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タイトル 「インパール目前で阻まれた」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
氏名 谷 祥二さん(第15師団 戦地 インド(インパール)  収録年月日 2009年6月8日

チャプター

[1] チャプター1 深山を行く大部隊  03:36
[2] チャプター2 戦力・輸送力の差  02:53
[3] チャプター3 インパール目前で阻まれた  04:25
[4] チャプター4 食糧調達  03:01
[5] チャプター5 撤退  02:55
[6] チャプター6 遺体の並ぶ退却路  02:36
[7] チャプター7 兵士にとっての戦争  02:00

再生テキスト

もう普通の道路やないですよ。

山に登っていく感じやわな。

Q:どんな道なんですか、普通の道路じゃないっていうのは?

けもの道とか、普通のもう、山をかき分けて登っていく感じやな。

河床を歩いたり、道やなしに河床を歩いたほうが歩きやすいんやわ。河って言ったって普通のもう、祇園の白川な、ああいう河やさかいに、降りられるし、上がれるし。それで水は乾期やから全然あらへんもん、カラカラで。そういうところやったら歩きやすいし。

Q:普通の道を通るよりもそういう道を?

そうそう、そうそう。普通の道はもう、地雷をひっ掛けられたり。通ったらよくわかるわね。

結局、晩でも少しは寝るけれども、また夜行で、夜行軍するわな。昼は昼で、そないにまともに歩かれへんし。空襲もあるし。

武器は減らしてないよ。武器はみんな持っていったよ。結局、自分らの個人の荷物を減らして、武器はもう全部持っていった。

Q:武器は当時、どういったものを持ってましたか?

まあ、結局、あたしらは大隊砲やから砲と弾薬と。弾薬でもあれ、1つの管にあれ6発入ってんやわ。これ、長いわな。これぐらいの何で、これぐらいの長さあるから、それが6発入ってんね。それの管を1人ずつ背負うんや。ほんで、自分の持ってるもんはせいぜい減らすんやわ。

それでその、弾を持つって行ったって、もう知れてるわな。8人でしたかって、6×8=48発。50発ぐらいしか持たれへんわな。ほんでそのあとは、あとから次々輸送してもらうナニでもう、行ってるんやわ。

Q:あとはその、食料とか、そういったものはどうしてました?

それは少ないわな。米と乾パンと飯ごうだけやわな。米でも靴下に1本入れて持って歩いてたっけど1本しか持たれへんわな、そんな余計。弾持ったり、砲を分解して持ったり、その機材を持っていくもんやから、ようけ持たれへんわな。飯ごうにはもうしょっちゅう飯いっぱい入れてあるし。

輸送にしろ何にしろ、結局、差が大きすぎるんやわ。日本と英国との。装備が全然違うんや。向こうはジープとかそういうもんでどんどんどんどん運ぶし、こっちは馬や牛で運んでんやから知れてるわな。ほれで、歩いて行軍して行くんや。向こうの人はあんた、車でみな運ぶんやから。歩くっちゅうことせんもん。それでもう、全然もう、その装備っちゅうか、全然問題にならんもん。

サンジャックを越えて、もうインパールの手前に行くまでにもう、これはだいぶ違うなぁとは思ったけども。まあ行くだけ、その、命令やから。最初はそんな負けると思ってへんし。行ったけどももう、輸送もないし、弾もないし。結局糧秣(まつ)も次々こんわな。

向こうはあの、輸送機で、低空でどんどんどんどん荷物を降ろすやろ。それを撃つわけにもいかんやわな、こっちから。撃ったら、そのお釣りが多いねん。撃ち返されるナニが多いさかいに。それが装備が違うっていう意味や。

そんで、ここの橋が、小さい橋やけどもいくつもあったけど、それを爆破したかて、向こうは鉄板を、ごつい鉄板を、戦車みたいのでざーっと持ってきてパッとして。それでもうどんどんどんどん通るんやもん。そういう装備が全然違うんや。

もうこれはもう、無理やと思ったな。それがっていうのは日本の飛行機は、ここへ行ってから見たことないもん、飛んでるのを。戦車でも持っていったけど使っていないやろ。山の中にほうり込んで。そんなんで全然その装備にしろ何にしろ、全部違うもん。だから、そんだけの勝ち目っちゅうのがないっていうかな。

連続で、迫撃砲を連続でやられて、この山が、もうこの前のナニが赤はげの山になってしまうんや。連続で5門ぐらい。もう5門かそこら並べて、次からドンドンドンドン、ドンドンドンドン、太鼓を叩いておられまんや。そんでもう、山は1つも、みな木も折れてしまって赤はげの山になってしまう。向こうはそんだけ輸送がきくから、なんぼ撃ったかて絶えないわね。こっちは輸送がきかんから少ないわ、撃つのが。そんで1つ撃って、お釣りが多いっていうのはそれや。

1発撃ったら10発返ってくるっちゅうようなもんやがな。お釣りの多いさかいに、そんなどころじゃあらへんで。ほんでこっちは弾も続かんし。向こうはどんどんどんどん、なんぼでも続く砲やさかいに。車でどんどんどんどん運んでるんやもんな。お釣りが多いっちゅうのはそれやねん。1発撃って10発返されるか、20発返されるか知らんけども。向こうは、でも、やっぱりその飛行機でその、観測したり、何かするさかいに確実なんやわな。

行きはよいよい、帰りは怖いっていう。行きしなは順調でずっと行ったけども、それから最後はもう、どないもこないもならん。もう、戻らなしかたがないでしょうという感じや。

コヒマ街道のところまで降りて、それから撤収してからは、もう、これはもうダメだと思ったな。
肝心な砲を持ってても弾がないんだから、あんた、どうしようもないわな。

Q:その、インパールの付近までたどり着いたときは、もうちょっとでインパールを攻め落とせると?

うん、まあ攻め落とすナニで行ってるんやから。それと、コヒマとインパールとの輸送路、道路を遮断するために降りたんやけども。そんだけ力がなかったんやわ。そんでもう、2日でもう、引き揚げてしもうたんやもんな。

もう、陣地、一生懸命掘って、木でえんがいして、そんで砲を据えて、そうやと思ったら、2日目にもう戦車が上がってきてやられてしもうたもんな。

もう、こりゃあもうしかたがないな。そんで結局、ここでもう、弾もないから砲をバラバラにして、谷にほかして(捨てて)しもうて。そんな天皇陛下の武器や何やかんや言うて大事にしてたけど、そんなどころじゃあらへんよ。もう、弾もないのに砲を持ってたってしようがないっちゅうて、バラバラにして谷にほかしてしもうて。それでその代わりに小銃を持たされて。小銃は歩兵の、何だ、いくらもやられた人の銃は残ってるからな。

結局、飛行機が多いな。機銃掃射、爆撃。ほれで、下から高射砲でやられたもんな。高射砲で。飛行機がこないやろ、日本の。高射砲は用がないから山の上を撃ってくるんや。そうすると榴散弾(りゅうさんだん)っていって、あれは距離を測ってしたら上で破裂するんや、当たらんでも。それで山の上を撃ってくるんや。

高射砲は上で破裂するの。距離をなんぼっちゅうて決めて撃ったら、その距離飛んだら、そこで破裂するようになってんのや、高射砲の弾ちゅうのは。

部落へはようけ入ってるよ。鶏も取ってつぶしたこともあるし、牛つぶしたこともあるし。豚もあんた、みな料理するよ。結局そんなもう、せなしかたがないっちゅう何で覚えた感じや。それせなんだら食べられへんさかい。食べて、自分の命続けるために鶏、かしわつぶしたり、牛殺したり。

Q:部落に行ったら、皆さん親切に分けてくださるんですか。

いや、もう逃げておらん。部落ってもう空っぽよ。あのう、下がりしなは、もう入ったらもう誰もおらへん。皆、あのう、向こうは情報が速いから、皆もう逃げてしもうて。部落入ったさかいて、誰れもいやへんで。行って分けてもらうちゅうの何もあらへん。

Q:じゃ、そこにあるものをもう…

そうそうそうそう。あるもんをもう。もう行くとこ行くとこ、皆もう情報が先へ行ってるさかい、向こうは。部落入ったさかいにってもうすぐ。ほてまた部落入ったら入ったで銃撃が来るんや。すぐわかるんや、向こうらは。機銃掃射やをやってくるしな。ほんで昼にうかうか部落入られへんのやわ。銃撃を受けるから。

食べな、あんた、死んでしまうやんかいな。自分の食いしろだけは自分でせなんだら、誰もくれへんで。「お前はないさかいにやるわ」って、そういう余裕ないの。自分は自分で、みな、自分らの食べるもんは自分らで。そんな悠長なこと考えてられへん、人のことまで。

Q:じゃ、こう、勝手にとって悪いなという思いを

ああ、あらへんあらへん。ああ、もうしかた・・・自分の結局命つなぐためにはもうしかたがないっちゅう式や。

部隊と一緒に下がらなならんっちゅうので、もうそればっかりで。それで一生懸命やわな。はぐれたら、もうそんでしまいや。ついて歩かなんだら、もう置き去りっちゅうことや。

結局、もう病気でもう歩けなくて倒れて。そうしたらもう手りゅう弾やって、もうしかたがないって、自爆せいよっちゅうて。そんなあったのよ。手りゅう弾持ってなんだらまだやって、自分でもう始末せいっちゅう式やわな。

少年兵に入ったときの教官、下士官。その人が帰り、もうどうしようもないさかい、もうちょっと気張って歩くなって言うたけども、「もうとっても行かれへんさかい、置いといてくれ」っちゅうて。自分でもう、言わはったもんな。そりゃあ、そのときがいちばんつらいな。

もう毎日毎日雨やな。もう下までずぶずぶやな。もう毎日そのままやな。ほんで体をみな弱して、弱されるんや。着がえるにも着がえられへんし。向こうらの雨季っちゅうもんは毎日毎日降るんや。

晩は寒いよ。寒うなるよ。あのう、あこらはあの、昼と晩と温度が違うねん、ものすごう。晩はずっと下がんねやわ。ほて、昼はもうぐっと上がんねや。

Q:そのマラリアとか、アメーバ赤痢っていうのは、みんななってるんですか。

もうほとんどの人がなってる、かかってるはずや。うん。

Q:谷さんも

マラリアかかったよ。

Q:どういう状態になるんですか。

もう、一遍こう寒気が来るんやわ。そうするともう震えだして、寒うて、もうガタガタガタガタ震う。ほれで布団、もう3枚も4枚もかけてグワッてしてたかて、それでそれがまた、すると今度は熱う熱うになってくんのや。熱うなったり寒うなったりこうするんやわ。それがマラリア。

先に倒れている者もあるわな。そんなんでももう、助けられんのやな。それでまたそれを、もう、あんたらはもうわからんやろうけども、あの、下肢にアリがたかってたやろ、いっぱい。あんな式や。赤いの、大きいの、もう一面にひっ付くんや。それと暑いからハエが・・ウジ。ウジとハエ、赤アリでもう全部覆い尽くす。ほれでもう、2日目になったら骨だけになってしまうんよ。

Q:そんなに早く、腐っちゃう?

ああ。早い、早い。それで結局は、ここらは暑いから、何しろもう半日したらガス溜まって、バーッと膨れてしまうんや。こんなもう、えげつないこと言うて悪いけど。そりゃあ、もう、見てる間に食べ尽くすよ、数が多いから。ここらのアリと違って、赤アリっちゅうて、ここらの赤アリよりはまだ大きいのや。それがもう、ものすごい多いさかいに。

腐ってくるやん。燃やして灰に、あの、骨だけにせな。行きならそれがゆっくりできるけどさ、帰りはそんなにしている間はないし。そんな時間もあらへんもん。何せもう、歩いて歩いて歩いて歩いて、もう、してんのやから。どんどんどんどん動いて、移動しているから。そんな、そこで何日も止まってっちゅうナニあらへん。

もう歩けん人はもう結局、結局「自分で自爆しなさい」ちゅう式や。歩ける人はもう歩け。野戦病院自体がもうそれな。もうそういう輸送ちゅうもんが全然あらへんさかい。

もう結局な、わたしは結局、終戦がもうなったっちゅうのは、日本負けたっちゅうのは、現地人の人のほうが先に知ってた。3日ほど前に。「日本負けた、日本」って。「何言ってるんやな」ちゅうてたら、連絡が来て。聞いたら、結局もうあかなんだ。

もう、どう言うていいのかな。もうやれやれ、これで帰れるやら、まだ帰れるやらわからんちゅうのがあったもんな。結局、捕虜だもんな、全部。英国の捕虜になってる感じやだけん。ほんで、向こうの命令で今度は動く感じや。あのう、飛行場の整備したり、何したりっちゅうて、向こうの使役になる感じや。ほんで向こうの命令で動くさかいに、帰れるやら帰れんやわからんちゅう式で。

結局、牟田口の野望でこうなったっちゅう・・。もう結局、上のもんのそういう指示でやったもんやわな。上のもんはそこまでわからんわな。ただもう広げて広げて、とったらええちゅう式でやったけどもさ。結局、軍、軍のあれがいちばん悪いにやわな。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。

大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール

1920年
京都府京都市下京区に生まれる。
1942年
第60連隊入隊。中国・蕪湖へ。
1944年
、第60連隊第2機関銃中隊大砲小隊としてインパール作戦に参加。
1946年
復員。復員後は、故郷にて印刷業を営む。

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