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タイトルタイトル: 「米軍に投降していく兵士」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~
名前名前: 新屋 関太郎さん(金沢・歩兵第107連隊 戦地戦地: ミレー島  収録年月日収録年月日: 2009年11月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 南の島へ  02:20
[2]2 チャプター2 空襲の恐怖  05:43
[3]3 チャプター3 孤立  04:07
[4]4 チャプター4 死と隣り合わせの魚とり  04:23
[5]5 チャプター5 ミレー島からエネゼットへ  05:22
[6]6 チャプター6 毎日来襲する米軍機  03:53
[7]7 チャプター7 米軍の呼びかけで投降する兵士  05:13
[8]8 チャプター8 栄養失調で倒れていく兵士たち  03:34
[9]9 チャプター9 海鳥で命をつなぐ  04:28
[10]10 チャプター10 終止符  03:51

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年11月8日

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金沢出るときに1個大隊1350人おった。それがあの編成替えしましてね、996人に減らしたです。ちょっと病気らしいもんとか弱そうな者は全部ここ、ポナペへ残して行った。で、僕だけね、弱いのに何で連れて行かれたいうたらね、やっぱりこう主計する者がいなかったんでしょうね。だからミレー島へ行っても大事にしてもらったです、案外。
ほでポナペからクエゼリンまでは、あの五十鈴ちゅう巡洋艦。で、クエゼリンでまた軍艦乗りかえましてね、あの巡洋艦の長良ちゅうのに乗って、ほしてミレー島へ上がったんですがね。

ミレー島は守備隊長が海軍で、そこへ歩兵の松山のですね、122連隊の連隊本部と1個大隊、それが先に入った。そこへ僕らが入ったからね、どうしても継(まま)子扱いになる。だから海軍が、海軍が10の食料を食っとれば、われわれは7から8。せいぜいで7か8しかあの配給なかった。途中で搾取されて。そういう継子扱いは確かにされたですね。それと、後から上がっとるですからね、一番あの警備の、この警備ちゅうか、あの危険なとこへ、そこしか残ってませんから、そこへこう配置されたのも、たくさん死んだ一つの原因はやっぱりあると思います。

Q:壕もちゃんとしたその防空壕だったんですか。

それがね、セメントなんか一切使わず、ヤシの木切り倒しましてね、こうやって両脇にこう、両脇にこう、こうヤシの木をくいに並べるでしょ。ほして上のほうも今度ヤシの木並べましてね、そこへ砂かけました。ほでヤシの葉っぱなんかでカムフラージュしまして。出入り口だけちょっとこう。そういう簡単なもの。壕、壕ちゅうけど。

Q:ちょっと掘ってあるんですか、下は。

掘るんです。それもね、2メーター以上掘れないんですよ。1メーターちょっと。それ以上掘ったらね、海水が出てきます。

Q:そんなに深くも掘れないわけですね。

ええ、たくさん掘れない。だからアメリカ軍にしてみれば、ここに壕があるぐらいはもう、上飛んどりゃすぐわかる。だけどこっちはそう思わんからね、とにかくカムフラージュしてあれば、それで大丈夫だと思い込んどるから。思い込みっちゃひどいもんですね。

Q:じゃ近くに落ちたり直撃されたら、全然もう爆弾をよけることにはならないわけですね。

ならないですね。それから壕自身があのヤシの木の丸太を並べただけでしょう。だからそんな頑丈なもんでないです。ほいで近くに爆撃が落ちた場合は入口ふさがってしまう。直撃(降った)場合はさっき言うたようにね、跡形も残らずに、骨さえ残らんね。で、ちょっと横へやったら、今度あの入口の差があり過ぎちゃう。生き埋めになっちゃうんです。そういう状態が、あの飛行場の付近の駐在、駐屯しとった人らは何べんも経験したと思いますね。

Q:近くに爆弾が落ちると衝撃はすごいんですか。

破壊弾とね、殺傷弾ではだいぶ違うんです。破壊弾はやっぱり、こういうあの直径10メーターぐらいの穴掘りますからね。破壊弾(殺傷弾?)ちゅうのは、こう横へ広がるんですね。だから地上におる人間はや、やられちゃう。

破壊弾ちゅうやつはあの鉄筋の壕でもバッと落ちたら木端みじんに、だから深く爆発させる。殺傷弾ちゅうのはね、人間目的。横へ。だからね、あの破壊弾ね、破壊弾の直撃を、壕(ごう)の直撃を受けて死んだ人はね、骨のかけらも残らない。爆弾、爆弾落ちて穴になるでしょ。外側を行くとね、肉の細切れってあるでしょ、あの細切れをまた細かくしたようなのね、砂の上へばらまいてね、砂にまぶしたような、そういう状態の肉だけが見える。骨は骨の「ほ」の字も見えん。いやあの破壊弾の直撃、壕に直撃を受けた人はね、あの遺品も何も一つもねえ。幸いにおれはそういう目にあわなかったからね。だけど破壊弾よりも殺傷弾が怖かった。
一回だけね、僕あの、寄せ書きのあそこへ書いときましたけどね、飛行機の爆音がしたからね、壕から出てひょっと見たらね、飛行機から爆弾が離れた直前、あの直後だった。その離れた爆弾がね、自分に向かってだんだんだんだん大きくなってくる。ひどいもんですねえ、体がすくんで動かない。あのヘビににらまれたカエルって言いますけどね、あれと同じ。爆弾がこういう、どんどんどんどん大きなってね。こうやって顔を隠したのとね、50メーター先へバーンと炸裂したのと一緒でした。で、炸裂して、ひょっと見たらね、その辺におった兵隊がね、血みどろになってね、逃げてくるのが見えて。それを見て慌てて壕へ逃げ込んだ。そういうことがありましたですね。

で、アメリカ軍の飛び石作戦やったでしょ。だから日本の兵隊は、ミレー島にわれわれをあげたのは、マキン、タラワの次はミレー島だろうということで上げたんです。ところがマキン、タラワのミレー島で、で、こっちがクエゼリンがある。で、ミレー島飛び越してクエゼリンへ行ってしもうた。と、クエゼリンのほうが海軍基地としては大きいんです。だからそこをやられて、次はトラックまで行ってしもうた。ポナペはそういうもんは通り抜けて行ってしもうたんや。
だからクエゼリンがやられたときは情報が入ってきましたね。「ただいま、あの西の海上に帆柱が見える。輸送船団らしい」って言ったときに、今度は艦砲射撃が。「いよいよ配置につけー」ちゅってね、みんな援兵軍のとこへあの武装して位置についた。そしたらね、艦砲射撃、ある程度の艦砲射撃だけでね、船が見えんようになった。ほして1日か2日経ったら、あのクエゼリン玉砕ってニュースが入ってきた。

Q:クエゼリンが落ちたってことは、あの島に、ミレー島にいる人たちにとってはどういったことになるんですか。

敵の後方ですからね、今度は。そしたら、食料難になることはもう目に見えてますわね。

Q:もう食料が来ないっていうのがわかるわけですか。

潜水艦来ない。2年間おるうちに潜水艦2へんしか来てない。潜水艦が
米、積んできて、どうして積んでくるってね、ゴムの袋の中へ、米積みましてね、潜水艦の上にロープでね。縛って。ほしてミレー島へ来て、陸揚げして帰るんです。その帰る人に僕らはこう、家への手紙出す、渡すでしょ。1通も着いてないちゅうことはね、その1回か2回しか来なかった潜水艦がね、途中で全部やられたちゅうこと。

Q:じゃクエゼリンが落ちたっていうのはもう、ミレー島にとっては相当絶望的な状況なわけですね。

そうですね。とにかく、ものがもう手に入らんちゅうことですわね。

ああ、これは大変だっちゅうのはね、各自が口に出さなくてもね、肌で感じたと思います。

Q:食料が少しずつこう減らされてって、でもやることはいろいろあるじゃないですか。おなかがすくわけじゃないですか。そういうとき、どうやってそれをまかなってたんですか。

だから炊事場でくれるものは、米からだんだんおかゆさんに近いものがくるでしょ。ほんだけだけじゃ足らんから、空き地にカボチャを植えたり、ヤシの木へ上がってチャガロー(ヤシの樹液)を取ったり、みんなそういうことをしとったわけですよね。それから泳ぎのできる人は魚取ってくるとかね。

サンゴ礁ってのはね、標高1メーターぐらいなんです。満潮になるとね、干潮のときは島の幅が300メーターあったとしてもね、満潮になってくるとね、100メーター。ひどいとこは50メーターぐらいになっちゃう。そんだけ満干の差がひどいんだね。だからね、ほでまたね、あのーミレー島ちゅうのは、こういう環礁の中の東の端だったんです。で、西の端ですか。で、東のほうは砂浜の遠浅です。で、西のほうはね、急に深くなる。ほいであの海岸線からこのサンゴ礁の切れ目が出て、100メーターぐらいあるんです。広いとこで。短いとこで50メーター。そこが岩石でね、急に深くなる。

ほで小魚はね、沖合いにおるあの・・だから缶詰の空き缶にね、火薬詰めましてね、それ発破にしてね、魚おるとこへパーッと投げてね、魚が浮き上がったとこを拾ってきてね、それを食料にした。
ところがあの南方の魚っちゅうのはね、はらわたに毒があるのがものすごく多かった。魚自身はね、色彩が濃厚でね、実にきれいなんです。はらわたに毒がある。で、おなか減っとるでしょ。はらわた捨てるのがもったいないってね、食べた人はみんなやられた、中毒で。その中毒がもとで栄養失調になった。
だからね、あんまりがつがつとして食べ過ぎるとやられるし、というて、草ばっかりじゃ生活できんしね。やっぱり主食はね、あのチャガロちゅってね、ヤシの、ヤシの木から取った液体。これがやっぱりあの救い水だったね。

ヤシの実はね、ヤシの木はね、大体28日に1回ぐらいずつ葉が出てくる、新しい葉が。ほしてそこへこう、1カ月に1回ずつこう、穂が出てくる。その穂へこうして巻きつけてね、縄を。して先を少しずつ削っていきますとね、液体が出てくるんです。それはあのその液体ちゅうのは、普通ならばヤシの実の、実の栄養分になる液体ですからね、栄養価がある。ほでヤシの木5本ほど管理してね、その液体をと、あの取ってますとね、1日1升近く取れるから、それがまたあの栄養価になって。
そのチャガローというのは、一晩か二晩置くと自然発酵しましてね。初めはラムネかサイダーみたいになって、1週間もしたらヤシ酒になる。で、それを今度は煮詰めるとね、最後まで煮詰めると飴になる。で、その中間でやめて塩へ放り込んだらね、しょうゆの代用になる。ものすごく栄養価のあるもんで。で、そのお陰でね、ある程度の人間死んだら、それで栄養価あるようになって。

何といっても食料を握っとるのは海軍ですからね。そっからこう分けてもらって食べてるわけですから。だから普通の兵食渡ったのは、上陸した12月と1・2月ぐらいじゃないですか。クエゼリンがやられてから、2割減、4割減、6割減って、だんだん減ってきまして。
それで今度は、これだけじゃ食料もたんから、離島へ分散させろちゅうことになって。離島へ行く者には米やらないと。現地で全部調達して自分で生きていきなさいということで、僕らも第一次の離島へ連れて行かれたんです。

僕がエネゼット(島)へ行ったときはね、やっぱりジャングルでした。あの島、50メーターか100メーターぐらいでしょう。東の内海のほうから外側、外海のほうを見ても見通せなかったです。それがね、やっぱり1カ月経ちますとね、スカスカになりました。スカスカになったとこで、今度はカボチャ作り始めた。それと自分の手ごろなヤシの木を5本ほど選んで、チャガローを取りにね。
だから軌道に乗るまではね、とにかく食べれるものは何でも食べましたね。

Q:スカスカになったっていうのは、それはそこにあるものをみんな食べたっていうことですか。

そう。今のうち、ヤシの自然に生えとるやつなんか、ほとんど手当たり次第食べたでしょう。その時分、まだ統制してませんから。で、そういうふうに食べれるものは何でも食べたっちゅうことです。だからやっぱり物がないということはひどいもんですね。

とにかく生きることに専念しようちゅう気持ちですね。米は当たらんのやから、現地でとにかく食べれるもんを食べて病気にならんように、それだけ努力しようちゅう気持ちでしたね。

Q:島までは歩いて行ったんですか。

全部歩いて。十何キロ歩ったですよ。エネゼットだけでも10キロ以上あったんじゃないですか。幅100メーターか、広いとこで150メーターぐらいで。それでやっぱり10キロ以上の長さで。そこを海軍やら122連隊やら、こう区別して生活しとったですからね。

ヤシの実はね、あの下に落ちたやつは僕ら自由に食ったけどね、全部中隊管理やった。だからね、あの一応、あのートップの人がね、OK言わない限りはね、個人で取れなかった。それを取りに行ったら泥棒になっちゃうんだね。だからさっき言ったようにね、落としたら音がする。落とさずに抱えてヤシの木から下りようとしたら、足か手滑らして下へ落ちて即死したって。そういう人も何人かおるんです。
だからヤシ泥棒だけはね、あれは知能犯でないと駄目ですね。僕は班長と二人でね、組つくってはロープを持ってはね、一人は上へ上がる。一人は下で待ち受けるっていうね。前の日に、日中に「この木のここ」ってね、品定めしといては泥棒に上がりましたけどね。やっぱりヤシの実は勝手に取れなかったね。

生き延びるっていうことについてはね、すごいやっぱり神経使いましたわね。さっきもちょっと言うたと思いますけどね、ちょっとしたあれでね、もう駄目だっていうような感覚を持った人は全部死んどる。「何くそ」っちゅうようなね、根性を持った人は生き帰ってきとる。だから気が、気が弱くなったら終わりだと、そういう感じだけは残ってますね。

1日1回は必ず空襲があるんですよ。それもね、1回に200機とかね、150機、200機ちゅうのがね、普通なんです。ほいで1番機がね、急降下爆撃する。すと2番機、3番機がね、同じとこをやる。ほいでビラがパッパッとこう、アメリカ軍から、飛行機から宣伝文のビラがね、落ちてくるときがあるんです。
それを読みますとね、「われわれはね、あの君たちと戦争しとるんじゃない。日本の軍閥と財閥と戦争しとるんだ」というようなことを書いてね、靖国神社のこう鳥居描いてて、君たちは死んだら靖国神社の神様になるっていうけど、こんな嘘の木っ端やちゅうて、そういうこう、こと書いたチラシあったりね。それともう一つはね、「われわれはこれからこの島は新人飛行士の練習場とする」ちゅうようなね、チラシも出た。

島と島の間が2キロぐらいある。その真ん中辺を歩いとっとき見つかった。ほしたらね、2台、2機の飛行機がね、機銃掃射で。一人でも。ぐるーっと回ってきてはまた撃つんです。頭のとこへ5へん回った。
そのときにやっぱりその、その気が動転しとるとね、走るでしょ。逃げるために。標的が大きな、大きくなるからね、僕走らなかった。あの足に自信がないから。こうしてしゃがんどったらね、見事に曳光(えいこう)弾が飛んでくるんで、30センチぐらいの。それをね、3回撃たれた。3回撃たれたときにね・・召集受ける前にね、週刊誌か何かでね、飛行機に見つかったときにね。

みんな死んだふりをするちゅうね、記事があったのを思い出した。けがせんときっちゅうものは平静でおれるんですね。で、それを3回撃たれたときに思い出してね、ほして今度4回目のときは動かなかった。したら4回までは2台の飛行機で機銃掃射してきました。そして4回目にこう動かんでしょ。5回目にね爆音が、ああ、だいぶ近いとこ飛行機が下りてきたなと思うくらいの爆音で、こっちはあのー、やっぱり命がけですからね、じーっとそうやっとるわね。5回目だけは撃たずにね、飛んでった。それからこの、あの1キロの間、向こうの島まで行く、あの、そのときのほうが心臓ドキドキ。心臓がこういうもんでね、あのときのほうがかえってひどかった。そういう経験がまあ、ほんとの命拾いの経験はこの2つですね。あと大したあの爆撃には遭わなかったし、それでやっぱり運がよかったんですね。

あのね、昭和20年のね、5月ごろからかね、あの海岸線すれすれにね、船で、拡声器でね、ほして「支那の夜」とか「上海夜曲」とかってああいう、まずあの歌謡曲を流しましてね。それからね、「この船はね、君たちを救いに来たんだ。君たちを助けに来たんだ。苦労してることはよう分かってる。だからアメリカ軍に助けてほしい人は海岸線へ出て合図しなさい。助けてあげます」ちゅってね、拡声器かけて静かーにね外海を。本島のとこだけはそれ、その船行かない。離島のほうだけ。本島はやっぱりあの砲台、砲台から何からありますからね、ミレー本島だけは除外しまして離島をそういうように回っていくんです。
ほすっとね、「あ、一人今海岸線へ現れました」ちゅうね、何かの実況放送みたいに。「頑張って、頑張って。今助けてあげますよ」ちゅうような方式でね。ほして船へ収容するでしょ。「あ、今一人助け、助けました」逃げていくこと分かっとってもね、こういう機銃掃射できないんだ。機銃で撃ち殺すことできないんです。なぜかいうたらね、飛行機でね、メジロ(マジュロ)島ちゅってね、5分もかからんとこにアメリカ軍の基地があった。だからこれやろうもんなら、それやったら島にね、集中的に攻撃されるのが怖いからね、「ああ、1人、1人だれか逃げたな・・。」
ほで船が行ってしもたらね、すぐさま点呼です。ほして一人、「誰それがいない」。「そうか。あいつとうとう行ったか」ちゅうな。・・・・でね、それが約30人おる。だからあの終戦の時に生き残ったのは270何人で、ほいで手挙げて行ったのが20何人おるんです。で、合わせて300人。ほいで996人、1000人ですからね、残りの700人は死んどる。700人のうちの、艦砲射撃とか機銃掃射とか爆撃とかで死んだ人は200人足らず。で、あとの500人は栄養失調です。それが大体の線ですね。ほで、さっきのあの数字とかみ合わしてみるとね、そういうあれになっちゃうんです。

Q:それで実際新屋さんはそういうのをご覧になってるわけですね。来たっていうのが見えるわけですね。

見えますね。

Q:行こうとは思わなかったですか。

僕は行きたいと思わなかったね。

Q:どうしてですか。

日本は必ず勝つと思うとったから。栄養、あのこう食料不足になって、あれなったけどね、必ず海軍が盛り返してくれるじゃろうちゅうね、やっぱり期待感がありました。それと健康だったです。

だけどね、あの拡声器で大きい声で。僕らはね、「お誘い船」ちゅって言うとったですね。毎日来るんですよ、それはね。そしてね、初めはね、日本語に近い、要するにあのミレー島にもね、飛行場つくるために軍属がおったんです。ほで朝鮮出身の人はちょっと、やっぱりなまりのある日本語使うでしょ。初めはそういうなまりで放送してましたけどね、だんだんエスカレートしたらね、「わたしは、わたしは第何大隊の何中隊の何々伍長です」って官職まで名乗ってね、誘いに来た。来るようになりましたね。

Q:19年10月、11月、12月ぐらいが、次の年の1月ぐらいが亡くなってる方が非常に多いんですけど、あれは何が原因だと思いますか。

いや、栄養失調です。あの時期がね、中隊のピークやったんです。10、11、12ちゅうのは。それが済んだらガサッと減ってるわけです。ということは、大体食料に、残った連中が食料に何とか息つなげる状態になってきたっちゅうことね。ほしてあのときに死んだ人は栄養失調でみんな息引き取った。
で、今まで行かれたときに話聞かなかったですか。栄養失調、2通りあるんですよ。一通りは、一つはね骨と皮になる。一つは水ぶくれになって栄養失調になる。で、骨と皮になるほうはアメーバ赤痢にやられる。だから食べたらすぐに出ちゃうわけです。おなかの中に残らないから、栄養が。栄養不足になって骨と皮になる。今になるとね、僕は今90歳だけど、こんだけ肉あるでしょ。頬骨は出るわね、これは骨ばっかりになるわ、胸は胸こう板になるわね。このごろはああいうあのやせ衰えたね、老人は見たくても見れんです、この辺で。それぐらいひどい。それが20歳前でしょう。だからアメーバ赤痢にやられて栄養失調になった人は骨と皮になる。
で、腎臓をやられて、栄養失調になった人は今度は肥える。小便も出ないし大便も出ない。生きとる以上は食べなきゃどうにもならんでしょ。ほで食べる。だんだん肥える。ほして動けんがなって死んでく。これが腎臓併発の栄養失調。二通りありました。二通りあるけども、骨と皮になって死んでった人のほうが多かった。というのは、腹が減っとるために、何でも口ん中入れるでしょう。それアメーバ菌にやられて。

あのね、栄養失調ちゅうのはね、死ぬまで意識達者なの。「おい、だれそれ、このごろしゃべらんようになった。ちょっと見てみまい」。「ああ、息た・・息絶えとるわ」ちゅって。だからね、死ぬ間際までね、意識達者ですからね、しゃべっとる。それは肥えたもんも痩せたもんも一緒。だからあの栄養失調で死んだ人ちゅうのはね、ほんとにね、気のつかんうちに死んでっとるのよ。つい今までしゃべっとったのに死んでる。

Q:エネゼットに行った本部の人間の中では、新屋さんは元気なほうだったわけですか。

まあそうでしょうね。僕はね、いつもヤシ泥棒なんかするときはね、班長と一緒に行ったんです。その班長は福井県の人でね、あの僕と同い年でね、気が合うたもんだから。だからそういう人とこう気軽に交際しとるとね、便利。
その人は鉄砲上手でね、副官からね、一日10発ずつの弾もらうんです。鳥撃ってこいって。ウミガラスって。ほでね、必ず10羽落とすんですよ、その人は。百発百中、上手で。ほすっとね、「おい、おまえあのいつもの所におれや」ちゅって。「うん、分かった」って。で、時間決めてね、外海の人のあまり通らんとこにこうして待っとるとね、ポイと足のひざの上に、ウミガラス3羽ほど置いていくんです。そして残りをね副官とこ行ってね、「あ、10発撃ちましたけど3羽は、3発失敗しました」って。7羽だけ出してね。
ほで僕はこの3羽のね、処理をね。皮むしって、ナイフで細切れにして。骨は石でたたいて団子にして。ほして部屋出て夜になるのを待っとるんです。と、「班長、行こうか」「うん、行こう」ちゅって、その鳥をね、2人で食べる。ふふふ。
だからそういうことをしてきたから、元気を。元気でおれたんかも分かりませんね。だからあの鳥をそういうふんだんに食った者は、僕と班長ぐらいのもんでしょう。ほかの人は知らないです。今初めて皆さんの前で言うんですけど。だから表と裏はいろんなね、まじめな顔しとっても、やっぱりある程度の裏が、そういう生活をしてきたのは事実ですね。

Q:逆に言うと、餓死してしまう人は、そういったことすらできなかったっていうことですか。

そういうことですね。鉄砲の弾って自由に管理できないもの。中隊で管理してますからね、特殊な人でなかったら弾は手に入らないです。

Q:やっぱりそうやって、同じ隊の中でも餓死する人は新屋さんの所でもいたんですか。

いや、たくさんいましたよ。だけど本部は中隊に比べたら死亡率少ないです。だから生き残った中でも、本部の人間は多いんです。

あのね、ウミガラスって言いましてね、ちょうどハトぐらいの大きさなんです。で、あの足には水かきがついとるんです。ほで僕らはウミガラ、ウミガラスってね、いつもは、ヤシの木の上にと、飛んどる鳥でした。

Q:食べるとおいしいんですか。

おいしかったですよ、やっぱり。ものがないときですからね。

「何くそ」っちゅう気持ちだけはなくならなかったですね。で、自分の体が動く以上は、自分の体は自分で何でもするっていうような、そういう気持ちで動いてましたね。

Q:結局終戦はミレー本島で聞いたわけですけど、聞いてどう思いました。 そのときは。

「とうとう負けたか」っちゅうようなもんです。もうその日のうちにわかったですからね。あの、発電機1つだけ置いてありますからね、あのアメリカ軍壊さずに残してくれとるからね、それで全部情報のキャッチだけはできるんです。天皇陛下のあれも聞こえとるわけ。

だから終戦が8月15日でしょ。氷川丸が来たのは9月の20いっかですわ。ほして9月中にもう船に乗り込んで、浦賀へは10月の5日ぐらいに着いとるんです。だからあの外地引き揚げの第一船ですからね。
あのときはね、みんな遺骨をこうして肩へかけとるでしょ。浦賀の住民はね、全部こうやって手合わして拝んでくれた。

やっぱりうれしいですねえ。うちへ帰れるっちゅうね。まさか2年間、全然家族はそういう状況知らんちゅうことは、こっち分からんですからね。毎月こう一生懸命に軍事郵便出しとるの、それ1通も着いてないですもんね。後から聞いたら。だから僕よりもうちの家内が一番びっくりしたと思います。死んだと思うとったですが、ぽっこり帰ってきたんですから。

亡くなった人の遺族がね、次から次と訪ねてくるんです。「島の状況どうやった?」「こうやった」言うて。で、「うちの息子はどういうふうな死に方したんでしょうか」って聞かれたときにね、いつ、いつ亡くなったって。で、「戦死の公報ありましたか」って言ったらね、まあこの3カ月が多いんです。
ほうすっとね、その家族の人の前でね、あ、それ栄養失調ですって言えなかった。ほで「病名は何、何てありました?」って。爆弾破片傷。頭部貫通銃創。そういうね、そういうようなこう病名ばっかりついとる。ほすと、「ああ、あの時分は飛行機1回に200機ぐらい来ては機銃掃射していったからね」ちゅって、言うてごまかした。今はそれ平気で、「ああ、それはこのとき死んだ人は栄養失調です」ちゅって言えますけどね、戻ってきた時は言えなかったね。

僕みたい体のもんがよう生き残って、しかもきょうまで戦後60何年間生きてきたっちゅうことはね、これは奇跡ですよ。そう思います。あのシラミネ(白峰?)のあのサカイさんみたいにね、現役で入ってずっと元気でおれるような、そういう体格でないでしょう、僕は。だからそういうもんがこう、きょうまで生きてきたっちゅうことはね、これはやっぱり奇跡ですね。そう思います。

出来事の背景出来事の背景

【飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~】

出来事の背景 写真日本からおよそ4600キロ離れた太平洋中部ミレー島(マーシャル諸島のミリ環礁)。太平洋戦争中、5700人の日本陸海軍将兵が送られ、3100人が命を落とした。

このミレー島は、戦況の悪化とともにアメリカ軍の支配地域に取り残された。そのため2年近く補給が途絶え、兵士たちは耕作地のほとんどない環礁の島での自活を余儀なくされ、飢えのために次々と倒れていった。
多くの犠牲者を出したのが、石川県金沢市で編成された陸軍歩兵第107連隊第3大隊。この部隊が派遣されたとき、島にはすでに3000人を超える海軍部隊が配置されていた。補給が途絶えた島に駐屯した陸軍と海軍。食糧不足が深刻化すると、同じ日本軍でありながら、両者は食糧を巡って激しく敵対するようになり、食糧を盗んだ兵士が射殺されたこともあったという。

さらに、米軍は上陸してくることはなかったものの、海で漁をする兵士を機銃掃射の標的にした。

昭和20年(1945年)になると、第3大隊1000人のうちおよそ半数が亡くなっていた。
そうしたなか、同じ部隊同士でも食糧の配分を巡って対立するようになり、大けがを負わされた部下が小隊長を射殺する事件も起こる。先行きに絶望した兵士の中から自決する者も出た。

終戦後、第3大隊の生存者が島を離れることができたのは、昭和20年9月29日。復員船氷川丸に乗ることができたのは、300人足らずであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1919年
石川県鹿島郡能登部町に生まれる。
1943年
歩兵第107連隊に召集、ミレー島へ
1945年
復員、石川県内の税務署を中心に勤務

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