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タイトル 「敗走の道に遺体が散乱」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
氏名 赤松 一朗さん(第15師団 戦地 インド(インパール)  収録年月日 2009年6月11日

チャプター

[1] チャプター1 インパール作戦始動  03:41
[2] チャプター2 砲を人力で運んだ山越え行軍  03:15
[3] チャプター3 連合軍補給路の遮断成功  02:25
[4] チャプター4 インパール北方高地の戦闘  04:35
[5] チャプター5 速射砲が効かない連合軍の戦車  03:51
[6] チャプター6 現地での「調達」  03:01
[7] チャプター7 命じられた「陣地死守」  03:48
[8] チャプター8 31師団の撤退  04:19
[9] チャプター9 「白骨街道」となった敗走の道  02:45
[10] チャプター10 何のために兵士は死んだのか  03:35

再生テキスト

いわゆる船を1隻ね、我々用というわけやないですけれども、連隊用に1隻ね、大隊長が師団から取ってきていましたからね。それに乗って砲は渡るということになっていましたんでね。ほかのいわゆる歩兵は竹を切っていかだをつくったりね、そういう作戦の前の準備をしていましたね。

持ち物というのは何もありませんよ。我々はけん銃1丁でね、行くだけで。小銃をね、分隊に小銃が5、6丁ありましたかね、それだけで、あとはもういわゆる速射砲が1つですね。速射砲1つだけ持って。言うたら、そのときのその準備は歩兵が渡ってから我々が渡るいうことになっていましたからね、特別にとか、準備とかそういうものはしてませんでしたね。待機、いわゆる待機してました。歩兵が竹いかだを作ったりいろいろして渡河準備をして、そして3月の15日に渡河したんですよ。その夜中ですね、渡河してすぐ夜中に我々が続いて渡った。そのときにはもう向こうに全部日本の歩兵が入っていましたからね。我々はもう敵前渡河というよりは、もう弾が飛んでくるわけやありませんしね、それほど緊張してませんでした。歩兵の、歩兵は緊張したでしょうね、そりゃあ。だけど、わたしらは歩兵が渡ってからということでしたからね、それほど緊張もせず砲を分解もせずにね、そのままそのときは渡しました、船に乗せて。

あのときはね、最初はね、30日、25日ぐらいでインパールを落とせというようなことでね、それだけの食料とそれだけの弾薬とが準備してはったんですけどね、実際我々が持って行ったのは10日分ぐらいですね。10日分の食料と10日分の弾薬です。あとは補給すると、こういうことだったですね。もちろん、それはもう全然来ませんでしたけどね。

ょっと行ったらもう、(速射)砲がそのまま通れない道になりましてね。それを分解しましてね、砲をね。それで、いわゆる臂力(ひりょく)搬送いいまして、担いでいくわけです。砲をね、皆で。ある場所においては担ぐために、いわゆる100キロですからね、2人で担いで坂登ったり、道行ったりしました。その途中で非常に狭い危ない道がありますとね、こちら側を斜面を削って土をならしてね、渡るんですよ。大変なことでしたね。

いちばん狭いところはこれぐらい(75センチくらい)の幅ですよ。このぐらいしか道がないんですわ。こう道がね、削って、こちら側は断崖(がい)ですわね。そしてこう削って、それを削って道が続いているわけですよ。だから、徒歩だけは行けますけれども、そんな車両を持っていったり、重たいものを担いだりはできませんからね。そこは広げて、上から土を落としてちょっと広げて、そして担いだりなんかして行きましたね。

掘るというよりも崩すわけですね、坂をね。こういうことになっていますから、ここを削って、こう通れるようにしたりしましたね。全部が全部じゃありませんけどね、そういう狭い場所がちょこちょこありましたからね。そういうところは全部削ってちょっと広げて。これぐらいのやつをちょっと広げて、危ないですからこれぐらいにして、砲を臂力搬送いうて担いでいきます。

担ぐのは2人ですわね、狭いから。だけどほかの者は綱つけて、落ちたら危ないですから、それは補佐しましたけどね。担いだり、担いだり、下げたりして。もうそれは、それが大変でしたね。だから、そういうものをどの程度上層部が知っておったか知りませんけど、大変な作戦でした。

まあ極端に言えば、夜も昼も、何といいますか、寝ないで行くというのはね、やっぱり夜も歩きましたしね。夜寝て昼だけ歩くというのは、そんなことじゃない。夜も昼も歩くぐらいのもんです、ずっとね。交代交代でね。もうちょっとでも遅れないようにということで行きましたね。

あのね、成功した後に我々は着いているんですわ、ミッション(インパールの北)は。成功はね、工兵隊が着いていましてね、それが爆破したんですけどね。それには確かね、12中隊が護衛しましてね。で、下へ。ミッションというのは下に部落がありまして、上にミッションの台地があるんですよ。そこまで出て、それから下へはもう、つまり道路がありまして、どんどん車両が通っていますから下りられませんからね。だから夜襲で、12中隊が護衛して、工兵隊が爆薬を持って下へおりて爆破した。そんなね、爆破しました明くる日ぐらいに我々は着いたと思うね、確か。だから爆破のときには、我々はまだミッションの台地までは出てなかったと思います、記憶では。着いたときに成功したんやということを聞きましたからね。

軍から、何といいますか、本多挺進隊(歩兵第67連隊第3大隊)はよくやったという話が来たいうことをね、確かね、着くなり大隊長が言うてくれたと思いますわ。そのとき我々は何もそれは役に立ってませんわな、まだ本当のところは。それからですわね。それから逆襲があるから布陣せいということで下りて、それで前進していったんですね。そのときにはもう、いわゆる爆破した橋梁(きょうりょう)の通っている国道ですね、立派な道でした。それの前へ出て、いわゆるカングラトンビまで出て、そこで防衛線を引いたわけですね。絶対、敵が反攻してくるということは分かってますから。

(連合軍は)ちょっと抵抗しましたけど、すぐ引き揚げます、逃げますわね。こちらはええ調子になって、勝てる、勝てると思って行ったんです。それはね、恐らく向こうの作戦であったんじゃないかとも思いますがね。そこで大きな抵抗も何も受けずに。とにかく負傷者は出ましたけどね。それは狙撃されたり機関銃でやられた。バババッとやられた。こんな細い稜線に行きますでしょう。横から撃ってくるわけ。それはまともにやられますわね。だから、次第に昼間の行動ができなくなって、夜、行動するということになってきたわけです。昼間行くと、どこから弾が飛んでくるか分からんわけですからね。しかし、そのときには敵はそうして抵抗しましてもすぐ逃げるもんですからね、こちらは調子を持ったですね。そのことはね、まあ大隊長ぐらいまでは騙されてたんじゃないでしょうか。大隊長ぐらいまではいけると思って。もっと上層部になりますとね、もうそれはやっぱり情報が入ってますからね。戦車が何十台もある、飛行機がどんどん飛んでおる。ねえ皆、自動小銃を持っているいうことは分かっていたと思いますよ。作戦が始まる前にもう分かっていたと思いますよ。だからね、一か八かの博打(ばくち)を打ったようなもんですよ。勝つか負けるか分からんけど、とにかく行かなあかんのやと。それですわ、日本得意の。だから勝てるという自信を持って、いわゆる上のほうは命令を下したということはないと思います。非常に危ないと。しかし肉弾で行けというわけです。

こんなはずじゃなかったということですよ、敵の勢力が。敵の勢力がもうけた違いに違うんですよ。我々の砲がいっぺんに吹っ飛んでしもうたぐらいですからね。で、各散兵といいますか、歩兵はね、一発打ったら30発ぐらいの弾が返ってくるわけですね。向こうは皆、自動小銃を持っているわけでしょう。それはえらいこっちゃなということになったと思う。

はっきり言うたら、バババババババババッと、その音が絶えないんです。それはすごい弾ですよ。もう1発ぱっぱっぱっと撃って止って、またぱっぱっぱっやないんです。もう絶え間なしに弾が飛んでくるんです。

第1回目に我々本多てい身隊は、ここで負け戦になったんですけどね。このセングマイ高地で完全にやられたわけですね。そのときに皆が唖然としたわけです。

誰が見てもね、素人が考えてもね、勝てる戦じゃないですよ。兵器1つを比べましてもね、全然そんなもの勝てる見込みのあるような差じゃないですよ。1対2とか1対5とか違うんですから、1対20とか30とかいうんでしょう。それで作戦を始めたんでしょう。だからまあ、上層部は博打を打っているんですよ。

だから、その後は、もうはっきり言うたら、抵抗する。抵抗しますけれども、負傷者は出るね、非常に被害が大きく出、また夜になったらちょっと陣地を下げて、また新しく陣地をつくるというような、そういうことでしょう。だから、もうカングラトンビから後は、はっきり言うたら全部負け戦ですわね、全部負け戦で。

それはもう夢中ですわ。とにかくね、バーン、バーン、バーンと撃ったでしょう。3つとも白い煙が上がるだけで、そしたらその砲身をこちらへ向けて撃ってきたから、これはいかんと思って「下げろ」と言って、砲を下げたんです。

3発撃ったんですね、全部当たったんです。当たったら煙が出るんですわ。ところが、何とも向こうには被害を与えてないわけですね。それがまた我々に向かって撃ってくるわけですよ。戦車回して、砲塔を回してね。つまり、中へ入ってないわけだ、砲が、弾丸がね。ご存じかどうかは知りませんけど、普通の砲と違いましてね、速射砲いうのは、中へ貫通してから爆発するようになっているんです。弾がね。そういう弾を使うわけ、戦車にね。ところが中へ入らないですから、何も被害を与えないわけですよ。で、その3発撃った後、我々は向こうの砲と機銃掃射にやられて、もう砲が撃てなくなったんですね。

これは死ぬと思いましたね。つまり、蹂躙(じゅうりん)されると思いました。砲がもうやられたんですからね。しかし、幸いなことに向こうは蹂躙してきませんでしたから。蹂躙してきたら、もう我々、つまり速射砲の連中は全滅ですわね、押しつぶされてしまいますね。それが蹂躙してきませんでした、そのときには。向こうは何者だか知りませんけど、下がりましたからね。それはやっぱり砲があるので、向こうも驚いたんやろうと思いますよ。砲なんかあると思ってないと思います、そんな山岳地帯を越えてきたんですから。2,000メートルぐらいの山を越えてきたんですからね。そんな砲を持ってきているとは向こうは思ってなかったと思いますよ。

 で、それから後は、残念なことにわたしらも砲がありませんでしょう。その砲を修理するために、後ろのいわゆるミッションに、いわゆる兵器所が来ておったんですね。兵器所に持っていって修理させようと思ったけど、これはもう全然だめだということで、結局、砲を兵器所へ置いて我々は帰ってきて、

大隊本部の護衛兵になった、大隊本部の。それから後はそういうことで、時には将校斥候をやらされたり、連絡将校にやらされたり、いろいろありましたけども、わたしの部隊そのものは、その1回戦闘をしたきりで、残念ながら何の役にも立たなかったですね。

 逆に言えば、したがって、そのために、砲がなくなりましたためにわたしは助かったということかもわかりませんね。もう第一線から、もう役に立たないですからね、歩兵砲小隊長なんて名前だけでね。こういうふうに下がって大隊本部の護衛といいますかね、下げられたわけですね。

Q:当初予定されていた弾薬とか食料の補給、これはどうですか。

そう、全然来ないんです。それでね、ちょっと言い忘れましたけどね、こちらからね、受け取りにやらせたんです。それがね、この時点で向こうから来ないもんですからね、やらせたんです。そしたら、もうこれから下がっていかないかん。帰って来ないんですね、道路が険しいから。

それが、大体行ってすぐ、ものの10日もするうちに来なきゃいけんのですよ、我々が第一線に入ってからね。ところが10日たっても20日たっても来なくて、30日ぐらい、1月ぐらいたってもこないもんだから、こちらから受け取りにやらせたんですね。そのときに詳しくは、会わなかったから詳しくは知りませんけれども、非常に道路が険峻(けんしゅん)だったのと、それから向こうそのものがね、そんなことを言いながら15日分の予備なんていうのがなかったらしいですよ。だから、一体どうなっていたのか。作戦にしてみたら、ちょっと無茶苦茶だったようですね。

それからあとは、今度はしかたがないから、受け取りに行くところもないですからね、いわゆる部落を・・部落があるんです、山の中にね。その部落を略奪ですな。だから、背に腹はかえられん。じゃ、調達せよということでね。軍隊は格好いい言葉を使う、調達いいました。調達隊としましてね。調達いうたって、金も何も払わないですから略奪ですわな。でもね、こちらも食べる物がないですから、調達隊を出したんです。それが成功したのが1、2、部隊は帰ってきましたけどね。あとは、5部隊ほど出したんです、20名ぐらいずつね。ところが、あとの2つぐらいは帰ってきませんでした。後で、やっぱり捕虜になってましたね。

それは腹が煮えくり返りましたよ。一体上層部は何を考えておるんだと。簡単に言えば、おまえらが勝手に山を越えて行って、勝手に死んでこいと言っているようなもんですわな。それはね、我々はそのように感じました。部隊全体、全部感じたんじゃないですか。

軍の命令というのは天皇陛下の命令だと、こう来るでしょう。だからもう、何によらずいちころですわな、もう天皇陛下を持ち出すんやから。そらどないもなりませんでしょう。だから、自分が死ぬという覚悟をしなければ、そういう撤退命令なんか出せませんわね。

軍は何しているんだという気持ちはね、いちばん下の兵に至るまで皆持ちましたね。で、やれば負け、やれば負けでしょう。負けても下がれないんですわな。負けておりながら、我々に言わせたら、今から言わせたら、もうそんなに兵力がないんだから。1個中隊いうたって、1個中隊って普通200名ぐらいで編成する。もう30名か、20名か30名になってしもうてるわけですよね。そんなもんで戦闘できるはずないんだから、ささっと下げるだけ下げて、やり直しですわな。編成やり直しが、それができない。そういう命令がこないんです。だから、じりじりじりじり死んでいったわけですね。

はっきり言いますとね、わたしはね、玉砕という命令を2回聞いています。玉砕、玉砕せよと。まあ、ひどいもんですよ。玉砕ですよ。ところがね、幸いなことには玉砕しませんでした。頑張ってね、もうしゃーない、“玉乱”しようということになってね、わずかな弾をぽんぽん撃ったりして。

それはもうしかたないんです、それが。もうそんな命令が来たらしかたないんですよ、動けないんですよ。つまり下がれないんです。そこで最前線、最大限の、いわゆる作戦を立ててね、それで皆そこで戦死せよということですから、下がれないんですよね。

今から考えればこんなことを言えますけどね、そのときはもうみんな頭が狂っていたんや思いますね。とにかく下がるに下がれん。前進はもちろんのことできない。しかし、下がるわけにはいかんというのね。軍そのものが、そういう考え方を持っていますからね。だから、そんなものは軍が腹を切るつもりで、これはもうだめだと。インパールやとか、そんなことを言うているわけにはいかんと言えばね、牟田口が腹を切るつもりでやればね、もっとたくさんの人間が助かったわけですよ。それは。

烈(31師団)ね、烈はそれを師団長が決定しようとしたんですね。そして、おれ一人が腹切ったらいいということで全部隊に撤退命令を出したんです。それで下がったんです。命令を無視したわけですね。抗命罪ですね。それでどうなったですかね。まあ、裁判にかかったんか、軍事裁判でかかったかどうか分かりませんけどね、そのおかげでまた我々は、はあ、はあ、はあ背中から敵が来るんでしょう。前から来るんでしょう。だから、ひどい目にあったんですけれども。しかし、そこまでの決断を下したというのは、それはわたしは、その師団長は立派や思いますね。

烈(31師団)は抗命罪を承知の上に撤退命令を出したと言うた途端にね、もうそう言うてすぐですね。言うてものの、わたしがそういうものを聞いてものの2時間ぐらいで、そのミッションへ、敵戦車がもう(31師団が包囲を解いた)コヒマから下がってきましたね。

やっぱりそれは動揺もありましたね。そういう命令というのか、情報が入った者は、そら我々クラス以上のもんですけれども、兵隊さんは知らなかったですけれども、事実もう、ものの2時間もせんうちに戦車が入ってきましたからね、下へ。それで慌てて全部上へ、ミッションの台地へ上がったんですね。で、その下に残った今の、負傷兵だとか病人だとかいうのは相当殺されたように思いますね。それはもう助け上げられませんでしたからねえ。

もうね、山へ上がれという命令が来たんです。その下におりましたからね、山へ上がれと。それで我々は、まあ幸いなことには足が使えましたからねえ。足の使える人間だけは、もうほうほうのていで山の上へ上がったんです。山の上に上がって、それが約2時間ぐらいでしょう、下におった。それはもう来ていましたからね、戦車が。上から見てたんですけどね、あれはまあ、唖然(あぜん)たるもんですわなあ、何のためにたくさん人間を殺して頑張っちょったんかって思いましたね。

両方から挟まれましたからね。いわゆるインパールからは来るでしょ。で、コヒマも開きましたからね、戦車部隊が南下してきてしまいましてね、ここがいわゆるミッションです。それだから我々のところはそのミッションにもおれなくなって、いわゆるチンドウィン河へ向かって敗走したわけですね。だから、もう戦争というものじゃなかった、それから後は。いかにうまく逃げるかですねえ。

もうがたがたになってしまいまして、指揮命令系統ももうはっきりしませんし、まあ、退却また退却ですからねえ。もう軍隊というような面影はなかったですね。

アメーバ赤痢にかかっても自分で自力で、そのチンドウィン河まで下がらなきゃいかんわけで、こんな山をね。で、息を切らした人間は、やっぱり道端に座り込んで、そして少し休憩して、また頑張って下がろうと思って、はっきり言うたら休憩するわけですね。

それがもう全部そのまま、座ったままで死んでしまうわけです。食糧はない。医療品がない。で、その部隊の後へ、我々の、例えば、部隊が行きますと、その前を下がった部隊のそういう連中は全部、もう死んでしまっているわけで。もうウジがわいてですね。だから、さらに下がっていきますと、もう白骨になってんです。雨がじゃあじゃあ降ってますしね。いわゆる、そのミッションからチンドウィン河の河畔まではそういうことが、悲惨なことが、もうそこらじゅうに起こりましたね、山越えですからね。

それがね、あれは妙なもんだと言うたら悪いですけれども、やっぱり人間死ぬ前になってもね、やっぱり仲間が欲しいと言いますか、自分一人でおるというのはやっぱりさみしいんですね。ですから少し離れるところまでも這(は)うて行ってでも集まるわけですね。集まって死んでますわねえ。で、それもねえ、道路のすぐ際には、あまりそうして白骨がないんです。ちょっと中へ入りましてね。あれ、人間心理、どういうことでしょうか、その入るということは。まあ、ちょっとでも入ることによって敵から、敵の目から逃れられると思うんでしょうかねえ。ちょっと道路から入ったところで、皆死んでますね。もう道路間際に、そうして座ってるってのはほとんどおりませんね。そこまで這うて行くんでしょうね。

あの場合もう少しこうしといたら、あの人間は死ななかったんじゃないかなとかね、それを思い出しますね、それを。

鮮やか鮮やかにこうこうこうこうこういうことで亡くなったということがね、大体分からんもんですわ。分からないもんです。というのはね、戦闘を、このように戦闘してね、ここで死んだと言うならね、分かるんですよ。ところが、その混乱してしまってどこへ行ったか分からん。帰ってこない。そういうのをもね、たくさんありましてねえ。

その後退のときに、こんなになったときに亡くなってる人が多かったですからねえ。ところが、そういう方にね、そういう死に方をしたということを、またね、言えないんですよ。やっぱり戦死ですよ。それはもう明らかに戦死ですからねえ。でえ、今のその白骨街道の住人になっておられるとしてもね、それは言えません、遺族の方には。そうするとついね、やっぱり遺族の方に会うのもね、こちらも非常につらくなりましてねえ。それもありましてねえ。自分ひとり帰ったというわけじゃないんですけど、その方にしてみたら、それだったら小隊長やったら、助けてくれてもいいやないかと思われると思いますわ。しかし、助けるっちゅうても、どこでどうだなあとかね、悲惨なもんです、悲惨なもんです。だから、大きな顔してね、ここでもこうしてしゃべっておりますけど、こんな大きな顔して、皆さんに報告するようなものは何もないんです。もうとにかく、やることはやりましたけど、まあ、逃げて帰ってきたに間違いありませんからねえ、つらいですよ。

まあ、遺族の方にしてみたら、そらあ、何とか分からんか。これはもう当然人情ですわねえ。たくさん生きて帰ってるじゃないかと言われたらね、もうこちらは何とも言いようがないんですけどね、実際分からなかったですね。もう混乱でね。敗戦というのはもう絶対だめですなあ。敗戦はもう二度とやったらいけませんなあ。

 無茶な戦争をやったもんですね。もうそれはね、十中八九やなしに、十中十まで死んで当たり前の戦争ですわ。生きて帰った者は相当やっぱり幸運だった人間ですね。ほとんどの人間が死にましたね。もうほんまに気の毒な戦争でした。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。

大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール

1921年
京都府京都市上京区に生まれる。
1942年
現役兵で中部第37部隊に第60連隊要員として入隊。中国・蕪湖にて第60連隊と合流。
1943年
豊橋陸軍教導学校卒業。南京にて、第67連隊転属。
1944年
第67連隊第3大隊歩兵砲中隊速射砲小隊長として、インパール作戦に参加。
1945年
イラワジ会戦に参加。ビルマで終戦、捕虜となる。
1946年
復員。復員後は、清水源商店に定年まで勤める。

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