらその選別している・・・どういうことかなと思ったら、「これはもう廃棄しろ、捨てろ」と。「穴に入れなさい」と。そこに艦砲の穴があるんですが、「そこへ捨てろ」というふうな。要するに肺とかなんとかやられた人はこっちから空気が吹き出すわけですね、息すると、血の泡と一緒に。それを、わたしが見てもう大変だな、よくここへたどり着いたなと。この人はもう病院にたどり着いたという安心感があって、すぐそこで死ぬ人もいるし。それからまた選別されても、この人はもうだめです。そうすると治療の対象になる人はどういう人かなと見ていると、手とか足とか傷がある人。脳とか内臓には傷がない、そういう人たちは中に入るわけです。その、手足をやられた人の介護は、要するに衛生兵の下で、一番下ですよ、衛生兵の下で手伝いをするのが我々です。   

生きているんでしょうね、投げるとぐーっと声出すから。ですからもう戦争というのは人間でなくなります。だから皆さん勇ましこと言って、戦争、戦争って言うコンバットみたいにうまくはいかんです。もう本当にひどいです。

わたしは逃げ回っていましたよ、そこの選別所から、どうにか逃げたいと。

ですからもうほんとにああいうふうな状態では人が死んでも悲しみも出ないし、涙も出ないし、人間ではなくなるんですな。

治療はですね、ここでは軍医中尉、産婦人科の専門だったらしいです。それからもう一人準士官がいたんです。准尉といって、下士官で一番上の人、もう将校に近い。この人たち2人が交替でやるわけです。一人では持ちませんから、交替交替でやるわけです。わたしはたまたまこの軍医が執刀している時に手伝ったことがあるんですが、その時には、足首からダラダラしてやっているのを見て、これを軍医がどういうことをするのかなと思って見ていましたら、軍医が切断するところにマークをつける。すーっとマークをつくている。チョン、チョン、チョン、チョン、チョンと印をつけるから、これは何の印だろうなと思っていたら、もう全身麻酔なんてないですよ。何かモルヒネかなんか、麻酔剤を大きな注射器に入れまして、点点としたところを注射していく。そうしたら一応はこのへんの痛み、激痛はある程度治まるんでしょうね。そうしたら今度はヨウチンみたいな黄色い液でさーっときれいにふくわけ。そのへんの衛生兵なんかがやって、僕らはその下の手伝い。ガーゼをこすってたのをとったり、箱に入れたり、そういうスーッとガーゼで拭きまして、暴れるのは、痛いもんで暴れるから、この手足をつかまえて押さえつけたのも我々の仕事です。雑役の。そうしたら軍医がこの赤線にそってメスでスーッとちょうど大根を切るみたいに、スーってやるわけ。そして切った皮は開けるんですね。切ったところをこう。そうしたら何をするのかなと、わたしも初めて見るので、止血かんという血液を止めるはさみみたいなのがある。切って、血管の太いのはすぐ見えますから、白いマカロニみたいな感じ。これをぱちっと押さえて、そうしたら切るわけ。そうして大きな血管はこういうふうに止血かんで、止血かんは下にブラブラぶら下がっているんです。その前に、根っこのほうは止血帯という包帯で止めてあるんですね。切ったところを今度少し緩めるんです。緩めると見えない血管からシュッシュッと血が吹き出す。ああ、これはこっちに血管が残っているぞと軍医が言って、はさみで血管を引っ張り出してまた止血かんを入れて、そうすると5~6本か7~8本ぐらいですかね、ブラブラ下がる。そして、開けてもあまり出血がないと、よしこれでいいということでスーッと皮を切って、今度は筋肉のところも・・・あとは骨が残る。ひ骨と骨が2本ありますから、足は。これを2本骨が残るんですが、これを今度はノコで切る。ノコで切ると、もう、ちょうどこの骨を切られるとこの本体と、体と足が分離するわけですね。その足はどうするかと言うと、それはドラム缶がありますから、ポンと置きます。今度は、次はどんな作業をするんだろうなと思って見ていましたら、今度は骨の角のほう、ノコで切ってありますから角だっている。それをヤスリで削るわけです、丸く。ヤスリで削って、次はどんな作業かなと見ていると、耳かきの大きいのみたいなので中のほうに、骨の中に入れまして、引っ張り出す。そうすると中からドロッとしたのが出てくる。骨髄らしいです。バーッと出てくるんです。そして出したら今度はこの口を消毒剤でパッパッパッとやって、そうして消毒が終わったら、次はどういうことかなと思っていたら、ガーゼで傷口を強く押さえまして、そして、この皮をこういうやつで引っ張り出して、肉を中のほうに押し込んで、糸を通して縫うわけです。ちょうど人形の足みたいに縫いまして、少しだけ、3分の1ぐらい開けるわけ。そこからガーゼの取り替えができるように。そうして全部糸で縫いつけるわけです。ちょうどグローブを縫いつけるような感じで縫いつけて、そうして放してみて出血がないなと思ったらこれで終わり。あとはこのガーゼを時々換えるらしいんですが、もうこれが痛くて大変らしいですね。そういう作業をして、軍医はこれで一応終わりですけども、わたしどもの仕事はまたそこへ捨ててある手とか足とかを片づけるわけです。これを担ぎ上げると、もう壕の中は30度以上の温度になって、もう臭いとかなんとか、飯は食べてないけどあげそうになるんです。気分が悪くて。その廃液が首の中に入るんです、あちこち。そうして人間の油が洋服に染み付いてパカパカ、のりが入ったみたいに固くなる。それでも着替えはないからそのまま皆さん着けて、それも今度は穴の中に捨てると、そういうふうなことをして。本人としてはなんとか足をそのまま残したいと思っても、もうそんなのは容赦ないです、聞かない。結局、切ったほうが治りが早いという判断ですね。

Q:「足を残してくれ」というような兵隊もいたんですか。

もうそういうふうな感じでありましたよ。意識はありますから、手足をやられても。だいたい全身麻酔なんてないですから。もうわたしどもとしては、そういうふうにして、ああ気の毒だなというふうな気持ちを持つ暇もない。次々来るものですからね。だから戦争って人間ではなくなるなと思いましたよ。

そのころの戦争と言ったら、みんな勇ましい話でしたよ。例えばわたしども修身教育でもね、木口小平は死んでもラッパを放しませんでしたというふうに教わったんですが、もうそういうふうにして日露戦争は、銃撃を受けて死んでも、まあそのへんはやっぱり死後硬直だったんじゃないかという話もあるんだけど、そういうふうにして、みんな教育は、肉弾三勇士はどうのこうのっていって、そういうふうな教育だけされていますんで。例えばこういう話もあったんです。召集令状を受けて、この子供が作文に書いたら「うちのお父さんは」赤札と言った、召集令状ですが、「赤札を受けてブルブル震えていました」と書いたらしい。そうしたらこれは教育上、先生が見て、悪いって、これは武者震いだったんだと言い逃れをしたと、そういうふうな話もあるぐらい、とにかく皇国、皇民化教育というのはとにかく、死を恐れない、君のために死ねと、そういうふうなのが主体でしたね。  

本当に、弱肉強食。要するに、弱いのは、子ども、女、弱いのはどんどん抹殺されて、強い人が。日本の軍隊というのは縦社会ですからね。強い人が。だからうちのあれも、配属将校が、中尉がいたけど、比嘉さんの話だったかな、軍曹あたりが来まして「壕を出なさい」と言ったら、柔道の教官が、糸数という先生が出てきたら、すぐ貴様なんかかんかと言って、下士官が軍刀を抜かんばかりにやったもんだから、奥にいる配属将校が、貴様らみたいな奴がいるから軍隊は駄目なんだと言って、すぐこの人は・・・すぐ軍刀を抜いてやったら、失礼しましたと言って。だからここへもし佐官の人でも来たらもう明け渡ししなくちゃいかんような、そういう縦社会という感じがしますね。

向こうが、外へ出たらトンボというのが飛んで、制空権を完全に握られている。制海権は海から艦砲射撃。こちらは小銃、三八式という明治38年に出来た三八式という小銃、1発ずつ撃つ、そういうもので対抗できるかなと。ですから竹やり訓練とかそういうこともさせられて。そういうふうなあれで戦争を誘導したのかなという気持ちがありましたね。あそこで優劣がはっきり分かって、これは無理じゃないかなという気持ちがしましたね。

トンボというのがグルグル飛んでいて、どこに砲列がある、もうそこへお返し。撃てないんですよ。近くにトンボが飛んでいるから小銃撃とうとしたら怒られたとかね、そういうような話で、みんな怖いわけです。自分がやられるのが。   

非常にもどかしいなと、本当にこれで戦争をやるのかなという疑問がありましたね。血気盛りで、わたしの同級生で新垣というのがいましたけど、これが、米軍がそこまで来たというもんだから、血気にさかってすぐバーッと飛び出して、僕が追っ払ってやると言ってすぐ出て、左手をやられましたね。やられたと言って。軍隊では非常に重宝がられて、僕らが二等兵の頃は彼は上等兵をもらった。同じ同級生で。そういうのがいましたけどね、非常に勇ましいのが。そういうふうにして、見ているからみんな恐いわけですよ。上官でさえみんな小便も外でやりきれない。中で缶詰にやって捨ててこいというような状況で、みんなやっぱり、正式な軍隊教育を受けた人も、人間的にはみんな同じだなという気持ちでした。

僕らは外へ出てやるんですよ。要するに上官は、怖いから、怖いんでしょうな、缶詰のカンカンにやって、これを捨てて来いと言うわけ。そうしたら、これを捨てに行く途中に、カイコ式に治療する棚がある。病院ですから。水はないもんだから、「おー、水くれ」と言ってこれを取って飲む連中がいたんですよ。上から小便を垂らして下と口ゲンカしているの。そういうふうにして、人間の生活じゃないですね。

だってみんな恐いんですもの。ですからわたしはある一面は安心しました。この人たちは本当の教育を受けている生粋の軍人でも、みんな怖いんだな、同じ人間なんだなと。

もうおっかなびっくりですよ、みんな。壕の中、うちの壕は、真壁では入り口が下がっていましたけど、中から水が流れているんですよ。だから水にはあまり不自由しなかったのかなという感じがする。雨で、そのころは4月5月は沖縄は雨期ですから、中に水が流れるわけです。壕の真ん中には座れないわけです。壕の真ん中から水が流れるものですから、そのそばに缶詰の箱とかそうめんの箱とかを置きまして、みんな縮こまって座っているわけです。中のほうに入ったら全部濡れるもんですから。箱の上に縮こまって生活しました。そうしたら、壕の中ではランプをたいているんです、石油ランプを。石油ランプをたいているもんだから、その煙を吸って鼻は真っ黒。つばを吐くと真っ黒な液が出る。よくこれで病気しなかったなと思うぐらい。もう壕の中でランプをたいて鼻は真っ黒です。みんな外へ出て、君の顔を見てみと言ってお互いに笑っていましたけど、そういうふうな。ですから外で、本当に新しい空気、新鮮な空気を吸うのは、だから人間、だんだん追いつめられると欲というのはこういうふうになりますよ。きれいな空気を吸って、さんさんと射す太陽のもとで手を伸ばして、それで死ぬなら死にたいなというふうな気持ちでしたね。もういつもこうして蟄居して、悪い空気を吸っているもんですからね。

確か6月の18日か19日ごろじゃなかったかと思いますけど、この隊長が、今から解散すると、本部から命令が出たか分かりませんけど、解散すると。我々の隊はヤマシロさんが隊長で5~6名ぐらい。そして他は与那城という人が隊長で5~6名ぐらい。そして本部に残って。そうして3つの班に分かれまして、今から行く連中は、外へ出る連中は、表向きは斬り込みと、北部に脱出と、表向きはそういうことだったんでしょうけど、隊長では無理だろうと、どうにか生き延びるというふうな感じじゃなかったんでしょうか、わたしには分かりませんけど。米を靴下の1足分ですね、1升ぐらい、それで地下足袋ですね、軍靴は音が出るからということで、形は斬り込みという形です。地下足袋の新しいの、それと、学校から持ってきた三八の小銃、それを持って真壁から米須という部落を通って摩文仁の海岸のほうに出ていきました。

ですからわたしが生き残ったのは、軍に所属して壕の中に入れたから今まで生きたんだなという気持ちはありますね。他の人はみんな右往左往、本部の連中、陸軍中尉と校長が指揮しているんだけど、もう壕が無くて、壕を求めてあちこち行って、配属将校も石垣のそばで死んだと、そういうふうにしていますけど、わたしどもは解散される前まで壕にいましたから、その辺はやっぱり部隊の力でしょうね。

Q:解散して初めて外に出て見た光景はどんなふうに…。

もう米須というところ、ワイトーイといって掘り割りになっているんですが、そこはやっぱり米軍がねらっていたのか、もう死体がウヨウヨですよ。死体がウヨウヨしてる。もうそこから通り越して摩文仁の海岸に出て、具志頭のほうに抜けられるかなと思って海岸沿いをさまよったんです。そうしたら米軍はピアノ線といって線を引っ張って、そこへ引っかかったら上から射撃するように、機関銃の砲座を向こうに作っている。それを何かの拍子で引っかけたらバーッと来るわけですから、もうそれも怖くてできないなと思って、そこで死んだ兵隊を何人か見ましたけど、もうあれですよ、海の中で死ぬと中でガスが発生しまして、軍服のボタンがはち切れんぐらいに膨れまして、ちょうど雪だるまみたいにしてころがっているわけです。それが、間違って穴でも開くと、しゅーっといって音を出してしぼんでいって、そこらへんはもう息ができないぐらい臭いが出る。そういう死体が、雪だるまみたいに膨れた死体がウヨウヨあるわけです。そこをかき分けかき分けして通り抜けるし、一番の問題は水飲み場は1カ所しかなかったです。みんなそこの水飲み場は知っているみたいですが、摩文仁の海岸に下りるところに水を飲むところがあった。米軍はそれを分かるもんんですから、そこを狙い撃ちするわけですね。そうすると、この水飲み場のところで人が死んでいるわけです。2~3人浮いている。それでも水は飲まないといけないものだから、板切れを持って死体を押しのけてこの水を飲むわけですけど、やっぱり死んだ人の体液とかいろんなのが入っていて臭いがするわけです。それでもこれを飲まなくちゃいかんなと思ったのは、いっぺん海の水で

ご飯炊いてみたんです。確か、海の水で炊いてみようかって。どんなにひもじくても海の水で炊いたご飯は食べられないです。ちょっとこれじゃ駄目だなということで、ここからとった水は臭いはしても、ここからとった水を飲もうということでやりました。もうこのへんの時には日本軍ももう敗残兵みたいなもんで、小銃の床尾板と言って板があります。あれを割って薪にしてご飯を炊いて、わたしたちのころは考えられなかったですよ、陛下の武器、これをこういうことしたらもう死刑ですよ、もう殺される。そういうふうないきさつでわたしたちは三八、明治38年の銃をそこまで持っていったわけですから、ああいうふうにして小銃を、もうやっぱり日本軍はもうこれで支離滅裂、指揮系統は全然無いんだなと思いましたね。

目の前まで来ましてね、アメリカさんが、すぐ目の前。食事もあるから降伏しなさい、降伏しなさいってしょっちゅう来るわけ。みんな首を出しているんだけど、生きて虜囚の辱めを受けずと僕らは教育、頭から、これは降伏したら一生家族みんなに迷惑がかかるんじゃないかなという気持ちがみんなありましたんで、ここでちゅうちょしていたんですよ、しばらくこのへんで。そうしてやったけど、皆さんゾロゾロ行くのがいるもんだから、もうどうせこうなるんだったら、後ろから弾を撃たれせんかなという心配はありましたよ。やっぱり皆さん、この人たちが行って、自分らの居場所を教えられたら、自分らが殺されると、みんな他の人を助けようというよりは、自分がどうしたら生き延びられるかなと、それしか考えない。ですから、わたしどもも、どうせ殺されるんだったら向こうに行って、さんさんとした太陽のもとでのびのびと、死ぬんだったらそのほうがいいんじゃないかというふうに一決しまして、そして住民のうしろから行って、降伏したんです。

あのですね、非常にいい天気でしたよ。もうさんさんとして太陽のもとね。ホントにいい天気で、もう雲一点もない、いい天気で晴れ渡っていました。そして僕ら5名固まって動いてましたらね、迫撃砲の炸裂弾がシューバンってやったもんだから、これ近くに落ちたな。もうこのときには感覚的に遠いところ近いところ。シューバンってやったもんだから伏せたわけですよね。そしたらヤマシロさんだったったかなあ、あの時は。「誰かやられたものはいないかあ」って大きい声だしたらね。やられたといってシロマ君が。言ったもんだから、かけ寄ってみたらね、彼はいい体格してましたよ。その頃。で、駆け寄ってみたら、もう倒れているもんだから、「どこかあ」といったら「腹が痛い」って。ベルトをはずしましてね、こう下ろしたんですよ。おろしたらね、あれでしたねえ。尻のところにこれぐらい、弾そうがあるもんですから。破片創が。これ大したことないな。破片を取れば大丈夫じゃないかなと思って、わたしども、これは大丈夫だと思っていましたよ。して、見てると、まず体格はずしてこう下ろしてみたら、こちらから腹の方に貫通。通ってるんですね。破片が。腸がむきだしになっているわけですよ。腸がむきだしになっているもんだから、みんなの携帯用の包帯、全部洗って三角巾というの、三角巾を集めて押し込んだりして。手当しても、僕らの手には負えんなあと思っていましたよ。本当だから、その辺で何とか救急隊でもおれば、いっぺんで助かるんだけど、もうああいうような状態で、もう一人がやられたらみんなの気持ちは、怖いわけですね。身内が、今まで他の人が、たくさん見てきましたよ。身内がこうやられるのは初めてですから。非常に怖さがありあしたね。それで、「次は自分らがやられるんじゃないかなあ」と。これがわずか三日くらい前ですよ。僕らが向こうに投降する2日か3日前。だから牛島中将があれする前の日くらいですからね確か。だからもうこれはもう、どうにか助けられんかなと思っても、その状況じゃないと。こうして押さえて、して、確か手りゅう弾というのは、本物は持ってないんですね。あの日本の軍隊って粗末なもんですよ。歩兵部隊はありますよ、手りゅう弾は。我々の部隊は砲兵隊でしょう。砲兵隊というのは、手りゅう弾とかそんなのは必要ないとの考え方でしょうね。手りゅう弾もない、小銃もない。小銃は僕ら自分で持ってきた三八式。そういうような状態で、急造爆雷持たされたというんだけれども、僕は、比嘉さんそういうけれ、僕は全然そういう記憶はないんだけど。手りゅう弾は製造する現場も見ましたから、手りゅう弾はあったなあと。缶詰のカンカンで造ってるのを見ましたけど。それに集まってもう、どうしようかと、挙げ句の果てはもう、その後からドンドン来たもんだから、これは自分らは助からんなあという気持ちで、そこから引いていったんですがね。いつまでも後ろめたさはありますよ。助けきれなかったという。

Q:シロマさんは何か言ってました?

うん。「もう君は行ってくれ」という風な感じで言ってました。もうしかし、彼も痛みに耐えかねてですから、もう本当に痛かったと思いますよ。

解散して、摩文仁の海岸に降りて、その辺を右往左往して、どっか北部の方に、具志頭の方に抜ける道はないかなあと思って、この辺をみんなウロウロしておったわけです。そしたら米軍としてはもう、丁度遊び半分、けだものでも撃つみたいな感じでただ無造作に撃ったんじゃないですか。もう追いつめられているから、撃たんでもいいはずだが……。

お父さん・お母さんがわざわざ僕のところに訪ねて来ましてね。そのときキョダくんかなにか、ヤマシロ先輩かなにか、一緒に同行すれば良かったものを、「はい、行きます」と言って、遺骨取りにと言って行ったわけです。向こうはその頃トラックもない。車もない。日本軍のトラックを改造しましてね、改造したトラックを運転手頼んで、相当大金払ったと思いますよ。して払って、わたしを連れて摩文仁まで行って、して遺骨を探そうというわけですけど。そのときには戦争終わって3年くらいなりますから、向こうの近辺の人が、全部取り片づけてあるわけ。見た記憶とも全然違うしね。もう右往左往。あっち行ったりこっち行ったり。とうとう探しきれないでね。場所も指定できない。とうとうそのまま、何も向こうのご両親にやることもできないで、非常に悔しい思いをしたことがあるんです。そういうものも含めて、非常にわたしは悔いがありますね。

Q:シロマさんのご両親は何か言ってました?

うん、まあやむを得ない。難儀してくれてありがとうとは言ったんですが、もうそれは。その頃、遺骨は全部片づけてあったんです。ですから、あれをどっかに僕らに気持ちの余裕があって、スコップかなにか持っておって、埋めておればね、あるいは遺骨拾いよったなあと。僕らも右往左往して弾が来ても次は自分かという気持ちで、もう右往左往して気持ちが浮いているもんですからね。そのまま置いて、そこから離れたのが非常に悔いなりますね。だからどこか目立つところへ置いておけばね。あるいは遺骨拾えよったんじゃないかなと。ですからね、追いつめられると、人間てやっぱし自分のことしか考えないですな。

我々は一応、こういう風にして不自由ではあってもね、壕に最後まで、壕の中で生活できて、生活できなかった人、住民たくさんいるわけです。同級生の本部の連中も。あれらに比べて、もうわたしたちは非常に被害者でもあるけど、そして、みんなが追い出されたであろう壕に入っているから、加害者でもあるんだろうなと、いうふうに思ったわけですね。壕というのはほとんど軍隊が造った壕もありますけど、ああいう自然壕は民間が入っておったであろう壕を軍が来て、みんなは前線から来た兵隊がここを使うから出て行け。そういうふうにして追い出されたのが多いみたいですよね。話によると。そういうふうなところで、わたしたちは壕の心配しないでいたのは、ここから追い出された人もいるんだろうなと、いうふうな感じで、僕らは一応こういう生活して被害者でもあるけど、一種の軍隊と一緒にいて加害者でもあるんだろうなと思ったわけですね。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1945年
沖縄県立第一中学校3年時に、鉄血勤皇隊へ入隊
 
野戦重砲兵第1連隊に配属
 
沖縄本島での戦闘に参加
 
6月、米軍に捕らえられ捕虜となる
 
終戦後は、会社員

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