ホーム » 証言 » 船橋 榮初さん

チャプター

[1] チャプター1 国境の要衝へ  02:40
[2] チャプター2 ソ連軍侵攻  02:14
[3] チャプター3 退路に立ちはだかったソ連軍  01:52
[4] チャプター4 負傷  03:02
[5] チャプター5 シベリアへ向かった「帰国の汽車」  02:24
[6] チャプター6 シベリア抑留  03:03
[7] チャプター7 馬ふんがまんじゅうに見えた  03:37

再生テキスト

やっぱり野辺地(出身地)と違ってものすごく寒くてですね、そういう町。印象はそういうふうなあれです。

うーん、えらいとこさ来たなと思いましたよ。ですから、てっきり、わたしは南方のほうに連れて行かれないかと思ったんですが、逆に寒いほうに連れて行かれて。

私たち行ったときは国境だかどこか分からないわけですよ。地図も見せないし、なんも全然、そういうふうなあれで。帰って来てみて、あっ、こういうところだと思って。そういうふうなあれですな。
帰って来て地図を見て、ここがソ満国境であるということ。それからノモンハン事件の
すぐそばなんですよ。そういうふうなことで、行ったときは全然わかりません、どこに飛
んだんだか。ただ満州に来たな、ということだけは知らされていましたからですね。

わたしらは山砲ですから、砲を組み立て、あるいはいろんなことをやりますから。素手でやれば凍傷になってしまうから、全部手袋はめてやるわけです。

ですから零下20度30度あってですね、1日演習を休んだ日があるんですよ。覚えていますよ。あとは寒くてですね、ですから演習するといっても手袋はめてですね。
手袋はめて全部やるんですよ。あの黄色の手袋はめてですね。素手ではだめですよね、凍傷になってしまうから。そういう印象ですな。

訓練はやっぱり厳しいでしょうな。厳しいですよ。

「こういうふうなときは、こういうふうにやれ」ということで、演習させられて訓練やるんだ。3か月やるんだもの、そういうふうなことさ。弾の入れ方と撃ち方って、みんな3か月で訓練。

あの部隊の大部分は五叉溝(ウサコウ)に移動してですね。

陣地構築で五叉溝に行ってるんですよ、部隊の大部分はですね。ですから、あの、この徳伯斯とアルシャンには留守番がいたわけですよ、ということです。

わたしたちは残留兵で留守番ですな。残っておって、大した楽しました。
ただ、馬がいたから馬を、馬糧をやって飼育しないとならないからですね。そんなことで大した楽しましたよ、重労働はなし。

はじめ飛行機だった、ソ連の。ウーッと来てさ、機銃掃射をババババッ。それで戦争だと分かったわけだ。だって平和だもの、飛行機は全然飛んで来なかったの。低空飛行で来て平射、機銃掃射バッバッバッと。それで分かったのさ。あっ、戦争だ。右往左往さ。

Q:右往左往ってどんな状況だったんですか?

自分のものを整理せな。背嚢さ入れて、それさ。で、その日の暗くなってから、今度ほれ、五叉溝さ移動しなきゃ。馬を連れてさ、1人で5頭6頭行くわけさ。馬が残っとったから。それで馬を連れて行ったわけさ。砲を引っ張って、馬に引っ張らせてさ。

とにかくものすごかったですよ、落ちて煙が出るし。ただほれ、飛んで来る砲弾が音しないで飛んで来るから、どこから飛んで来るか分からないわけ。結局さ、そういうふうな状態ですね。普通だば砲で音するでしょう、ドーンと。そういう音がしないわけさ。シュッシュッシュッ飛んで来て落ちるわけさ。ダーン。そういう状態ですね。
周囲が煙だらけさ。どんどん集中して砲の周辺に砲弾が落ちて。そういうふうな状態ですね。あとはどんだかわかりませんな。

初めは遠くから落ちるわけさ。だんだんだんだん砲の近くなるの。ソ連だって見てるから、眼鏡(観測用潜望鏡)でさ。だんだん近付いてき、砲の周辺さ集中するわけよ。だんだんだんだん。

そこはですね、砲弾が次々落ちるから、音もなんも聞こえないわけさ、あまり、もうはぁ。次々撃ってくるから。どんどんどんどん、どんどんどんどん。そういうふうなことで、あれですね、間隔を置かないで、はぁ、撃ってくるんだ。どんどんどんどん。

敵はどんどん出てきたし、ソ連の狙撃兵というのはすごいですよ、命中率が。それで二番砲手だの一番砲手というのはやられるわけさ。ですから二番砲手が直接受けて戦死したんだけどね。


わたしは五番砲手でいてですね。五番砲手ちゃ、砲のここにいっぱい刻んであるんですよ。たとえば何千何百(メートル)。それを信管を切るわけです。わたしはそれやった。だから、いちばん弾にあたる率というのは二番砲手と一番砲手だけさ。砲の前にいるから。ですから五番砲手なり三番砲手というのは、砲の下にいるから直接弾が来ないわけです。

どんどん弾が飛んで来て、着弾して。

それで破裂するわけですね。破片、石ころ一緒に飛んで来るんだ。それがあたって戦死したり負傷する人がいるわけだ。


Q:近づいて来たと分かったときは、どんな気持ちなもんなんですか。

破片が飛んでくれば体よけるけど、そういう余裕がまずないのさ、結局。だって、そういう余裕があれば、飛んでくれば体ちょっとよければあたらないからさ。そういう余裕はないの。全然、陣地に。ただ、無我夢中さ。

結局ほれ、落ちるでしょう。そうすれば破片が飛んでくるわけ。わたしはそれ、破片でやられたけど腰と肩と、そんなんで。

いや、ともかくさ、砲弾があたったとこ、とにかく腰をビーンとカナヅチか何かで引っぱたかれると、そういうふうな感じで。ビーンと痺れて痛くてどうにもなかったんですよ。そういうふうなあれですよ。痛みは全然ねえから、ダーッと。ただ、ここから血が出るから。それは感じたんだ、痛みは全然なかったですよ。

そこから徳伯斯に移動して、そこに大体1か月いたんでねえべかな。そして連れて行かれたわけさ、「日本に帰る」ということで。
「ウラジオストクのところに小さい港あるから、そこから帰す」さ、騙されて連れて行かれたけさ。

だから帰りたい一心で痛いのを我慢して歩いたわけさ。そういうことですよ。「内地に帰すから」ということで、それさ。ひどいもんですよ。

だって、仮にシベリアへ連れて行けばさ、途中で逃亡兵がいっぱい出たわけさ。それでも途中で汽車から降りて逃げて帰って来たのもあるし、射殺されたのもあるような、そう
いうふうな。で、ほれ、俺は連れて行かれたわけさ。

Q:やっぱり途中までは日本に帰るというふうに思っていたんですか。

そう。みんな、そういうふうに思っていた。ところが、だんだん行けば、ほれ、お日様で分かるでしょう。わたしたちはわからなかったけど、年配の人は「あっ、これおかしいな」ということで。お日様があがってくるので分かるって、方向が。それで分かったのさ。

だって、お日様出てくるの東でしょう。それで分かったですよ。やっぱり。で、ほれあの、これは日本でないということでわかって、ほれ、連れて行かれたわけさ。
だって、ウラジオのほうさ行けば、地図見れば右側さ行くでしょう、それ左に。そこさ行けば分かるわけさ。チタはずっと上のほうだから、そういうふうな、あれさ。

ひどいところですよ、当時のソ連というのは。今はどうだかわかりませんけども。

だって建物もないし食い物もないんでしょう。当時はですね。

収容所に行ったときは建物が1つありました。丸太でこうやったやつが。わたしたちが行ってから、伐採して入るところをつくったんですよ。向こうの家は板でなく丸太をつなげてやるわけさ、そういうふうなことで。
わたしたちはいいほうであって、天幕で寝た人もあるんだそうですよ。ほかの収容所で
は、建物がなくて。行ってから自分たち木を切っていったです、そういうふうなあれですね。

Q:たとえば出させる食事とかというのはどういう感じですか。

黒パンですよ、300グラム。300グラム、このくらいですよ、小さいです。黒パンというのは硬いで酸っぱいやつ、300グラムさ。それでなんもねえのさ、あとは。スープだってなんも味ねえのさ。そういうふうなわけさ。

Q:それでやっぱり食べ物が少ないという中で、病気になる人とかいたんですね。

食べ物ってなんもねえんだもの。だから赤痢になったときも、三日三晩なんも、ものか(食)せないんですよ。生きるためには、はぁ、食うなって言えば食われないしさ、そういうふうなことで。だから、あの、赤痢が大層はやって、流行してね、それ守らない人が亡くなっているだけ。ほれ、水飲みはだめだぞ、そういうのを守らない人は次々逝っていると。わたしは一切食うも飲みもしないだけさ。たまたまそれ守ったから生き延びたのか、あるいは神様助けたのもんだか、わかりませんけどね。そこさ。

ああいうふうな収容所で、伝染病が多く発生するんだそうですね。たとえばコレラとか、そういう赤痢とかですね。衛生状態があまりいいくないからじゃないですかな。それから食い物がないとこで、なんでも拾って食うわけさ。

たとえばさ、汚い話だけれども、馬ふんね。あれ見て、捨てるのもあるし食う人もあるけど、間違って腹減ってれば。

なんにでも見えるんですから、その人によって。まんじゅうにも見えるし、握り飯にも、こぼれたのは見えるしさ、なんでも見えるわけさ、もう。

Q:たとえば、それ大事に持って来ている人とか見ましたか。

いや、見ませんけれど。誰も持ってくると、仮に食うのであれば、みんなに取られちまう。その場で処理す、たとえば、食うにいいのであれば。

Q:なんでも食べ物かなと思うようになる?

わたしたちは松の木を伐採したから。松の皮、松のあの肌の間の薄いあれをさ、切って煮て。なんの味ねえけれども、わたしは食べねえけれども、食った人もあるし。雪が消えれば野草が出るでしょう。毒の野草を食って亡くなった人もあるしさ。それさ、なんでも食うのあれば、もうはぁ、空腹を満たすために食うわけだけどさ。

栄養失調になって亡くなった人いっぱいあるわけだけどさ。それから伐採作業だから、木の下になって死んだり、いろいろあったような気がする。


亡くなった人のい(埋)ける穴堀りに行ってました。寒いとこで凍ってるんですよ。だから掘って焚き火して溶かして、また掘るわけですよ。ですから十分に穴は掘れなくて埋葬するわけですね。
わたしたちが行ったときは、まだいがったんですよ。埋めたときは、着たまま。ところが帰って来たのの話であれば、全部衣類を取って裸にして埋めたとこ、いっぱいあるんだそうですな。

うーん、なんて言ったらいいか、ちょっとわかりませんね。

あまり言いたくないし、ということですよ。亡くなった人には気の毒でしょう、なんて言うか。それから遺族の方々には申し訳ねえと思うんですよ。

だって、それこそ戦闘で戦死したら「あのときはこういう状況だった」ということを言えるんだけど。やっぱりさ、それはちょっと抑留されね、無駄な死をしたんだから、あんまり言いたくないさ。思い出したくもないけれども、8月になれば、いろいろなことを思い出します。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1924年
青森県上北郡野辺地町に生まれる
1945年
満州に渡り、第107師団野砲兵第107連隊に入隊、一等兵、西口の戦いにて負傷、北朝鮮の三合里収容所に収容される
1947年
復員、復員後は営林署に勤務

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

地図から検索

関連する証言

ページトップ