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タイトルタイトル: 「バタバタ倒れた戦友達」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
名前名前: 桒原 眞一さん(第15師団 戦地戦地: インド(インパール)  収録年月日収録年月日: 2009年6月1日

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[1]1 チャプター1 京都・60連隊慰霊碑  01:31
[2]2 チャプター2 15師団  01:45
[3]3 チャプター3 今思う「インパール作戦」  01:03

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大体わたしらの部隊で、インパール作戦だけじゃないですけど、その後のビルマにおけます戦闘におきまして、約8割5分から9割のかたが亡くなりました。大体3,800人から4,000人ぐらいだろうと思われます。ということは、病院で亡くなったかたもあり、道路等で亡くなってますので、はっきりした数字はつかめておりません。

Q:毎月こうやってお参りされるというのは、どういったお気持ちでお参りされてるんですか。

わたしはおかげさまで貴い命を頂いて帰りました。インパールでも、ビルマの各地でも、ほんとにもう戦友がバタバタ倒れていくのを見ました。おかげさまでこの貴い命をもらって帰りましたんで、帰りましてから、これはおまえはわれわれの御霊(みたま)を守れと言われている身だと、そう思いまして、毎月お参りさしていただいてます。

15師団と申しますのは、最初はいわゆる中支に派遣されておりまして、南方のインパール作戦が始まるということがわかりましてから、昭和18年の中ごろから南方のほうへ移動いたしました。そして、タイでジャングル戦闘の演習をいたしまして、その後ビルマへまいりました。ま、そういったかたちでございます。

Q:どこのかたが多かったんですか。

大体、「祭(兵団)」(15師団)は、あのインパール作戦に参加いたしましたのは、京都、滋賀県のかたが主でした。

同郷のかたが多かったから非常に親しみがあり、またお互いに協力できたということもあると思います。

Q:あの祭兵団というのは、いろんな陸軍の部隊があると思うんですが、評判はどうだったですか。

これこそ、その、自慢といいますか、あれですけども、とにかく現役の部隊でしたから、皆非常に若うございました。そこへもってきて古年兵が実は地方のほかの人たちで、かなり絞られました。それで強くなったんだと思います。それと、あとはずっと京都、滋賀県のかたですから、お互いにいわゆる協同精神を発揮して戦っていったと思います。

インパール作戦、まあどうでしょうねえ。やはりわれわれはその当時といたしましては、勝ちたいという気持ちが多うございました。しかし、戦後ゆっくり考えてみますと、少々無理な、無駄な戦闘もあったんじゃないかと思います。これは当時のわれわれ兵としては、上官のおっしゃることはわかりませんので、とにかくしゃにむに、上官の命は天皇陛下の命であるということを守って、忠実に実行したと思います。

やっぱり戦闘してそれだけのやっぱり犠牲者が出たということは、悲惨な戦闘であったと思います。

出来事の背景出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。

大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
京都府京都市下京区に生まれる。
1942年
中部第37部隊入隊。その後、歩兵第60連隊転属。
1943年
上海へ。道徳科学専攻塾卒業。
1944年
第60連隊第2機関銃中隊第2歩兵砲小隊として、インパール作戦に参加。
1945年
イラワジ会戦、マンダレー作戦に参加。バンコク付近で終戦を迎える。
1946年
復員。復員後は、故郷にて呉服商を営む。

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