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タイトルタイトル: 「射殺した豪州兵の家族写真」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 川手 梁造さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年6月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 持ち帰った連隊旗の房  03:04
[2]2 チャプター2 ポートモレスビー作戦  03:59
[3]3 チャプター3 イオリバイワ・対じした豪州兵  04:39
[4]4 チャプター4 目標目前の転進  04:51
[5]5 チャプター5 陣地潜入  06:56
[6]6 チャプター6 動くものは何でも口にした  02:55
[7]7 チャプター7 撤退命令  06:17

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年6月24日

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もう中はありません、中といいますかその印はありませんけど、房だけはこうあるんですよ。このためになお、わたしは泣かされたいいますかね。あの、これを護衛せにゃならんのでね、軍旗護衛中隊いうようなものを作って、一日おきくらいに勤務につきました。それがね、食料があってつくなら苦はないんですけど、食料なしにね、一日おきというのはきつかったですよ。それが、人数多ければいいんですけど、完全軍装して、いわゆる弾持って、銃を持って剣を持ってる兵隊がまぁ少ないわけなんだ。ほとんどがね、飯ごうと水筒だけ下げて、まぁ一言に言えばルンペンといっては語弊なんですが、ような格好をしとるんですよ、ほとんどの人は。命がけで、それでもあの、食料が半年くらい、全然ないとは言わんけど1日に米が1合から5勺かえるようなあれでしょ。で後は何食べたんかいうと草を食べたんですよ。草いうのはね、まぁニューギニアいうところは雨量の世界一くらいに多いとこらしいです。後から聞いたんですけど。それで、毎日ワラビのようなものが出るんですよ。
朝、あのずっと寝起きしておる近くでね。それで早く起きて、元気な者なら採るれるんです。わたしはまぁ元気であったし、使役でうろうろするんでね、あれば雑草のあれにとって、そうすると、ある兵隊でね、もう勤務にもつかず、あれしとるんだが、「川手よ、ちょっとわしにもくれや」と言い、「はいあげますよ」ってあげられるんで、それくらいあれしてね、元気だったんで。この村から10人、ニューギニアに行って、1人だけ無傷で、病気はしたんですけど、全然弾がよけてくれたんですよ。ほんと言うたらね。

上陸したのがまぁ夕方でしたよ。着いてみてびっくりしたのは、ヤシの木がところどころあるくらいで、ほとんどジャングルのようになっていたこと。それから日が暮れてからまぁ出発したんですけど、30キロ以上のものを背負ってね、獣道みたいな狭い道を歩くんですよ。それがスコールが来て濡れとるんと両方で、土地がね、ねばねばですわ。砂地でないんです。で足をとられてね途中で倒れて、「もう動かれん、殺してくれ」いう者が続出しとるんですよ。でもほっとくわけにはいかんので、どうしても歩かなきゃいけんいうあれがあるんで、それでちゅうちゅう低くして、それから殴りながら・・持っちゃる、その荷物を持っちゃるいうことができんくらい各自が持っとるんですから。
糧まつが来るのは今度はいつか分からんわけなんですから、その7升以上も米を負うとるんですから。全然それでしょう。それでまぁあちこち一日歩いたんだが、じっと辛抱して歩いて夜が明けてから着いてみりゃ、ぱっと4里しか歩いてないんですよ、一晩で。夜が明けてからですよ。
それでもうほとんどのものが元気な者はおらんぐらいなっとる。それで雨にも濡れとるし、真っ裸になってね、炊事をしたのを覚えておりますが。そんなことで、そしたらまた夕方になったら「出発」いうんで、「いやまたこの持ってかなあかんのか」思うんで。それでもまぁ行かないけんので、行きましたけどね。

それから渡された地図がね、行ってみにゃ分からんいうて、行ったことがないんで分からんいうよる。それからココダいうところなんかは、二重丸してあるんですよ、こう丸でね。ところがひとつずつ、こうあれしてあるんじゃが、家が2,3軒こまい家がある位のところで、ココダいうところまで行ったら、トタン屋根のあれが2棟ありましたよ。それに二重丸してあるんです。
そこでまぁ休憩だけで、寝泊りは行くときにはしなかったんですけど。なんかね、銀山があったとかなんかいうんで、飛行場の跡がありましたよ。で途中道路がないんで、飛行場を作ってそこで交通を出したんじゃないかないう想像はしてました。

Q:スコールが多いのも大変でしょうね。

ええ、スコールにゃあ往生しますのう。大体は天幕があって毛布とって、それを着りゃどうもなるんですけど、そういうことをすることが、余裕がないんでそのまま歩くでしょう、びっしょりですよ。
で止まって乾かすいうこともできんので、代わりがないんで。そんなもんで、はよ、弱りましたな、人間が。

今のイオリバイワいうところでね、敵と対じしてから一週間くらいあそこでかかったんですが、それでもまだ落ちんのですね。その時にわたしの中隊の者が、敵の糧まつ庫を占領しておるから糧まつを取り帰れという使役に出されたわけです。
その時に長になった人がわたしら3年兵で九州の人だったんですが、その人が1人銃を持ってね、それから出るときに福山の人の軍曹がおったんですが、その人が「川手、拳銃をもってけ」いうてね、拳銃を貸してくれたんですよ。どうして小銃をもっとらんかいうたらね、小銃持ったら背負うたりするのにもう荷物になるでしょ、だから銃を持っていくないう。したがって弾も持たなかった。その時に拳銃を貸してくれたんですよ。

「こう下へ降りての、だからこう上がってって撃つけえ、撃つまでは絶対に手りゅう弾投げるな。わしの方にころげて来たら、わしも爆発するけえ」言う話をして。そりゃ上上がっていくし、わしは下へ5,60メートル下がってから、上がってったら敵の頭が見えたんですわ。よしよしいうて、14,5メートルまで近づいたんですかの。まぁ大きな木があるんでそれで隠して銃をつけて、そしたらちょっと視線を高くしたんですよ、その時に引き金引いたら、音がして倒れるんと、当たって倒れるんは倒れ方が違いますよ。音がして倒れるのはなんとなくこうゆっくりするがね、ほんとに当たったら、たーんと行くんですの、瞬間的に。
で上から「やったかー」言うて、「やったらしいぞー」いう。でわしが「近よるけえのー」言うたら、上から降りてくる。わしも行ったらね、やっぱり当たっておりましたよ。
で、目はね、バチバチしよったんですが、もう一発撃って、それからまぁそのやっぱり日本人もかけとるんですが、雑のういたかばんをかけとるんです。で、敵も食べ物持っとるか思うて触ったら、敗残兵で残されとるんじゃけん食べるものはありませんわのう、敵も。
そしたらね、家族の写真が出てきたんですよ。それを見て、2人とも見て、「おいおい戦争いうものはいけんようのうや。この男とわしはなんの係わり合いもないのにこんなことせにゃいけんのじゃがのう」いうて、「困ったもんじゃのう、戦争いうものは」いうて話したんですが、まぁじゃが報告しなきゃいけん思うて、「やりましたよ」いうて、「今音したんはお前が撃ったんか」いうて、「はい」いうて、「しょうがないやつじゃのお前は」いうて。「まぁそうはいっても、やったんじゃけえ行きましょうや」いうて、で行ったんです。
で、その時にわしゃ家族の写真見てね、2人ともしばらく声がでませんでしたよ。自分らも家族の写真持っとりますけぇね、お互い。敵も持っとったんですよ。またこの人も、召集かなんかで、この人も出たったんだろうか言うて。奥さんのような写真がありましたよ。子どもの写真もある。「やっぱり戦争のようなものはいけんのう」やいうて話したんですが、戦争中ですから何時間もそこで話しとるわけにもいかんので、「やりましたから行きましょうや」いうたら、まぁそこでも怒られたんですが、帰って報告するときに隊長がわしらの顔を見て、にこにこにこにこ笑うて、一口も声をかけちゃあくれませんでしたがね。やるもんじゃのう思うてくれたんでしょうが、それだから、決死隊行けいうたんかもしらんが思うんですが。

イオリバイワいうところまで行ったときに、なかなか陣地が落ちんのです。
それで、そのときのあれが中将(南海支隊長・堀井富太郎少将)だったんです。夕方、川へ行って、まあ顔洗おうか体洗おうかしよられたんでしょう。その時に兵隊が米を研ぐあれを見てね、それで二人話しよるのを聞きゃあ、「もうお前の米はなかろうが」言ったら、「おお、わしはこれだけだよ。もうこれから先はあらせんわのう。死ぬか生きるかじゃが、もう食べるものはありゃせん」いうと話とったらしいが、それを聞いてね、そこまで糧まつがなかったとは知らだった言うんじゃが、知らだったいうのはちょっとおかしい思うんですけど。
その今度は参謀が帰ってきたときに、そのときにちょうどうちの指揮官になった小岩井少佐が、ちょうど戦況を、なかなか落ちんので戦況を知るために行って一緒に夕飯を食べられたらしいんです。
その時に、「おい、わしはもうここを撤退することにするぞ」いうて言われたんで、びっくりしたいうようなことが書いてあるんですが。本当に糧まつがなくなって、そこから引き返したんです。引き返すときに、今度はまたミツイ軍曹と縁故があるんですが、「ミツイ軍曹と川手はココダいうところまで帰るんで、ココダで(通信)中隊がどこへおれやええかいう、場所を確保しとけ」いう命令で、二人で帰ったんですけど、一週間以上かかっていったんじゃが何日で帰ってきたか、途中で何を食べたか、休憩したかいうのを全然覚えとらんのですわ。

Q:本の中にイオリバイワまで行って、退却が決まったときに「退却はつらい」ということを書いてましたけど、向かってるとときと下がるときはどう違うんですか?

行くときにはあれ、何でも目的があって行くでしょう、交戦とするあれするいうて、ところが退却するいうことになるとね、必ず敵が追及してくる思うんです。追撃してくる思うんです。その恐れがあるし、やっぱり糧まつに不安がある。一番糧まつに不安があったんですな。みんなだと思うんです。その糧まつを今いう草と1日に1合か5勺か何ぼか糧まつをくれるんですけど、それを5人なら5人、6人なら6人で一緒に出し合いっこをして飯ごう釜で炊くんですよ。そうするとね、出したり出さんもんがおったりすると不公平ですから、「何ぼずつ出そうや」いうてちゃんとこう現物をだしてね。

みんなが炊くんですが、ようよう枯れたものを拾うてきて炊くようなんじゃが、ニューギニアいうところはたびたび言うように雨量が多いところなんで、ほとんどが濡れた木なんです。で、なかなか着火するのにね、骨が折れましたよ。

ココダいうところまで帰ってから、食べるものがないんで、探し行って来ますいうて出たら、出てももうないんじゃが、やっとあれしよったら、パパイヤの熟れたんがあったんです。それをとって戻ってそのまま食べました。で、その時にミツイ軍曹が「おい川、お前来ない言うたろうが、ニューギニア何しに来たんだ」いうて。「お前絶対来るな言うたのに、どうしても連れて行ってくれいうてきたんじゃが、フィリピン残っとってみい楽してええことになるのに、ここいてなんにもいいことはなかろうが。何しよう思ってきたんだ」って言われるんですよ。まあその、怒るんじゃないんじゃけど。「いや、わたしにだけじゃなきゃできない仕事がある、それやります」そこでわたしはまあ大見得をきったんですよ。

こう入ったらね、枕があるんですよ。そしたら、白人が特にいびきをかくんですかね、グオー、グオーて寝とるんですね。「おいおいここは幕舎で寝とるわ」いうんで、わたしはその幕舎の後ろに回ったんです。そしたら月の光でね、味方の兵隊も見えるし、寝てる兵隊も分かると。5人か6人か寝とったんですよ。そしたらわたしはもう着剣して、いつでも突かれるような動作しとるんですから、そしたらね、カチャンと音をさしたんですよ。やっぱりあの、食べ物の食器かなんかかと思ったんですけど、工兵の人が。そしたらね、わたしが剣を後ろから突きつけとるのが分らずに一番手前の兵隊がむくっと起きてね、敵の兵隊が。
それから、隣の人をこう見ながら、あれ分かるんです、“てっぱち”言いますかね、あの鉄帽がね、日本のはこう深いんです。敵のはこう皿みたいなんです、それで近くでこう見ても日本兵というのが分かるんです。隣の人をこう起こしたと。起こしたらね、自動小銃を構えたじゃないですか、突きましたよ、すぐ。
それから、1人はもう次の兵隊を撃ちました。抜いてあれする間がないんで、銃を一番先に打ったんです。そしたら工兵の人がね、あの2つ、古い兵隊と若い兵隊がおって、1人が、古い兵隊のほうが、爆薬に火をつけてね。ここが今の枕とすれば、床の下へ爆薬を投げてね、シューシューシューシューいいだしたんです。足元でシューシューいうんでね、これはかなわんおもてね。わたしは2人ほどこうやってから、反対側へ。前はもう出られんので、反対側へ行ったらね、倒木いうてね、

その大木があるのが分からんで、それを真っ暗ですから、ほとんど真っ暗ですから、後ろへ向き走っておったら、その大木の向こうへもんどりうって倒れたんです。そうするうちにだーん、爆薬が破裂して。こりゃあひでぇことになったなぁと思ったら、跳ね飛ばされたんだろうおもって、次にもまた幕舎があったらしぃけどそこまで、敵の兵隊が飛ばされとるんですな。

おいおいこれは大変なことになったもんだの。砲を壊すことはできんじゃないか思いながら走って出たら、工兵の中で初年兵がおりまして、初年兵だろうという若い兵隊がおりまして、それが、「古い兵隊はどこに行ったんだ」言うたら、「どこ行かれたか分からんが、わたしがまだ爆薬持っています」、あれの半分ぐらいの、威力のある3キロいうたと思うんですが、大きなのは。それで、1キロの持っとるんだと。
「よし、じゃあ2人でやろうや。ほかの兵隊はあれせんでええや」 探したらね、砲があったんです。見つかったんです。それでわたしは歩兵ですから、どこへ仕掛けりゃいいんか分からんでしょ。それから、若い工兵の人が「どこへやりゃあいいんでしょう、これ」いうて、「おいおい」思うて、「こりゃあ、砲座のほうへしかけにゃ」。砲座いうのはね、こう向いとる台があるわけですね。撃ったらね、これが下がる。下がるんですわ。下がらんように仕掛けがしてあるんです。その台のほうにやるよりほかないんじゃないかいうて、「これ台にしかけようや」いうて、台のところに仕掛けてね。

で、(火)点けたら走ってこいよいうたら、ちかっとした思うたら走ってきました、マッチで点けるんですからね。来たら、ドーンいうのと一緒で、ここをやられたいうて、みりゃまぁたいした血は出とらんし、くるいうてももう衛生材料もなんもないんですから、ばーっとみて、ちょっと血が出よるけどたいしたことあらん。それから、破片いうたのも、それは砂かなんからしいぞいうたら、今度はとりすがって、わたしにとりすがって泣くんですよ。その兵隊が。「連れて帰ってくれ」いうて。「連れて帰ってよ、連れて帰ってくれよ」いうて。古い兵隊はもう2名おったんですけど分からんのです。
「よし、わしについて来い」いうて、で昼間おったとこまで下がってずっと待っとったらね、あっちでもドーンいいよる、あっちでもドーンいいよって、わたしらのところは一番はよ事を成したんですけど、とうとう1門はね、4門あるうちに1門はもう敵が目を覚ましてね、近寄れんようになったんよ。
で、あとの3門はなんとかなってね、1週間か10日くらいは沈黙させたんですよ。それで、犠牲者は1人もおらんのですよ、全員返って来た、

それから隊長の前に行って、「ただいま帰りました」いうて。「まぁとにかく座れ、座れ、申告はええけん座れ」、それから隊長が自ら恩賜のたばこだったと思うんですがね、一本出してくれて、自分で火をつけてね。「座って、座って」、それからそこで報告して。
隊長がね、将校がね、タバコに火をつけてくれることなんかないことなんですよ、

みんなもまぁ隊の者喜んでね、草の雑炊を自分で昼食べようと思っとったんでしょうが、それ分けてくれてね、いただきましたよ。

あれやオウムなんかはまぁよくおるんですが、しまいにゃ、逃げて戻るようになってからで、下士官が「おい川手ちょっと来いや」いうて、「今日はオウム撃ってこうや」いうて、で近くで撃ったら憲兵がおるし、本隊の近くじゃ怒られるけ、「遠くへ行こうや」いうてね。一にも二にも歩いていってね、それから「撃て」言うんで、こういうふうに、もう栄養失調で目がくらんでね、「班長わたしは撃たれません」いうたら、「よしじゃわしが撃とうや」いうて、撃って、それからまぁ大きなのですけえね、ありゃ食いでがあるんで2人食いやちょっとあれは食いやれるんですよ、オウムなんかは。て事があるんです。
銃を持って陣地から外へ出たらそりゃ将校がね、「どこへ行くんか、何をするんか」いうて見つかったらもうやられるんですよ。銃声がするんで敵が近づくいうんでね。ああいうこともありましたよ。まぁだから割合元気なケースの下士官も「おい、いこうや」言うてくれたんだと思いますが。
ほかに動物とって食ういうても、ねずみはまぁねずみがおるいうてもね、なんというかイタチのようなおるんですな。それであるとき、どうしてもおじやにしにゃあ腹が足らんのでおじやするでしょ。そしたらね、何で間違うたんか知らんが、あの芋を間違うて入れたんです。タロイモか思うて入れたらタロイモでなあんで、えぐいんですわ、食べよう思うたらね。えぐいて、えぐいて何も腹へっとっても、いかにも食べられんぞいうて、そんなら明日の朝なら食べられるかもしらんから明日食べようやいうてね、おったらその晩に、ねずみにやられて。まぁその朝起きたらべちゃべちゃにやられとるんですわ。こりゃあどうもならんぞいうたら、イソシルいうねずみがおるんですわ。それで靴脱いで靴下も脱いでね、足を乾かさならんので寝とると、足のかかとをかじられてね。「おいおい、こりゃあちょっと歩かれんぞ」いうような事になるんですよ。ああいうこともあったんです。ねずみは多いところですな。「平生、なにを食いよるか知らんが、人間をかじるなんてたいしたもんじゃの」いうて笑たんですが。

昭和17年(18年)の1月の20日です、よう日にちも覚えとるんです。
「はい、なんでありますか」いうたら、「絶対口外はならんぞ。口から出しちゃいかん。実は今晩、この陣地を撤退することになった。退却することになった。ほかの兵隊には絶対言ってはならんぞ。将校は知っとっても、その時間にならにゃいうないう命令が出とる」うれしいですわのう、知らん他人のところ行って死ぬよりは、ね、顔見知りの兵隊と一緒に死んだほうが、ねえ。「はい分かりました」いうて、「お前のような元気な者がおってくれにゃあ中隊もこまる」言われてね。

それから晩かたになったら「何時何十分までに道路上へ集合すべし」。“撤退する”とは言わないんですよ。「道路上へ集合すべし」 そこへその衛生兵を連れて出た。それで、なかなか歩かれんのですのう。それでもう、ほとんどの人もようけ通らんようになったときに、「おいここや、行こう」いうて、行きかけたらね、道路上へ砲弾当たって穴になっとるところに水が溜っとったんです、そこへ倒れてね。

(隊長が病兵に)「おまえ、われらは撤退しちょったんだが、お前をつれて帰ってやるほど元気な者は1人もおらんのじゃ」と。で「お前のような頭のたしかな人間が捕虜になったら困るじゃろ」と。「死ね」と。で「死にます」言うんですよ。
そんでそれをわたしら5、6人で見とるんですよ。そんで「拳銃かしてやるから死ね」「はい、わかりました」。で引く力がない。引き金を引く力がないんです。「引かれません」言うたら、「よし、俺が鉄砲うっちゃる、貸せ」「待ってくださーい」「憶れたか」言うて。「天皇陛下万歳」言うて死んどる者を見たのは、それは初めてです。初めての芝居です。「天皇陛下」いうて死によるものはおりません。ほんとう言うて。お父さん言うものもおりません。たいていそう、「おかあさーん。おかあさーん。」言うんですよ。んで、そのとき初めて、「天皇陛下万歳」 ダーン。

わたしが見たかぎりでは「天皇陛下万歳」いうて死んだのはわたしの隊にはいません。
よその隊でこの人がやるのを見て、ああ、ああいうこともあるんだなあと。「天皇陛下万歳」というて死んだのは、あれ1人というのをわたしは書いたと。

ヤスモトいう中尉がおられたんですが、その人が指揮して、うちらの中隊を指揮して行くことになって、「わしは困ったでよ」いうて。後からその人の7名、ラバウルへ、うちの中隊の者が最後に収容されたんですが、その時に、敬語も何にもないような乱れたあれだったんですけど、その頃に、「おめえら元気な者ばっかりが軍旗護衛中隊で、病人、けが人ばっかり連れてこられたのも困ったぜよ」いうてね、言うとられましたけれど。
残った人も地獄、行った人も地獄でしたよ。わたしは、で4人行ったんですが、途中でね、もう食べ物がないんで、みんなが同じように行くんでね、草採ろういうても、ないんですわ。その、一列でいくもんですから。食べ物がないんで、で途中でね、なんか果物の実のようなものがあったんで、伍長とわしと食べられるんだろうかのういうて、まぁ食べようやいうて食べたんです。なんとそれが毒でね。下痢で下痢で、まあ5メートルか6メートルか行ったらまたこれでへとへとになってしもうてね、あれしたことがあるんですよ。
あるところまで行ったら隊長が、指揮しとった少佐の人ですが、ヤシの木一本構えてあるとこで、その上を通って渡るようになっとる、それをわたしは落ちましたよ、よろよろになっとるんで。したら「なんだ、弱兵め」と怒られた。隊長がちょうど、その隊長のとこへおられたんですが、「弱ったのう、大変だったのう、あそこへこう見えるところで、当番がこう・・」タロイモいう芋があるんです、サトイモの親みたいなのが。「あれを焼いとるけえの、あそこいってあれを食べれ」いうてくださったんですよ、涙が出るほどおいしかったです。
でそしたらまあその、出してくださって、いただきましたよ。
それからずっとまあ、いろいろあって、最後にはまあ駆逐艦に収容されてね、ラバウルまで帰ったです。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
広島県世羅郡東大田村に生まれる。
1941年
第41連隊補充要員として現役入隊。中国大陸での作戦の後、マレー作戦、シンガポール攻略作戦などに参加。パナイ島・ミンダナオ島戡定作戦に従事。
1942年
ニューギニア・ブナ上陸。ポートモレスビー攻略作戦当時、歩兵第41連隊通信中隊。
1943年
満期除隊、復員。
1945年
終戦。復員後は農業に従事する。

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