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タイトル 「毎晩炸裂する自決の手榴弾」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
氏名 神原 弘吉さん(第15師団 戦地 インド(インパール)  収録年月日 2009年6月13日

チャプター

[1] チャプター1 最前線の衛生兵  01:20
[2] チャプター2 迫ってきた巨大戦車  02:23
[3] チャプター3 患者を担いで退却  01:22
[4] チャプター4 退却の道  01:51
[5] チャプター5 手りゅう弾の炸裂音  05:13
[6] チャプター6 力尽きた兵士たち  03:16
[7] チャプター7 6度向かった慰霊の旅  01:25

再生テキスト

その包帯なんかなんですよ。後ろへ帰ってきて、そこの何でもないところで巻くんやったら巻けるけども、ぼんぼんぼんぼん敵の砲撃やられて、「衛生兵前へ」言うて、衛生兵が行って患者を陰へ寄せて、低いところへ寄せて、そこで包帯を巻いたり、そうして止血して、必ずその止血したら、その兵隊さんの名前と、それから治療した衛生兵、我々やったら我々は「第2野戦病院神原衛生軍曹、何時何分止血した」いうことをちゃんとしとく。傷票言うやつを巻く。それは入ってます、傷票。そんなんでも何ぼ。それでも書かな。そうして、その患者をそこへ置いて前進するのが衛生兵です。

もうここは、もうインパールだ、下は。もう見えますねん。飛行場、見えます。夜明けで見えました。ほいでここで戦車に追われて、まあ、逃げた逃げた。

Q:あっ、戦車に。

撃たれました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。だからもう40人くらいおったけけど、皆ばらばらに逃げるの。一緒に固まったらいられしませんで。群集心理ってあるけど、群集心理なんて、そんなもん。自分、達者な足で逃げんと。こけたから言うて、それを拾うていくわけにいかへんもん。「こいよー」言うて、「先行ってくれ、後から行くから」いうような調子だ。とりあえずここに逃げて、また山へ入って、それから下がってきた。

兵隊ほとんどが、故障した。これ衛生隊はきちっとやってはりました。感心しましたな。後ろのここにおる野戦病院、そんな材料持ってなかったでしょうと思いますよ。わしらも持たんと行ってんやから。

衛生兵はそれを持たんでええからと、小銃をとにかく持たされるぐらいやさかい、持たんと行ったですよ。「装具、みな置けい」言うて。竹やぶへ。歩兵隊の人から。装具置けいうことで、もう飯ごうも、水筒以外、飯ごうも何もそこへ置いとくわけですわ。で、手りゅう弾と小銃持って行くだけやすから。

Q:それだけ兵隊がもう足りなくなってたんですか

足りん、そうですね。だからうちの部隊長は「神原君、よう頑張ったなあ」言うて、「金鵄勲章(きんしくんしょう)や」言われた、「神原君は、7名は金鵄勲章や」て、死んだ部隊長さんが言いやはりました。

そのとき既にわしら野戦病院のナニは、その白い包帯巻いた、その患者、担架担いで、どんどんどんどんサンジャックへ下がりました。

Q:そんときは、患者さんを担いで逃げたんですか、担架でこうやって。

ああ、そうです。ここまで下がってきたら、またひっくり返って、ピストン運転だ。ピストン運転。それでサンジャックや、トンへ来るまでに、もう担ぎましたよ。

師団長に見つけられたら怒られる。野戦病院は何しとんじゃ。

Q:何で怒られるんですか

患者倒れとるのに、野戦病院が後ろでのんきにしとるわけにいかん。恥や、患者が倒れてるのを見られたら。うちの部隊長がそんな言うてました。「1人でも探してきてやってくれ」。自分でこしらえた松葉づえ、ほんまに上手にこしらえてあったわ。その松葉づえでこうやって寝た。「おい、こんなんで寝たらいかん。もう敵が後ろに来てんねんで。トンヘまで下がれ、下がれ」。トンヘいうたら、仮にも内地に帰るという気持ちがある。これからマンダレーヘ下がんねんで。

兵隊さんが、逃げて帰ってくる兵隊さんが疲れて、マラリアで倒れて、行き倒れですわ、道の真ん中で。元気な者は松葉杖で、こう寝てまんね。トンヘの手前でな。「おい、どないしてんねや」、注意にな。「船が来たぞー」言うたら、みんな「うわあ」とジャングルの奥のほうから喜びの声が聞こえます。ざわめきとな。その船に担架を運ぶわけだ、乗せて。それも、きれいなとこ違うねやもん。川のとこや、こんな坂道だな。

竹の箸(はし)でぽつぽつとピンセットみたいにして、ウジ虫を取ったるの、ウジ虫。ウジ虫いうたら、口の粘膜、こういうとこへ先にウジがわきよるのさき。目。
2時間したら、アリぐらいのが来た。それが今度大きな卵みたいになってますよ。こやつが来よりまんねん。傷口があったら、ここいっぱいつく。これが1日たったら、もうこれぐらいのウジ虫になってますから。3日おったら、これぐらいのウジ虫。そしたら、人間は水になってしまいます、それが食べると。人間、水になってしまう。

生きててもウジがわいとる。そのウジを取ったるんよ。「サイトウ君、手伝うてくれよ」「そやな」サイトウ君や衛生兵は皆、そうやって、谷川で水くんで、傷口を洗うだけです。痛がりゃしまへん。痛いことあらへんのやもんな。そりゃ、そうや思うは。それしかできなかったわ、治療は。野戦病院。

天幕あらしません。ほんなもの、あんた、何も材料があらへん。木を切ってきて、原木を下へずうっと並べて、ほいで畳1枚ぐらいの大きさやな、1人やったら。そこへ枯れ葉積んで、で、また木を敷いてやって、そして天幕を乗せただけだ。ただこんだけほど高いだけです。そんなきれいな、こんな平地とちゃいますもん、こんなとこやもん。だから、こっち土台にしてね、雨は下へ流れるわけだ、降ってきたら。ほいで患者を寝かして。その患者が、要するに前線から引き揚げた烈(31師団)の兵隊やどこの兵隊か分からしまへん。知らんけど1500(人)おったと言うんや、最後。

Q:1500人もいた野戦病院て、様子はどういう感じだったんですか。

とにかく、話にならんな。だから、夜中にボンボン手りゅう弾が鳴りまんねや。分かりますやろ。手りゅう弾、夜中に。歩兵隊の兵隊は手りゅう弾を持ってますもん、患者でも皆。小銃を持って、そういうふうな患者ですもん。5人、6人が車座になって自爆ですもん。だからもう嫌や言うねん、わし。

Q:せっかく野戦病院に来ているのに自爆するんですか?

敵が後ろへ来てますもん。

止めるの、でけしませんもん。そんなもんすると思ってへんし。それでまた、どこへ隠してるのか、分からへんもん、手りゅう弾みたいなもん。

わたしの場合は、「衛生兵殿、班長さん。これ、東京のお母さんに渡してください」。シーマの時計やったわ。「よし、分かった。おまえ、どないすんや」「わたしはもうここでだめです。もうここであかんと思います」「そんなん言わんと、もうじき舟艇が来るさかい、それで送ってやるさかいな。おまえはもういかだで行かれへんさかい、大事にせなあかん」 それでも「もうだめです。頼みます」言うて、サックを、リュックサックを持って、あの中にちゃんと入れておりますねん、時計を。腐らんように。それとインド銀貨。インド銀貨を二、三枚入れて、「班長さん、頼みます」。こっちも「よし」。ところと名前が書いてある。それをちゃんと書きよったんだな。まだ元気なときだったんやな、その兵隊、書くぐらいやさかい。それでポケットに持っとった。

Q:3分の1ぐらいの人は、もうそこで亡くなったと

亡くなってまっしゃろな。今いう自爆したり。何ぼ自爆したか分からんけど、行ったら5、6人が組んで。

Q:そんなにたくさん自爆したんですか?

5、6名が、晩に(手りゅう弾が)2発か3発鳴るわ、夜中に。10名か15名としても、1週間、10日おったらなんぼか、分かりまっしゃろ、何人ぐらい自爆しとるいうことが。それを埋めますねや。

ここまで逃げてきて、もうちょっとなのになというふうな調子だ。船さえ来てくれたらな。その船だって、飛行機で、昼、こられしまへんねやもん。川入っとったら音はするし、飛行機には分からんけれども。部落民には分かります。部落民が敵に褒美もらえるんですよ、伝えたら。伝えたら、もうわずかで、5分か10分でブーンと飛んで来よる。そんなもんだから、いかだなんか乗ったら皆やられてしまう。達者な兵隊はいかだをこしらえてな、歩くの嫌やからいかだこしらえてな。夜中に逃げていく兵隊もおる。いかだがつぶれて死んでいった兵隊さんが、ぎょうさんおますわ。

いかだをこしらえて、達者なやつは。いかだをこしらえて、いかだに乗って逃げようと思って。下がろうと思って。そのいかだがつぶれてしまって。10人も乗られへんのに、我も、我もと乗りよるな。それは、あんた、いかだは沈んでしまうもん。それが、あんた、きちっとしたいかだならええけど、生木でこさえたいかだ。十二分に浮力を確かめんと、こいつをぼんと川へ突っ込んで、飛び乗って行きよったなと思ったら、まともに行ってるのは少ないと聞いた。チンドウィン河いうたら、むこう先は見えしませんねん。雨季、乾季、熱季とあるけど、雨季はえらい増水した。6月なんてのはな、もう雨季だ。6月やな下がったのは。ほんまに。6月の二十日ごろや。雨季最中だが。どどどど降りよんだもん。

とにかく、自分1人で苦しんでも、兵隊さんと一緒に、どこの部隊と一緒におったら何かが食べられるという空気があんねんな。あれ、不思議や。だから、かたまりたいね。そしたや何か食べさせてもらえる。野戦病院であろうが何であろうが、兵隊さえ・・それは不思議やな。進攻路をどんどん行きよりました。その道を、達者な部隊は。それで、道を歩いてますでしょう。間道。ここの入り口に「何々亭」、「この奥にぜんざいあり」と書いてある。聞きましたか。「この奥に何々亭、ぜんざい、ほかほかのおいしいぜんざいがあります」 兵隊はそれにつられて行きよんねん、弱った兵隊。そんなんあるはずない。そこへ行ったらきれいに部屋をこしらえてますねん。進攻当時、前進当時の強い部隊が、そういうようなことをして、楽しみで駐留しておりましたよ。出発命令を待つまで、ジャングルの中にな。ちょうど小屋をこしらえて。土盛って、のぞいてみたら、そこへ行ったら気持ちええもんやさかい、そこへ入って死んでいく兵隊はぎょうさんおる。

Q:チンドウィン河を渡れない人も結構いたんですか?

うん。達者なもんはな、歩兵隊の達者な人はぼえーっと行きはったけどな、それ以外のもんは、我々の部隊についていきはりました。わしらは達者やから、元気な兵隊やから、5人が残された、後始末に。

帰ってからビルマへ慰霊に行きました。やっぱり戦域、苦労したところ、今言うカレワの渡河点、それからシッタンの渡河点、それからサガンの丘、ここへ慰霊碑を。うちの部隊、我々行って立ててきました。わしもビルマへ6回ほど行ってます、帰ってからね。一遍行ったら、やっぱり1週間以上行ってきまんねや。仕事をほったらかしておいて。

Q:やっぱりあのころのことは思い出されるんですか?

思い出します。やっぱり行ってな。おまえと・・・。結構なことでな、親をこうして送らしてもうて、子どもも自慢させてもうとる。兵隊さんのお蔭や、亡くなった兵隊さんのお蔭だと思うわ、わしらは。わしらは、そう思うわ。あの戦争に参加して、はあ、帰ってこれた。これ、亡くなった兵隊を踏んで帰ってきてんやもん。足にけつまずくんやもん。その白骨街道。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。

大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール

1919年
大阪府大阪市に生まれる。
1939年
第4師団第37連隊第4中隊入隊
1940年
第3四師団第2野戦病院転属
1941年
第15師団第2野戦病院転属
1944年
衛生兵としてインパール作戦参加。
1945年
イラワジ会戦に参加。バンボンで終戦を迎える。
1946年
復員。復員後は、故郷にて印刷業を営む。

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