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タイトル 「中隊長が見たインパール」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
氏名 原田 重穂さん(第15師団 戦地 インド(インパール)  収録年月日 2009年6月23日

チャプター

[1] チャプター1 インパール作戦開始  03:44
[2] チャプター2 山越え行軍  01:13
[3] チャプター3 サンジャックの戦い  01:04
[4] チャプター4 インパールに迫る  01:41
[5] チャプター5 強まる連合軍の反撃  04:05
[6] チャプター6 尽きた食糧  02:19
[7] チャプター7 行き詰まったインパール作戦  02:35
[8] チャプター8 「白骨街道」  02:54
[9] チャプター9 戦争を振り返っていま思う  02:35

再生テキスト

うちの部隊(歩兵67連隊)はね、現役部隊っていうのがありましてね、ほとんどの兵隊さんが現役なんですね。だから、まあ兵隊さんはほとんど関西の人でしたけども、精鋭部隊ということで、準備に入ったわけです。チンドウィン河という川を越えて、アラカン山系を越えるわけですね。そのためにチンドウィン河をまず渡らなくちゃいけないと、いうんで、いかだを組んで、いかだで渡ることになった。

インパールをやっつければ、インドが独立するから、やろうということは聞いてましたけども、それでしかも、20日の糧まつですから、まあ1か月もすれば、何とかなるというような、つもりではあったようですね。

とにかく20日分の糧まつっていうことは、20日分の米と塩、それから、担げるだけの、弾薬を担いでいくというんで、将校も全部自分のものは自分で担ぐ。わたしなんかは、機関銃中隊ですから、乗馬を持ってたですけども、乗馬にも食料から、弾丸みんな積んで、わたしも全部兵隊さんと同じものを全部担いで、それで行くということで出発したわけだ。

おそらく全部合わせると15キロぐらいはあったかもしれませんね。ですから、まあ兵隊さんは歩いて休んで、行けばいいんですけど、将校はそれを担ぎながら、あっち行ったりこっち行ったり、道路を偵察したり、いろいろ、動かなくちゃいけないのね。

それで、本多挺身隊(歩兵67連隊第3大隊)はほとんど、やんなかったんですけどね、ほかの、15師団の連中は、牛を引っ張ってけということで、牛部隊をつくったわけですね。ビルマには幸いにして牛はいくらでもいるんです。牛車って、引っ張る牛から、物を運ぶ牛、そういう牛を、お金を出して集めてきて、それで、食料、弾薬を運ぶということになったわけですが、それは、ジンギスカンが、攻めて上がるときには、全部牛、馬、羊をくっつけて行ったのを、大成功をしたというのを、故事に倣ってやったと、こう言うんですけれども、残念ながら日本の兵隊さんは牛を扱ったことがない。牛もとにかくこんな川を渡ったことがないというのを引っ張っていくんですから、もう大変な大騒ぎで、ほとんど川の中でだめになったんじゃないかと思いますね。

とにかくそれだけ担いでますとね、よっこらしょっと休憩で座ると、立つだけで大変なんですよ。もう。

だれか引っ張ってもらわないと立てないぐらいの重さありましたね。それを担いで山を、2,000メートルから3,000メートル級の山を登って、行ったわけです。

南北に標高3,000メーター、2,000メーター、3,000メーターの、山脈が南北に流れてるんですね。

まあ道ったって、細い、けもの道程度の道を行くわけですね。大変なことです。いちばん困るのは、僕らは機関銃中隊で馬を持ってるんですね。

馬っていうのは、休憩のときに水をやんなくちゃいかん。何千メートル、千何百メートルのところ道で、道で今度休憩っていうと、下まで水をとりに行くんですね。これはもう兵隊さん大変でした。

サンジャックのときは、要するに、うちの1個中隊が、先に、行ってるわけ。先兵中隊っていうんですけどね。先に行ってましてね、そんときの、中隊長がわたしの後輩でしたから、「もう絶対突っ込んじゃいかんぞ」と。「まだ緒戦、戦い始まったばっかりだからね、そんな無理すんじゃないぞ」ってくれぐれも言ったんですが、彼は、その敵に突っ込んじゃった。ほんで、中隊長は戦死しちゃいました。そのときに。大分損害出しました。敵は待ち伏せで待ってましたからね。その待ち伏せのとこに突っ込んでったもんだから、やられちゃったの。非常に残念ですね。今もそれは残念に思います。

インパール、コヒマ道の見える山の上まで来たわけです。下見ましたら、自動車ががんがん通ってんですね。わたしどもは「銀座通り」って言ってましたけどね、もう夜全く人家も何もない大きいところに大きな道路があって、もうひっきりなしに道路、自動車が通ってるわけです。それがインパールに対する補給路であったわけですね。だからこの補給路を、遮断すれば、戦力が、敵の戦力がぐっと落ちるというんで、橋を爆破するわけです。工兵隊が若干ついてきてましたんで、工兵隊が、夜中に行って、火薬を仕掛けて爆破しました。敵はまさかこんなとこまで来てね、爆破するとは知ってないもんだから、キキキキーッて自動車が通りましてね、びっくりしてみんな逃げちゃったんですよ。自動車があのとき10台ぐらい残していきましたね。それは大いに後で使わせてもらいましたけども。

もうそれは大成功で、我々はもう大喜びでした。まさか後からあんな、激戦になるとは思ってもいなかったですから、そんときは。もうこのまま勝ち戦が進むんじゃないかというぐらいのつもりでね、大喜びでしたね。

その後、60連隊がやってきて、それで、山を攻撃するわけです。インパールまでね、この山が4つぐらいありますね。その山を攻撃するんですけども、攻撃準備してると、山にドンドン、砲弾が当たってるんですね。日本軍はそんなに大砲持ってきてないはずなのに、なんであんなとこ、砲撃があるんだろうと思ってましたけども、後からわかったんですが、それは敵が準備してるわけです。

日本の兵隊が上がってきたら、こういうふうに撃つんだぞというのをもう充分準備をしてる。そこに突っ込んでいくんですから、大変です、これは。これはもう、日本軍独特のね、夜襲、突撃、それをやるんですが、もうたくさんの損害を出して、もう残り少ない人がやっと山頂を占領する。そうすると夜が明ける。と、飛行機と戦車、それでまたがんがんがんがんやられる。砲撃される。それでもうほとんどそこで全滅に近い状態なんですね。それで、一個大隊がそこで全滅しちゃいますと、インパールまでにまだ3つも4つも山があるもんですから、三個大隊しかないんですからね。とってもこれはインパールまで行けるわけないというふうにわたしはもうそのとき既に思いましたね。

本多てい身隊はね、道路を遮断したんですから、道路のところを守備しろということになったわけです。道路っていうところは戦車が来る恐れがものすごくあるんですね。戦車にこられると、こっちは戦車に対する、準備も何もないもんだから、じゅうりんされたら全滅だというんで、戦車のこない崖(がけ)を、前に崖があるようなところに、陣地をつくるわけです。とにかく敵から見えないように、もう昼なお暗いようなジャングルの中に陣地をつくるわけね。それで、何とかなるだろうと思ってますと、敵の攻撃が始まるわけです。トコロン、トントコロン、トントコロン、トントントンという音が聞こえましたね。わたしら「祭り太鼓」って言ったもんですから、それは、10ぐらいの迫撃砲を並べて、撃ってくるんですね。で、迫撃砲っていうのは、弾をこう入れると、ストンとそのまま出るんです。こんなことしなくても、ストン、トーンと出るんですね。それをトットットット連続何十発ってやつを送ってくるわけだ。これがずっとドドドドーンと陣地じゅう全部落っこってきます。いままで、昼なお暗いジャングルがね、瞬時にして何もなくなっちゃう。

今度雨季になったです。だんだん長雨で、雨が降り出した。それで、もう毎日雨ですわな。飛行機ががんがん飛ぶわけですよ。雨の中を。当時の日本のね、考え方ではね、あんまり雲が多いとね、飛行機は飛べないというものがあったんだな。

後でわかったんですが、その間に2個師団を送ってるんですね。敵が。2個師団の兵力を送った。それでまた攻撃が一段と強くなった。だから、とってもね、その物量と、やり方にはね、日本は追いつかないですね。

食べるのは草だけ。それを馬に食わせてみてね、馬が食うと、「ああ、これは食えるんだ」って言って、炊いて食うわけです。しかも、もう1カ月も2カ月も経ってきますとね、塩もなくなっちゃうんですね。もう炊いた、ただ水炊きみたいなのを食ってるわけですよ。ただ、いいことには、敵をやっつけると何か落としていくわけですよ。だからそれを拾って食うとか。

とにかく弾がない、食料がない。敵はどんどん攻めてくる。こっちは幾らかでも後退すれば損害が少ない。(軍司令部に)「どうすればいいか」って言うと、「死守せよ」っていう電報しかこないですね。あれがいちばん困りましたね。

「意気地がないんじゃないか」ということを言ったりするんですね。それで師団長を取り替えてみたり、したって、とにかく弾がない、飯がない、兵器は、充分ない。敵はどんどん補給、補給する。物量は豊かだと。これじゃあね、戦争にならないですね。

それで本多さん(歩兵67連隊第3大隊長 本多宇喜久郎大尉)は、「死守せよとまた来たぞ」って言うの、「うん、しょうがないな」なんて言ってましたけどね。「でも、とにかくここにいたんじゃまずいから、もっと下がった陣地、新しいのつくろう」と。まあ要するにじわじわ撤退ですわな。それしかないと。ということですね。

違反と言えば違反でしょうな。だって死守してないんだから。ちょっと下がってるんだ。でもそれに対してはもうどうしようもないですね。

Q:やむを得ないと。

やむを得ない。3べん下がりましたかな。陣地3べん変わりました。

コヒマのほうの烈(31師団)からね、将校の連絡員が来たわけです。「何月何日の何時に、インパール、コヒマのほうで、いままで防御したその道をあけるから、おたくのほうも、そのつもりでいてくれ」いう連絡が来た。「道をあけるっていうことは戦車が入ってくる」って。もうこちらもそのときにはね、もうこれ以上いてもしょうがないと。「じゃ、やってください」っていうんで、「こちらもそのとき道あけましょう」っていうことになったわけだ。

コヒマのほうでも、ガンガン音聞こえるわけですよ。ある程度。その音がだんだんだんだん近くなってくるんですね。コヒマもだんだん撤退してるなと。下がってきてるなということはわかってましたからね。ああ、いよいよ来たかなという気持ちはありましたね。

わたしは、あの場合ね、おそらくあれしか方法がなかったと思いますよ。それは、部下をむだにね、殺すよりは、おれが1人がね、犠牲になればいいと。おれは何と言われようと構わんけども、部下をこれ以上殺すのは嫌だというほうが非常にね、武士としてはね、立派だと思いますね。

それで何月何日何時に一斉にわっと山の上に上がっちゃったの。それは我々はまあいいんですけども、山の下には野戦病院があったんですね。野戦病院は動けませんから。もう負傷者とか病人とかみんないるわけですから。その連中も歩ける人はみんな山の上へ上がってきたけども、中にはもう負傷して歩くのもやっとの人も上がってきてましたな。で、こればっかりはどうしようもなかったですね。とにかくこちらも自分の体を動かすだけで精いっぱいで、とってもそんなね、助けていくっていう、助けに行くっていう、体力もなかったですね。

まあ雨季ですから、毎日毎日雨がじゃんじゃんじゃんじゃん降ってるんですね。その日本の雨季と違って、向こうの雨はね、きのう、夕べか、豪雨がありましたね。その前にも雷があって豪雨ががあっと降って。あの豪雨がね、毎日、もう毎時間というの、雨季なんですよ。

もう晴れ間なんか全くないですね。だから、ちょぼちょぼ、日本みたいな、その小雨が降るなんてことはないんですよ。全部豪雨。それが、何ていいますかね、上から下までびしょ濡れの。それでアメーバ赤痢がもうまん延してましてね、それで僕らは13名部隊をつくってましたから、いいんですけども、もうばらばらばらばら下がってくるんですね。もう部隊も何もわかんなくなっちゃって下がってくる。白骨街道を。

アメーバ赤痢とマラリア、みんな持ってますから。特にアメーバ赤痢はね、ご存じかもしれないけど、ウンチがね、もうどんどんどんどん出るんですよ。血の色をしてんですね。それもうしょっちゅうね、出るもんだから、下脱いじゃってね、ほれで歩いてるわけだ。と、見ると血を垂らして歩いてる。尻から血を。それを水に流れてるわけでしょ。ね。と、水を飲まなきゃ人間ていうのは生きていけないから、その水を飲むわけですよ。と、アメーバ赤痢になってまたそれが死んじゃうと。だから、もう大分前に亡くなったなっていうのもいるし、もう、まだ目ぱちぱちして、いる人もいるし。するともうたちまちハエがたかってね、ものすごいにおいです。それは。人間の腐ったにおいっていうのはすごいですからね。特に馬もみんなやられてますから、馬も死んでます。もう歩くと息が詰まるほど臭い。馬なんかもものすごいですね。そん中を行くわけです。

わたしもそん中でね、一度マラリアがまた出て、もう歩けないときがあったんですよ。兵隊さんにね、「もうおれはだめだ」と。「もうこれ以上歩けないから、あんたが先へ行ってくれ」と。「そんなこと言わずに行きましょう」って言って担いで、もうかつ、人を担ぐなんてことは全くできない体力で、その「何とか歩いてくれ」っていう、それでまた歩きましたけどね。

牟田口、司令官のやり方はおかしいということは思ってましたな。「死守せよ」とこうね、ものしかこないしね。

普通はね、現地の話をよく聞いて、「じゃ、無理だったら応援を出すよ」とか。

あるいは、「航空隊に連絡して、飛行機を出してもらうから、もう少しそこで頑張っててくれ」と。同じ「頑張っててくれ」でもさ、やり方が、手があるわけだよ。インパールの場合は全く手がなくて「死守せよ」だから困っちゃうよね。

まあ我々は、戦争のね、いちばん勝つ方法。それは、商売でもそうですけどね、「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という、ことがあるわけです。これは商売でも何でもそうですが。その大原則をね、全く無視したというところに大きな間違いがありますね。あんな敵がね、戦力、物質的な力を持ってるってことを知らない。おのれのほうは牛を使うことがどんなに下手だっていうことを知らない。どれだけの兵器を持ってったらいいっていうことも知らない。全くね、敵も知らずおのれも知らずに戦争やってるから、それは負けるのが当たり前ですからね。だから、全然そういうね、情報が欠如してる。またその情報があってもね、ちょっと弱気の発言をすると、「おまえ意気地がねえよ」って、ていう評価で、交代しちゃうんだ。そういうところもありましたね。

でもね、僕らはほんとの第一線の、部隊ですから、思ってもどうしようもないことですからね、それは。実際は。現地では。だからそんなに、深くそのとき、当時はね、恨み骨髄とか何とか思ってはいなかったですな。でも、おかしい、おかしいとは思ってましたけどね。いまでは「恨み骨髄(に徹す)」ですけどね。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール

1922年
東京都新宿区大久保に生まれる。
1940年
陸軍士官学校卒業。第67連隊に配属。
1942年
せっかん作戦に参加。
1944年
第67連隊第3機関銃中隊長としてインパール作戦参加。
1945年
インパール撤退作戦に参加。
1947年
復員。復員後は、広告代理店に勤務。

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