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タイトルタイトル: 「果たせなかった自決」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 神谷 依信さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月12日

チャプター

[1]1 チャプター1 組織された学徒隊  07:46
[2]2 チャプター2 軍隊の雑務を担わされた鉄血勤皇隊  04:14
[3]3 チャプター3 本島南部への撤退  06:38
[4]4 チャプター4 敗戦の予感  05:17
[5]5 チャプター5 女性を連れ歩いていた軍隊  01:56
[6]6 チャプター6 肉弾攻撃のために手りゅう弾を持たされた  06:15
[7]7 チャプター7 自決を決意  05:21
[8]8 チャプター8 捕虜になる  03:56
[9]9 チャプター9 死体だらけだった本島南部  03:39
[10]10 チャプター10 「沖縄県人」をスパイ扱いした守備軍兵士たち  01:28
[11]11 チャプター11 何のために戦ったのか  04:59

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月12日

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3月31日までは、艦砲射撃と空からの艦載機の空爆ですよね。それがあって4月1日に嘉手納に米軍上陸ということになるわけですが、一中の方では27日ですね、勤皇隊の設立というんですか、勤皇隊、それから卒業式とか、そういう大きな行事が玉陵(たまうどぅん・琉球王室の墓所)のうしろ側の南側ですがね、今の。当時の養秀寮の跡に市の方で、また一中の避難壕(ごう)もそこにあったものですから、寮の後ろの広場で卒業式とか勤皇隊結成とか、そういうのが行われたんですよ。

で、4月4日だったと思うんですがね、4月4日の朝、一中の壕に僕らは行ったんです。12名だったですかな。そこでいろいろ配属将校から、いうところの訓示ですね、訓示があって、軍服なんかも支給されて、二等兵の星ですね、それを着けて。それから38式の銃。それに弾が100発。これも正式のあれにはないから雑のうに入れて、そういうものが手渡されたんですよ。

Q:それをもらったときはどんな気分でした?

当時はね、兵隊なったのかというようなね、そういう何かね、そういう風なそれに、まず15・6歳ですからね。そういうような内心、15・6歳で2等兵かという自ちょう気味な気持ちもありましたよ。そういう風にして、僕らは県庁帰りの12名で特別班というの作って、前からずっと勤皇隊結成に参加した方々は、3小隊に編成して、1.2.3小隊というふうに。壕の方も、ここはどこどこのあれが入っているんだというふうに。そういうあれで我々も、そこのあれには入れない特別・・本部壕の向かい側に、8畳間くらい、もっと大きかったかな、大きい壕があったもんですから、その壕を利用して、そこに泊まってました。

Q:艦砲はどれくらいすごかったですか?

あのねえ、僕らは首里の方にいるもんですから、艦砲のあれというのは、今の知念半島から喜屋武岬、ここに艦砲は撃ち込まれていますから、その響きですね。遠い不気味な地を揺るがす、そういう遠鳴りというんですか、そういうふうなあれで聞こえてくるんですよ。朝から晩まで。もう不気味で、もうあの音だけでも普通何か仕事してるから忘れて・・こういう目の前の仕事に取りかかって、遠い艦砲のあれなんかも我慢できたんであって、もしあれだけ聞かされていたんじゃ、精神的にも頭も変になっていくんじゃなかったですかな。それぐらい不気味ですよ。

Q:どんな感じですか?音は。

ゴーン、ゴーンしてね、大地も揺さぶるような、こういうあれが時々あるんですよ。

Q:神谷さんは、戻ってきて学校に。訓練みたいなことは、その間はありました?

いや、訓練どころじゃない。即、実戦だもの。訓練なんかそういう余裕なんかないわけですよ。また、教えるあれもいないわけですよ。先生方が監督してるわけですからね、僕らの先生方にはね、そういう予備役の先生方が多かったもんだから、みんな防衛隊とかね、兵隊に取られて、軍隊に取られてね、学校にはいなかったんですよ。

すぐもう、鉄血勤皇隊、一中隊としてね。それぞれによって軍司令部のそこに、いろいろ雑務なんかに駆り出されたりして、みんなそれぞれ仕事あるわけです。交代制でね。ほとんど8時間交替で勤務してますよ。

Q:それで、配属はどんな感じで行われました?

いや、すぐですよ。もう配属将校の頭には、こういうふうにどうするというのはありますからね。

Q:どんな風に言われて、どんな風に行動したんですか?

特別班としてね。そこで、例えば僕らの場合は炊事ですね。炊事班に応援とか、あるいは野菜取りに北の一中の壕から今の工業高校、松川辺り、ここは野菜畑がたくさんあったもんですからね。そこにキャベツがね、相当あったんですよ。そのキャベツ取りに応援に行ったりしてね。そこはまた桃原先生といって、戦後工業高校の校長なられた先生がいたんです。この先生が野菜の方の責任者なってね、生徒引き連れて、生徒じゃなくて兵隊何名か引き連れて、野菜取りに。これだけのおよそ300名の食事の野菜取りに毎日出て行ったんですよ。初めの頃は弾も落ちないからね、上からトンボ(観測機)が飛んだりしているときにはね、隠れて、じいっとして動かないようにして、そういう風なあれで用心しながら野菜取りにはみんな行ってたんです。

Q:あの、それで、そういったのが終わって配属になるわけですよね。分散配置ですよね。

あれは5月のね、5月の14日ですよ。今月でいえば明後日で分散配置のあれで、各部隊に散っていくわけですがね。その間は僕らは校長先生の元でね、壕掘りですよ。貫通させて。未貫通のところがあったもんですから、この壕を貫通させなければ危ないと。そういうことで、一所懸命。僕らも12名のうち8名がね、この校長・教頭先生の指揮のもとに、壕貫通のあれに従事して、他の作業にはあんまり参加しなかったです。

だから5月14日に、もう首里の方も危なくなったもんですから。アメリカさんは浦添辺りのね、そういう、いうならば首里の防衛線が突破され、もう線まで押し寄せてきたもんですから、司令部なんかも摩文仁に後退するような話もちらほら聞こえた。学校としてもね、そのままここで首里の方で頑張るわけにもいかないから、後退するということになって、我々は5つか6つくらいの各部隊に配置されたんじゃないですかなあ。僕らは野戦重砲連隊の方に配属されたんですがね。配属されても野戦重砲ですからね。野戦重砲というのは、後方の方にいるんですよね。大砲は後ろの方にあるんですから。半分は後方、半分は敵前ね、いわゆる観測隊というのが必要ですから。で、野重というのもそういうふうなあれで、特に僕らは後退していって、診療所、負傷兵なんかの治療する部隊の診療所の方にね、野戦重砲一連隊の診療所の方に配属されたわけですよ。結局、それが僕らは他の部隊よりは生き残りが多いわけです。

だから、そういう風なあれに。ほとんどみんなそういう風に雑務に従事していたんですよ。それで真壁に行ったらね、昼は一歩も外に出られないから。出たらもう撃ち殺されていますよ。弾がものすごく、アメリカさんの迫撃砲が。木立のこんもり茂ったあれがね、戦後行ってみたらね、根こそぎ倒されているんですよ。それぐらい激しいあれでしたよ。だから外に全然、昼は出られなかったです。面白いことにね、アメリカさんというのはね、実にあれですよ。朝もね、7時から8時はね、朝食の時間といって、弾も飛んでこないんですよ。それから夕方、5時から6時。もう全然一発も飛んでこないんです。そのときに、もう仕事全部やるわけですよ。真壁にいるときはね、もう真壁の診療所行くと負傷兵が多くて一日十何名も死んだんですよ。それの埋葬はね、僕ら勤皇隊の仕事ですよ。朝6~7名。晩も多いときは8名9名もやるしね、少ないとき。もう死んでいくんですよ、一応、病院に担ぎ込まれてきた兵隊ね。負傷した兵隊の方々も、もうこういうあれで、次から死んでいくもんですから、で、僕らは4名でね、お前は手の方、足の方、こういう風に運んでいって。その5時から6時の間。朝は7時から8時の間にね、新しい土なんか掘る元気もないんですよ。それが栄養失調でね、フラフラしるんだから。艦砲の落ちた後、向こうは土も何も柔らかくなってますから、そこに埋めよったんです。もう僕らが元気もなくてダラダラしてるもんですからね、一回はね、下士官の曹長の方がね、日本刀を持ってね、「貴様たちは」と言ってね、こう太刀抜いて僕らを威嚇するんですよ。元気がない、ダラダラしいているってあれでね。ささっとやれというふうなあれ。一回はそういう風にね、太刀抜いて日本刀を抜いた下士官にね、威嚇されたことがありましたよ。今考えたらね、こんな侮辱というのはないんですよね。

戦車隊であろうが何であろうが、何も機能できませんですよ。アメリカさんの、こういう火器団の前には手も足も出ないという状態ですよ。だから兵隊は朝から晩まで寝て、仕事するのは僕ら勤皇隊の連中とですね、防衛隊。防衛隊はもう役目をね、薪(まき)集めと水くみですよ。だから水くみに行ったりね、薪集めに行ったりしてね、それで被害にあった方々多いんですよ、戦死された方。

Q:そういった日本軍の様子を見て、まだ、まだ日本軍勝つって、その頃まだ思ってました?

いや、もうそのときからはもう、駄目だなあというあれは、みんな口には出さないがね、口に出したら大変だよというね。もう兵隊自体があきらめているんだもの。あのいちばん惨めなのはね、軍隊でいえば初年兵ですね。階級の低いのね。今度の戦争でいえば、防衛隊とかね、勤皇隊とか、初年兵なんかは、仕事のいろんな雑務は押しつけられてるんですよ。で、上等兵とか何とか連絡にはね、どうしても上等兵とか兵長ぐらいの兵隊の上の位のあれが出掛けるんですがね。ほとんどはもう、何もしなかったんですよ。やるあれがないんだもの。だから一線要員だと自分らは一線要員だからといってね、威張ってましたよ。

もう、戦争というより、これはもう、普通これはもう、雑務ですよね。一線の戦のあれには入りませんよ。薪拾いとかね、水くみなんか、そういうのは。だから、兵隊はいうならば機能してないわけですよ。軍隊としての、またできなかったわけです。アメリカさんのこの猛烈なこういうあれね、もう陸上のあれになると迫撃砲ね。ときどき大きいやつも飛んでくるんですが、ほとんどは迫撃砲ですよ。もう日本軍の銃砲一発撃てば、向こうから千発も二千発も何千倍というお返しがくるといわれたのは迫撃砲ですよ。

Q:戦わない日本軍を見て、どんなふうに日本軍を見つめていたんですか? その寝っ転がってばかりだといった……

これは、しかたないことだったんですよ。外出てね、行ってそのまますぐそこで、入口から少し離れたところでもう戦死してるとか。もうそういう状態だからね。本当、壕から外に一歩も出られないんですよ。出たらもう死んでいるんだもん。そういう状態だからね、もう壕の中でうずくまっている他何もできなかったんですよ。だから、これはもう僕らでも同じです。僕らもわずな時間をみてね、死体処理なんかに従事しているんだってね、もう何時間も外に出ているってことは到底できなかったんですよ。

あのね、連隊長の、沖縄の辻の女郎というのがいましたよね。沖縄で尾類(ジュリ)というんだが、そのあれが連隊長のね、あれとして。あれもう、そこでイチャイチャしてるんですよ。もうこの女はね、イチャイチャするのが職業ですから、それをさせている連隊長なんかがね。いまでいう緊張感がないわけですよね。戦争で部下はいろんなあれで負傷して、ここに運び込まれてくるのにね。もう最高責任者の連隊長はイチャイチャしてるんだもの。それはおかしいわけですよ。

でもまあ、お互い軍隊でも上が上だからね、下士官くらい、みんな女連れているようでしたよ。もうほとんどとはいえないはずですが、とにかく大方は女連れてますよ。だけど、どういう女かどうであるかは僕らには分からない。うさぎに角女が付いてましたよ。

いや、6月のね18日に、我々真壁の壕、部落の前はね、畑地帯ですよね。その畑地帯にアメリカさんの戦車がね、来てると。そこまでアメリカさんの戦車が来てるという風に18日。それで壕の中騒然としてね、もうやったんですが。夕方なるとまた、アメリカさんの戦車は撤退していないもんだから、一安心したら、また翌日19になるとね、また出てきたわけですよ。また包囲されてると。それでもう、これ大変だから、19日になってから斬り込みと。3大隊くらいに、3隊ぐらいに分かれて斬り込み隊が編成されたんですよ。

Q:神谷さんも、その戦車見ました?

いやあもう、これは見えるようなあれじゃない。そこはもう弾落ちるから、また出て行けるあれでもないわけよ。だから、そういう風にして19日にね、斬り込みに、晩なってから出て行ったわけですよ。で、僕らは初めから手りゅう弾なんかをね、渡されていなかったから、そのときになって経理の兵隊から、経理の兵隊が作った手りゅう弾といって、缶詰にね、火薬つけて信管つけて、こういうのが二つ、配給があったわけです。それを雑のうに入れて斬り込みって出たわけですけどね。途中でね、兵隊の指示で・・引率している4~5名ぐらいで引率してるんですよね、斬り込み行って兵隊が。そこで、止まれということで。止まってあれやったら、兵隊が自分で国頭にね中央突破して国頭に行って国頭で戦うから、ここで解散すると。あんたがたは自由行動しなさいと。もうほうり出されているわけですよね。大人は大人のあれで、どうにもできらん。僕らはどうにも出来ないわけですよね。これはとんだことだと、になったと思って。そういうみんなでワイワイ騒いでいるときに、いつも間にか兵隊5名ともいなくなってね。みんな暗闇の中でのことだからね、どこに行ったか分からないわけよ。そこでもうそうして、東の空見たら、もう白みかかってるから、夜が明ける。早く壕を探さないと、また晩は大変なことになるよと言ってね。ちょうど真壁の部落からの正面、こういう崖(がけ)っぷちになって、ここは米須の後背地になっているわけさ。あのひめゆりの塔ね。あれのあれになっている丘陵地帯になっていますから、これに上がっていって、もう一所懸命壕はないかと思って探したら、ちょうどね、観測所、石で積んで上は松でねやって、また石置いてある。もう、壕ともいえないような観測所みたいなものだったのかなと思うくらい。せいぜい4~5名入るものに11名入ってね。それに。もう足なんか、かかとなんか尻につけるくらい窮屈な思いしながらもみんな、助け合わなければならないから。みんな、詰めるだけ詰めろっていってね、11名それに入っていたらね、お昼頃、アメリカさんに手りゅう弾打ち込まれてね。2発。それで、入口の3名がね、それをまともに受けて。それで3名とも、もうあれやったときには意識不明でね、30分くらいでみんな息引き取ったよ、3名とも。

そういうので、僕らもどうしようもないから、もうこれが最後だと、みんな覚悟を決めてやろうやということに。やろうやというのは、もう死のうということですよ。で、みんな賛成してね。それからもう、わんぱく者もいてタバコ。今生の思い出にタバコ吸おうと言ってね。一人ウーマク(不良)がいてね、キセルも刻みたばこも持っていて、キセルにこれを詰めてマッチつけたりしているこのあれが、大人っぽいものだから、みんなおかしくなって笑ったわけよ。それからみんな恩賜のタバコも持ってるからと言って、恩賜のタバコ出して吸ったのが、もう恩賜のタバコはかびているからね、みんなむせ返ってね。みんなせきしたり、それがおかしいといってみんな腹の底から大声出して笑ってね。それでもアメリカさんこないから、生き返ったなあと思ってね。じゃなくて、みんな落ち着いて、笑ったり何かしてるから。じゃ、手りゅう弾で信管やってあれやろうと言って、合図して1、2、3でやろうなと言ってね。1、2、3で信管抜いたんだがね、お手製の爆弾だから爆発はしないんですよ。これで斬り込みに行けっていって持たされた手りゅう弾ですよ。要するに不良品ですよ、手りゅう弾は。だから爆発もしないから、僕ら生き延びているわけですよ。

Q:一回は、完全に死ぬ覚悟で抜いたんですか?

うん。みんな笑いながらタバコも吸ったりしてね、どうせあれだからといって、もう友達が3名死んだからね。もう生きられないと。死のうやと。じゃあ今生の思い出にタバコも吸おうということになってタバコ吸ったら、吸い慣れないもんだから、みんな初めのものは、初めてのタバコだからみんなむせ返ってね。またそれがおかしいと言って、みんな腹の底から笑ったもんだから、もう落ち着いてね。本当に死のうという気持ちになって心からなって、おびえるとかそういう気持ち全然ないわけですよ。で、あれを1、2、3で信管抜いたんだが、この手りゅう弾が爆発しなかった。

Q:ひとつも爆発しなかったんですか?

はい。要するに8名。3名は死んだから。残っている8名、信管1、2。3で抜いたんだが、爆発しないですよ。

Q:みんな爆発しなかったとき、どんな顔してました?

そのあと、爆発しないねえということで、一人が言ったもんだから、そうだねえということになって、一応ホッとしてね、また笑い声が。「クレーナー、ヒータイヌ ツククトーセー ムル ヌーガキーヤラ ワカランヤア(この兵隊が作ったのは一体どうなっているのかわからない代物だなあ)」ってことなって方言で言うもんだからね。結局みんなおかしいもんだから笑って。それからまた、「イチカリーヌエーカア イチカリチ(生きている間は生きていこう)」というのは、生きられる間はね、生きていこうという風にみんなやったわけですよ。そうして夜になってからね、そのあれを脱出して。まあそういう風にして米須の、これが6月の20日。20日の日ですよ。

もう24日と25日と、そこ流れている水を飲むだけで何も食わんでね、そこであれやっていたんですよ。ただ26日になって、宣ぶ班、アメリカさん。宣ぶ班、この沖縄出身のね、陸軍大尉という方がね、宣ぶ班のあれになってきているわけだ。もう戦負けてるからね、無駄なもう、今から抵抗するのは無駄だから、早く出たほうがいいよということで、そこにいた。その一人は野重一連隊の副官だったという方だがね。で、その方が「もうあんた方は・・」 そこで、この方から二人の下士官は、もうみんな40代以上ですよ、3名は。この中尉とね、であと3名は一人は伍長で、一人は兵隊。で、わたしら6名のうち3名にね、「あんた方はね分からん。やっぱし、この間日本のあれも大変だから、今から日本の建設のための、あんたがた若い者が生き延びてね、お国のために頑張らんといけないから、もうここはあれやって。いろいろな苦しみもあるはずだが我慢して、頑張りなさい」という風に言ってね。で僕らは3名出して。それで出て行ったらアメリカ兵が4~5名ぐらいいるわけです。それと日本の陸軍大尉だという方が宣ぶ班で来てるから。で、それから海岸の方にアメリカ兵隊に取られたか行ってね。それで僕らが入っていたこの、岩と岩の間のからね、手りゅう弾が爆発する音が聞こえてね。あれやったな、一人の将校と二人の下士官が手りゅう弾で自殺したんですよ。まあそこで、僕らはそこからつれて、屋嘉の捕虜収容所に連れて行かれてね。で、屋嘉に連れて行かれて、僕らは若いということで、ハワイに連れて行かれ、また向こうで勉強させるとか何とか言ってね、アメリカまで連れて行かれて。で、結局、ハワイからアメリカに行く途中でもう戦は負けたというあれが入ってきたんですよ。

波打ち際までね。もう死体が浮かんでね。それにこの岩と岩の間でもね、もう倒れて死んでいるかたのあれが何体もありましたよ。あの、当時ねえ、米須から今の平和の祈念の公園のところまで行く、当時はサトウキビ畑ですよ。左右とも。もう腹ぺこぺこだからサトウキビでもと思って、そこにサトウキビ取りに行ったら、サトウキビの中に、もうあっちにもこっちにも死んだ方がこんなに膨張してね。コンニャクみたいにはちきれんばかりにやっていると。またお腹がもうウジ虫で、いっぱいウジ虫がたかっている死体とかね。もう惨めでしたよ。あれが地獄ですよね。地獄というのはね、別にあるんじゃあなくて、我々の眼前にあるんだということをね、つくづく感じましたよ。もうサトウキビ畑入れないんですよ。サトウキビ食べようと思ってもね、ちょっとね、サトウキビを取ろうと手前のものを取ろうと思っても、手前にもう死体がある。本当に死体の行列みたいにして。今は少しワイトゥイ(切通し)は取られてしまっているが、元はワイトゥイにね、小渡の方から行って摩文仁に出る。そこは少しはワイトゥイになっているのだが、そこもまたワイトゥイのそのあれを背にしてもたれてね、もう座ったまま死んでいる方もたくさんいましたよ。僕らはこのそこを通り抜けて摩文仁海岸まで。そうして朝になったもんだから、そうしたら21日ですね。そうしたら、陸からは最後の総攻撃で、摩文仁のあの丘目指して迫撃砲が盛んに撃ち込まれているんですよ。またそこは下まで出ようとしたらね、向こうは機関砲が。

昼ぐらいになると苦しいんでしょうな。あちこちで手りゅう弾が爆発してね、自殺しているんですよ。結局、望みがないという風にね、感じたんでしょうなあ。ああいう状態だから。だから昼頃から数え切れないくらい爆発がね、あっちこっちから。今はそういうあれはセメンで封されてね。その後あるかと思って気つけて見てるんだけどね、あまりわからなくなっている。

首里にいるときは、あのビラが落ちてくるんですよね。例えばビラには石川の収容所とか、前原の収容所なんかで沖縄人がこういう配給受けているとか、遊んでいる子どもたちのあれなんかがビラに載っているもんだから、それ見た兵隊がやっぱり沖縄人はスパイだと。みなスパイだという風に、僕らにののしりよったんだが。あのビラがね、相当影響して、沖縄人だいぶ兵隊にいじめられて。僕はそう思っている、原因は。内緒でしか見られなかった、ビラ持っているの見るとね。撒かれているから拾ってきて皆で見るとね、次々見てあれする。あいスグミラリーネェ デージローって言ってね。みんな隠れてビラは見よったんだが、それぐらい兵隊はね、嫌がりよったんです。

もちろん勝たなければいけないと思ってね。もう勝つというのが僕らの受けた教育だもの。教育がそういう風に、もう絶対負けないと、勝つんだという風にね、もう天皇陛下のためにはという風に全部教え込まれていますから。もう、しみ込んでいるわけですよ。

それはもう、小さなときから、これは学校教育を受ける始めから、全てが天皇中心の教育だもの。毎朝東に向かって天皇陛下に栄典って遙拝をさせられるし、ね。天皇陛下という言葉が出るとすぐ気をつけをして姿勢は改められるし。そのあれというのは、やっぱし、小学校あがると同時にそういう風にね、天皇陛下の宮城よう拝はね、毎朝行われるし、自然と身に付いてしまってますよ。

もう、これは負けるなと思うのは、首里が陥落したという時点では、もう持ちこたえられないなあという風な気持ちにはなってましたよ。

Q:でももう、やめられなかったんですねえ。

うん。それはしかたない。そういう中で、僕らがどうのこうのという動きはできないですよ。

Q:じゃあ、沖縄戦の後半部分はほとんどあきらめた気持ちで従軍してたんですか?

それは誰しもね、どうしようもない。惰性っていう言葉があるんですがね、惰性に流されるという言葉があるように、もうどうしようもないんですよ。昼はね、どうしてもね、外に出てねどうするこうするできないのに。晩はようやくできるんですよね。で、朝7時と8時ちょっと1時間の休み、アメリカさんの。で、5時から6時、向こうのアメリカさんの夕食時間。だからその時間には、アメリカさんのあれはね、大砲は飛んでこないから、ようやく、だから我々は飯も食えて生き延びてるんですよ。そうでなかったら、朝から晩までやったら餓死してますよ。もう僕らなんかもう、栄養失調状態で戦争を戦っているんですよ。もう、志多伯にいるときからグリグリが出てね。微熱が出て、病院、医者もいるもんだから診せたらね、すぐ入院やれと言われて。わたしは5日ぐらい入院させられたよ。微熱がひいたからね。

だってあんた首里にいるときから、朝と晩だけよ。2食よ、ご飯は。でね、おつゆというのは、副食というのはみそ汁だけ。あれはないよ、底の中に浮かんでいるというのは何もないよ。で、ご飯は米を節約しなければいけないという学校の方針でね。もちろんご飯は炊くんだが、それに芋も入れるしキャベツも入れられるだけいれているんだよ。だから真っ黒になってね、ご飯粒なんか見えなかったよ。それを食べて、3か月間頑張ったよ。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1945年
沖縄県立第一中学校3年時に、鉄血勤皇隊へ入隊
 
野戦重砲兵第1連隊に配属
 
沖縄本島での戦闘に参加
 
6月、米軍に捕らえられ捕虜となる
 
終戦後は、衆議院議員の秘書として働く

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