ホーム » 証言 » 西村 幸吉さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「豪州兵と斬り結んだ白兵戦」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 西村 幸吉さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年9月14日

チャプター

[1]1 チャプター1 南海支隊へ  01:18
[2]2 チャプター2 ニューギニア北岸へ上陸  09:45
[3]3 チャプター3 見えない豪州軍からの攻撃  02:51
[4]4 チャプター4 苦戦する前線  06:57
[5]5 チャプター5 戦闘で1人生き残る  03:42
[6]6 チャプター6 銃剣で突き合う白兵戦  11:52
[7]7 チャプター7 担架で運ばれた最前線  01:01
[8]8 チャプター8 転進  04:05
[9]9 チャプター9 飢餓の果てに起こったこと  06:04
[10]10 チャプター10 陣地に潜み続ける  05:31
[11]11 チャプター11 脱出  04:20

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年9月14日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

Q:ずっと輸送船で運ばれて、赤道を越えるのが神武天皇以来初めてだったって…

そうそう。そういうことを聞かされたんです、上から。だから盛大に赤道祭りをやると。それでとぼけた奴が、赤道に行ったら、赤い道路が、八間道路があるからよく見ろなんて。そんな馬鹿言って、またそれにほいほいのっかって。わざわざデッキへ皆が鈴なりになって、もう赤道くる、赤道くるって言われるのを待ってました。

もうこの作戦は辻政信が練った作戦です。

Q:実際、西村さんは当時、戦後いろいろな状況がわかったかとは思いますが、大本営から参謀がきているというのは現場でご存じだったのですか?

だってわたしの中隊、第5中隊は「辻政信を護衛をしてここまで行け」と命令をもらってます。つまり、辻政信の護衛中隊だったんです。だから、普通の一般の人の知らない情報も、わりとみんな入ってくることが多かったんです。

Q:護衛中隊に命じられたのは、辻参謀がラバウルに着任してから?

そういうことです。

Q:出発する前から?

そのはずです。まぁ、いつからその命令が出たかわたしにはわかりませんけども。

Q:その着任してから出発するまでも護衛中隊として行動されていたんですか?

そういうことみたいです。わたしは別に任務もらって、ラバウルで捕まえたオーストラリア兵の監視をするのがわたしの任務だったんです。だから、わたしの、小隊は辻政信とは関係なく、ラバウルの捕虜収容所の監視と、こういう任務を与えられ、そちらのほうで日を過ごしたので、辻政信うんぬんはその当時は知らなかった。ただ、その出港するときに辻政信を護衛してココダまで行けと。こういう命令で動き出した。それで、その時点でわたしは辻政信との、なんていうか情報と申しますか、これが耳に入ったわけです。

Q:何が耳に入ったのですか?

いや、辻政信がココダ…スタンレー作戦の計画を立てたのが辻政信であると。それと、この前にちょっと申しましたが、その目的はポートモレスビーにいるマッカーサーを、今度は逃さないで首根っこを捕まえると。これがわたしたちに与えられた任務だったんです。

Q:その当時、そういうふうにお聞きになったっていう。

そう、わたしたちはそう聞きました。

Q:実際その一緒に行動されることになってココダまで一緒に船で分乗して行かれたんですよね?

そうです。それで、辻政信は海軍の駆逐艦に乗って行きました。それにわたしたちは海軍の、御用船のコウトク丸という船に乗せられて、その辻政信の後ろにくっついてニューギニアの本島に行ったんです。だから、これはちょっとおかしいのは、第1次は横山先遣隊と第1大隊が参ったんですね。それで第2回目が144の本隊が行ったことになってます。ところが、実際にはその前に今いう5中隊だけが第2次上陸してます。ところが、5中隊が第2次に上陸したという記録はどこにも載ってません。

いや、出発して、それでニューギニアの本島のもう海岸が見えるところまで行って、夜が明けて、そしたら敵の飛行機が、戦闘機が八機来て、それでもう空襲受けたんです。それでもう海軍の御用船ですから高射砲をポンポンポンポン撃って、まぁジグサグ行動で脱出行動をとったんです。

ところが、たまたま敵の飛行機が自分たちの船に急降下で突っ込んできたんです。で、その後ろを日本のゼロ戦がついてたんです。それで、「わー、これは船に自爆される」と思って皆が隠れたんです、物陰に。そうしましたら爆弾だけを落として、爆弾が見事船に当たった。飛行機は船から避けて、海の中に突っ込んだ。で、後ろから追っかけてきたゼロ戦は水面すれすれで、やっと上向きに退避ができたんですね。ところが、この落とした爆弾が甲板に出てたシモムラという上等兵の持ってる鉄砲に当たったんです。それでシモムラ上等兵は爆弾で弾き飛ばされた。
ところが、そのおかげかどうか知りませんが、爆弾が甲板をぶち抜き、中甲板もぶち抜き、船底まで一気に、爆発しないで海の底へ行っちゃったの。それで、爆弾の穴から、海水が噴水のように入ってきたんです。で、船が傾き始めた。これは危ないと。ということで、急いで上陸用舟艇を下ろして5中隊は全員が近くの海岸に上がったんです。それで、今地図で調べてみるとアンバシーというところの近く(バサブア)の海岸です。そっから海岸を歩いて村まで行ったわけです。

Q:辻参謀はそれ以降…

もう来ません。もうあれ肝っ玉が縮みあがったとみえて、二度と来ようと言わない。わたしも来ると思って待ってたけど、とうとう来ずです。来れば、もう144から離れて辻政信についてまわる任務があったはずです。

今でいう南海支隊長は「3万5000人くらいの補給部隊がいない限りは、この作戦は無理だ」と。「戦闘そのものはできる、やれる。だけど、食糧や弾薬が来ないことには戦闘にならんですよ。だからそちらのほうをお願いします」と言ったら、「そういうようなことは後方のものに任せろと。一線のものは黙って戦闘すればいい」と。こういってニューギニアに放り出されたわけ。

Q:西村さんの隊が最初に敵と遭遇したのはどこの地点ですか?

それはね、カガヤか…ミウレって場所です。ということは、ココダから出発して、それから一番最初に山をズーッと登る。それは1大隊の先頭率いるデネギとか、イスラバの川向の山です。つまり、う回作戦ですね、2大隊はね。そこを登っていって、その頂上近くで犠牲者が出たのが一番最初の戦闘です。それに書いてあると思います。こちらにも書いてあります。こんなきつい坂をあがらさせられるんだったら、もういっそのこと死んだほうがましだ言って…あれだれが言ったかな、オカモトじゃなかったかな。言ったら、下からポーンって小銃の音がしたら、「ウーン」って言ってひっくり返った。だから皆が芝居だと思って「起きろ起きろ」言ってたら、実際には腹に弾くらって、白目向いて死んじゃった。
それが最初の犠牲者です。だから、敵とやりあって撃たれたわけじゃない。敵も、我々がまさか敵がいるとは思わないから、皆適当に声を出しながら、必死になって山を登ってるわけでしょ。そうすると向こうさんは日本兵の声がするから、そちら向けて、探りの鉄砲一発撃ったわけ。その最初の一発の探り弾が日本兵の腹に当たって死んじゃった。それからはそこでドンパチが、敵をいれたドンパチが始まったわけ。それで大分死んでますよ。

そのときはちょうど41連隊が、一緒に後退して、それでオーストラリア兵の陣地に攻撃かけてた。だけども、41連隊は中国の戦線でポンポンと撃っておいて、ワーッと突っ込んでいって陣地を占領した。で、その戦法を、同じ戦法を繰り返した。ところが、オーストラリア兵は自動小銃とか機関銃を皆持っているので、日本のような三八(式歩兵)銃は持ってません。だから、敵の陣地に突っ込む前に、突っ込みに行ったものは皆やられる。だけど、41連隊はそういう戦法しか教育を受けてないから、そんな馬鹿みたいなことの繰り返しをやってたんです。それで、9月の4日までそれをやったけどらちがあかない。その間、わたしたちも足止め食って前に行けないわけですよね。

カギとエフォギとの中間に川が流れています。そこの川を渡るときに、敵の飛行機にものすごい襲撃を受けています。犠牲者がずいぶん出ています。だから、川の水も血で真っ赤になるくらいな状態だったのです。だから、そこの川の渡る渡河点を「地獄谷」という名前を、自分たちの部隊でつけたんです。わたしがそこの谷を渡って、上がりきったときに飛行機が来てやられて、火がついてきて、大騒ぎしたことが書いてあるでしょ?

Q:この地獄谷の手前ですかね、カギを過ぎてその後の爆撃がきた…

谷が地獄谷です。つまり、カギとエフォギとの間の谷川のことです。渡河点です。

Q:岩場のところから覗いて…覗くと撃たれるっていう…

そうそう。それで、正面から左側。つまり、下のほうにはオーストラリア兵がいる。右側は日本兵がいるんです。もう2大隊が全部。それから、それについて衛生隊なんかもついてきているわけ。ところがその衛兵隊の方に、岩の上にわたしがいるから、わたしの方に来ずに、岩の下から衛生隊の方に敵があがってきた。それで衛生隊もオーストラリア兵から撃たれるんで、闇雲に撃ち返したんです。ところが、打ち返す弾が、わたしたちの方にも飛んでくるわけ。味方に撃たれちゃたまらんから、「撃つな撃つな」っていうわけですよ。もう向こうは戦闘になれていない衛兵隊ですから。声のするほうに弾が来るんです。だから「撃つな撃つな」って。

頭やられました。頭かすめて、それで、もうわたしは包帯をして、で、鉄帽がかぶれないから、鉄帽なしで。

Q:なんで味方で撃ち合うような混乱になってしまったんですかね?

そういうことです。撃ち合うんじゃなくて、撃たれっぱなしです。こっちは、向こうが日本の銃の音だとわかってるんです。だから、撃つに撃てない。撃てば、味方を撃つ。で、味方とわたしたちの間にもう敵がはいってきてる。で、撃ちたいけれど、撃てば味方も撃つことになるし、まして、味方のほうからもお返しの弾が来ることわかっているから、撃つに撃てない。だから、夕方日が暮れるまで「撃つな、撃つな」って怒鳴り通していると。おかげ、敵もわたしの方にはきませんでした。面白い結果です。

もう頭にきているから、日本語で声を出しても敵も味方もわからない、のぼせあがっている。だから声のするほう向いて撃ってくるんです。こっちも撃たれちゃたまらんから、「撃つな撃つな」って、いってるわけです。

声は聞こえるけれど、姿は見えない。で、声のする方へ向いて、弾を撃ってくるわけです。漫画みたいな戦闘です。これもう戦闘にも何もならない。やられっぱなし、敵、味方両方から撃たれっぱなし。でも、戦死者は衛生隊に収容されていたワタナベが死んだだけで、一線の前に、敵のそのまん前に突き出ていた一個小隊は、小隊長が負傷しただけで、しかも、これは味方に撃たれた負傷。敵に撃たれた者はだれもいない。そういう変則な戦闘だったんです。

これがね、エフォギを含めたわたしの隊の戦死者の、オーストラリア兵の戦死者です。その名簿です。それから…これが、オーストラリア兵の戦死者の合計です。これが101名と、それから別の隊が40…あぁこれが106名、ああそしてこれが47名。だから149名ですか。148名ですかね。の、戦死者がオーストラリアの方の記録にあるわけです。つまりこれにね、わたしたちの方は41名ね。だから41人と148名がこのエフォギでさし違いになってる。これがみっともないから、今まではオーストラリアではエフォギの戦闘のことはどの本にも書いてなかったんです。で、たまたまアテネという人が来て、これにエフォギの日本兵のことを書いたわけ。そしたら日本兵のことが書いてあるのに、横文字でね、発表されたのに、肝心のオーストラリア兵のことが何も書かないと都合が悪いから。
で、初めて、これに発表したの。オーストラリア兵のエフォギでの戦死者をね。で、その戦死者の部分だけをよりわけて、これコピーとったの。

42名戦って、1名わたしだけが残ったから。だから、戦ったのは42名。だけど、死んだのは41名。

ああ、その後で、退路を遮断して、それで大砲を撃ちかけた、逃げてくる、逃がすまいで、それをこう撃ち倒していると。両方撃ちあうと向こうもたまらんから引き返す、で、また出てくる。また撃ち返す。引き返す、また出てくる。これをもう4回繰り返したんですね。でも、4回目にはこっちもパーに。夕方近くなったからね。こっちも極端に言うと、磨り減ってなくなって、皆やられた。そういうことです。ただいえることは、これは余談になりますが、わたしの小隊長が自分の陣地から4、5m前へ進んだところで、向こうに撃たれて死んだわけです。その死骸を誰もやろうとしないから、わたしがこわごわ死骸を引っ張りに行った。ところが、それに対してオーストラリア兵は見えているはずです。当然、わたしが。ということは、戦後わたしそこに行って巻尺で、自分でいた穴、小隊長埋めたところ、それから敵の幕舎、そういったものを全部巻尺で計って、地図を作ったんです。それで見ると、なんとわたしのいた場所と敵の幕舎の間は26mしかないんです。それで幕舎逃げるわけない、幕舎から前に出てますから、向こうさんがそれよりもっとわたしたちに近いほうにいるわけです。で、小隊長も4、5m前に出ているから、少なくともその距離は20mもないはずです。だから見えているはずです。ジャングルの中だけれどね。だけど、一発も撃って来なかったんです。撃たれたらイチコロです。わたしも撃たれたらもう、そのときはそのときだと覚悟決めて行ったわけです。だけど、撃ってこないということは、「ああオーストラリア兵は武士道精神があるんだな」と、そう思ったんです。その証拠に、小隊長の負傷体を引っ張ってきて、それで中隊の指揮官に連絡とって、衛生兵に来てもらって、それで衛生兵と二人で小隊長の着ている服を全部脱がして裸にして、どこやられたか調べて、で、衛生兵は傷口を死んでいるのにきれいに消毒して、包帯をまいて、それから二人でまた服を着せて、それから埋めるのはお願いします、って言って衛生兵の上等兵は本部に引き返したんです。引き返したと同時にものすごく撃ってきたんです。だから向こうは見ていたんです、小隊長を埋めて、始末するまで。埋め終わると同時に、ものすごく撃ってきました。まぁそれで、わたしもやられたんです。

Q:そのときに負傷されたんですか?

そうです。まぁ、もっと細かく言うと、わたしの隣の兵隊が、やっぱりわたしをカバーするために撃ったんですね、鉄砲で。で、またやられた、だからわたしも…わたしは小銃持ってませんので、その兵隊の銃をとろうと思って身体をのりだして、銃に手を伸ばしたら、わたしに走りかかってくる敵兵の脚が見えたんです。で、「しもうた」、思ったけれどもう間に合いません。頭に小銃つけといてバリバリってやられた。で、もうこうなったら、いまいう特殊な訓練受けてるから、このまま殺されてたまるかいと。それで、ええくそという気持ちで、穴から飛び出ようとした。そのために向こうが差しつけた機関銃と、わたしのヘルメットが当たって銃口がずれた。ずれた時点でバリバリッときた。だから鉄帽は割れて首へぶら下がったけれど、頭には弾当たらない。肩をぶちぬかれた。
それで、ここにおる機関銃の銃口があるでしょ、だからこっちの耳は完全なるツンボです。今でも一切聞こえません、こちらは。まぁそんなんです。

Q:その後どうしたのですか?

それでわたしも、ああこれはもう駄目だと肩ぶち抜かれたからもうお終いだろうと、むざむざやられっぱなしで死ねるかいと。どうせ死ぬるんなら元とって死ねと思って、それで逃げたオーストラリア兵を、わたし、追っかけた。追っかけてチョビットしたら、右手が全然利かない。だからいまさらやめてたっていうわけにいかないでしょ、だからそこで左手一本の取っ組み合いになっちゃった。で、自分の剣で胸を突いた。これはもう、軍隊で心臓つくように教育受けてるから。ところが剣があばら骨に当たって胸に入っていかない。で、向こうは痛いから、わたしの手をこう両手でつまんで、しゃくりあげてとられてしまった。それで今度はドタ靴で横っ腹蹴られた。ああこれでもうおしまいかと思ったけれども、その場でやられるのはたまらんから、ええくそって思ってまた飛び起きて、むしゃぶりついていったんです。
それで、こうむしゃぶりついたら、敵の腰にある敵の剣が手に触ったんで、それを引っこ抜いて、もう胸は駄目だからと思い、腹へ突き刺したんです。そしたら、その兵隊は悲鳴を上げてうずくまったんですね。それで、睨めっこ、日が暗むまで、睨めっくらしたんです。それで向こうが時々、もう意識なかったと思います、あの木の、地面から30cmくらいのところから二手に分かれている小さい雑木があった。それにこうやうずくまっている。それで、それを時々クスンとしゃくりあげるんですね。それが立ち上がるように見える。それでこっちも来たらやろうと思ってるけど、こっちから飛び掛る馬力ないから、様子見てるわけです。
で、そのたびにこっちも上半身を起こすけども、向こうはしゃくりあげるだけで、またこうクスンとなる。で、またこっちもまた横になって、そのまま敵の様子を見ている。それを何回か繰り返していて、日が暮れた。それで朝になったら敵の兵隊は死んでましたよ。それでわたしは、痛いの、ウグウグ言ってる日本兵の負傷者を探して、通り道まで引っ張っていって、そこで通りかける味方に助けてもらおうと思って。だけど、その日1日誰も見つけてくれなかった。それで、その次の日、つまり3日目です。お昼頃、トロントロン、痛みもかゆみもない、もうこのまま眠りかけて逝ってしまうかな思っていたら、フジサキ隊が、第1機関銃中隊の大尉のフジサキ大尉が、「おい西村どうしたんじゃ」って声かけてくれて、助けてくれたんです。

大丈夫ですけれど、手はこれしかいきません。それで、軍医が傷口を見て、これはナガイという軍医さんですが、傷口をみて穴が二つあるな、心配ない、つまり、弾が行き貫けたんだと。だから傷の手当してくれて、それからガス壊疽と、ほら頭くっつけて撃たれているから。ガス壊疽になったら困るから、ガス壊疽の注射と、それから破傷風の注射とこの二つをしてくれた。それでもうすんだと思った。それで四、五日したら傷口がむずむずするから、隣の兵隊に、「おいちょっと見てくれ」って見てもらったら、「また弾が首出しています」って言われて、それで軍医のところに行って「弾が首出しているらしいが、取ってくれませんか」って言ったら、「ああそうか」って。「ほらこんななってるよ」って、弾を手にのせてくれた。

機関銃中隊が軍医のいるところ、つまり野戦病院の軍医さんが、その一線についてイオリバイワまで行っているわけ。だからその軍医さんのいるところまで、機関銃中隊もイオリバイワまで行く任務ですから、だから後ろに行かないで、前へ敵のいる陣地に近いほうに運ばれていったわけ。そこで、もうここから向こうにいけないと、ここから引き返すいうことになったので、いの一番に、また担架に担いで後方へ下げてくれてます。

「ああーっ」て。「何でね、こんなところまでね、ひもじい思いをしてね、ひいひいしながら来たんだろう」と。「馬鹿馬鹿しい」というものは大分いましたね。だから、「そんな命令は聞かずにポートモレスビーに突っ込めば食うものもたっぷりあるはずじゃ」と。だから、「そんな命令聞かずにポートモレスビーに突っ込もうじゃないか」と言う、若手の将校連中大分いたようですね。それで3日間もめたらしい。「突っ込もう」というグループと、「いや、それは命令違反になるから突っ込むのはやめて、下がろうじゃないか」というグループとね。

Q:そういう話があったというのは…

後から聞いたの。わたしたちはもう負傷兵だから門外漢ですよね。

Q:当時の西村さんの周りの、担送してくれている人だとか、そういう人たちの中にも、行ってるときと帰ってるとき、士気が違うとか…

それは全然違いますよね。行きのときは勝ち戦でしょ。だけども、後ろに下がるとなると、敵がもう後ろから接近してくることはわかっているでしょ。そうすると、なにがなんでも、命令どおり、何月何日の何時までに、どこそこまで退がれというところまで、はいずってでも担架の兵隊を落とさないようにして下がらなきゃいかん。これが大変だ。体験した者じゃなきゃわかりませんわ。

これは、144連隊誌にも書いてありますが、担いでいる兵隊が大分、途中で倒れてます。それで、そこで骨になってます。だから、担がれた兵隊よりも、担いだ兵隊の方が犠牲が多いんです、現実に。まぁ、わたしを担いでくれた兵隊は無事に最後まで任務を全うしてくれたけれども、それをできなくて、途中で足を滑らせて谷底に転げて亡くなった兵隊もけっこういるようです。だから、単に、わたし自身が自分の力で生きて帰ってこられたという考えは毛頭ありません。皆が助けてくれているんです。

ギルワの陣地を、わたしたちが脱出したのが、1月の12日ですよね。それから、1月の末に、・・・まで下がって、そこで初めて食べ物を当てがわれた。それを、日にちを計算すると、78日間、何にももらってない。自分で、食べる物を探して、口に入れながら。そういう、運命を、通らされた。
だから、質問を受ける前に言いますが、人肉事件なんかも、その時点で、行なってます。だけども、これは別に言い訳でもありませんが、日本兵の、死がいは、食うものがほとんど無いので、骨皮筋衛門で、ろくすっぽ食うとこないんです。

だけど目の前にいるアメリカ(オーストラリア)兵は、毎日うまいものをたらふく食って、栄養満点の状態で、目の前に来るから、そっちのほうが、よっぽど食べ応えがあります。だからよく、日本兵が、日本兵同士、共食いしたと言うけど、そういう事は、少なくとも、わたしたちの部隊にはありません。頭から食う気になりません。ためしに、親指と人差し指をくっつけて、この足首、これから、腿の付け根まで、やってごらんなさい。すねの骨でこれ開くはずです。でも、すねまでの骨が痩せて、これが開かずにそのまんま股の付け根まで上がってきます。そこまで痩せます。

髪の毛も痩せて、ポヤポヤになって頭の地肌が見えます。生まれたばかりの赤ん坊の頭と同じような、ポヤポヤの髪になってきます。まぁ生きる気で根性があれば、そこまで頑張れます。もう一度申しますが、日本兵の共食いをしたものは、誰一人いないはずです。少なくとも、わたしの知っている限りは。それよりも、目の前に丸々太った敵兵がいますんで、そっちの方がよっぽど食べ応えがあります。

Q:前にわたしが伺った時に、他の人に、そういうお話はされていないというふうにおっしゃっていましたよね?

いや、聞かないから言わない。

Q:でも真実は、

だけども、「食いましたか?」、言うから「はい食いました」言うことは、言いました。だけどそんな細かいことまで質問を受けないから、答えなかった。だからあんまり、いい話じゃないからね。

そうするより生き延びる術がない。ところが毎度、アメリカ兵が来てくれるわけではないんで。そうなると腹が減ってしょうがないから、自分の掘った穴のヘリにある粘土をなめる。粘土。これでも腹の虫をごまかせます。
だから、腹が本当に減る時には、何でも口に入れれば、その中の何らかの成分が栄養になるみたいです。

Q:土を食べているわけですよね?

そういう事です。だって極論すると、ミミズなんかも土食べて生きてるでしょ。まぁ、土の中にどんな栄養分があるか知りませんけど。そんなことはどうでもいい、要は、土をなめても、腹の虫を抑えることができるということ。

ドンドコドンドコ、数はとても数えきれないくらい。2時間くらい、ドカンドカンドカンドカン。迫撃が来る、それから飛行機の爆撃が来る。そりゃぁもう、そこらに本当に、これにも書いてあるはずですが、歩兵砲の部隊の者が、これに投稿してます。緑の砂と書いてある、題名。
それは、戦死したのに、かけるのに、もう木の葉っぱが皆撃ち落とされて、地面が緑の砂になってる。だから、戦死者にかける砂は緑色してる。それを、その、歩兵砲の兵隊は体験記として書いて投稿してる。だから、そこら辺の木は皆、吹き飛ばされむしられして、始めにはジャングルだったけど、終いにはもう、丸坊主の野っぱらになってる。まぁそういうところまで、とことん叩かれてます。それでもまぁ皆、弱音もあげずに与えられた陣地を守り通したんですね。

だって、他の者がやってんのに、自分が逃げ出すわけにゃいかんでしょ。向こうも多分そう思ってんじゃないですか。あいつがあそこにいる以上、俺も下がるわけにはいかないと。
だからもう、今日一日生き延びられれば儲けもんだからという考えが多いんですよね。明日という日は、もう考えられないんですよね。今日、何とか、早く日が暮れないかなくらいの考えで、そこにいるしかないんですよね。それで、雨が降ったらば、足元はもう、水漬けですよね。湿地帯の平らなところだから、どっちへ行っても同じですから、動くだけ無駄です。だから、そこでやせ我慢して、いるしかないんです。

もう一つは、先ほども言ったように、わたしたちがいるところとアメリカ兵の行くところ、距離は30メートルくらいしかないんです。だからね、朝晩いいにおいがしてくるんです。これはたまらんです。
向こうさんはね、うまいものをたらふく食い、酒も飲み、夜だって明かりをつけたまんま寝るんですからね。こっちは明かりつけるどころじゃない。炊飯の火を燃しても、・・・来ますから、ろくすっぽ炊飯もできない。
だから、生で口へ放り込むしかない。だから、戦友の誰かが書いてあったんですが、飯ごうに米を二粒入れて、それ朝煮て、そのおつゆを吸って、お昼また、それに水を足してもう一度煮て、そのおつゆを吸って、で夕方もう一度それに水を足して、もう一度煮て、初めて晩に、その2粒の飯をね、口に入れる。そういうの書いたのがどこかにあります。

12日に脱出した時に、わたしは、他の者は、陸を通って最短距離を選んだわけね。だけど、わたしには前言ったとおり食う物もほとんど口にしてないから、皆について行けない。
それで、自分なりに考えて、わたし海岸へ出た。それで海の中へ入って、砂地でずっと渡る。だから、ここまで海の中へ入った。それでそこを、とろりんことろりんこ歩いて行くの。で昼間は見つかったら撃たれますんで、昼間は陸へ上がってやぶの中で昼寝するんです。で日が暮れたら海へ入って、海の中をとろりとろり、目的地へ向いて行くんです。これもう、方向も間違いっこないんです。集結地は海岸ですから。

だから、行けるうちに集結地へ行きつくんです。だから、その自分の重い体重も、海の中では軽いでしょ。だからとろりんことろりんこ、歩けた、楽に歩ける。

そこまでよう行かなくてね。途中でもうやっと、集結地にね、バクンバリまで、30日までに行きつけなかった人は、そこに残される。せっかくそこまで行ってもね、もう、助け舟はない。

Q:西村さんは、たぶん体力がある方であったと思うんですけど、ギルワ陣地でずっと消耗させられて、それから最後の撤退っていうときは他の人の状況は、すごいひどい格好じゃなかったんですかね?

そうですよ。まともな格好じゃないですよね。
それで、後から補充で来た兵隊が、靴を履いてるわけね。ところがその靴は、皆豚革です。ところが、はじめにあがった時は、革の、牛革です。だからボロでも、牛革の方が良かった。で新品の豚革に履き替えた人は、すぐにパカパカになっちゃって。
だから、何がいいかわかりません。

Q:ギルワを出る頃は靴なんかも履いてなかったのでは?

そうです、わたしなんかもちろん履いてません。なまはんかね、パカパカするやつ履いてごらんなさい。足とね、靴底の間に砂利が入ったらね、痛くってね、とてもじゃないんです。
だから、皆このところの草をね、縄にして縛ったり、ご丁寧にわらじみたいな物、草で作って、それで履いてたり。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1919年
高知県吾川郡に生まれる。
1941年
高知第44連隊に入隊、その後第144連隊第5中隊擲弾筒兵として、グァム島攻略作戦に参加。
1942年
ラバウル攻略作戦、サラモア攻略作戦に参加。ニューギニア上陸。ポートモレスビー攻略作戦。
1943年
ビルマに転進。
1944年
遺骨宰領の為、内地還送。
1945年
高知陸軍病院に入院中、終戦。終戦後は、機械工学の研究所と工場を経営。

関連する地図関連する地図

ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)

地図から検索

NHKサイトを離れます